マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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明日香畑の民俗譚・上畑のカラスのモチ調査

2022年11月02日 07時41分21秒 | 明日香村へ
次に訪れた地は、すぐ近くにある上畑。

ここでお会いできた昭和20年生まれの73歳。

Yさんは、大和牛を育牛し、販売する畜産業を営んでいる。

冬野の民俗取材に度々通っていたこの山道。

通る度に見ていたサイロがそうだったんだ。

牛が食べる飼料

乾し藁・草を貯蔵するサイロとわかった。

藁を食べる牛。

落とした糞は、畑の肥料になる。

まさに循環型社会形成のひとつの手段。

現在、育牛している大和牛は、50頭。

なにかと忙しいようだ。

ここら辺りは標高がある地域。

積雪時は、例えジープのような四輪駆動車でも上り下りが無理だ、という高地集落。

チェーンを装着してもスリップする急な坂道。

冬場の暮らしが難儀する、という。

かつての牛は、農耕における役牛。

耕運機が導入されるとともに、民家に飼っていた役牛が消えた。

大きな文化の転換期であった昭和30年~40年代。

一斉にではなく、徐々に、徐々に浸透していった昭和の時代だった。

住まいは建てて300年にもなる茅葺家。

トタンで屋根を覆った昭和35年。

後年に葺き替えをするために茅葺屋根の劣化を防ぎ持続年数を保つ役目。

そのようにされているお家。

奈良県内によくみられるお家のあり方だ。

今後のことは読めないが、柱を立てる際、大きな石で敷設した土台(※礎石)。

大きな地震があっても、これだけは壊れないだろう、と・・・

カラスのモチなら、お爺さんしていた、という。

子供のころにしていたカラスのモチは、「12月30日に搗く正月の餅のうち、三ついただいて、カラスにやんねん」と、畑地に撒いていたそうだ。

「カラスがおんのか、ようわからんかった」子どものころの視線。

お家の裏にある畑。それも、50年前のことらしい。

今も、蘇る当時の記憶映像。

話を聞いていた私も映像が浮かんできそう。

親や爺さん、ばあさんらから聞いていたカラスのモチは、遠い昔のようになった。

そういえば、毎年搗いていた正月の餅は、杵搗きに石臼だった。

豆腐もつくっていた石臼だった。

その餅搗きに派生してつくるドヤモチ。

粳米を混ぜてつくったドヤ餅は、カラスでなく飼い牛にあげていたそうだ。

ここ上畑も3軒になった集落。



上畑のウチミヤは、旧木花咲夜姫命を祀る八幡神社。

と、いうのも元々は上畑の山のてっぺんに鎮座していた、という富士神社だった。

こちらの集落に移したという八幡神社を探してみたが見つからなかった。

明日香村、それぞれの地に鎮座する神社のマツリに出仕される飛鳥宮司が、冬野と同じように御湯の神事をされることだろう。

取材から数年後である。

令和3年8月26日、テレビ大阪が放送した番組「ナゼそこ?明日香村、標高600mの廃墟集落にたった一人で暮らす未確認日本人~秘境人数珠つなぎの旅!」。制作、配信は東京テレビ。

放送中に気づいた奥明日香・入谷(にゅうだに)集落を映していた「奈良の山奥・・・築100年の古民家に住む91歳・・」。

入谷の収録後に、出演者のMさんの息子さんが話す。

かつての入谷の住民数は60人。

現在は23、4人に。

調査データによれば昭和55年は87人。

過疎化とともに減少した令和3年6月時点が23人。

42年間に1/4の人数になった入谷集落。

後世に残すため、空き家になった古民家を仲間とともに修繕・修復作業をしている。



そして、紹介してくれた隣村の畑集落。

隣村といっても標高はさらに標高の高い位置にある畑集落。

ひと山越える山岳地を撮影隊に伝えていた。

たどり着いた畑に、事前連絡を入れていたY夫婦に出会った。

そのときのYさんは、飼い牛に餌をやろうとしていた。



撮影隊は、予期もしていなかった悲しい家族の出来事を伝えられた

(R2.12.29 SB805SH撮影)
(R2.12.29 EOS7D撮影)