マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

上之町の八日講

2015年10月22日 08時05分55秒 | 五條市へ
五條市上之町に特定家の公事家(くじや)がある。

かつては公事家9軒と呼ばれていたが今では5軒。

廻り当番家の床の間に3幅の掛軸を掲げる。

中央は特に古いと思われた十一面観音立像。

左は六神を配置した庚申さん。

右は梵字の弘法大師さん。

表装しなおした掛軸の元の年代は判らないと云う。

それぞれの神さんに供える御供はシロゴハン。

庚申さんはタワラ結びのオニギリ。

観音さん、お大師さんは三角形むすびのシロゴハンだ。



掛軸を掲げた前で弓・矢・的を作る上之町公事家(くじや)。

1軒は服忌で欠席されるも、弓は梅ずわえ、矢はシノベ竹で12本作る。



この日の弓の弦材は紐であったが、かつてはシュロ材で編んでいたそうだ。

鬼の的はテニスラケットのような形で、弓と同じく梅ずわえを側に用いる。

「ずわえ」は真っすぐ伸びた若枝の呼び名だ。

半紙を貼って「鬼」文字を墨書する。



上に大きな文字の「鬼」。

下はやや小さな「鬼」が二つ書く。

上は「オヤオニ」で下は「コオニ」と呼んでいる鬼の的。

「鬼」に丸く囲むのは「コオニ」だけである。



3幅の掛軸を掲げた下に作り立ての弓・矢・的を置いた。

ローソクに火を点ける。

にわか導師が前に座る。

一同座って、「ほなら導師よろしくお願いします」と伝えて始まった。



リンをひと打してから般若心経を唱える。

始めに「なむしょうめん こんごうどうじ」を3回唱える。

「おんあるきゃそわか」のご真言も3回唱えて、続いて般若心経に移る。

リンをひと打して般若心経はもう一巻唱える。

いくつかのご真言を唱えて「なむだいし へんじょーこんどう」を7回唱えて終える。

弓打ちの前に祈祷された公事家は何年か前までは真言宗派金光寺の行事を支えてきた。

村のこともしていた特定家であるが事情によって、今では公事家で行われている。



つい数年前までは金光寺で「八日講のオコナイ」もしていた。

「牛王 金光寺 宝印」の文字を彫った版木で刷っていたゴーサン札。

平成26年1月11日に取材した大般若経行事で拝見した。

ゴーサン札はたばってウルシ棒に挟んで5月のモミオトシの際に松葉とともに水口に立てていたそうだ。

松葉を立てるのは虫が寄りつかないためである。

松葉にはマツヤニがある。

それが水田に流れることによって虫を除けているという。

虫除けの方法は行事とは別に石油を入れた竹筒もあるそうだ。

幕が張った竹筒の石油はウンカ除け。

油にまみれたウンカは生きていけずに死ぬ。

これも防虫のやり方だと話す。

初祈祷を終えた公事家(くじや)の人たちは家を出て庭に場を替える。

「カド」に筵を設えて鬼的を立てる。

筵に替わったのはここ数年前。

それまでは束にした稲藁だったと話す。

高さを合わせた藁束は3束を重ねて背中に鬼の的を立てていたそうだ。

一人ずつ弓を構えて矢を射る。

矢は12本。

旧暦閏年の場合は13本になるという。

鬼的はアキの方角。

いわゆる恵方、今年は西南西になる。



矢を射る順番は特に決まっていない。

何人かが矢を射る。



当番家の婦人や母親も矢を射った。

「鬼」を仕留めることができなかった矢はもう一度打つことができる。

当らなければ何度も矢を射るという。



「鬼」をぶち破った矢は家の守り神。

床の間に飾る、或いは玄関外側の上に挿しておく。

魔除けの意味があるという。

一年間、家を守った矢はトンドで燃やしていたが、数年前に中断したから燃やすことができずに残しているそうだ。

上之町に伊勢参りがあった。

公事家が集まって伊勢に代参する人をクジ引きで決めていた。

クジに当たった人は一週間かけて伊勢参りをしていたという。

「オビヤ峠」で見送って伊勢参り。

戻ってきた代参の人は「オビヤ峠」で出迎えた。

酒や肴を持っていった「5万人の森公園」で迎えの宴をしていた。

そこには明神さんを祀っていた祠があったそうだ。

八日講行事を終えた公事家はパック詰め料理で直会をされる。

乾杯をされてこの日の行事を労う。

「鬼」の的打ちはいわば上之町の初祈祷行事。

矢を射って村から悪霊を退治し安穏を祈る行事である。

接待家は廻り当番。

昔は家で作った料理をよばれていた。

「ニイタ」と呼ぶ料理は煮物のことであろう。

脚がある膳に盛っていた。

これを「デン」若しくは「オデン」と呼ぶ。

御膳が訛って「オゼン」から「オデン」に。

そして「デン」になったと思われる。

御膳を「デン」と呼ぶ地域は他所でも聞いたことがある。

御所市鴨神上郷・大西の大師講は「デン」。

明日香村稲渕・堂講のオコナイは「オデン」であった。

直会の会食。

「ぎょうさんあるからワシの分を食べてや」と云われて分けてくれた「デン」をいただく。

ありがたいことである。

その場で話してくれた上之町のトンド。

行事は1月14日だった。

お宮さんに参って神さんのオヒカリを提灯ローソクに移してトンドの火点けにする。

トンドの火は持ち帰って、その晩に小豆粥を炊く。

翌朝になればビワの葉に小豆粥をのせて家の四隅におましたという。

一口、二口はカヤススキの茎を箸代わりにして小豆粥を食べていたと昭和19年生まれのSさんが話してくれた。

平成26年1月19日に訪れたときだ。

田んぼに立ててあったカヤススキを見つけたことがある。

穂付きのカヤススキはS家の家筋だった。

(H27. 1. 8 EOS40D撮影)

中畑の勧請縄掛け

2015年10月21日 08時44分09秒 | 奈良市(旧五ケ谷村)へ
かつては五カ谷村と呼ばれていた奈良市精華地区。

地区大字に中畑、菩提山(ぼだいせん)、北椿尾、南椿尾、高樋(たかひ)、虚空蔵(こくぞう)、興隆寺、米谷(まいたに)がある。

この日は中畑で勧請縄を掛けられる。

太い縄を結う組は作業場。

雌の樫の木で垂れ房を作る組は毘沙門堂外。

それぞれが分かれて作業をしていた。

作業をしていたのは八人の長老。

春日神社の年中行事を勤める上座の4人と下座の4人である。

今では集落を上・下に分けた座であるが、かつては特定家で構成する元座・平座であった。

中畑は42戸からなる旧村。

上出、向(茶屋)、中垣内(中組)、日浦垣内、雀垣内の5垣内からなる。

縄の材は稲藁。

各々一人ずつ二束を持ち寄る。

シビなどを除去する藁打ちをしていたそうだ。

樫の葉をロープ綱で編んで結んでいた長老。

この結び方を「あわび結び」と呼んでいた。



樫の葉は勧請縄の垂れにする。

編んだ縄ができあがればカンジョ場に移す。

かつては担いで運んでいたようだが、負担を避けて今では軽トラに載せて運ぶ。



両端にある杭に括りつけて小幅の前川を跨るように架ける。

疫病が川を遡ってこないように架けるのだ。

編んだ樫の葉の垂れは8本。

長老たちが勧請縄に括り付ける。



この日は雪が舞う寒い日だった。

ときには強い風が吹いていく。

勧請縄の長さはおよそ13mにもなるそうだ。

今では短くなったという勧請縄。

かつては青年たちが集まって架けていたようだ。

中央に幣を挿して拝礼する長老八人衆。



唱えることもなく手を合わせて拝んだ。

昔の川幅はもっと広かった。

余った縄は一方の杭に寄せて蛇の尾のように垂らしていた。



中畑の勧請縄掛けは「神縫縄」の字を充てている。

勧請縄掛けの場に立てていた解説板にそう書いていた。

文末に「御祈祷の表現は、中畑では東に山の神、北にも山の神、南西に勧請縄」も書いてあった。

ちなみに平成6年7月に発刊された『五ケ谷村史』によれば、中畑町の勧請縄はその形状から「ムカデ」の形をしていると書かれていた。

拝礼した長老は春日神社に向かう。



神社には御供を供えていた。

これからの時間は直会。

神社参籠所にあがってしばらく過ごすようだ。

同神社の手水鉢が気になった。

なにかと云えば所々に見られる窪んだ穴である。



これと同じような穴はこの年、初詣に出かけた奈良市石木町に鎮座する登弥(とみ)神社にもあった。

登弥神社の穴は大石灯籠にあった。

穴の様子から「盃状穴(はいじょうけつ)」に違いないと確信した。

盃状穴は硬い石で叩いて擦り合わせる。

一挙に穴状態になるものではない。

長い時間と労力を費やしたのであろう。

点滴岩をも穿つである「盃状穴」は近代ではなく江戸時代に流行ったとされる民間信仰。

信仰といっても何の目的をもって穴を開けたのか未だ解明されていない。

謎をもった信仰、若しくは風習。

ここ中畑においても伝わっていない。

NPO法人「奈良まほろばソムリエ会」の方が山添村神波多神社の石段にあった「盃状穴」を産経新聞で紹介していた。

その方は牛頭天王を祀る神波多神社にあったことから牛頭天王への厄除け祈願の痕だと推定されていた。

推定根拠に挙げたもう一つの神社は和歌山県の熊野古道中辺路に鎮座する須佐神社(祭神スサノオ)だ。

そこでは石段にあったという。

新聞掲載文には二つの神社のほか、御所市櫛羅に鎮座する鴨山口神社や秋篠寺にもあったと伝えていた。

秋篠寺はともかく鴨山口神社の祭神は大山祇神。

また、奈良市石木町登弥神社には牛頭天王は祀っていない。

牛頭天王への厄除け祈願という推論は成り立たないと思うのだが・・・。

(H27. 1. 8 EOS40D撮影)

広代の田んぼの祈祷札

2015年10月20日 08時18分32秒 | 山添村へ
5日に観音堂内でオコナイが行われた山添村広代。

ハゼの木に挟んだごーさん札には「牛」の文字に丸い形の寶印。

左側には「寶印」の文字がある。

中央の文字は「観樂寺」。

山の神調査を終えて下った畑にあった。

一部ではあるが文字で判った広代の初祈祷札。

4月半ばに立てると話していたが、オコナイが終わった2日後に見つかった。



祈祷札はもう1カ所。

県道傍からでも判る畑地にあった。

いずれも竹に挟んで立てていた。

傍には蕾花がついたヤマツバキも立てていた。

その場にはトンドで燃やされる笹の束を立てていた。



いつ、されているのだろうか・・・。

(H27. 1. 7 EOS40D撮影)

広代の山の神御供

2015年10月19日 08時11分09秒 | 山添村へ
元日参りにモチを山の神に供える山添村の広代(ひろたい)。

この日も同じように半紙の上にモチを供えて山の神に参る。

7日の0時ともなれば村の人、めいめいの時間帯に山の神に参る。

真っ暗な時間帯は人に出会うこともない。

そんな時間に参拝されると聞いていたが、闇夜に待っておれば間違いなく不審者扱いになるであろう。

それを避けたわけでもないが、大字菅生の山の神を見届けた夕刻に訪れた。

当然ながら山の神にはどなたも居られないが、痕跡があった。

風に飛ばされた半紙が散らばっていた。

下った地で出合った村の人が云うにはモチを供えているようだと云う。

狙っていた「カラスが持っていきよる」と話していた。

重石にしていたモチがなくなれば風で飛んでいく。

野鳥がモチを食べてしまったのだ。



山の神の下には洗い米も撒かれていた。

こうした山の神へ捧げた御供の痕跡を探るのも調査のひとつである。

(H27. 1. 7 EOS40D撮影)

菅生大垣内の山の神

2015年10月18日 07時43分28秒 | 山添村へ
昨年の大晦日に在地を教えてもらった山添村菅生大垣内(おがいと)の山の神。

これまで後出(たんで)、峯出(みねで)は拝見したが大垣内は始めてである。

高台にある集落を抜けて峠に出る。

その辺りに垣内の墓地がある。

そこより西方が山の神の地。

峠道からはもう一本の急な里道もある。

そこからも登れる。

登り切った手前の樹木にカギヒキがある。

樹木に掛けていたのは先が自在鉤のような形をしたクリの木である。



大石の下に四方に竹を挿しているクラタテを多数並べていた。

中央にコウジミカン(柑子蜜柑)を挿したクラタテ。

大きなものもあればやや小さ目なものもある。



近寄った大石を見ればヤシロのような形をした彫りがある。

そこに詰め込むようにしたオヒネリ。

小さく刻んだカガミモチは山の神に供える御供である。

山の神の大石はイワクラであろう。



そこには太くて長い注連縄を懸けていた。

注連縄は前年暮れに作業場で作られる。

注連縄にある大きなフングリは「キンタマ」と呼んでいた。

上から見れば二股の木を絡ませた和合の印しもある。

この日の探訪は仕事を終えてからだ。

到着した時間帯は午後3時を過ぎていた。

在地や山の神の祭り方を拝見できた。

山の神参りはだいたいが朝8時ころだと聞いていた。

とうに時間は過ぎていたが、やってきた甲斐がある。

山の神の祭り方を撮っていた時間帯だ。

そこへ知り合いの大垣内住民のUさんが来られた。



この日は「用事がたくさんあったので朝は参拝ができずに午後4時になってしまった」と云う。

クラタテを立てて拝礼する。



クラタテに持ってきたモチは家の人数分。

供えて山の神のトンドでモチを焼く。

それを持ち帰って食べるという。

このモチは「ハガタメノモチ」と呼んでいた。

クラタテに挿すコウジミカンは三つ又の枝、それぞれに実が三つある。

これを「ミツナリノコウジ」と呼ぶ目出度いミカンだそうだ。

かつてはクラタテに山の神に祭る七つ道具があった。

今では誰も作っていない。

カギヒキもすると云われたのでこれも撮らせてもらった。



「カギヒキは昔からザァーザァーと声をかけながら引いて揺する」という。

カギは家の人数分を引っかけるそうだ。

カギには藁の房を括り付けている。

藁の房はワラヅトと呼んでいる。

注連縄には一際大きい房があった。

これをキンタマと呼ぶ。

カギヒキのワタヅトもまたキンタマの呼び名であると話してくれた。

(H27. 1. 7 EOS40D撮影)

マックスバリュ富雄南店で買って食べる我が家のかき揚げ丼

2015年10月17日 09時12分24秒 | カンタンオリジナル
昨年の10月中旬にオープンした富雄南イオンタウン。

最近になって玉子の特売日が固定されてきたように思えるマックスバリュ富雄南店がある。

そのことに気がつくようになって度々買い物にでかけるようになった。

我が家からは車で数分。

買い物も早いが、行きも帰りも早い。

この日は特売日の木曜日ではなかったが、仕事帰りに立ち寄った。

店内をうろうろして品定め。

目に入ったのは揚げもの屋さん。

天ぷらやフライものが並んでいる。

その一角にあったかき揚げは通常よりも分厚い。

店内で揚げている商品名は「筒かき揚げ」。

一般的なかき揚げよりも高さがある。

これを見て思い出したのが大起水産の海鮮かき揚げ。

マックスバリュよりも数段高い商品。

初めて見たときはひっくり返りそうになるほど驚いた高さだ。

それよりも1/2程度であるが、衝撃を忘れられずに思わず買ってしまった筒かき揚げは税込み140円。

どこのスーパーでも売っているかき揚げが薄く感じる。

値段は割合高めで100円を切ることはない。

これはお買い得だと思って買った。

かーさんと相談した食べ方は丼だ。

これまでかき揚げはうどんに入れていた。

揚げた油が美味しいのでうどんの味がまったりする。

うどん出汁にしみ込んだかき揚げの味はとても美味いのだ。

近くのスーパーサンコーで打っているかき揚げも美味いが、マックスバリュはどうであろうか。



翌日に食べたかき揚げ丼。

一枚では多すぎるので一人半分ずつにした。

それでも量は多く感じる分厚さに感動する。

かき揚げはどこでも美味いかといえば、そうではない。

イオンモール大和郡山店では毎週火曜日が特売日。

天ぷら・フライものが税抜き48円程度で売っている。

以前は生姜天があったのに今では見ることもない。

試しに買ったかき揚げはやや硬め。

丼であれば柔らかくなるだろうと思って食べた。

堅さはともかくむちゃ不味い。

油臭いのである。

とてもじゃないが食べられるものではない。

ところがマックスバリュのかき揚げは美味い。

美味くて箸が進むのだ。

数週間も経てばまた欲しくなった。

前回と同じように半分に切って丼にする。

創味のつゆを薄めて小鍋に入れる。

量は適当だ。

ぐつぐつ煮立てて細ネギを入れる。

直ちにかき揚げを入れる。

火が通る前にとじ玉子を入れる。



アツアツのご飯を盛った丼に炊いたかき揚げをそっと盛ってできあがり。

丼一杯の値段はどれぐらいだろうか。

かき揚げは半分だから65円。

玉子は10個で98円なので1個辺り約10円。

ネギは3本で100円とすれば刻んだ量からすれば20円ぐらいか。

ご飯はどれぐらい。

まぁ一杯50円としようか。

合計で145円。

昼食は家で食べるに限る。

ちなみに大紀水産のかき揚げは100円である。

昨年末にも同じ価格で売っていた。

(H27. 1. 5 SB932SH撮影)
(H27. 1. 6 SB932SH撮影)
(H27. 1.23 SB932SH撮影)

北庄の六日座

2015年10月16日 07時26分03秒 | 斑鳩町へ
斑鳩町北庄に鎮座する春日社は三神を祀る。

小社に八坂神社、猿太彦社、地主社、土坂社、月読命社など七社がある。

正月を迎えたドウガイの呼び名がある注連縄が雨に濡れて美しい。

この日の行事は御湯立て。



雑木に火を点けて沸かしていた。

祭祀に使う湯釜は古い。

それよりもっと古い釜に刻印があると云って蔵にあるものをわざわざ出してくれた。

拝見すれば村北庄春日大明神御湯釜 明和五戊子年(1768)八月廿五日」の刻印があった。



三老とともに確認した湯釜は247年前の釜だ。

村の文化財は大切に保存してくださいと伝えた。

かつて元宮座の呼び名がある北庄の「座」中は十二人衆だった。

座を脱退、或いは身体の都合で座休みされている人もおられて実際は5軒の座中で営まれている。

この日は正月初めの座の行事の「六日座」だが朝から降り出した雨はやまずである。



本来ならば御供モチは本社、小社に供えるがこの日は拝殿に場を替えた。

座中も拝殿中央に並ぶ。

御供モチはお盆に12個ずつ。

十二人衆の数を盛る。



版木で刷った「牛王 春日社 寶印」の書も12枚。

挟んだウルシ棒も12本。



すべてが十二人衆の数であるが、お札は余分に刷って20枚にしておくという。

一老のMさんが書き記された『春日神社と氏子のあゆみ』によれば、明治以前までは当社に観音仏や阿弥陀仏を安置するお堂があったという。

地区の北の山麓に宮山がある。

小字観音堂の呼び名がある地である。

春日社はかつて小字観音堂に建っていたそうだ。

観音堂は春日社の神宮寺。

今では「春日社」名のお札であるがかつては「観音堂」であったかも知れない。



やむなく斎行される龍田神社宮司に雨があたらないように傘をさして八社の祓えをする。

各社にお供えがある。

ダイコン、ニンジン、シイタケ、スルメ、コーヤドーフなどだ。

献饌、祝詞奏上、玉串奉奠、撤饌を経て始まった「御湯立」の神事。

沸かした湯に笹を浸けて湯立てを斎行する。

雨が降ってはいるが、傘は要らないと申し出た宮司。



それに対して座中たちも傘をささずに湯釜の周りに立つ。

湯に浸けた笹で参拝者に清めの湯で祓えば湯気が立ち上がる。

僅か数秒間で行われた「御湯立」神事であった。



御湯立を終えれば「座」に移る。

膳の料理は正月のおせちと同じゴマメ。



クルミも合えていた「年行(ねんにょ)」と呼ばれる当番家の手料理。

ぐるぐる巻きはチョロギだ。

味付けに生姜が入っている。



黒豆、クリキントンにユズを入れたトーフ汁もある。

お神酒をいただいてしばらく時間を過ごす。

「座」を終えたころは本降りの土砂降り。



ウルシ棒に挟んだ春日社の牛王寶印を持ち帰る。

春の苗代に挿す家もあるようだ。

元旦に参った白い砂道は雨にも負けずにそのままの形を残していた。



座中の話しによれば、病に伏している家では牛王寶印のお札を布団の下に敷くらしい。

病に効くということであろう。

そのお札は後日に行われるトンドで燃やすようだ。

穢れを祓うという意味もあるトンド焼きである。

(H27. 1. 6 EOS40D撮影)

鹿路天一神社綱懸祭

2015年10月15日 08時54分58秒 | 桜井市へ
遅い昼食を終えてから綱懸祭神事が行われる桜井市鹿路(ろくろ)の天一神社。

時間は午後3時をとうに過ぎていた。

区長預かりの享保二年(1717)書・天保七年(1836)書写の『天一神結鎮祭文』が運ばれた。

祭文は祭壇に置く。

神前に拝礼される禰宜さん。

これより綱懸祭を斎行される。



始めに修祓だ。

祓えの詞を奏上する際には一同が頭を下げる。

次に古い箱を開けて結鎮祭文を取り出す。



神前に向かって結鎮祭文を朗々と詠みあげる。

およそ10分間。

全文を奏上された。

祝詞は祭文詠みであったのだ。

次は玉串奉奠。

代表の区長が神前に捧げる。

そして斎庭で行われる弓初めの儀式に移る。

ハゼウルシの木で作った弓を手にする禰宜さん。

女竹で作った矢も持つ。



初めに矢を射る方向は天に向かってだ。



次は地。東・南・西・北に向けて矢を射った最後は的に書いた蛇の眼の黒丸めがけて矢を射る。



的近くまで寄って矢を射ることもあれば、距離を遠ざけて射ることもあった。



禰宜さんが射る神事的要素をもった弓初めの儀式を終えたら射者は村人に替わる。

狙いを定めて弓をひく。



指を離せば矢が飛ぶ。

入れ代わり立ち代わり交替して矢を射った。



この日に訪れていた葛城忍海の母娘たちも矢を射った。

ありがたいことに取材者の私たちにも矢を射った時間帯は16時30分ころ。

供えた餅はススンボの先に挿して、トンドの火で焼いていただく。

そうして新鹿路トンネルを抜けた綱掛橋の上に綱を掛けるが、この日の私は夕方までに自宅へ戻らなければならない。

長時間に亘って鹿路で滞在した綱懸祭の調査は翌年に持越しである。

お礼を伝えて引きあげた。

天一神社綱懸祭は昭和32年発刊の『桜井町史 続 民俗編』によれば、かつて結鎮祭とも呼ばれていたそうだ。

元々は大字鹿路の本家筋が組織した宮講が祭祀していた。

ところが明治時代に入って村から出る講員が続出したそうだ。

宮講は明治35年ころに解散されて講が所有する田や宅地を天一神社に奉献、大字全戸による村行事に移った。

そのときの区長が一老として継承してきたとある。

宮講が存在していた時代は綱結いする7日前に斎戒沐浴していたようだ。

明治初年までの結鎮祭文は談山妙楽寺護国院(現在の談山神社)の僧侶による祭文詠みであった。



矢は8本。

黄幡(おうばん)が初めにあると史料にあったが、この年は確認できなかった。

黄幡とは軍陣の守り神。

弓初めの際に黄幡神がいる方角に向かって矢を射れば吉とされる。

(H27. 1. 4 EOS40D撮影)

鹿路天一神社綱懸の祭り道具調製

2015年10月14日 07時29分31秒 | 桜井市へ
昭和32年に発刊された『桜井町史続 民俗編』に「十八酒」行事が記載されていた。

場は桜井市の鹿路(ろくろ)である。

18歳になった若者の祝いは村の大人の仲間入りとして認める儀式。

それが「十八酒」行事であるが対象者はなく中断している。

そのときに伺った男性は正月四日に綱掛祭をしていると話してくれた。

現在は四日に近い日曜に移っている綱掛祭。

ウルシの弓、ススダケとも呼ぶススンボの竹で矢を作る。

弦は苧だという。

弓初めの儀式を終えて北の入口に綱掛けをする。

綱はオーコで担いで運んだ。

「綱をまくったら男になる。豊作やといって川までまくった」と話す男性は「面白半分にしていた」と話していた。

天一神社で行われる綱掛祭はどのような形式でされているのか、前々から気になってはいるものの訪れる機会を逃していた。

この年の4日は第一日曜日。

固定日の4日に行われる地域もありどちらに向かうか選択順位は悩ませるが、男性が話してくれたこともあって鹿路に決めた。

到着した時間帯は9時少し前だった。

道路は除雪されて難なく上がることができたが神社境内は積もった雪が残っていた。

拝殿内で綱結いをしている村人たちがおられた。

突然のことではあるが取材を申し出た。

昨年の8月19日に訪れた経緯を伝えれば男性は来ていないという。

男性は84歳。

若い人たちに後継を頼んで引退したそうだ。

区長こと総代のMさんの承諾を得て取材に入る。

鹿路は天一神社が鎮座する宮垣内に下垣内、上垣内の3垣内からなる。

この日は朝8時半から作業を始めたそうだ。



天一神社に本殿はなく巨樹の大杉がご神体。

美しい朱塗りの玉垣によって囲われている。

正月前に立てた松飾りには竹があるが梅は見られない。



玉垣下の階段に各戸が供えたと思われる正月御供が雪に埋もれている。

各戸より寄せられた藁束をしごいてシビと取る人に小注連縄を結う人も。



トンドの火の周りで行う分担作業はしばらく続く。

綺麗にシビを取った藁束は拝殿鴨居に引っかけて綱結いをする。

藁ニ把を持つ二人組。

「さあーよい さあーよい よいよい さあーよい よいよい」と掛け声をかけながら綱を結う。

藁把を綱に継ぎ足して「さあーよい さあーよい」の掛け声で右依り。

2回の捩りである。

そして「よいよい」と云いながら相手側に綱をお互いに交換しあう。



次に「さあーよい」と綱を捩る。

最後の「よいよい」で再び交換する。

リズミカルな結い方についつい見惚れてしまう綱組みである。

綱組みの先には細い藁縄を括っている。

掛け声かけて結った綱は長くなる都度に引っ張って弛まないようにする。

3人は呼吸を合わせて綱を伸ばしていく。

おおよその長さになった綱結いは力仕事。

何人かが交替しながら結っていた。

綱結いを始めて30分後。

作業開始から1時間半後に小休止。



注文していたオードブル料理をよばれて一服する。

休憩を挟んで再び作業が始まった。



今回の取材は祭り道具の作り方の調査もある。

できる限りその様子を詳細に記録させてもらった。



的の骨組は一尺六寸の長さにした女竹をナタで割って作る。

右側の人が作っているのは「丘の棚」と呼ばれている御供台だ。



長さ四尺の女竹の先を四つに割いて広げる。

予め作っておいた二本の藁枕を挿して固定する。

長さ七寸に切断したハゼウルシの割木は両端を縄で編んで簾のようにした。

それを藁枕に括り付けてできあがる。

左側の人は神饌台作り。

これもまた予め作っておいた円形の藁。

円の中心部には長さ40cmぐらいの藁束がある。

それを固定していたのは割竹。

円形の藁に挿して十文字。

交差する部分に長い藁束の折り曲げたところに通している。

下部は崩れないようにテープで止めていた。

その横で作業をされる人はナタで割って竹串を作っていた。

竹串は4本。

神饌御供のタチバナ(柑橘)やミカン(蜜柑)、ホシガキ(干柿)、クリヒシモチ(栗菱餅)を挿す竹串だ。

次は弓作り。

材は長さ四尺八寸のハゼウルシの木。

適当な幅ごとに材の皮を剥いでおく。

道具造りは細かい作業。

大まかな道具類が揃っていく。

この場には弓打ちの的も置いてある。

紙を充てて糊付けして乾かしていた。



右手奥に立てているのは長さ八尺の矢である。

両端に穴を開けて麻芋の縄を取り付ける弓作り。



優しい眼差しで見ておられたのは談山神社禰宜の花房兼輔さん。

昨年の10月には嘉吉祭の御食調製にてたいへんお世話になった禰宜さんである。

御供のタチバナやミカン、ホシガキ、クリヒシモチを挿した神饌台を小注連縄に取り付ける。



注連縄は長老が編んでいた。

これを左右に立つ灯籠の頭部分に括り付けていた。

水平にした注連縄に神饌台の中央にある縄の先を落ちないように注連縄の結びを緩めて通す。



神饌台の形で思いだしたのはこの月の3日に取材した宇陀市長峯・長安院で行われた修正会に奉られた「カラスのオドシ」だ。

若干の違いは見られるもののほぼ同じ形態だと思った。

このような形の祭り道具は他所でも拝見したことがある。

一つは天理市荒蒔町・勝手神社の将軍さんに奉られた串膳だ。

もう一つは五條市東阿田町・八幡神社の七つ御膳だ。

時代とともに祭り道具が変化した天理市上仁興町・釈尊寺で行われた七草元座講の「ダイワ」もある。

かつては「ダイワ」の下部に円形の藁束があった。

そこに挿して立てていたと話していた。

隣村の天理市苣原町・大念寺のケイチンもかつては「ダイワ」と呼ぶ祭り道具があった。

つるし柿やミカン、クリを竹の串に挿して、ケイチンのモチを供えていた「ダイワ」はおよそ60年前には作っていたと話していたことを思い出す。

次は幣作り。

長さ四尺五寸の女竹は4本揃える。

幣垂れは半紙5枚重ね。



二つを互いに宛てた10枚重ねの幣は先を割った2本の女竹に差し込む。

麻苧で3か所結んで締める。

さらにはハゼウルシの割木を12本。

これも麻苧で結んで幣に括り付ける。

半紙に包んだ洗い米(かつてはほんぐりと呼んでいた)も括りつけてできあがる。



これを2本用意する。

祭り道具はもう一つある。

杉材と紙で作る天蓋である。



長さ八寸の杉材は厚さ数センチのへぎ。

中心点に穴を開けて十文字にする。

麻苧を通して吊るようにしておく。

へぎ材端の四か所には長さ20cmほどの細長い紙を糊付けする。



これを神饌台の両横に吊るす。

神事と思われていた綱懸祭に天蓋が登場するのだ。

形は簡略的であるが、県内事例に天蓋が登場するのを初めて知った鹿路の在り方に神仏混合の名残を感じた。

矢羽根を取り付けた矢もできあがった。



合計で48本にもなる。

弓を立て掛けて丘の棚に御供を置く。

ウラジロを敷いて広げた半紙に載せた御供。



鏡餅(かつてはクリのヒシモチ)にタチバナやミカン、ホシガキがある。



夫婦大杉に注連縄を張る間も作業がある。

「さあーよい さあーよい」の掛け声で依った綱に足を付けるのだ。

三尺五寸の女竹。



両端に葉付きの樒を差し込む。

細い藁も差し込んで解けないよう女竹をぐるぐる巻きながら端に差し込む。

このような在り方も初見である。

縄は12尋。

四つ折りにして拝殿鴨居に引っかける。

三尺辺りの処に結び目。

そこより下は二本ずつに分けて垂らす。

左右に樒を挿した女竹を結ぶ。

等間隔に開けて下に3本の女竹を結んで垂らす。



下縄は七尺ほど余らすように調える。

後方にある夫婦大杉の注連縄には紙垂れを付けていた。



樒を挿した女竹の綱足は藁で括って玉垣正面の扉前に奉った。

綱足を奉った段階に結った綱を運び出した。

全長はどれぐらいの長さにしたのだろうか。

相当な長さである。



綱をぞろぞろ引くわけではなく地面に当たらないように抱えて運ぶ。



松飾りや神饌台の下を潜らせて玉垣正面の扉と屋根の間に綱の先端を差し込む。

一本の道のような姿になった綱は長い。



汚れないようにしたと思われる境内一面に広げた藁。

そこに綱を置く。



敷いた藁は相当な広さになっていた。

この場で何かが始まると感じたが何事も起こらず村人はトンドの火にあたって暖をとっていた。

10分ほど経過したころ。数人が神前に動いた。



綱を手にしてとぐろを巻くような感じで綱を巻いていく。

一方、後方に立つ人は綱を抱えている。

巻きやすいように援助しているのかと思った。

何重か巻いた綱。

そのときだ。



綱を手にした人は逆方向に引っ張ったのだ。

巻き方が違うと言って引っ張る。

とぐろ巻きは右巻き、左巻き。

正順があるのかそれとも逆順なのか判らないが「あーせー、こーせー」と囃しては綱を引っ張る。



ときにはとぐろ巻きをしていた人に綱を被せてぐるぐる巻き。

これを何度も繰り返す。



とぐろ巻きを邪魔するような感じであるが、これは遊びでなく時間稼ぎだという。

若者、年寄りが入れ替わり暴れる。

和気藹々とじゃれているようにも思える。

綱巻きは歳の差も感じさせない。

暴れれば暴れるほど喜びあう村人たち。

この日に神事を務める禰宜の花房兼輔は自ら綱に飛び込んで巻かれていた。

かつては流血もあれば骨折した人もあったぐらいに暴れたそうだ。

今ではじゃれあっているような感じ。

おとなしくなったと話す。

30分ほど暴れてようやく落ち着く。

結局、とぐろ巻きは正順、逆順どっちであったろうか判らず終いだ。



巻いた綱は体重をかけて縄締めする。

弓打ちされる斎庭に運んで二本の幣を立てる。



幣はクロスするように立てていた。

上部に「上」の文字。

蛇の眼とされる黒丸に二重線の輪を書いた的も置く。

設える場はアキの方角。

いわゆる恵方である。

この年は西南西である。



すべての祭り道具を作り終えてようやく食事を摂る村人たち。

遅い昼食に一息をつける。

(H27. 1. 4 EOS40D撮影)

イオンモール大和郡山四国うどん鶴丸製麺の舞茸わかめ餡かけ饂飩

2015年10月13日 09時30分32秒 | 食事が主な周辺をお散歩
取材中にかーさんから電話があった。

昼ご飯のカレーライスに欠かせない福神漬がないから、帰宅途中で買ってきてねという電話だ。

11時40分だった。

榛原長峯から直帰すれば45分程度。

昼ご飯には充分に間に合う時間だが、帰路に寄ってみたい処がある。

途中下車を繰り返せば戻る時間はぐっと遅れるが、榛原山辺三、都祁白石で撮影したかったのである。

ちゃちゃっと撮ってもそれほど遅くはならないだろうと思って走った。

山辺三では釣り師と会話していた時間帯は12時半。

下って都祁白石を発ったのが13時過ぎ。

さらに下ってガソリン補給し終わったら13時45分。

カレーライスは諦めてイオンモール大和郡山店を目指す。

福神漬の購入ついでの昼食はうどんに決める。

この日は正月三日。

駐車場は満杯のサインが出ていた。

空きはまったくない。

誘導されるままに着いた4階の屋上駐車場。

5Fにもあるが誘導されるままに着いた。

空きは何台もあったが、すぐに埋まった。

店内は大勢のお客さんがうろうろしていた。

食事処は3Fのフードコート。

ここも多い。

14時だというのにごった返すほどに人が多いのだ。

すり抜けるように列に入った四国うどん鶴丸製麺。

曜日替りのメニューもあるが、ふと目にした冬限定メニューは舞茸わかめ餡かけ饂飩だ。

ほくほくするような見本写真に釣られて決めた。

秋限定メニューでは舞茸と玉子のあんかけうどんだったようだ。

注文して何秒もかからないうどんを手渡される。

クイックペイで支払ったうどんんは税込み380円。

天カス・トッピングは欠かせない。

餡かけに天カスってどうょ、と云う人もおられようがお構いなし。

空いたテーブルを探すがまったくない。

席には誰もいないが着衣やカバンが置いてある。

丸テーブルに一人。空いている席もあったので声をかけたが断られた。

あっちやこっちを探してようやく見つかったカウンター席。

ほくほくうどんが冷めてしまうほどに客が多いのにはまいった。

ようやく昼食にありつけた時間帯は14時10分。



ふぁんと漂ういい香り。

わかめと舞茸を絡めて麺をあげる。

湯気は僅かになっていた。

つるつる喉越しが気にいっている鶴丸製麺のうどん。

美味いのである。

僅かであるが生姜の味があるように思えた。

わかめも多いが舞茸も多い。

シコシコ麺とともに歯ごたえがある。

とろとろ感の餡かけうどんには玉子とじもあった。

良い感じだ。

出汁はどれもこれも同じであるが、手渡される直前に醤油のような濃いめの出汁も入れたような気がする。

味を整えたのだろう。

舞茸わかめ餡かけ饂飩の量は多い目。

と、思ったが麺の量は量っているのでどれもこれも同じなのだが、食感的に多く思える。

何故なんだろ。

この味、この量で380円。

大満足の一杯だった。

(H27. 1. 3 SB932SH撮影)