マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

木津川市相楽神社の餅花祭

2017年11月20日 09時20分06秒 | もっと遠くへ(京都編)
奈良県の吉野町から一目散に北上する。

目的地は午後1時から餅花祭をされると聞いていた京都府南部の木津川市相楽清水に鎮座する相楽(さがなか)神社だ。

つい先月の1月15日は御田祭行事を拝見したばかりだ。

観覧者はまま多いと聞いていた餅花祭の日は固定日の2月1日。

この日は水曜日であるから平日になる。

鳥居を潜って拝殿を見たら黄色い帽子ばかりがやたらと目立つ。

帽子を被っていた子どもたちは神社向かいにある相楽小学校の3年生。

赤帽子は4年生になると云ってくれた先生方に承諾を得て撮らせてもらうが顔写りはご法度。

後方から撮るのであればと伝えられて、郷土の祭事を勉強する姿をとらえさせてもらった。

地域の郷土祭礼を学ぶことはとても大切なことである。

学校教育に活かすのは机上学習だけで済ますのではなく、見学、或いは実習などの体験学習が大切であると思っている。

これまで奈良県の行事を取材してきたが、生徒を見学させている地域はごくごく僅かの一握り。

相楽小学校の取り組みは大いに賛成したいから、撮る被写体にうしろ向き生徒の黄色い帽子を入れ込むことにした。

ところが、後方についた私のことを知った子どもたちが振り返って、「ボクも私も撮ってー」というから困ったものだ。

さて、相楽神社の餅花祭には大きな特徴がある。

相楽神社の氏子域は旧相楽村の「大里」、「曽根山」、「北之庄」の三カ大字。

座中組織がそれぞれにあり、すべてが集まって九座にもなる。

南の座は六座。

南前座北、南前座南、南中座北、南中座南、南後座北、南後座南である。

北の座は三座。

北前座、北中座、北後座である。

その座ごとに奉納される串挿しした餅花を飾る土台の藁包はヒョウタン型である。

形を調える土台の内部に泥粘土を詰めているそうだ。

丸く作った餅のてっぺんに朱色で十字。

ひと串に餅の数は2個もあれば3個挿しもある。

串をよく見れば一本ではなく2本である。

ということは2本に挿し分けた餅の数が5個である。

餅は紅白の紙片を挿したところにある。

敢えて云うなら、餅は元々その紅白の紙片に供えられていたものを串に挿すようになったのでは・・と思ったぐらいだ。

ヒョウタン型に作った藁包に一体何本の二股竹串を挿しているのだろうか。

その件については座によって若干の本数違いがみられるようで、12本或は10本になるようだ。

餅は米粉で作った餅というから味覚は団子であろう。

これを花に例えてモチバナの名がある。

良く見れば十字もあれば、ぽちょっと塗った丸型もある。

どういう意味があるのか知らないが、朱の色は食紅。

持ち帰って焼いて食べると話していた。

この餅花を竹串で挿している土台の藁包は「ションマラ」と呼んでいる。

作るには相当な手間がかかる。

特にこのヒョウタン型に作る藁包は人手もいることから、だいたいが1月末の日曜日に各座で作っていると話していた。

「餅花」を被写体に撮る人は割り合い多く見られ、ブログなどでアップする人もおられる。

行事がよくわかるブログもあれば、オコナイの一つとして紹介するブログも。

写友人のMさんもSさんアップされているので参考に・・・。

行事がよくわかる歴史探訪ブログもあれば、オコナイ定義を述べたブログもある。

昭和59年10月に発刊された京都府立山城郷土資料館編集する展示図録の『企画展―祈りと暮らし―』が手元にある。

相楽神社の餅花祭のことについては「木津町相楽のモチバナ」の項で紹介していた。

前項に「モチバナ」があるから全文を紹介しておこう。

「花は稲の稔りを予兆するものとして、特別な感情をもって眺められてきた。正月に各家でモチバナを作り、供えるものも、年頭にあたって豊作を祈る切実な願いからであった。南山城地方のモチバナ風習はすでに過去のものであるが、各地に伝承されている。南山城村の田山ではナリバナと云って神棚に福神として祭るエビス・ダイコクへ元旦に供えた。京田辺市の旧田辺町・大住のモチバナは孟宗竹の枝に餅を付けて神棚の花立てに飾った。小正月に餅を枝から外してホウラクで煎って食べた」という各家固有の習俗があった。

こうした民家で作っていたモチバナは京都南山城地方だけでなく奈良県御杖村・神末にもあった。

平成3年に発刊された中田太造著の『大和の村落共同体と伝承文化』に記載があった。

竃の神さん、いわゆる三宝荒神さんに三段重ねの「ナラシノモチ」と呼ぶ餅を供える。

クロモジの枝に小さくしたモチをたくさん付ける。

稲の穂の形に作って神棚に供える。

これをナリバナと称していた。

ナリバナはメマツ(雌松)、オマツ(雄松)、フクラソ(フクラシ)、カシノキ、サカキの5種の木とともに供えた。

同村桃俣の住民は水に浸けておいた「グ」と呼ぶ大豆を入れた餅を搗いて、柳か竹の小枝にちいさく千切ってくっつけていた。

このモチは保存しておいて「ナワシロシメ」の際に炒った。

一升枡に入れて田んぼの水口に供えて豊作を願った。

こうした行為は隣村の曽爾村でもあったナリバナ風習である。

今では見ることのない民家風習の「ナリバナ」の形は奈良市旧都祁村の上深川・元薬寺で行われていた初祈祷行事にあった。

平成21年2月7日に取材したものであるが、近年になって作るのが面倒になって廃れてしまった。

今尚、モチバナを飾るオコナイ行事をされている三重県名張市の鵜山・福龍寺に見られる。

平成25年1月13日に拝見したナリバナの大きさに驚いたものだった。

また、モチバナの名称でオコナイ行事を飾っていた奈良県宇陀市榛原の長峯・長安院の修正会である。

平成27年1月3日に拝見したモチバナ(長峯では繭玉と称する)も古来から継承してきた貴重な在り方である。

三つの事例は寺院行事であるが、いずれも真言宗派の寺院である。

正月初めに村の安全、豊作を願う修正会はオコナイとも称されているが、本日に拝見する餅花祭は相楽神社行事である。

京都府立山城郷土資料館が編集した展示図録の『企画展―祈りと暮らし―』に、相楽神社の餅花祭のことを掲載している。

「モチバナは各戸で作られて祭られるが、南山城では1カ所。相楽神社では氏神の祭りとしてモチバナが作られる。モチバナは団子状の餅を12本の竹串に5個ずつ、粘土を芯にした藁包にさしたもので、前日の夕方から神社に奉納される。朝方にかけ各座の当によって作られる。昼からはモチバナで飾られた拝殿で神楽を舞ったあと、12本のうち1本は神主に、残りは当屋から座子に配られる。このモチバナは宮座行事のなかに、モチバナ習俗を取り入れられた珍しい一例である」と書いてあった。

展示図録の『企画展―祈りと暮らし―』に書いてあった藁包の名称は「※ ショマラ」。

粘土を固めて練って藁で包んだとか、モチバナは粳米4に対して餅米は1の割合。

粉にして混ぜ合わせ、蒸して搗いたもので、最後に朱を入れて出来上がる、と製作工程を伝えていた。

「餅花」の文字を逆さに配置替えしたら「花餅」である。

「花餅」は「けひょう」と称される仏事語。前述した修正会・オコナイに、その「花餅(けひょう)」が供えられる。

平成23年1月2日に拝見した奈良県大和郡山市の矢田町・金剛山寺(通称矢田寺)の修正会も事例の一つとして挙げておく。

気になるのはこれまでモチバナ事例を紹介したなかには神社行事例はなく、寺院行事ばかりである。

明治10年以降は相楽神社の名になったが、江戸時代は八幡宮と称されてきた相楽神社に神宮寺と想定される真言宗派の不動寺があったそうだ。

不動寺は文化元年(1804)に無住となり、その後の廃仏毀釈令がでた明治時代に廃寺となり撤去されたと伝え聞く。

これまで4例の真言宗派寺院における正月年頭に行われる修正会・オコナイを紹介してきた。

ここ相楽神社もまた、神宮寺の真言宗派寺院があったのである。

以前も書いたが、江戸時代は神仏混淆の神社・寺院行事であった。

寺院が廃れて神社行事に統合された事例は多くある。

奈良県内だけでも相当数の事例があり、ここで紹介するには字数が多くなるので省かせていただくが、「餅花」の形態は寺院時代の名残、継承であることは否めない。

さて、肝心かなめの「餅花」である。

広い拝殿の天井に吊った竿にぶら下げた「餅花」に圧倒される。



一つ、一つの餅花がいまにも舞い降りてきそうな壮観な景観に見惚れて思わず見上げてしまう。

そのすべてに前述した座名を記した札に名前を記している。

南前座北、南前座南、南中座北、南中座南、南後座北、南後座南、北前座、北中座、北後座の九座のトウヤ(当屋)たちが精魂込めて作った奉納「餅花」の印しである。

昨今は業者に依頼して作ってもらっているようなことも聞くが・・・。

吊っている「餅花」に九座ではない奉納者の名前がある。



記した札にある名前は「小学校三年有志一同」である。

この写真では学校名が見えないが、黄色い帽子を被って見学している相楽小学校の3年生が奉納者である。

これもまた学習の一環。

寄進することによって郷土の行事に愛着をもつということだ。

費用、作業はともかく、このような郷土学習は他地区においても増えて欲しいと願うのである。

神事は午後1時より始まる。



小学生は座って拝見してくれたので後方にいる人たちは見やすくなったことだろう。

神事を務めるのは村神主の宮守さん。

本殿に向かって祓詞を述べて、神事に神楽を舞う巫女を祓う。

続いて献饌、祝詞奏上である。

餅花を献上されたトウヤ(当屋)たちはどこにおられるのかわからないが、宮守など白装束姿の4人が並んで座っていた。

これより始まるのは巫女さんが舞う神楽である。



手前にあるのは1月15日・御田祭神事の際、午前中に行われた「粥占(かゆうら)」の結果である。

この日の観覧者にも見ていただこうとする配慮のような気がする。

1月15日の御田祭に田植え所作をされた巫女さんと同一人物であるように思える。

本殿に向かう巫女さん。

左手に鈴。

右手に扇を持って舞う神楽。



太鼓打ちのドーン カッと縁を打つ音の調子に合わせて擦り鉦も鳴らす。

シャンシャンの音も聞こえる鈴舞は三方それぞれに頭を下げて拝礼する。

太鼓打ちの音をよく聞いておれば、ドーン カッ、ドーン カッ、ドーン カッ・・の連打である。

それを繰り返すのかと思えば違った。

よく見ておれば区切りがあることに気づく。

それはどの時点か・・。

頭を下げるのは三方。

四方拝ではなく三方拝である。

北に南にシャンシャン。

そして本社殿に向かって頭を下げている。

それは数回繰り返す作法。

その都度に打ち鳴らす太鼓の音色がドーン カッ、ドーン カッ、ドーン カッ・・の連打。

本社殿拝の場合だけは〆るドン、ドン、ドンであった。

こうして神楽舞を終えたら再び登場する宮守さんである。



その姿を撮っていてはじめて気がついた社殿の餅花。

座はどこであるのかわからないが、拝殿の餅花もそうだが相楽神社の神さんに奉納していることがよくわかる情景である。

そして撤饌。



きっちりとした作法で恭しく御供を下げる

こうして餅花祭の神事を終えたら撤収である。



供えた餅花は竿から外して下ろす。

それぞれの座中・奉納した当屋が下げる。

聞いたところによれば土台の「ションマラ」の重量は10kg。

餅花だけでも10kgもあるから合計すれば20kg。

相当な重さは架けるのも労力はいるが、下げるときも力が要る。

抱え方が拙ければ餅花を落としかねない。

二人の力を合わせて慎重に下ろしていた。

奉納した「小学校三年有志一同」も2人の担任先生が下ろしていた。



神社からいただいた撤饌もコウジブタに載せて運ぶ子どもたち。

神事中も降っていた小雨も増加傾向。

急いで支度を済ませて小学校に戻っていった。

二股の竹串は「ションマラ」に挿していた部分である。

この映像でわかるように、「ションマラ」は云っていた通りに、中身は泥粘土で作られていたのである。



北および南の座小屋ではそれぞれの座中氏子が餅花を貰っていた。

持ち帰った餅花は焼いて食べる。

そうすれば無病息災になると信じられ、貰いにくる人もあれば、地区に戻ってから当屋が配るのを待っている座中もいる。

地元民の岩井忠敏さんが所蔵する資料より抜粋した神社の「餅花祭の由来書」を宮守さんからいただいた。

若干、読みやすく補正した全文は「相楽神社の祭神は仲哀天皇(父)、神功皇后(母)、応神天皇(子)。神功皇后が朝鮮征伐の際、応神天皇の子守役の武内宿禰が浜の土で団子を造り、串に挿し、母君一行の武運長久を祈願したことより、相楽神社では当時より、2月1日に氏子が毎年交替で餅花を供え、村内の人々の繁栄と健康を祈願し、その餅花を下げてくださる儀式」である。

仲哀天皇(父)、神功皇后(母)、応神天皇(子)は八幡神の三柱(足仲彦命、気長足姫命、誉田別命)であるだけに尤もらしいが・・・。

宮守、座中が云うには、その説もあるが、他にもあると云う。

一つは「郡山大名の参勤交代の折に、神社前を通過。子どもを泣かせないために餅を串に挿してあやした」。

殿さんが通った道のお馬を下りたとされるババサキ(馬場先)の小字がある。

当時の神社は広く、現在の小学校地も境内であった。

小学校東側、100mほど東に向かえば往来した郡山街道がある。

もう一説は「平安遷都の折、相楽の八幡宮が奈良の大安寺八幡宮が京の都の裏鬼門にあたる男山八幡宮(石清水八幡宮)に向かう際に、当社の宮守が歓んで守護する一行に餅をふるまい接待した」である。

子どもをあやしたという説も三柱祭神由来、守護接待説も後付け説のように思えて仕方がない。

前述したように餅花は寺院行事。

年頭に願う村の安全と豊作を願う修正会・オコナイの名残としか考えようがない、と思うのであるが・・。

歴史、地理的背景は木津川だよりブログを参考にした。

(H29. 2. 1 EOS40D撮影)

私がとらえた大和の民俗(7)玄関ホール写真展

2017年11月19日 11時23分59秒 | しゃしん(県立民俗博物館展示編)
奈良県立民俗博物館の玄関ホールにて、10人のカメラマンが出展する「第7回 私がとらえた大和の民俗」写真展は平成29年10月28日(土)より始まります。
今年で7回目を迎えた写真展の期間は平成29年12月17日(日)まで、となります。

今回のテーマは「水」。
「水は身近で根源的な素材のため、さまざまなとらえ方ができます。奈良盆地は元来水利に乏しく、溜め池を作ったり、雨乞いの信仰が盛んになるなど水の恵みを求めてきました。一方で洪水や土砂崩れなど災害の爪痕や、洪水に対する堤の跡なども残されています。さまざまな場面を切り取った奈良の民俗写真から、奈良の「水」についてご紹介します。」

「水」の写真は数々あれど、そのほとんどが風景写真。
「水」には生きている民俗がつきもの、「水」とともに生きる民俗。
それが本質。根底にある「水」。
写真家がとらえる「水」とは何ぞえ、をみていただきたい。
そう、思うのです。

なお、12月3日(日) 13時45分より、出展されるカメラマンたちが語る「写真家座談会―水に関する奈良の民俗―」があります。
座談会会場は併設の大和民俗公園内施設の古民家(旧臼井家住宅)ですが、変更する場合もありますのでよろしくお願いします。・・・終了しました
                 
是非、お越しくださいませ。

展示場所 奈良県大和郡山市矢田町545 奈良県立民俗博物館 玄関ホール(館入場料200円)
※ 11月18日(土)、19日(日)は「関西文化の日」のため、入館観覧料が無料 
開館時間 9時~17時 (入館は16時半まで)
展示日程 平成29年10月28日(土)~平成29年12月17日(日)・・・終了しました
関連イベント 平成29年12月3日(日) 
 <出展写真家が語る「写真家座談会―水に関する奈良の民俗―」 13時45分より>・・・終了しました
奈良県内の水に纏わる信仰や芸能、生業、遺構など、 出展写真を交えながらご紹介します
      
出展者および作品テーマ(図録順)・・・在館解説日(午後1時半より)
志岐利恵子  【人生の水】・・・・・・11月25日・終了
鹿谷勲    【水の風景】・・・・・・12月 2日・終了
脇坂実希   【水の信仰】・・・・・・12月10日・終了
野本暉房   【水垢離】・・・・・・・11月 4日・終了
松本純一   【流す】・・・・・・・・11月19日・終了※ 関西文化の日
森川壽美三  【めぐみの水】
田中眞人   【大岩の雨たんもれ】・・11月18日・終了※ 関西文化の日
森川光章   【暮らしと水】・・・・・12月 9日・終了
野口文男   【災害】・・・・・・・・11月11日・終了
松井良浩   【請堤(受堤】・・・・・11月 5日・終了

どうぞ、ご来館お待ちしております。



(H29.10.27 記)
(H29.11.18 SB932SH撮影)

佐々羅不動明王のアオキ葉注連縄

2017年11月18日 09時16分54秒 | 吉野町へ
吉野町丹治の厄除け祈願参りを取材したら北上する。

走行距離はどれほどあるのか。

目指す地域は京都府南部。

丹治から新鹿路のトンネルを抜けようとしていた道すがらに神社らしきと思われた石柱構造物があった。

この日は2月1日。

もしかとすればであるが、二ノ正月にお供えがあるのではと思った。

その勘はずばりの大当たり。

県道37号線を北上する街道の左側に、である。

佐々羅の四叉路信号を越えてからすぐ近く。

とは云っても歩きではそうとうな距離にある。

階段を登ってみれば、そこには社殿もなかった祭場。

灯籠に「不動明王」の刻印があったことから、ここは不動明王を祭った場であった。

平成21年4月吉日に施行されたさい銭箱に男女25人の寄進者名が刻まれていた。

地区はどの垣内になるのかまったくわからないが、この辺りに住む人たちに違いない。

さて、不動明王の祭場である。

中央は奥の不動明王石がある。

それを拝見するにもガラス張りのローソク立てで見えない。

その前にお供えが三つ。

いずれもミカンである。

ガラスコップにコーヒーカップはお酒であろうか。

それよりも気になったのが左側の神さんを祀っていると推測される社の前に置かれた注連縄である。

ウラジロに手造りの注連縄にミカンもあるが、葉っぱにえっ、である。



注連縄であれば、間違いなくユズリハであるのが、ここは赤い実をつけたアオキである。

付近を歩いて探索したら同じ実のアオキがあった。

身近にあったアオキが注連縄飾りに適用されている事例は初めてである。

(H29. 2. 1 EOS40D撮影)

丹治の厄除け地蔵参り

2017年11月17日 09時45分02秒 | 吉野町へ
吉野町の丹治に厄除け地蔵参りが行われていると知ったのは奈良新聞に載った記事が発端。

行事というか、丹治の風習のような。

何十カ所に亘って出かける地蔵参りに1カ所ずつ餅を供えると云う厄除け祈願であった。

吉野町在住と思われるTさんが投稿した平成22年2月2日掲載の「雑記帳」記事にその在り方を次のような短文で紹介していた。

「私の住む吉野山のふもとの丹治地区には何カ所もお地蔵さんがあり、住民の生活の中にある糧、安らぎを与えてくれます。この地区の風に、男性42歳の厄年になれば餅(もち)米一升で42個のお餅を作って2月1日にその数だけのお地蔵さんにお供えして厄除け祈願をするという習わしがあります。昨今はこの風習も実行されることが少なくなったようですが、私は息子の前厄、本厄、そして今年2月1日は後厄で3年続いた地蔵まいりを無事終えてほっとしました。・・中略・・このお地蔵さんはいつごろから存在したのか、また、こういう風習がいつごろ始まったのかは分かりません。隣接する他の地区ではこういう風習は聞きません」とあった。

続いて書かれていた文は「8月24日の地蔵盆には、赤、黄、緑の色を散りばめて花や野菜などの抜き型で抜いた美しいしんこと呼ばれる米粉のお団子をたくさん盛ってお供えする習わしも、この地区だけのようです」である。

タイトルは「お地蔵さん」。

丹治に2件の行事と風習をされているのなら、是非とも取材をしてみたいと思って車を走らせた平成24年2月1日

到着した時間帯は午後1時。カーナビゲーションも装備していなかったころは予めパソコンで印刷出力しておいた丹治の地図を片手に地区を探してみた。

旧街道におられた製材所を営む男性に尋ねてみた丹治の厄除け地蔵参り。

ご主人の話しによれば、今朝7時に奥さんが厄除けの地蔵参りをしていたそうだ。

ご主人の息子さんの厄は今年が前厄。

息子は仕事にでかけたが、地蔵さんにお餅を供えて巡拝したのは奥さん。

厄除け対象年齢になった男も参拝することがあるらしいが、地区では決まって男性の奥さんが巡拝の役目を担っているという。

ちなみに独身であれば、どうなるのか。

その場合は母親が巡拝する、という。

すべての地蔵さんを参るには1時間もかかるらしい。

その年に厄年になった男が複数人の場合であっても、それぞれの家ごとに巡拝するからどこで出会うのかわからない。

出会えたらまだ良い方だが、対象年齢の男がいなければ、いくら待っても出会うことはない。

自治会でもなく、講でもない。

団体集団でもないから、出発する時間も、初めに参る地蔵さんもそれぞれであろう。

ましてや対象年齢の男を地区で把握しているわけでもないので、取材は非常に難しいと感じたこの日であった。

2年後の平成26年2月1日にも訪れた。

2年前に聞いていた午前7時が出発時間。

前厄を済ました男性はこの年であれば後厄になる。

お家もわかっていたのでやって来たが、午前9時半まで待っても現れなかった。

仕方ないが諦めた。

ただ、巡拝されているならお供えが残っているかもしれないと思って、付近の地蔵尊を探してみる。

1、2、3、4カ所の地蔵さんを探してみたが、お供えは見つからなかった。

その理由は聞かずじまい。

その代わりといっては何だが、8月24日に行われている地蔵盆に「シンコ」団子を供えているという婦人に出会った。

「シンコ」団子以外に驚いたのが野菜などで作った造りものもあると知った。

「雑記帳」に投稿されていた地蔵盆の在り方を記録写真で拝見できたわけだ。

その年に早速拝見した丹治の地蔵盆行事

地蔵さんがあるところそれぞれの垣内ごとに行われている。

それらの地区は分かっただけでも上第一・第二・第三・中一組、向丹治、地蔵院、金龍寺、中二組(木戸口垣内)。

他にも数か所の地区でしているらしいが、調査する時間もなくて諦めた。

それは近鉄電車吉野神宮駅より南に向かう山の中にもあれば線路沿いの地もある。

駅近くの製材所に中二組(木戸口)から東に下った地にもあると話していたが・・・時間切れだ。

それから2年後の平成28年8月24日

写真家Kの希望を叶えたくて訪れた丹治の地蔵盆。

特に見てもらいたかった向丹治の地蔵盆。

この日に出会ったお家でシンコ団子作りを取材させてもらったご婦人が話してくれた厄除け地蔵参り。

この年が本厄参りで翌年の平成29年は後厄参りをする予定があると云う。

後厄になるのは娘さんの旦那さん。

仕事で生憎参られないが、娘さんに婦人夫妻がすべての地蔵さんに参って餅を1個ずつ供えると話してくれた。

まさか、このお家に厄除けの男性が・・・。

千載一遇の機会は逃しては一生悔やむことになるだろう。

思い切ってお願いしたら承諾してくださった。

ちなみに奈良新聞に投稿された「雑記帳」の記事を書いた女性はよく知っているという。

新聞記事を拝見してから7年も経っていた。

奇遇な出会いによってようやく実を結ぶ。

だいたいが朝の7時に出発するが娘さんの都合もあって子どもを保育所に送る関係もあって、それからにすると話していた。

また、地蔵さんに供える餅は家で搗くのではなく、和菓子屋さんに頼んでいるからそれが出来上がって受け取ってからになると聞いていた。

受け取り時間は約束できないが、その前後になるようだ。

そして、その時間帯に合わせてやってきた向丹治。

お家近くの道路で出会った3人は自家用車で巡拝する。

実はと云ったのが向丹治の山の中におられる地蔵参りは先ほどしてきたというのだ。

山の中におられる地蔵さんは向丹治の地蔵さん。

年に一度の8月24日は向丹治の集落に移される地蔵さんである。

そこに参って近鉄電車の吉野神宮駅近くの踏切にある2体の地蔵さんにも供えてきたという。

そこの参拝を終えて戻ってきたという。

携帯電話の番号を伝えておけば良かったね、と云われてもう遅い。

ここから再出発する地蔵参りは旧街道を順番に下りていく。

はじめに巡拝されたのは上第一地区の地蔵さん。

地蔵盆を終えてから地蔵堂は土台を残して撤去していた。

それから数カ月には新築された地蔵堂に戻された。

屋根は銅板に葺き替えられて美しくなった。



ローソクを灯してオヒネリに包んだ餅1個を供えてお参りする。

次はそこより下った地にある上第二地区の地蔵さん。

上流の吉野温泉地辺りから流れてきた水流は丹治集落を南北に流れ落ちる。

やがて本流の吉野川に流れる水流であるが、その途中の三叉路に架かる橋のすぐ近くに建つ地蔵堂がある。



そこも同じようにローソクを立てて火を灯す。

御供餅はオヒネリ包み。

仮に地蔵さんがここに2体あれば2個の餅を供える。

丹治すべてのお地蔵さんに供える後厄の餅の数は43個。

前年の本厄であれば42個の餅。

3年前の前厄であれば41個の餅を供えるのが習わしである。

3年間に餅は1個ずつ増えるが原材料の餅米は一升である。

搗いた餅をそれぞれの個数にしていたというから分配する計算が難しかったと想像できる。

次は橋を渡らずに右奥手にある地蔵さんに参る。

その場は上第三地区の地蔵さん。



ここも同じようにローソクを立てて火を灯す。

同時に餅1個をオヒネリにしてお供えすれば3人揃って手を合わせる。

願い事は厄除け一筋。

若い旦那さんの健康を願って拝んでいた。

ここは中垣内。

地蔵さんから見て北に向かって見上げる。

頂上はまったく見えないが、その山は城山(しろやま)の地

かつて蔵王堂を本丸、奥の高野山の高城城(標高702m)を詰城。

濠の役目をしていた吉野川の南岸に出城の丹治城(標高260m)を築いたそうだ。

中垣内の人たちに、いっぺん見に行っておいたらいいよと云われていたが、この日はその余裕もなかった巡拝取材である。

旧街道は狭い道。

通行の邪魔にならないように停めていた車に乗って北上する。

距離にすれば遠くもない地に地蔵院がある。

お寺さんに申し出て参らせてもらう本堂に延命地蔵尊が安置されている。

本来なら本堂の上り口に餅を供えるだけであるが、お寺さんのお許しをいただいて上がらせてもらって祈願する。



燭台にローソクを3本立てる。

厄除け祈願に訪れた3人の数のローソクに火を灯して祈願する。



地蔵院には別室に地蔵菩薩立像も安置している。

その部屋でもローソクを立てて火を灯す。



お供えの餅1個を祭壇に置いて手を合わす。

これまでと同じように時間をかけてきっちり唱える厄除け祈願である。



地蔵院からそれほど遠くない木戸口垣内の地に建つ浄土宗金龍寺にも巡拝されるが本堂ではなく境内にある地蔵立像である。

中央に立つ地蔵さんも両脇にちょこんと座った地蔵さん、それぞれにオヒネリに包んだ餅を供える。



ローソク立ては木片に2本の燭台。

火を点けてから手を合わされる。



その右隣に建つ地蔵堂は古くから安置されている地蔵さん。

お堂の扉を開けてオヒネリ餅を供えて手を合わせる。



ちなみに前述しておいた丹治城への登り方だ。

実はここ金龍寺の裏にある山が出城の丹治城。

山頂に向かう小道を登っていけば、西曲輪や帯曲輪ならびに主曲輪に到達するようだ。



次の地蔵さん巡りは金龍寺下の四叉路の角地に立つ木戸口垣内の地蔵さん。

丹治公民館下でもあるこの地蔵さんすぐ横に郵便ポストもあるからわかりやすい。

次は場所が離れて製材所が立ち並ぶ地域に向かう。

すぐ近くには吉野水分神社があるようだが、そこではなく製材所の角地に建つ地蔵堂である。



土台などは新しいが地蔵堂はそれほどでもなく古くもない。

近年において土台だけを整備されたように思える。

参っては次の地蔵さんに向かう。

その繰り返しもここらあたりで終わりかと思えどもまだまだ続く厄除け地蔵参り。

再び戻った道は東西を走る旧街道である。

木戸口垣内から東は飯貝(いがい)の地区。

街道から南側に奥まったところに建つ地蔵堂がある。

世話人は飯貝の飯貝茶屋/第三隣組。

ここもそうだが、丹治、飯貝の地蔵さんは綺麗にしてはる、と思った。

第三隣組の地蔵さんはやや高台。



覆い屋根があるから雨の日でも安心してお参りができる。

お花も手向けているが、お地蔵さん側に花びらを向けているのが嬉しいが、どうやって上がったのだろか。

ここよりさらに下って、というか、東に向けて車を走らせる。

勢い余って通り過ぎてしまうくらいにわかり難い土地勘もあるし、車を一時停車させる場所も難しい。

対抗する車に迷惑をかけたくない。

気持ちは少しでも離して停めざるを得ない旧街道に神経をつかう。

次の行先は「神武天皇旧跡 井光の井戸伝承地」を誘導する看板が目印。

その伝承地ではなく街道から少し歩いたところ。



石で作った扁額「水分大明神」をかけている鳥居右横にある地蔵堂である。

鳥居の先、300mほど登った地に鎮座する飯貝の水分神社があるらしい。

お参りされている向こう側にある街道にグリーンマークの「30ゾーン」表示が見えるから、この街道の最高速度は30km以内。

速度を増しておれば対抗する車に気づくのが遅れて、事故を起こしかねない街道は要注意だ。

巡拝に残すはあと2カ所。

もうすぐ満願する。

街道はさらに東へと向かった先の一段高い地に建つ地蔵堂。



ここもまた飯貝であるが、在垣内はどこになるのだろうか。

どの地蔵さんであってもローソク灯しに餅御供は欠かせない。

今年は後厄の43歳であるから餅は43個も供える。

前年の42歳は本厄で餅は42個。

前厄の41歳は41個。

厄年の歳の数の餅を供えて厄祓い。

3年間とも一升の餅米で搗いた餅を供えて気がする。

およそ14カ所にもなる丹治・飯貝(一部)の地蔵さん巡拝は残すところあと1カ所。

旧街道から離れて大河の吉野川の畔にでる。

堤防沿いの道は車も通行が可能。

桜橋南詰め傍に建つ地蔵堂にラストラン。

並んだお堂は二つ。



手前の地蔵さんに参拝してすぐ横に建つ地蔵堂に向かって手を合わすこの地の地蔵さんは上ノ町の地蔵尊である。

厄に各地区に安置する地蔵さんに厄除け餅を供えてきた。



これほどの箇所に亘って地蔵参りをする地域は奈良県内では聞いたことがない。

こうして厄除け祈願した餅は関係者でなくても貰える。

もちろん祈願した餅である。

供えた餅は厄除け祈願を込めて参った地蔵さんのお下がり。

厄の人は出会った人に下げた厄除け餅をさしあげることができる。

受け取った人はありがたい餅ではあるが、差し上げた厄の人からみれば、受け取った人に厄移しをしたということになる。

そう話してくれたF家族。

厄移しをしてくださった餅はありがたくいただいた。

数時間に亘って貴重な風習に同行させていただき感謝する次第だ。

この場を借りて厚く御礼申し上げます。



「・・・地区の昔の人は一番身近にあった地蔵さんいろいろな願い事をして生活の中に溶け込んでいたのでは?と思います。現在も毎日必ずお地蔵さん参りをしている人も見受けられますし、順番でお花やお水を取り換えている所もあります。・・中略・・人々の生老死を見つめてきたお地蔵さん、どうかいつまでもみんなを見守ってください」と投稿者が結んでいた。

(H29. 2. 1 EOS40D撮影)

リハビリ運動に激変

2017年11月16日 09時04分37秒 | むびょうそくさい
今日は朝から気分が重たい。

昨日まではやや便秘気味。

そういう場合はトイレに籠る時間が長くなる。

排便に気合を入れざるを得ない場合は心臓病に負担が高い。

無理をしてはならんと思いつつ、出るものがなければ気持ちが辛い。

というよりも気分が重い。

ところが今朝の排便は気持ちが良い。

「出」が良いと短時間でトイレから脱出できる。

心地いい排便は健康な日。

身体も気持ちも軽くなる。

排尿もそうである。

量が多ければ多いほど心臓に負担がない。

排便、排尿で一日の過ごし方が決まる。

排便が気持ち良かったこの日の朝。

そういう日であっても胸が締め付けられる場合がある。

肺に水が溜まっているのがよくわかる。

何故にそうなるのか。

理由は排出した量と脈拍数である。

心臓の回転数が悪ければ肺に水が溜まりやすい。

胸が重たいという感じになる。

病気になる前はこんな症状はなかった。

深呼吸もするにも重たい日がある。

ときおりあるから困ったもんだ。

この日も週一回通うリハビリ運動。

外来棟で受付を済まして血圧計で測る。

血圧は163-74。

脈拍は39拍である。

なんといってよいかわからない数値にがっくりする。

これまでに見たこともない結果に驚きを隠せない。

なにかがおかしいこの日の状態に愕然とするが、脈拍が40拍以下は毎朝のこと。

起床時に測る脈拍はだいたいが37-39拍。

そんな状態であっても生きている。

リハビリ運動の所信受付もそのデータを書いた。

それを見たリハビリ療法士は、えっ、である。

そう、これまで毎週のリハビリ日には見たこともない数値に驚かれる。

毎週のリハビリ運動日はたまたまというか、元気な状態ばかりだったのだ。

こんな低脈拍は普段でも、いつでもある。

それは毎日の健康手帳に記録している。

心電図機器を装着したこの日の脈拍は41-42拍。

遡ること一年前の状態に戻ってしまった。

そんな状態だから負荷量は状況を診ていきましょう、ということで開始する。

器械が示す脈の波形はむちゃくちゃ。

不安定な波形が出てきてなおさら心配するが・・身体に貼り付けた接点が外れているようだと貼りなおしてくれた。

そうなんだ。

準備体操で47-48拍。

やや上がるがいつもとは大違いである。

体操をしているうちにもよおしてきた。

このままでは漏れそうになる。

リハビリ療法士の了解を得てトイレに駆け込む。

一気に排出する小水に気持ちイイ、である。

戻ってきて途中まで進んでいたスクワット運動に脈拍は50-53拍。

普段の状態に戻りつつあるが、休めば47-48拍からさらに下がって42-43拍。

今日は上がりそうにもない。

自転車ペダル漕ぎの慣らし運転。

そのときの血圧は131-63。

脈拍は48-49拍だ。

踏み始めて1分後のワークは55。

回転しだしてから1分後の脈拍は61-62拍。

ぐんぐん上昇して、2分後には66-67拍になった。

なんてことはない。

いつもと同じような数値になったのだ。

6分後の血圧は154-63。

脈拍は69-70拍。

いつもと同じやん、である。

11分後の血圧は146-58。

脈拍は70-72拍。

先週よりも若干良い調子になって、汗、汗、汗。

元気を取り戻す。

16分後の血圧は151-59。

脈拍は72-75拍。

脈拍も70拍台になって安心する。

寄ってきたリハビリ療法士が云うにはスタートして30秒後に早くも脈拍が上昇していたという。

まったくいつもと同じ状態に安心した。

汗、汗、汗に身体が温まる。

21分後の血圧は147-61。

脈拍は72-73拍。

しんどさはまったくない。

いつもと同じペースに汗、汗、汗がでる。

ラスト、26分後の血圧は156-61。

脈拍は71-74拍で終えた。

終って落ち着けば脈拍は54-56拍。

もう少し休んだら49-50拍。

退室後の足取りは軽い、軽い。

気分も軽い。

リハビリ運動をすることによって脈拍も体調も激変した。

会計処理を終えてもう一度測った血圧は118-68。

脈拍は52拍。

普通やん。

(H29. 1.31 SB932SH撮影)

大宇陀・拾生の稲荷寒施行の聞取り

2017年11月15日 08時57分10秒 | 楽しみにしておこうっと
大宇陀・万六の自治会館でゆったり落ちつかせてもらっていたときである。

万六のカンセンギョ(寒施行)巡拝中にさまざまなことを教えてくださったⅠさんが飛び込んできた。

まさに、そんな感じだった。

今、行けるのなら隣町の拾生(ひろう)の住民を初回したいと云うのだ。

拾生(ひろう)の稲荷寒施行(かんせぎょう)を取材するなら、この人に話しを伺え、ということで口利きしてくださったM家に急行する。

Mさんは平成18年6月に発足した大宇陀まちおこしの会の代表者になる会長さんだ。

会の担当者はなにかにつけて宇陀・松山のことを教えてくださるUさんである。

拾生(ひろう)自治会の軒数は17軒。

街道沿いに商売をしているお家。

昔は街道に建つ家、皆が商売繁盛であったが、減債はたったの3軒になってしまったという。

元々は二つの拾生であった。

町屋にある地区は松山の拾生。

旧村にあたる神戸(かんべ)地区の拾生の2地区である。

拾生は万六(まんろく)と上新(かみしん)の間の区間。

そこをただ単に拾生と呼んで、向こうも拾生。

川向うとこっちと真っすぐ分かれているが、入り込んでいるところもある、というから実にややこしいことであるが、整理すれば、現町屋の松山町と宇田川西の元農村部神戸(かんべ)村が統合されてできた町ということである。

大宇陀中学校の跡地は市場にあたる。拾生は旧の町だった。

松山城の築造。

城は秋山城にくら替えになったときに旧町から新町名になった。

そのときによろづ町と呼んでいた「万」地区にろっけんしょう(六軒庄であろうか)呼んでいた「六」地区が合体して万六地区ができた。

合併というか、町が統合されて町名を一本化したわかりやすい事例を話してくださる。

ちなみに一番にお聞きしたかった拾生(ひろう)の稲荷寒施行(かんせぎょう)。

その件にさしかかったころにお客さんが来られた。

約束事のお客さんだけに退席したが、万六で若干の話しを聞いていたのでメモを残しておく。

稲荷寒施行の実施時期は、大寒期間中であるが、だいたいが2月1日前後の日曜になるらしい。

この年の実施日はすでに決まっている。

月末の日曜日の1月29日である。

施行に出発する時間帯は2回(2組み)に分けている。

そのわけはといえば、子どものことを考えた上でのこと。

夜間についていく子どもが施行をする場合は危険性があるという山は若い者がセンギョ(施行)する午後1時。

もう一組が出発する第二部は日が暮れた時間帯の午後6時。

出発地は大願寺からになるらしい。

センギョ(施行)に供える御供は赤飯のおにぎりにアゲサン、煮干し。

万六の会所で話してくれたある婦人の話しによれば、伺ったMさんの意向で奥吉野名物のサバメシのオニギリにしているようだ。

また、万六の“志を乃屋”野口昇栄堂のご主人の話しによれば、ドンゴロスの袋に御供を入れて、オーコ担ぎで廻っていたようだと話していた。

今年の日程は明日。

二日続きの施行は身体に無理をかける。

来年の楽しみにさせていただきたいと伝えて退席した。

ちなみに、その29日に行われたことを記事にしているブログが見つかった。

会長家で伺った件や、取材した万六施行のことを伝えたい人が居る。

前述した・・会の・・人であるUさん宅を訪ねる。

記した私のノートにこうある。

「もともとは高原(3代目)の稲荷講。野生の里山は獣の生活区域。供え物は寒中に供える。町に下りてこないように供える」と・・あるからUさんが話したことだと思う。

(H29. 1.28 記)

大宇陀・万六の年中行事

2017年11月14日 10時10分43秒 | 楽しみにしておこうっと
すべてのカンセンギョ(寒施行)巡拝が終わって戻ってきた一行。

大宇陀・万六自治会館に戻って食事を摂るというのであるが、お酒が飲めない男の人たちは自宅に戻っていった。

お仕事の関係もあって、巡拝が終われば開放のようだ。

町内のご婦人たちは、あっけに取られていたが、どうぞ休んでくださいと、熱々のお湯を注いでくれたきつねうどんのカップ麺をよばれた。

温かいもてなしはキツネの施行ではなく、取材に同行していた私への施行である。

昔は子どもも大勢おった万六のカンセンギョ(寒施行)。

ぜんざいと呼んでいたイロゴハンは炊き込みご飯。

いわゆる混ぜご飯で巡拝者を慰労する直会であるが、やがてちらし寿司に替えた。

その後に子どもも極端に少なくなって、手間のかからないカップ麺にしたようだ。

ありがたくいただいたお部屋に高さが1mほどもある長細いヤカタがある。

ヤカタは2本。右の黒ずんだ方が古い。

色具合から判断して明治時代を下った江戸時代のものであろう。

昔は愛宕さん、お伊勢さんの参会に近所の人たちがヤド家に寄っていたようだ。

ヤカタはどちらになるのか、聞きそびれたが、毎年に交替するヤド家に祭っていたそうだ。

なんせ大きなヤカタはヤド家からヤド家に運ぶのが困難になってきたことから、新築した自治会館の納めることにしたという2体はともに動いたというから人手が要ったわけである。

ちなみに万六の参会(さんかい)は御日待(おひまっつぁん)である。

万六は15軒で組織する自治会。

1月24日、5月24日に9月24日の年3回の御日待参会に2幅の掛軸も掲げる。

1幅はアマテラスオオミカミ(天照皇太宮)のようで、もう1幅は愛宕社であろう。

神饌は小豆を混ぜた洗い米に塩と水。

自治会館に提灯を揚げてめいめいが手を合わしているという。

また、3月の初午(旧の初午)はオゴク(御御供)を搗いて佐多神社でゴクマキをする。

朝の10時から三方に五品の神饌を供えて祭っている自由参拝。

午後3時に「なればゴクマキをする。

ちなみに万六が崇敬する神々は佐多大明神、地車大明神、朝日大明神、朝照大明神。

御日待の際には4神にお参りされて町内安全を願っているようだ。

(H29. 1.28 EOS40D撮影)

大宇陀・万六のカンセンギョ

2017年11月13日 09時37分12秒 | 宇陀市(旧大宇陀町)へ
行事取材の了解を得ても、生憎、緊急的な仕事が入ってしまった写真家Kさんには申しわけないが、私一人の取材にこぼれの無いようにガンバルしかない。

宇陀市大宇陀の万六(まんろく)のカンセンギョ(寒施行)の行程は予め聞いてはいるものの、実際はどうなのであろうか。

平成24年1月22日に取材した上新(かみしん)との違いも知りたくて訪れた大宇陀万六は旧松山街道の南の端。

先週に突然伺わせてもらった“志を乃屋”野口昇栄堂のご主人も巡拝されると聞いていたが、町の人らはその件を知っているのだろうか。

先を急いだのは、町内の婦人たちがデアイ(寄り合っての意)に寄り合って山の獣に施す御供作りをしていると云われる万六の自治会館。

そろそろ出発するというから大慌てである。

突然の如く、自治会館から飛び出した男性。

手には金色の鐘。

手でもって振れば鳴るベルのような形の鐘の音はチリン、チリン。

昔懐かしい豆腐屋さんが自転車に乗ってやってきたときの合図である。

大阪市内の住之江で見ていた子どものころの情景は大和川の堤防で売っていたアイスキャンデー売りであったようにも思える。

チリン、チリンと音を鳴らして町内を一往復する。

町内を廻って音を鳴らすことによって、カンセンギョ(寒施行)の始まりを知らせる。

出発地は町内の会所。

山の獣に施行するアズキゴハンを作っていた会所から出発する。

巡拝に向かった人たちは8人。

うち一人はお爺さんとともに参加した孫さん。

全員そろって長靴を履いて、と思っていたが、そうでもなかった。

この日までに雨でも降っておれば山の道はじゅくじゅく。

晴れ間が続いていたから乾きもあるだろうということであったが・・。



まずは、万六自治会が管理している佐多神社に向かう。

地域住民が参拝される神社はすごく綺麗なのは美化清掃のおかげ。

ゴミの置き去りやタバコのポイ捨ては厳に慎み美化協力を願う札で注意勧告している。

佐多神社の二の鳥居に朝日大神の文字を入れた扁額がある。

併設する境内社の稲荷社のことをいうのであろうか。

本社殿に半紙を拡げる。



そこにもってきたアズキゴハンで作ったオニギリを数個のせる。

包丁を入れた厚揚げにお頭付きのメザシも盛る。



その次は境内に建つ地車大明神にも供える。



後続についていたご婦人は本社殿に手をあわしていたが、巡拝の一行は先を急ぐ。



本社殿、地車大明神がある境内は南側に広い。

まるでゲートボールでもしそうな広場である。

その奥に向かう一行の前に現われた社がある。

以前からこの地にあったのか・・。

平成24年に取材したときの時間帯は真っ暗だった。

距離感がなかったところにあったと思う稲荷社である。

この社が朝日大神であろうか。



先ほどと同じようにアズキゴハンのオニギリに厚揚げ、ジャコと呼ぶメザシを供えて先に向かう。



孫さんは先に行ってしまったが、昭和13年生まれ、79歳のⅠさんは手を合わせて拝んでいた。

アズキゴハンは、別に小豆を分けて炊いたその汁を入れて炊くことによって色が濃くなるそうだ。

一升三合三尺のお米で炊いたアズキゴハンは三角に握って作った。

さて、その先の・・といえば、藪の中である。



ここに供えておいたよ、と云われて撮っておく。



その場から佐多神社に戻ってきた。

行列でもない戻りの一行に先ほど参拝されたご婦人がいる。



右手には金物製のきゅうすヤカンをもっている。

これまで気がつかなかった婦人の行動。

実はカンセンギョ(稲荷寒施行)の巡拝についているのではなく、1日、15日のサカキ替えに毎日交替するお水を神さんにあげる当番の人だった。

当番は家並み順。かつては20数軒で当番していたが、今は15軒の廻り。

こうして水やりを済ませたら、次の家にヤカンをもっていって渡して交替しているという。

2番目の巡拝地は県道370号を渡った高台にある大願寺裏の稲荷社である。



お供えして参拝に手を合わせた次はさらに高台。



延宝二年(1674)、宇陀松山藩主である織田長頼が加賀の国(石川県)より勧請し、織田家歴代の氏神として祀った白山権現社にもお供えをして参拝する。

平成24年に巡拝していた上新の人たちは、たしか白山権現社には行かなかったような気がする。

その逆に大願寺本堂の階段に供えていた。

末廣大明神を祀る稲荷社には両地区とも供えていたが、僅かな違いがここにあった。

ちなみに大願寺は真言宗御室派。

聖徳太子が蘇我馬子に命じて建立したと伝えられている。

3番目、次に向かう先は600mほど北にあるならやま(奈良山かそれともナガヤマ“長山”)である。

民家横にある道なき道を登っていく。

途中で右折れ道を選ぶ。

そこにふっと現れた祠造りのような社がある。



そこにお供えをする。

上新では供えることはなかった社であるように記憶するが・・。

この場より裏側にも廻ってお供えをする。



武家屋敷跡に建つ朱塗りの鳥居に正一位稲荷大明神の扁額がある稲荷社である。

万六も上新も供える稲荷大明神である。

お供えを終えたら山道を下る。



その下り道は急勾配。

積もりに積もった落ち葉が濡れておれば、つるっと滑ってしまうから慎重に足を下ろす。

無事に下りて着いた目の前にある橋の名前は御殿橋。



武家屋敷は御殿様式であった面影を残す橋の名である。

次は宇田川に架かる橋を渡って町内に入る。

そこは大木の北、南になる。

橋は御殿橋の他に大橋の黒門橋、拾生(ひろう)土橋があるそうだ。

かつてはそれぞれの地区でしていたカンセンギョ(寒施行)。

だいたいが日曜にしていたと話すⅠさん。

行事を辞めたらなんかが起こる。

そう信じてきたが、高齢化。

なんかがあっても取り返しのないと云われるが・・・。



4番目、そんな話を聞きながら町内の筋道を出た本街道は拾生(ひろう)の瓦町。

すぐ近くの高台に建つ日蓮宗長龍寺(ちょうりゅうじ若しくはちょうろうじ)に階段を登る。



お供えするのはお寺ではなく境内社の稲荷社である。



この場は上新でもされたが、上新は稲荷社以外に本堂裏の何も存在を示さない場所にも供えていたことを思い出す。

お供えを終えたら再び松山街道に出てくる。



ここからは戻り道。

400m先の信号の手前の千軒舎辺りの角を折れて山に向かう。

向かう山といえば史跡旧宇陀松山城跡(秋山城)がある標高471mの城山(しろやま)である。

城山に向かう本来の道は山行きと同じだ。



近年、この城山に車で登れる道路を整備しかけている。

その工事はまだまだ。



一部分までは整備されたコンクリート舗装路。



整備されていない地は重機が入って道造りの状態。

先にしなければならないのは樹木の伐採である。

これを運ぶトラック道は雨でというか、谷川の水も流れてドロドロ状態。

右側の本道を行っておればよかったのだが、左側から右に渡りきるには困難。

そこらに落ちていた木材をドロドロ川に架けてひょいひょい。



孫さんは大人が手を取って支援する。

こういう場合に役立つのが長靴である。

宇陀松山周辺地区まちづくり基本構想がある。

平成19年度から策定された史跡旧宇陀松山城跡保存管理計画によれば、現在はアクセス道路の整備実施中とある。

史跡広域ゾーニング図を参照すれば、難儀してドロドロ川を渡った箇所は「G2」付近の見学道のようである。



ドロドロ川からは山行き道。

案内されていなければとてもじゃないが彷徨ってしまう山道。

ずいぶんと登った地に供えるアズキゴハンのオニギリ。



山麓辻の藪下に半紙を敷いて供えた。

そこからはさらに登っていく。



着いたところに建っていた頂上付近に建つ稲荷社。

地元で活躍している裏さんによればそこは長山(ながやま)頂上らしいが・・・。



なぜかここではミカンもあった。

一行が添えているわけではなく、山行き若しくはハイカーが参拝していたのかもしれない。

ところで稲荷社殿に納めている棟札がある。



いつ建之されたのか年号は見えないが月日は四月拾六日のようだ。

「□□神社上棟正遷宮式挙行」とある棟札に発起人に森井伊吉、信田國松、迫間亀吉、本郷鶴松、向井松蔵、中窪鶴蔵、森本辰一郎。

連名7人の発起人である。

筆頭の大工棟梁は向井松蔵。

木挽に吉岡豊三郎、石工が小松原文治郎の名も墨書されていた。

お名前の感じから大正年間、或いは明治時代に建之されたと推定する。

終わって万六の自治会館に戻った時間は午後3時半。

出発した時間が午後2時だから行程時間は1時間半。

万歩計が表示する歩数は6100歩。

距離数にしてみれば4.9kmであった。



戻ってきて自治会館に着く手前の民家に金物製のきゅうすヤカンを持つ婦人がいた。

そう、巡拝のときに拝見したヤカンは次の当番家に持っていって引き継いでいたのだ。

(H29. 1.28 EOS40D撮影)

概ね毎月末土曜日が奈良県中央卸売市場の食祭市

2017年11月12日 09時21分02秒 | あれこれテイクアウト
概ね毎月末の土曜日は奈良県中央卸売市場の食祭市

売り場は卸売市場の西側に建つ「関連棟」。

朝9時からの開店に賑わう。

普段の中央卸売市場は一般の人たちに対する小売りはしていないが、当日は加工食品を中心にさまざまな商品を取り扱っている。

「食祭市」の案内は奈良県の報道でもしているが、中央卸売市場近くに住む人たちには新聞チラシで知ることができる。

一昨年昨年の大晦日に出かけた奈良県中央卸売市場。

我が家の正月迎えの買い出しである。

朝6時ころには到着して魚類を中心に買い込む。

関連棟にも立ち寄って買い出し。

主に買うのは玉子焼きに晦日ソバにのせるエビ天などだ。

昨年は美味しくいただいた牛肉がある。

普段でも安いのか、それを知りたくて出かけた。

尤も先にチラシに目を通していたかーさんは丸印をしていた。

店頭で作って販売する焼きそばにタコ焼き。

本日の昼食の御用達もあれば野菜揚げ天もある。

チラシの目玉は1パック75円の生卵。

9時から整理券を発行する。

発行場所は南の端の店舗前。

着いた時間は30分も過ぎた9時半。

見事に整理券は完売だ。

実際の生卵の販売は10時から。

売り場にそこそこ並んでいた行列。

20分も過ぎたら3倍に膨らんでいた。

我が家は毎週木曜日が狙い目の山陽マルナカで買っている。

行列なんぞまったく見られない生卵は税抜きの98円で売っている。

夕方近くでもあるから慌てる必要もない。

毎週木曜日の特売生卵は矢田町にあるスーパーハッスルでは88円。

ハッスルでは赤色卵が多い。

殻もやや固めで大きい。

山陽マルナカでは白色卵。

殻は柔らかい。

ハッスルに比べたらやや小型のように思えるが、そんなに差はない。

中央卸売市場の行列ができる生卵は75円。

20円ほどの差であるが、並ぶ時間が惜しい。

整理券が配られた行列はもう1カ所ある。

山積みされた100円均一売り場。

100名までだと思う手書きの番号を持っている人でごった返していた。



その売り場すぐ近くで店頭製造販売していた大阪名物のタコ焼き。

6個で300円と10個の500円。



奮発して買ったがうーん、である。

美味しい香りに釣られて10個パックを買った。

最近、よく出かけるラ・ムーには作りたて出来たてのタコ焼きがある。

6個で100円。

試しに買って食べたら美味しいやん、である。

ついついそれと比較してしまうさまざまなたこ焼き店舗がある。

売り場に表示してある価格帯でこれもまた諦める。

ラ・ムーの破壊的な価格にはどの店も勝てんだろうに・・。

それはともかく作りたて出来たての焼きそばは1パックが300円。

量的には比較のしようがないが、どこかの夜店で売っているぐらい、と思う。

試しに買った二つの味はどうなん・・・・。

帰宅してパックの蓋を開けた。

ほんのり香るたこ焼きと焼きそば。

食をそそる香りに爪楊枝・・・。



一つ挿して持ち上げようとしたら折れた。

重さがあるのだろうか。

仕方なく箸で摘まんで口に放り込む。

食感はやや固め。

粉っぽい、とまではいかないが美味くも不味くもない味覚。

ソースもそうだが、味にコクもないが、とにかく大きめのタコ焼きに3個目の箸が止まった。

焼きそばはどうだろうか。

薄い。



ソースが薄いのである。

キャベツは硬めでシャキシャキ感。

豚肉もやや固めでゴツゴツ感。

味は肉の味がする。

脂身がないから肉の味ばかり。

量は多いがこれもまた味にコクがない。

家にあるソースを足し込んでなんとかいただく。

お腹はいっぱいになったが、もう買うことはないだろう。



焼きそばは中華料理屋さん。

たこ焼きは矢田町にあるたこ焼き和尚に軍配を挙げる。

それよりびっくりしたのが野菜揚げ天の売り切れ時間だ。

卵売り整理券が配られるのは9時。

各店舗もそう思っていた食祭市の開店時間。

それより早い時間で売り切れた山本蒲鉾店の作りたて野菜揚げ天。

売り子さんがごめんなさい、だ。

ここでは作ることができないので奈良市大安寺町にある本社工場で揚げたできたてほやほやの野菜揚げ天を運んで売っているという。

9時には売り切れだからそれより15分ほど前に来てくれたら、と云われるが・・・。

今回の目当ては玉子焼き。

売っているお店は大晦日に何度も行っているからすぐにわかる建物。

お店前に並んでいた玉子焼きは300円になっていた。

大晦日に買う㈱ビッグウエーブフーズの極上玉子焼きは一本が税抜きの180円。

商品が違うのか・・・諦めた。



最後に訪れた普段の牛肉値段を知りたいジュルネフーズ㈱。



すき焼き用の牛バラ肉は100gで430円。

同じくすき焼き用のもも肉は300円。

大晦日に買ったものと同じである。

豚バラスライス肉は100gで140円。

いずれも買った300g。

一般的なスーパーで売っているよりもお安い。

大晦日もこの日も同じ値段だったことから、今後も食祭市で求めることにしようっと。

ところで、だ。この日に買った品物にお魚がある。

青果、生魚貝類はこの日の食祭市には出店しないが、焼き魚があった。

販売していたのは(合)門松。

売っていたのはブリの照り焼きであるが目玉商品は切り身の塩鮭。

2切れで200円だから1切れで100円。

スーパーでも目玉商品として並んでいるが、焼魚専門店ならではのお味を確かめたくて立ち寄った。

鮭はすかさず購入するが横にあったブリの照り焼き・・の横にあったブリカマである。



1切れで150円であるが、ふと目を外してみればパックがある。

ブリカマが2切れ入って200円。

こりゃお買い得だわ、と思って購入する。

今夜のおかずになったブリカマの照り焼き。

焼き目、焦げ目もあって、なおかつお味がしみている。

美味いのである。私が食べたブリカマの身はトロトロ。

脂がのってとても美味しい。

かーさんが食べた方は、そうでもなくやや固めのようだ。

違いはあったが、これで100円とは思えない身の多さに箸がぐいぐい動く。

(H29. 1.28 SB932SH撮影)

ジャック&ベテイ+フォトクラブ台高“夢幻”+遊写楽合同写真展in奈良市美術館

2017年11月11日 10時01分54秒 | しゃしん
いっぱい、いっぱいの出合いの人たちに御心をいただいた写真展でしたが、記事を書く時間がない。

良き出会いをさせていただいた方々。

2時間たっぷりお話ししてくださって、ありがとうございます。

せめて、と思って忘れないようにお名前を此の場で芳名させてもらいます。

ジャック&ベテイ代表者のKさんにMさん、Nさん。

皆さんは主に風景写真を撮っておられる方々。

普段はFBに公開されている映像で楽しませてもらっているが、大判で見ると感じは違う。

やはりプリントで見る方がいいね!を押したくなる。

フォトクラブ台高“夢幻”には存じあげる人がいないので、どこから話しかけてよいやら・・・。

でしたが、遊写楽に属されていた有名人の杉田幸作さんや椿本久美夫さんもお会いできた。

力作が多かった合同写真展は、今後も機会があれば出かけてみたい。

(H29. 1.26 SB932SH撮影)