益川は多くの聴衆を前に講演をしていた。
「…で、ありまして、誠に素晴らしい人物なのであります。私は彼を深く尊敬し、リスペクトいたしております!」
聴衆の一人、桃葉はニタリ! と笑い、蚊の鳴くような小声で呟(つぶや)いた。
『あの人、分かってねえな…。尊敬してリスペクトする訳か…』
聞こえたのか、桃葉の左隣りに座っていた柏木が小笑いした。
『フフッ、私もそう思いますよ。ダブってますよね』
『ええ、重複してダブってますね』
二人は大きく笑いそうになり、かろうじて小笑いで凌(しの)いだ。それでも静寂の会場だからか、後ろ席から咳払(せきばら)いがした。二人は押し黙った。そして、数十秒が経過した。益川は自分の演説に酔ってきたのか、次第に声高(こわだか)の絶叫調になっていた。
『フフッ、後ほど…』
『はい…』
意気投合した桃葉と柏木は、軽く挨拶を交わした。そのとき、桃葉の右隣りに座っていた梅川が呟いた。
『私も仲間に入れて下さいよ…』
二人は無言で梅川を見て会釈した。
益川の講演が終わり、彼は万雷の拍手を浴びて退席した。三人は笑いながら野次的な拍手を散漫(さんまん)に叩(たた)いた。多くの聴衆は乱れながら立ち、退席を始めた。三人は座ったままだった。
「桃葉と申します。いやぁ~、参りましよ、あの方には」
桃葉が話の先陣を切った。
「桃葉さん? 変わった苗字ですな。私、柏木です」
「梅川です」
「いや、どうも。大物ともなれば、間違いなど屁とも思わない。ああ、なりたいものです…」
桃葉は左右に座る柏木と梅川を交互に見ながら存念(ぞんねん)を吐いた。
「ははは…、そのとおり! 尊敬してリスペクトすりゃ、かなりの尊敬です。最近、こういうのが多いんです。私、国語教師をやってますが、つくづく日本語の乱れが嫌になってます。若者言葉もさりながら、意味なく使う外来語が増えていけません」
柏木は本筋を披歴(ひれき)した。
「私は魚河岸で働いてる根っからの魚屋ですがね。なんか最近、魚河岸から出ると話すのが怖いんですよ。猫も杓子(しゃくし)も外来語入れますから、こちとら、分かりゃしない!」
梅川が怒り口調(くちょう)で愚痴った。
「ははは…、まあまあ。そろそろ、立ちましょうか?」
多くの聴衆も、ある程度出て通路は空いてきていた。その状況を確認し、桃葉が二人に言った。
「そうですね…」
柏木が同意して立ち、梅川も続いた。
「どうです?! このあと、すこしお茶でも飲みながら話すっていうのは…。こうしてお会いしたのも何かの縁です」
桃葉が二人を誘った。
「いいですね!」
柏木は、すぐ乗った。
「すぐ近くに茶店(さてん)があります。ツリーだったかな…確か、そんな茶店ですが、どうです?」
梅川は、よくこの辺(あた)りに出没するのか、地の利に明るかった。
「あっ! そうですか。じゃあ…」
話はすぐに纏(まと)まり、三人は会場をあとにした。
三十分後、ツリーの店内では笑声が渦巻き、三人は意気投合していた。
「ダメダメ! 尊敬してリスペクトしちゃ~」
「ははは…。まだ、なんか言われてましたよ。最後の方で」
「高齢者は介護だけじゃなくケアしなくてはなりません…でしたか?」
「介護してケアですか? ははは…、こりゃ、至れり尽くせりだ!」
三人は大笑いした。しばらく話し、三人は外へ出た。辺りに暗闇(くらやみ)が迫っていた。三人の姿が小さくなった頃、店の名を示す照明が灯(とも)った。
━ ツリーという木 ━
THE END