「若狭の奥様」
「若狭? 誰だい、それは?」
「副頭取の若狭さんの奥様よ」
城水は腕を見た。これ以上、話を続ければ、遅刻だった。教師が遅刻しては様(さま)にならないばかりか、生徒達のいい笑いものだ。
「帰ってからにしてくれっ!」
怒り口調でそう言うと、城水は慌(あわ)てて玄関ドアを開け、家を飛び出した。しかし、靴を片足、履(は)き忘れていた。車のドアを開けたところで気づいた城水は、急いで玄関へと駆け戻(もど)った。一人息子の雄静(ゆうせい)は20分も前に家を出ていた。同じ小学校だから、教育者の城水としては何が何でも遅れる訳にはいかない。我が子ならまだしも、先生である自分が遅刻は出来なかった。
その一日、城水は授業が手につかなかった。
「先生! どうかされたんですかぁ~?」
いつもハイテンションの到真(とうま)が椅子から立ち上がり、格好をつけて訊(たず)ねた。教壇に立つ城水としては、立場もある。そこはそれ、教師の威厳を示さねばならない。
「ああ、ちょっとな! 出来が悪いお前らで、俺は夜も、ろくろく寝られんのだ」
ここは方便だと、城水は出鱈目(でたらめ)を言った。だが言ったあと、我ながら上手(うま)く言えたぞ…と、内心で北叟笑(ほくそえ)んだ。それ以降の生徒達の追及は、なんとか馴れで凌(しの)ぎ、城水は担任としての面目をかろうじて保った。
その日を終え、城水が帰宅した途端、雄静が奥の間から玄関へ飛び出してきた。