幽霊パッション 水本爽涼
第三十二回
「ほう…、あの廃人扱いの滑川教授が、かい?」
『ええ、その辺りを訊(き)けば、分かるかも・・です』
「そうか…。まあ、君が云うんだから、強(あなが)ち、出鱈目でもあるまい。だが、そうだとして、あの偏屈者の教授に、どう訊きだすかだ」
『それは、そうですね。だいいち、今じゃ私達は部外者ですからねえ』
「そうそう、教授と縁があったのは、会社が商品開発していた一時期だけだからなあ…」
『そうでした。結局、あの霊能枕、お蔵入りでしたけどねえ』
「ああ…。あの頃は、君とよく教授の研究室へ行ったものだ。あの頃の教授は、そんなに変人でもなかったな」
『ええ…、普通の人でしたねえ』
「なぜ、あんなに、なっちまったんだろうなあ…」
『なにかあったんでしょうねえ、たぶん』
「そうだなあ。そうに違いない。って、おいおい、そんなこたぁ、どうでもいいんだよ、君」
話が枝葉末節になりそうで、上山は急いで軌道修正した。
『はい…、どうもすいません』
幽霊パッション 水本爽涼
第三十一回
約束を守る律儀な男だ、さすがは生前、田丸工業のキャリア組だったことはある…と、上山には思えた。
『やあ、課長、来ましたよ…』
幽霊平林が現われたのは、上山が銚子を傾けた丁度、そのときだった。どこだ? と見渡せば、幽霊平林は悠然として、クローゼットの上に楽チン! とばかりに足をバタつかせて座っていた。もちろん、足はないのだから、小忙(ぜわ)しく揺らしていたということである。
「君! …いや、平さん、そんなところで…。下りなさいよ」
上山は驚きながらそう云った。幽霊平林は、ニタリと蒼白い顔で笑うと、ヒョイ! と上山の隣へ舞い降りた。上山は卓袱台(ちゃぶ゛だい)の銚子と猪口を隅へとやった。別に幽霊平林には関係がないのだ。見えない者に三次元空間の概念はいらない。
「昼の話の続き、頼むよ、平(ひら)さん」
『課長、その平さんっていうの嫌だなあ』
「だって、君が、そう呼べって云ったんじゃないか」
『そりゃ、あの時は、そうでしたけどね。何度も呼ばれてますと、なんか平社員の平っぽくって嫌になっちゃったんですよ』
「…なら、どう呼べばいいんだ?」
『君(きみ)でいいですよ。元々、課長の部下なんですし、君がいいですよ。君でお願いします』
「うん…、まあ君がそこまで云うんなら、平さんはやめて、君にしよう。で、君、昼の続きだ」
『そうそう、そうでした。滑川(なめかわ)教授の研究によりますと、降霊現象の規則性とか、なんとか云うんですよ』
「なんだ、そりゃ? その規則性とかは?」
『要するに、僕みたいに、この世に現れる霊には規則性がある、って話なんです』
幽霊パッション 水本爽涼
第三十回
「はい! よろしくお願いします。それと亜沙美さんとの挙式は六月辺りにしようと二人で決めましたので…」
「なんだ! そっちの方が重要な話じゃないか。ははは…、まずは、その話だろ?」
「いやあ…、どうもすいません。つい照れくさかったもんで」
席を立つと、笑いながら二人はレジへ向かった。
「いや、私が払っとく。…そうか、六月な。考えておこう…」
「ありがとうございます」
レジは上山が払い、二人はキングダムの前で別れた。辺りは既に六時を回り、薄暗くなっていた。
上山は七時前に家へ帰着した。八時に現れてくれ、と幽霊平林に云ってある手前、それまでの一時間で風呂に夕食などを済ませるとなると結構、忙しい。まあ、夕食は外食で済ませていたから、風呂上りの一杯くらいだったのだか、それにしても訪問者があるのだから、これはもう、心が騒いで寛(くつろ)げるといったものではなかった。ただ、飲み食い不用の相手だけに、準備の手間は省けた。とりあえずは風呂へ浸かり、疲れを取る。今日は岬の話を聞いていたこともあるが、幽霊平林が現れたことで上山は相当、疲れていた。人のいるところへ現れるというのは、どうも困るのである。ようやく風呂から上がると、すでに二十分は経過している。七時に慌てて入り、二十分の風呂では、疲れなど取れたものではない。しかし、八時に幽霊平林は現れるのだから、それまでにいつもの一杯を…と下卑た根性が顔を擡(もた)げた。別に重要な客が来るというのではないのだから、そう意識するすることもないのだが、それでも幽霊平林には意識が走る上山だった。慣れたとはいえ、目に見えないものが見えるということもある。四十分では酔いが回るほど飲めたものではない。
幽霊平林が現れたのは、きっかり八時だった。
幽霊パッション 水本爽涼
第二十九回
「まあ、いい…。今日のところは、これで引き取ってくれんか」
『えっ? ああ、それはいいですよ。実は、今日現れたのは、単に課長と岬君の話が面白かった、というだけじゃないんです』
「じゃあ、なんなんだ?」
『いい情報が入手出来ましてね。それをお伝えしようと現れた、というのが正直なところなんです』
「勿体ぶらないで手っ取り早く云いなさいよ。岬君を待たせてるんだから…」
『ああ、そうでした。実は、課長もご存知の滑川(なめかわ)教授なんですが、教授が今、研究されている生体科学の実験に興味がありましてね。というのも、その成果によれば、私と課長の妙な関係が解明出来るかも知れない…ということなんです』
「なんだって! あの滑川さんがかい? 大学の研究室に籠(こも)りきって、世間からは廃人扱いされている方だよ?」
『はい! そうなんです』
「それを早く云いなさいよ、平(ひら)さん」
『どうもすいません…』
二人の新たな展開が始まろうとしていた。
「今はさ、岬君がいるから、家の方へ八時頃、現れてくれないかな」
『分かりました。じゃあ、この話は、その時に改めて…』
そう云い終わるや、幽霊平林はスウ~っと消えた。慌(あわ)てながらトイレを出ると、上山は岬が座るボックス席へ戻った。
「偉く遅かったですね。今、大丈夫かな~って、行こうとしてたとこなんですよ」
「やあ、すまんすまん。もう大丈夫だ、ありがとう。え~と、今日は、ちょっと疲れてるから、この話は明日の帰りにでもしよう。まあ、出水君のことは悪いようにはしないさ。奴も、そう悪気はないんだろうがなあ…」
幽霊パッション 水本爽涼
第二十八回
「ああ…、風の噂(うわさ)に、とでも云っておくか」
「ならば、僕と亜沙美さんに係長が横恋慕していることは先刻、ご存知なんですね?」
「うん、知ってる。だから、なんとかせんといかんと、君を呼んだんだ」
会社帰りに上山と岬は、キングダムでコーヒーを啜りながら、そんな話をしていた。
「出水君の嫌がらせ、ってのは、どの程度なんだ?」
「いやあ、課長が心配されるほど露骨なもんじゃないんですがね…」
岬はコップの水を少し飲んだ。その時、幽霊平林が突如、岬が座る横の席へ現れた。上山は、来たか…と、失意した。
「課長、どうかされたんですか?」
顔色を変え急に無口になった上山を見て、岬は思わず声をかけていた。横では幽霊平林が笑って物見顔で座っている。白装束だから余計に目立つのだが、そのコントラストは上山が感じるだけで、店内の誰一人として感じていないのだから、どうしようもない。もちろん、そんな男が店内にいれば、店員が摘(つま)み出すに違いないのだが、現に上山の前に幽霊平林はいた。
「いや、なに…。ちょっと昨日、寝てなかったもんで気分がな」
そう云って上山はトイレへ向かった。幽霊平林も、その後方にピッタリついて動いた。岬は、そうなんだ…と、コーヒーを啜った。
トイレへ入ると、人の気配がないのを幸いに、上山は、さっそく口を開いた。
「今、現れなくてもいいだろうが…」
上山は露骨に不満を幽霊平林へ、ぶつけた。
『どうも、すいません。話が耳に入ってきましたもので…。つい自然と、姿が現れてしまいました』
「ふ~ん。そんなミスも君にはあるんだなあ…」
『いやあ、まだまだ不馴れなものでして…』
不馴れか…と、上山は思わず笑えてきた。
幽霊パッション 水本爽涼
第二十七回
「あっ、課長、どうでした?」
係長の出水が、さっそく野次馬になって寄ってきた。
「いやあ、大した用じゃないんだ」
「そうでしたか…」
「私がいない間に、何かあったかい?」
「別に、これ、というようなことは…」
なんだ…と、つまらない表情で、出水は係長席へ戻った。この男、亜沙美と岬に横恋慕していて、岬には地位を利用してなにかと辛(つら)く当たるところがあった。
『あいつ、余りよくないですよ、課長』
「ほう、そんなことだったか…」
ごく最近、幽霊平林に、ことの顛(てん)末を話され、一部始終を知った上山である。それ以降、表面上は以前と変わらないように振る舞っていたが、上山は出水の行動を特別、注視するようになっていた。そうはいっても、出水をいつも見られる訳ではない。たとえば、昼食休憩や余暇の時間は、上山といえど、出水に離れず付いていられる筈(はず)もなく、出水が岬を苛(いじ)める現場を押えることもできなかった。だから岬に直接、そういう事実があるのかを確かめるしかないのだが、岬としては、出水が係長として指示を仰がねばならない人物である手前、我慢していたのである。こうなれば、もう幽霊平林の力を頼らねばならない上山であった。幸い、課内では自分だけしか幽霊平林のことを知る者がなかったことが偶然、上山に味方した。
「岬君。私もね、君達の仲人をする以上、同じ課の君が悩んでいるのを看過(かんか)する訳にはいかんのだ。ここはひとつ、すべてを話してくれんか! 出水君とのことを…」
「…ご存知でしたか。やはり課長の耳にも入っておりましたか」
幽霊パッション 水本爽涼
第二十六回
「いえ、社長に云ったんじゃありません! 失礼しました」
上山は田丸の前へ頭を深々と下げた。
「…んっ! まあ、いい…。平林君が、なにか云ったんだろ?」
「はい、そのとおりで…」
「よしっ! もう、忘れることにしよう。すべてを聞かなかったことにな、ははは…。死んだ社員のことなど、いつまでも気にしとられんわい!」
「はい、仰せの通りで…」
「うん! もういいぞ、上山君。戻ってよろしい」
「はいっ! ありがとうございます」
「なにも君が礼を云うことはないだろうが…」
「はあ、それはそうなのですが…」
上山は立ち上がると、もう一度、深々と一礼し、社長室を出た。当然、幽霊平林は、そのままスゥ~っと上山に付く。先ほどと同じで、云わば上山に並行して進むといった具合である。
『なんか、面白くないですよ。僕、完全に無視されてますよね』
「平(ひら)さん、まあそう云うなって。…今の状況は、お前さんにとって歩(ぶ)が悪いんだから。孰(いず)れ、私がなんとかするさ」
『それって、期待していいんでしょうね』
「ああ、もちろんだ。そんなことより、お前さんと私の因縁の方が分からん…。そっちの方が大事じゃないか?」
『ああ、そうでした。すっかり忘れてました』
そうこうするうちに、上山は課へ戻ってきた。むろん、ドアを開けて中へ入ると、幽霊平林は跡形もなく消え去っていた。
幽霊パッション 水本爽涼
第二十五回
「そこに座っているのかね」
「はい…」
田丸はシゲシゲと眼鏡をいじりつつ上山の右隣を見た。田丸の両眼には、ただの空間が広がって映るだけである。
「う~む…」
田丸は返さず、無言で唸(うな)った。
「ここにいるのですが、社長にはお見えになりません。てすから、私の云う内容は絵空事で。しかし、今のボールペンの転がりは、単なる偶然ではないとだけは申しておきます。現に平林君がゆっくり抜いてテーブルに落とすのを私が横で目の当たりにしてるんですから…」
「なるほど…。君が云うのも一理ある」
田丸は両腕を組み、目を閉じると考え込んだ。
「そんなに悩まれることじゃありませんよ。私が云ったことは、なかったことにして戴ければ、それでよろしいではございませんか」
上山は、少し胡麻擂(ごます)り顔で笑いながらそう云った。
「そりゃそうだが一端、聞いたことを、だよ、君」
「そのうち忘れられますよ」
「そうかねえ」
『そうそう…』
その時、幽霊平林が気楽に相槌を入れた。
「君は、黙ってろ!」
「なにぃ! 黙ってろ、とは誰に云ってるんだ!!」
田丸が一瞬、怒った。
幽霊パッション 水本爽涼
第二十四回
「はあ…。本当のところを云いますと…。やはり、社長がお信じになられるかどうか分からないのですが…」
「やはり、三角頭巾をつけた平林君が…」
「はい…、見えるんです」
「平林君が死んで、かれこれ、もう半年近くになるなあ…」
「はい…」
「で、今日は、どうなの?」
機嫌がいいせいか、田丸は終始、穏やかである。
「はあ、今日もおります」
「おりますって…、見えるってことだな?」
「はい、まあ…」
上山は恐る恐る云った。
「なにも君が出鱈目を云っておると決めつけてる訳じゃないが、どうもねえ…」
「はあ、それはごもっともです。なにせ、他の方には見えないんですから。私の方がどうかしていると云われても仕方ない話です」
「…うん、そうだね。そうなるんだが…、もしだ、もしだよ、もし君の云っていることが本当で、現実にその死んだ平林君がここにいると、なにか証明するようなことは出来んかね?」
幽霊平林は、いつの間にかスゥ~っと移動して、長椅子に座る上山の右隣で胡坐(あぐら)をかいていた。田丸の言葉に何を思ったのか、その幽霊平林は、テーブル上に立ったボールペン立てのボールペンを、やんわり引き抜くとテーブルへ落とした。ほんの微かな音とともに、ボールペンは机上に転がった。二人の視線が一瞬、その転がったボールペンへ注がれた。
「こんなことって…あるんだなあ」
「この平林君がしたことです…」
上山は隣で胡坐をかく平林を、左手指でさし示した。
幽霊パッション 水本爽涼
第二十三回
「出水(でみず)君、なにかあったら頼んだ…」
「はい! 分かりました」
出水は課長席を振り向き、そう返した。
バタつきながら上山が社長室へ入ったのは、その五分後だった。ドアを開けて驚いたのは、幽霊平林が田丸の座る社長席の真っ後ろにいたことである。一瞬、こいつ、また現れたか…と、怒れたが、ここは冷静にならねば・・と上山は気持を引き締めてドアを閉じた。
「ああ…早かったじゃないか、上山君」
田丸は至極、機嫌がよく、笑顔で上山を迎えた。上山が社長席へ近づくと、田丸は立ち上がって応接セットの方へと歩いた。
「まあ、かけたまえ」
「はあ…」
席を勧められ、幽霊平林を意識しないように上山は長椅子へ座った。
「呼んだのは他でもない。どうも、この前の君の話が気になってねえ。悪い冗談で私をからかったんなら、それでよかったんだが…。どうも、そうじゃないようだったからね…」
「いやあ…、そのことでしたか」
困ったことになったぞ…と、上山は刹那、思った。ここは、この前の話は作り話で、おっしゃるとおり社長をからかったんですと笑って否定すべきなのか、あるいは真実を、有り態(ありてい)に話すべきなのか、をである。口籠(ごも)った上山を見て、田丸は穏やかに云った。
「なにも困らすつもりで君をここへ呼んだんじゃないんだ。別に話さなくたっていいよ…」
田丸は一端、退いた。とはいえ、社長の威圧感は、やはり上山を攻めたてる。なにも私を怒らせたところで、それはそれでいいんだぞ。ただ、君の出世は…と、云われているような威圧感なのである。