だが、小次郎は眠っていなかった。眠っている素振りを見せ、すべてを聞いていたのだ。
小次郎は、目を閉じたままそれとなく耳を動かした。里山と小次郎にだけ通じる微細な合図である。里山は小次郎に話が伝わったことを、すぐ理解して頷(うなず)いた。その顔を運悪く振り返った沙希代が見ていた。
「どうしたの? 変な人ねぇ~」
沙希代は訝(いぶか)しげな顔をした。
「んっ! いや、なに…。肩が凝ってな」
里山はカムフラージュするように首をひと回りし、片手で方を叩(たた)いた。
夜も更けた頃、密かに寝室を出た里山は小次郎と話していた。
「まあ、そういうことだ。ニャ~ニャ~言ってりゃいいからさ」
『僕も、華々しくデビューする訳ですかね』
「ははは…そんな、いいもんじゃないがな。恐らく、ワンシーンで数分だろう。編集とか言ってたから数秒かも知れん」
『なんだ、そうなんですか。期待して損をしましたよ』
「ははは…まあ、そう言うな。俺もいろいろ考えてるんだよ。お前で食っていけるかってな。もし、公表すればだ、人間語で話小次郎は、目を閉じたままそれとなく耳を動かした。里山と小次郎にだけ通じる微細な相図である。里山は小次郎に話が伝わったことを、すぐ理解して頷(うなず)いた。その顔を運悪く振り返った沙希代が見ていた。
「どうしたの? 変な人ねぇ~」
沙希代は訝(いぶか)しげな顔をした。
「んっ! いや、なに…。肩が凝ってな」
里山はカムフラージュするように首をひと回しして、片手で肩を叩(たた)いた。
夜が更けた頃、里山は寝室を抜け出し、小次郎と話していた。
「まあ、ニャ~ニャ~言っててくれればいいさ。ホームビデオに映すってのは、よくあるパターンだからな」
『僕も、いよいよ華々しくデビューする訳ですね』
「ははは…そんな、いいもんじゃない。編集するとか言ってたから、数分。下手(へた)すりゃ数秒かも知れん」
『そうなんですか? なんだ…』
弾(はず)んでいた小次郎の声が小さく萎(しぼ)んだ。
「まあ、そう言うな。俺もいろいろ考えてるんだ。大ごとにするには、まず沙希代だ。恐らく、大騒ぎになるだろう。上手(うま)く分からせたとして、さて…」
『マスコミ対策ですか?』
「ああ、それもあるが、会社もある。お前で食っていけるかも考えんとな。恐らく、世界の話題になるのは必定だしな」
『はあ、まあ…それもそうですね』
里山は腕組みし、小次郎は毛をナメナメした。
[いかがされます?]
「少し考えてみます。本人の都合も訊(き)いてみないと分かりませんので…」
[えっ?]
「いや、なに…。家内にも訊いてみないと」
[ああ、なるほど…。それじゃ、明日の夜にでも、もう一度、かけさせていただきます]
「あっ! 2、3日お願いしたいんですが。なにぶん、ことがことだけに…」
[はあ、まあこちらは撮り溜(だ)めもありますんで、いいんですが…]
「と、いうことは、すぐには放送されないんですか?」
[ええ…。送っていただいてから、Vの審査や編集がありますから、来年の正月明けになると思います]
里山は駒井に細々と確認し、電話を切った。里山は電話を切ったその足でキッチンへ行った。
キッチンの沙希代は、まだ食器の洗い物をしていた。
「小次郎のホームビデオを送ってくれってさ」
「ああ、アレね…」
沙希代は食器を拭(ふ)きながら言った。
「アレ? ああ、アレじゃないが、まあよく似た番組らしい」
「いいんじゃない、撮って送れば…」
「ああ…。顔は出んから、会社の都合には関係ないからな」
里山はそう言いながら、人ごとのように、いや、猫ごとのようにフロアで眠っている小次郎の顔を垣間(かいま)見た。
「実はですね。10月から始まるうちの新番組で面白い動物の企画がありまして、それにお宅の猫ちゃんを・・と、お電話させていただきました」
「…よく分かりませんので、主人と変わります」
沙希代は受話器を保留にすると、居間へ急いだ。キッチンと居間は目と鼻の先で、電話の内容は里山にも届(とど)いていた。
沙希代が居間の戸を開けると、すでに里山が受話器を取っていた。里山は沙希代に無言で了解した素振りを示した。沙希代はそれを見て戸を閉め、キッチンへUターンした。
「変わりました、里山ですが…」
[あっ! ご主人ですか。テレ京の駒井と申します。夜分にどうも…。実はですね、10月から始まるうちの新番組で面白動物の企画がございまして、それにお宅の猫ちゃんを・・と、お電話させていただきました]
駒井は沙希代に話した内容と寸分 違(たが)わぬ話を里山にもした。
「ああ…そのお話でしたか。で、私に、どうしろと?」
[どうしろ・・なんて、とんでもない。私どもに、そのような権限はございません。お断りになっても結構なんでございますが…]
「そうですか。一応、お話だけ聞かせていただきましょうか」
里山は話だけ聞いておいても損はないだろう…と直感した。
「有難うございます。実はですね、かくかくしかじかなんですよ」
「なるほど、かくかくしかじかですか…」
駒井の話は、スムースに里山へ伝わった。
その日のマスコミ騒ぎは報道されず、翌日、里山は、やれやれ…と胸を撫(な)で下(お)ろした。だがそれは、波乱の序章に過ぎなかった。
春の連休前になると、さすがに暑くなってくる。ここ数年、うららかな春・・というのがあったのか? と疑うような初夏の陽気が続いていた。さて、そうなれば、さすがにゴールデンウイークの行楽に出かけるというのも億劫(おっくう)になる。最近まで毎年、出かけていた里山夫婦も例外ではなかった。
「どうだ? 今年は時期をずらすか」
「そうね…。こう暑いと嫌だわ。渋滞もあるし…」
連休に渋滞はつきものだし、今に始まったことじゃないよ…と小次郎は眠った態で聞いていた。そんな話が交わされていた連休数日前の夜、食事を終えた里山が居間でテレビを見ながら茶を飲んでいると突然、電話がかかった。キッチンで洗い物をしていた沙希代は、「今頃、誰かしら?」と、いつもの落ち着きで電話代の受話器を取った。居間にも電話はあり里山が出ようとしたが、キッチンにいる沙希代の方が近かった・・ということもある。
「はい! 里山でございますが?」
[あっ! 夜分、恐れ入ります。私、先だってご自宅の玄関前へ押しかけましたテレ京の駒井と申します]
「はあ…?」
沙希代は分からない電話ながらも一応、相槌(あいづち)を打った。
里山が着がえを終え、得(え)も言えない美味(うま)そうなスキ焼きを口へと運んだ。だが、おやっ? と思えた。味はともかくとして、肉が硬く、得も言えたのである。
「おい! この肉、硬いなっ!」
「そお? 消費税で高くなったから…」
社会の動静が俺の食卓まで及んだか…と、里山は、ガックリ! した。去年の肉は…と、さもしく思えた。そう思えた根本原因が生じるのは少し以前に遡(さかのぼ)る。里山は抜けた歯の治療に会社近くにある松代歯科医院へ通っていた。
「ははは…里山さん、こりゃ、しばらくかかりますね! あちこち、ボロボロです」
歯科医の松代は、愉快そうな声を上げて笑った。だが、そう言う松代もブリッジの入れ歯だった。里山は診察台で大口を開けていた。なにがボロボロだっ! と里山は小腹が立った。それに笑うのも面白くない。あんたと一緒にしないでくれ! と内心で思ったが、診察台で診(み)られている間は俎板(まないた)の鯉である。里山は、我慢して思うに留めた。松代と里山は幼友達で古くからの飲み友達だった。それはさておき、その歯の治療が継続中で、まだ咀嚼(そしゃく)が思うに任せなかった・・という裏事情の根本原因が潜(ひそ)んでいたのである。
スキ焼きの恩恵は小次郎にも及んだ。
「小次郎、ほれ食べろ、味が薄いとこだ」
硬い肉といっても、それは食通の里山の感覚であり、普通には十分、美味な肉だった。
「お帰りなさい。外、賑(にぎ)やかだったわね…」
「ああ、朝のアレさ…」
里山は暈(ぼか)すと 靴を脱いで框(かまち)へ上がった。
「それで、どうだったの?」
沙希代は渡された鞄(かばん)を里山から受け取りながら、それとなく訊(たず)ねた。
「どうもこうもないさ…。だいたい、この小次郎が話す訳がない。なあ!」
里山はそう言いながら屈(かが)むと、同意を求めるように小次郎の頭を二度三度、ナデナデと撫でつけた。
『ニャア~~』
小次郎は、そのとおり! とでも言うかのように猫語で鳴き、里山を見た。
「だろ。なぁ~」
「そうよね…。あなた、早く着がえて。今日はスキ焼にしたから…」
「ほう! そりゃ、いいな。ははは…」
里山は好物と聞いて機嫌よく笑って立ち、居間へ入っていった。当然、小次郎も付き従う。沙希代はキッチンI
回った。
「なんとか巻けたぞ…」
『そのようですね』
小次郎は沙希代がいないことを確かめ、小声で話した。
「ああ…」
里山の頭の中は、すでに美味(うま)いスキ焼きをつつきながらの一杯だった。
「どうなんでかねぇ~、真相は…」
「ははは…それは、こちらが訊(き)きたいくらいのもんですよ。たぶん、耳の錯覚かなんかじゃないですか? テレビで、そんな番組ありましたよ、確か…」
里山は恰(あたか)も将棋の歩がと金になるような思案の一手を口にした。
「あっ! テレ京の駒井です。それ、うちの局の企画ものでしたっ!」
別の報道陣の一人が後ろから手を上げて叫んだ。そんなこたぁ、どうだっていいんだよ! と、里山は少し怒れた。内心は、早く風呂に浸(つ)かって沙希代の突き出しを摘まみながら熱燗で一杯・・だったのだ。春の陽気からして寒くはないが、玄関の外の長話は、はっきり言って、いい迷惑だった。それに、なぜ自分の家のプライべートを報道されねばならないのかと思えていた。度胸を決め、深呼吸をして帰ってきたつい今し方が里山には嘘(うそ)のような心境の変化だった。
「そういうことでしたらお時間もなんなんで、我々は一端、引き上げます。後日、局の方からお電話があるかも知れませんが、その節(せつ)はよろしく!」
「記事はその後次第ということで…」
テレビ局の方は話が分かると頷(うなず)けたが、新聞社の方は、なにがその後次第だ! …と、里山は少し怒れた。
「それじゃ、皆さん!」
里山は挨拶代わりに叫ぶように言いながら玄関戸を開け、中へ入るとすぐ、戸を閉めた。見上げると、玄関には沙希代が上がり框(かまち)に立ち、その横には小次郎がいた。
「あっ! 皆さん、遅くまでご苦労さまです。朝の件ですか?」
後ろ向きで立つ報道陣の後方から里山は穏(おだ)やかに声をかけた。報道陣は一斉に振り返った。当然、照明やマイクを握るスタッフ、カメラも里山に照準を合わせた。
「毎朝の長谷田と申します。朝方、お訊(き)きした安岡さんの件ですが、どうなんでしょう?」
朝、里山に声をかけた報道陣の中の記者らしき一人が里山の前へマイクを向けながら言った。
「ははは…、どうなんでしょう、と言われましても、なんと言ってよいか…」
「率直に申しますと、我々には、まったく信じられない話なんですが…」
「ははは…私にも信じられませんよ、なぜ大騒ぎになったのか」
里山は、わざと落ちついた声を出した。内心は震えていたのだが、表立っては微塵(みじん)も心の動揺を見せなかった。
「いや、私どもも安岡さんが真剣に話されるもんで、信じられなかったんですが、事実を確かめようと…」
「で、その安岡さんは?」
「いや、それが…。合わせる顔がないと落ち込んでおられるんですよ。お得意を一件なくしたと」
「まあ、いい迷惑なのは確かですがね」
里山は話を緩(ゆる)めた。長谷田によれば、どうも、安岡はマスコミ沙汰にしたことを悔(く)やんでいるようだった。
公園近くまで来たとき、里山は家の前付近が異様に騒がしいことに気づき、脚(あし)を止めた。それに、誰が照らすのか、玄関付近が真昼のように明るい。マスコミの報道陣以外の何物でもないことは一目瞭然(いちもくりょうぜん)だった。さて、弱ったぞ…と里山は自宅へ戻るのを躊躇(ちゅうちょ)した。小次郎の一件の逃げ口上(こうじょう)を、まだ考えていなかったからである。里山は、ひとまず公園のベンチへ手持ちの鞄(かばん)を置き、座った。腕組みしながら首を家の方向へ傾(かし)げると、そんなに騒ぎたてることかい!? と怒りと疑問が同時に湧(わ)き起こった。猫が話すことなど、到底、今の科学では有り得ないことなのだ。それを、さも事実のように追いかけて張り付く報道陣・・日本の未来は、これで大丈夫なのか…と、ふと里山は思った。いや、いやいやいや、そんな人ごと的なことを悠長(ゆうちょう)に考えている場合ではない。当事者は自分で、今なんだ…と里山は考えなおした。さて、どういう逃げ口上にするか…。10分ばかりが経ち、ようやく思いついたのは、片言(かたこと)を、さも人間語のように話していると聞こえなくもない・・というものだった。確かに、こう言えば、道理に叶(かな)うし、過去のテレビでもこうした場面が放送されていたような記憶が里山にあった。
里山が度胸を決めてベンチを立ったのは、その直後だった。いよいよ家が迫ってきたとき、里山は立ち止って深呼吸を一つした。一戦、交(まじ)えるか…の心意気である。
「ははは…まあ、そう言うな。味は俺が保証する絶品だ」
里山は自信ありげに言い放った。事実、この定食屋、酢蛸(すだこ)は、知る人ぞ知る、食通で知られた名店だった。
「へいっ! いらっしゃい!」
威勢のいい声が飛び、店のカウンターへ座った二人は突き出しで飲み食いを始めた。道坂は依頼する事の詳細を小出しに説明した。
「まあ、そういうことなんで、よろしくお願い致します。本当は二人で頼むのが筋なんですが…」
そう言って、道坂はお銚子の酒を里山の杯(さかずき)へと注(そそ)いだ。
「ははは…、そんな古めかしいことは、どうだっていいよ。それにしてもよかった。そろそろ君も・・とは思っていたんだ」
「はあ…」
道坂は悪びれて苦笑しながら頭を掻いた。里山は蛸とキュウリの酢のものを摘(つ)まみながら杯(さかずき)を傾けた。酢蛸の蛸酢か…と、道坂は突き出しに内心、笑えたが、我慢して右に倣(なら)った。里山はふと、腕を見た。八時を少し回っていた。もう大丈夫だろう…と思った。いくらマスコミが押しかけていたとしても、この時間まで張りついていないだろう…と判断したのだ。だが、この里山の判断は甘かった。それが分かるのは、当然ながら里山がホロ酔い気分で家へ帰ったときになる。
「まだ、半年も先ですが…。その折りには、改めてお願いに伺います」
「ああ。忘れないようにしないとな…。それじゃ!」
里山は手帳にメモ書きしながらそう言い、道坂と別れた。