両親がすでに他界していない道坂は、今日、里山夫婦に仲人(なこうど)を頼もうと、切り出す機会を窺(うかが)っていたのだが、いつもと違う里山の様子を見て、機を逸(いっ)していたのだ。
「あの…課長。今日でなくてもいいんですが、ちょっとお話がありまして…」
「なんだい、改まって…。言いなさいよ」
里山は、すっかり元に戻(もど)っていた。
「ここでは…」
「そうか。じゃあ、帰りに夕飯(ゆうめし)でも食べながら、どうよ?」
「はい、よろしければ、そういうことで…」
道坂は決裁印が押された書類を里山から受け取ると一礼して下がった。
「田坂君。この書類、部長室へ持ってってくれ」
「…分かりました」
課長補佐席の前に座る係長の田坂がゆっくり立つと道坂が手渡した書類を受け取り課を出ていった。里山はそれを見ながら、誰でも考えごとはあるんだな…と虚(うつ)ろに思った。その後も、マスコミに対する上手(うま)い言い訳は思いつかなかった。夜、マスコミがまた来ないといいが…と思いながら、湯呑みの茶をひと口飲んだ。道坂との夕食を長引かせ、夜遅くに帰る手もあるか…と、またひと口飲んで里山は思った。
退社時間となり、里山は道坂を先導して自分の行きつけの定食屋へ行った。繁華街を奥へ入った細い路地づたいにある、うす汚れた店だった。
「ここですか?」
道坂はうらぶれた店を見て、嫌な顔をした。
その日の里山は仕事が手につかなかった。
「課長! どうかされました?」
気も漫(そぞ)ろで、ビルの窓ガラスに映る街並みを時折り見ている里山に声をかけたのは課長補佐の道坂だった。
「んっ? いや、なんでもない…」
里山は書類に視線を戻(もど)した。里山が考えていたのは、小次郎の一件がクリーニング屋の安岡に漏(も)れた過程だった。どう考えても漏れる訳がない…とは朝、報道陣の前で思ったことだ。そして、安岡が得意先回りで来るとき以外は考えられない・・という結論に達したのだ。今、里山が気も漫ろに思うのは、過去に訪れた安岡の得意先回りの頃合いだった。まちまちなようで、どう記憶を辿(たど)っても朝以外にはなかった。ということは、一週間前から昨日までの朝で里山と小次郎が話していたいずれかのタイミングしかない。そのときに安岡が訪れ、小次郎が人間語を話している場に偶然、遭遇(そうぐう)した・・ということになる。里山は記憶を遡(さかのぼ)り、そのタイミングを探(さぐ)った。里山が腕組みをしたそのときだった。
「課長、決裁印をお願い致します…」
前席に座る道坂が不意に立つと書類を持って近づいた。
「おっ? ああ…」
里山は慌(あわ)てて公印を握ると印肉を含ませて押した。目通しするのが通例だから道坂は訝(いぶかし)げに里山を見た。
「お電話ではクリーニングの安岡さんとか言ってられましたが…。ちょうど、うちの局の面白番組があったんですが、安岡さん、そこへ一般投稿されたんですよ」
そんなことはどうでもいいんだ! と里山は少し怒れた。ただ、安岡が出入りしている近所のクリーニング屋だということは里山も頷(うなず)けた。しかし、その安岡がどのようにして自分と小次郎の秘密を知ったというのだ? と、そんな疑問が里山に湧いていた。考えられるのは安岡がお得意先回りで寄ったとき以外には考えられない。ほとんどの場合、配達で安岡が訪れたとき、里山は会社にいたからだ。
「そうですか…。つまらん投稿をしてくれたもんだ。いや、まったく心当たりがないんですよ、本当に。何か聞き違えたんじゃないですかね?」
「ということは、安岡さんがクリーニングでここへ寄られているというのは事実なんですね?」
いつの間にか、後ろに立っていた沙希代は奥へと消えていた。里山一人が取り残された形だ。
「はい、それは…。ち、ちょっと開けて下さい。また夜にでも…。遅刻しますので…」
里山は上手(うま)く逃げを打った。報道陣は外へ押し戻される格好で仕方なく前を開け、里山を通した。里山は玄関戸を閉めると報道陣に軽くお辞儀をし、足早に家から去った。主役が消え去れば、いても仕方がない。報道陣は、ザワつきながら少しずつ里山の家から撤収し始めた。
「あっ! すいません。おい、やめろっ!」
里山に声をかけた報道陣の中の記者らしき一人が振り返って撮影を制止した。
「で、なにかあったんですか?」
里山は、ドギマギしながら、途切れ途切れに小声で言った。
「いやぁ~、それは、こちらがお訊(たず)ねしたいことですよ。なんでも、そのお宅の猫、話すそうじゃないですか」
瞬間、小次郎は危険を感じ、素早くキッチンへ戻(もど)った。その素早さは、記者らしき男が「そのお宅の猫…」と言い始めた瞬間で、言い終わったときにはすでに小次郎の姿はなかった。
「ははは…なにを馬鹿な。そんなこと、ある訳がないじゃないですか、なあ、お前」
里山は振り向きながら茫然(ぼうぜん)と立つ沙希代に助けを求めた。
「えっ? ええ…、もちろん」
「そうですかぁ~? …まあ、私どもも半信半疑っていうか、そう聞こえるのかなあ…くらいの気分で寄せて戴いたんですよ、実は。猫がぺラぺラ話す訳がないですからね」
「ええ、そりゃ、そうですよ。いったい誰が、そんなことを?」
里山は情報の出どころが気になった。小次郎と話しているところなど、誰にも見られた覚えがなかったし、だいいち、そんな不注意を自分も小次郎も犯す訳がなかったからだ。
玄関戸はスリガラス製のサッシ戸だから、人の動く姿が朧(おぼろ)げながら映り、二人にはなんとも不気味に思えた。
「どうしたのかしら?」
「… 前の道で交通事故? ははは…そんな馬鹿なことはない。バイクも飛ばせん細道だからな?」
「あなた、遅刻するわよ」
「ああ…」
いつもとは違う二人の会話がキッチンに届き、小次郎も玄関へ出ることにし、重い腰を上げた。毎朝、恒例(こうれい)になっている家の周り一周を思いついたこともある。
丁度、小次郎が玄関へ出てきたとき、里山が玄関戸を開けた。それと同時に、入り口外にいた報道陣が後ろから押されて家の中に雪崩(なだ)れ込んできた。里山はその勢いに押され、出るどころか中へ押し戻(もど)された。
「な、なんなんですか! あなた方はっ!!」
里山が鼻息の荒い大声を出した。
「す、すいません、押されたものでして…。里山さんでしょうか?!」
報道陣の中の記者らしき一人が里山に質問をした。それと同時に、入り口外からフラッシュの閃光(せんこう)が里山めがけて走った。
「え? ええ…。ちょっと、やめてもらえます!」
里山はフラッシュが光った外を指さした。カメラマンが数人、里山めがけてシャッターを切ったのだ。
安岡の目に映ったのは、いつも見かける里山と猫が玄関戸の外ににいる姿で、他に人の気配はなかった。妙だ…確か、人の声がした、と安岡は首を捻(ひね)った。そのとき、また声がした。里山の声である。この声は里山さんだ…と安岡は得心して思った。里山が話し終えると、また先ほどの別の声がした。聞き覚えがない声である。安岡は耳を欹(そばだ)てた。すると、どうも里山に話しているようである。安岡は里山と猫の姿を凝視(ぎょうし)した。そして、安岡は驚愕(きょうがく)の事実を知らされた。
━ 猫が …猫が人の言葉を話している。しかも…日本語だ! ━
安岡は怖(こわ)くなり、気づかれないように物音をたてず後退(あとずさ)りすると、自転車を静かに動かして里山家を去った。今朝は配達ではなくご用聞きだったのが安岡としては助かった。安岡が垣間見ていた事実を里山も小次郎もまったく知らなかった。
事(こと)がマスコミ沙汰(ざた)になったのは、その二週間後だった。
「だいぶ、暖かくなった。今年も、そろそろ玄関だな…。じゃあ、行ってくるよ」
里山はキッチンの片隅に横たわる小次郎の頭をナデナデしながら、そう小さく言った。そして、いつものように玄関で靴を履(は)き、沙希代に鞄(かばん)を渡されたときだった。玄関の外に異様な人だかりと騒ぐ声が聞こえた。里山は何事だ? と思った。鞄を渡し、キッチンへ戻(もど)ろうとしていた沙希代もその異様さに戻るのをやめ、玄関戸を注視した。
━ なんだ、クリーニング屋のノロ安か… ━
小次郎は、うざったい気分で開(あ)けた薄目をまた閉じた。小次郎の心中では、店員安岡は、のろまのノロ安だった。いつも配達が遅れ、現れるのは得てして誰もいないときだったから、そう渾名(あだな)をつけたのだ。ドラが現れなくなって随分、小次郎の生活は安定していた。それが、である。今来た安岡からとんでもない大ごとが広がろうとは…。このときの小次郎は知るよしもなく、長閑(のどか)に欠伸(あくび)をひとつ打って、ついでに毛並みをナメナメと撫(な)でつけた。
春の桜も去り、小次郎は退屈な日々を事(こと)もなげに送っていた。それでも、毎日の里山家をひと回りする日課は続けていた。そんなある日の朝、どういう訳か、いつも玄関外では話さない里山が小次郎に声をかけた。
「どうだ小次郎。この辺りの春は自然が豊かでいいだろうが…」
『そうですね。確かに野趣(やしゅ)、豊かです…』
小次郎はついうっかり、辺りを見回さず人間語で話してしまった。いつもは人の気配がないか確認してからでないと人間語では話さなかったのだ。それが、事の始まりとなった。丁度そのとき、クリーニング屋のノロ安が里山の家へさしかかったときで、家前に自転車を止め、入ろうとしていた。安岡は、おやっ? と訝(いぶか)しく思った。というのも、里山の家には里山と沙希代の二人しかいないことを知っていたからだ。 安岡は、音をたてないよう、玄関を窺(うかが)った。
小次郎が安住の地を得てから二年ばかりが過ぎ去った。二年もすればすっかり大きくなる・・というのが猫社会の相場だ。小次郎の場合は雄・・いや、人間語を話す男子だからそういうことはないのだが、雌だと二齢ぐらいで子供を妊娠することだって野良の場合、アリなのである。そんなことで小次郎は半年ほどもするとスクスクと成長し、すっかり青年猫に育っていた。なかなかのイケメンならぬイケ猫で、近所の雌猫をぞっこんにさせたりもした。むろん、普通の猫とは一線を画す小次郎は、人間学の勉学に勤(いそ)しむ毎日だった。
「お前、この頃、すっかり男前になったな…」
里山が日曜の朝、応接セットのソファーで小次郎を両手で抱きながら囁(ささや)いた。
『嫌(いや)ですよご主人、くすぐったいから下ろして下さい』
小次郎は辺りに沙希代の姿がないことを確認したあと、人間語で小さく言った。
「あっ! すまん、すまん。ついな…」
里山はバツ悪そうに小次郎をソファーへ下ろした。
その日の昼下がり、縁側の廊下に出た小次郎はすっかりいい気分でウトウトし始めた。辺りは春の陽気である。昼から里山と沙希代は連れ立って出かけたから、誰もいなかった。
「こんちわぁ~~、三河屋で~す! 洗濯ものをお届けに参りましたぁ~。お留守ですかぁ~~!! 日曜だから、いなさると思ったんだが…。仕方ねぇな、ここへ置いとくか」
突然、玄関で人の大きな声がし、小次郎は眠りばなを叩(たた)き起こされた。聞き覚えがある声だった。
猫の場合でも一応、足と手は区別するのである。四本すべてが足のように見えるが、前二本が手、後ろの二本が足なのだ。えっ? そんなことは分かってるから話を進めろ! って、ですか? 読者諸氏、誠に申し訳ございません。
そして、小次郎は上げた右足をやんわりと下ろした。その瞬間、耳を劈(つんざ)くような鋭い警報音がビビィ~~!!! と、鳴り響いた。さあ、驚いたのはドラである。たちまち身をビクッ! と起こすと、疾風(はやて)のような素早さで走り去った。その速度は新幹線並であった。…これは少し大 袈裟(げさ)だが、いずれにせよその素早さは尋常のものではなかった。小次郎は音の大きさは知っているから、余り驚きはしなかった。ただ、逃げ去ったドラの速さには、また少し驚かされた。
一分後、小次郎は効果を確認し、誰に言うともなく、ヨッシャ! と軽く尻尾(しっぽ)を振ってガッツポーズをした。人間だと手だが、猫の場合は尻尾のようである? 里山も沙希代も出かけていたから、家から飛び出してくる者は誰もいなかった。効果抜群だったことを夕方、ご主人に報告だ…と小次郎は心にメモをした。
その後、ドラが里山家に現れることは二度となかった。まあ、いろいろとあったが、これで小次郎の安住の地は安全となったのである。
第①部 <安住編> 完
いつものように物置に近づいのだが、そのときすでにドラは厚かましい態度で堂々と軒(のき)下で眠っていたのである。小次郎は突然のことで驚いた。全然、現れなかったから、てっきり諦(あきら)めて近づかなくなったものと思い込んでいたのだ。突然、出くわすと、さすがに戸惑う。小次郎も例外ではなくギクッ! とした。待ちかまえていたように薄目を開けたドラが声を出した。
『おお、誰かと思えば、ここの家主(やぬし)さん? 厄介になってるぜ』
言っていることは丁重なのだが、言葉づきはガラが悪い凄味(すごみ)の利(き)いた声だった。普通の者・・いや、普通の猫なら貫禄(かんろく)負けしてしまうところである。だが、小次郎は違った。
『誰かと思えばドラさんでしたか。これはこれは…』
そう言いながら小次郎は間合いを探って少しずつ後退(あとずさ)りした。ドラに気づかれては怯(ひる)んだ心中を見透かされるから、ほんの少しずつである。あと1m下がれば里山が工夫した警報ブザーの板だ。
『この前は用があったからトンズラしたが、今日はゆっくりさせてもらうぜ』
『ええ、それはもう…』
小次郎はドラに逆らわず、また少し後退りした。そしてついに、警報板の位置まで辿(たど)り着いた。小次郎はふと、里山が言ったことを思い出した。
━ 少しでも触れれれば、たちまち鳴るからな… ━
小次郎は警報番の直前で右足を軽く上げた。