人生意気に感ず 功名誰かまた論ぜん
魏徴
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有名な言葉だが、なにかの文脈の中で使われることはほとんどない。令和日本に、この「功名誰か論ぜん」の気概が失われているからだろう。
特に、この15年、SNSが発達して、「繋がること」「承認されること」の価値が上がった。孤独であることは、かつてよりも増してダサく惨めになった。
これが「ヨコ」=功名の動きを加速している。老若男女みなこぞって功名を求めている。
この「功名誰かまた論ぜん」は、執行草舟お気に入りの言葉。私も好き。ってか、これを読んで痺れない男がいるのか。そんな人間がいるのか。
これから改めて拳拳服膺しよう。功名なんかクソ喰らえだ。
「功名」を求める人間は死後に生きることはできない。
死後に惜しまれなければ生きている意味がない。
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この文脈で思い出されるのが、死後にピタっと論じられなくなった石原慎太郎。2年半経っても親族の手記くらいしか出ない。
※ ググっても、死後には、弟子筋らしい牛島信弁護士の本が一冊出たのみ。これも個人的なつながりで出た本、、、
生前の名声と、死後の評判にこれほどのギャップがある人は石原慎太郎が初めて。その意味で石原は研究に値する。
失礼を承知で言えば、生きているときはチヤホヤされたけど、死んだら誰も見向きもしない。
死後に夥しい量の追悼文に飾られた司馬遼太郎との違いを思う。
石原も、あれだけ著作を残したなら、「石原慎太郎記念文学館」が逗子あたりにできてもいいくらいだ。その動きは聞かない。
生まれた地の小樽に小さいコーナーがあるくらいか。こちら
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「死後にロングテールで残る」ってのが、人生の目標なのではないか。
「死せる孔明、生ける仲達を走らす」のが人生の目的なのではないか。
文学的なことはよく知りませんが、政治家ないしは一個の人間として石原は研究に値すると思っていた。
しかし、死後の世間の石原に対する沈黙からすると、その私の石原への評価も改めなければならないのかと考え直している。