吉田松陰の辞世は「身はたとひ武蔵の野辺に…」と知られている。
でも、本当に、人生の最期に書いたのは、上記ではなく、
七たびも生きかへりつつ夷(えびす)をぞ
攘(はら)はんこころ吾れ忘れめや
っていう、「七回生まれ変わっても攘夷をやって外国人を打ち払うぞ、絶対忘れないぞ」という、怨念めいたというか、執拗というか、エキセントリックな辞世だった。
■ 『留魂録』 冒頭の句(10月25日)
「身はたとひ武蔵の野辺に朽ぬとも留置かまし大和魂
十月念五日 二十一回猛士」
■ 最後の句(翌26日)
「かきつけ終わりて後
心なることの種々かき置きぬ思い残せることなかりけり
呼び出しの声まつ外に今の世に待つべき事のなかりけるかな
討たれたる吾れをあはれと見ん人は君を崇めて夷払へよ
愚かなる吾れをも友とめづ人はわがとも友とめでよ人々
七たびも生きかへりつつ夷をぞ攘はんこころ吾れ忘れめや
呼び出しの声まつ外に今の世に待つべき事のなかりけるかな
討たれたる吾れをあはれと見ん人は君を崇めて夷払へよ
愚かなる吾れをも友とめづ人はわがとも友とめでよ人々
七たびも生きかへりつつ夷をぞ攘はんこころ吾れ忘れめや
十月二十六日黄昏書す 二十一回猛士」
以上のようなことなど、この熊本の多久善郎さんは、よく調べていらっしゃる。
松陰は、かつて、「七生説」ってのを書いて、
必ずや後の人をして亦余をして興起せしめ、七生に至りて、而る後、可と為さんのみ。噫(ああ)、是れ我れに在り
とまで言っている。
死後に後世の人々を興起(発奮)させて、ようやくオレは成仏できるんだ、それがオレだ
っていう気概ですね。
戦中の「七生報国」ってのは、この辺の吉田松陰の精神を拠り所としています。ま、淵源は松陰ではなく、楠木正成の「七生滅賊」なんですけど。