川塵録

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楠公と松陰の「七生」

2024年09月23日 | 歴史
吉田松陰の辞世は「身はたとひ武蔵の野辺に…」と知られている。

でも、本当に、人生の最期に書いたのは、上記ではなく、

 七たびも生きかへりつつ夷(えびす)をぞ
  攘(はら)はんこころ吾れ忘れめや

っていう、「七回生まれ変わっても攘夷をやって外国人を打ち払うぞ、絶対忘れないぞ」という、怨念めいたというか、執拗というか、エキセントリックな辞世だった。

■ 『留魂録』 冒頭の句(10月25日) 

 「身はたとひ武蔵の野辺に朽ぬとも留置かまし大和魂 

  十月念五日 二十一回猛士」


■ 最後の句(翌26日)

 「かきつけ終わりて後

 心なることの種々かき置きぬ思い残せることなかりけり
 呼び出しの声まつ外に今の世に待つべき事のなかりけるかな
 討たれたる吾れをあはれと見ん人は君を崇めて夷払へよ
 愚かなる吾れをも友とめづ人はわがとも友とめでよ人々
 七たびも生きかへりつつ夷をぞ攘はんこころ吾れ忘れめや
 
  十月二十六日黄昏書す      二十一回猛士」



以上のようなことなど、この熊本の多久善郎さんは、よく調べていらっしゃる。

松陰は、かつて、「七生説」ってのを書いて、

必ずや後の人をして亦余をして興起せしめ、七生に至りて、而る後、可と為さんのみ。噫(ああ)、是れ我れに在り

とまで言っている。

死後に後世の人々を興起(発奮)させて、ようやくオレは成仏できるんだ、それがオレだ

っていう気概ですね。 

戦中の「七生報国」ってのは、この辺の吉田松陰の精神を拠り所としています。ま、淵源は松陰ではなく、楠木正成の「七生滅賊」なんですけど。
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