狐の日記帳

倉敷美観地区内の陶芸店の店員が店内の生け花の写真をUpしたりしなかったりするブログ

今が大好きだって躊躇などしないで言える。そんな風に日々を刻んでいこう。どんな場所にいても。

2020年03月14日 22時51分46秒 | 季節の御挨拶
 本日3月14日は、漢の捕虜となった西晋の皇帝・懐帝が漢の皇帝・劉聡により処刑された日で、アメリカで金本位制を採用した金本位法が公布された日で、国会で片岡直温大蔵大臣が東京渡辺銀行が倒産したと失言して昭和金融恐慌のきっかけとなった日で、ナチス・ドイツによってチェコスロバキアが解体されてスロバキアが独立宣言した日で、内ゲバを繰り返していた新左翼の中核派と革マル派の抗争で中核派の最高幹部で書記長の本多延嘉が自宅アパートで就寝中に革マル派のメンバー十数人に鉄パイプ等で全身を滅多打ちにされて殺害された日で、ベトナムが統治していた南沙諸島・赤瓜礁を中華人民共和国が攻撃して赤瓜礁と永暑礁と華陽礁と東門礁と南薫礁と渚碧礁を軍事占領して奪って統治下とした日で、薬害エイズ事件でミドリ十字が責任認めて謝罪した日で、中華人民共和国が反分裂国家法を制定した日です。

 本日の倉敷は曇り時々雨でありました。
 最高気温は十二度。最低気温は八度でありました。
 明日も予報では倉敷は曇りのち晴れとなっております。




 倉敷川の親水公園から南に植えられている河津桜達はお花を咲かせております。綺麗でありますよ。
 目白と鳩と椋鳥はお花の蜜を狙って三つ巴の抗争をしております。
 「ほけきょ?」の者が現れたら春は本番。
 もうすぐ。
 もうすぐ春本番でありますよ。
 ちょっと気取ってみませんか?
 ちょっと浮かれてみませんか?
 春なのですから。


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戦争は、今は宣戦布告による国家間の統制の取れた戦いではなく、パニックによって起こる終わりの無い戦いになっている。それだけに今、試されているのは、何をなすべきかでなく何をなすべきでないかを決める力です。

2020年03月14日 19時03分13秒 | その他の日記
 以下の文は、ニューズウィーク日本版の小幡 績氏の『安心ばかりを求める社会は滅亡する』と題した記事の転載であります。



   『安心ばかりを求める社会は滅亡する』


 <ひたすら安心を追い求め、そのためにリスクを過小評価したりその反動で過大評価する非合理的な行動は、人類を滅亡させかねない。歴史と行動経済学は教えている>

 新型コロナ肺炎騒ぎは、世界中のものとなった。
 欧米の人々は、中国、韓国、日本のものだと傍観していた。
 あるいは、日本の愚かさをせせら笑っていた人もいたし、正義感か商売なのか、日本の対応の拙さを徹底批判していたメディアも多かった。
 しかし、そのウイルスが、自分たちの身の回りに飛び火した途端、うろたえ、日本の愚かさと少なくとも同じ程度に愚かにパニックになっている。

 彼らの愚かさを批判するつもりはない。
 当初はリスクに対して過少反応、その微小なリスクを自分の都合に合わせてゼロと解釈し、次にその微小をゼロと無視し続けられなくなった瞬間に、その微小確率を異常に過大評価するのは、金融市場でも日常生活でも日常茶飯事だし、とりわけ、金融危機や災害などの危機のときにはパニックとなり、それが何十倍ものひずみとなって、拡大された愚かさとして社会に現れるのは、人類の歴史そのものでもある。

 そうなのだ。これで人類は滅びる可能性がある。
 大袈裟に聞こえるだろうが、そうでもない。
 千年タームで考えれば可能性は十分にあり、少なくとも無視するべき微小確率ではなく、確実にあり得る可能性だ。
 なぜか。

  安心ばかり求めるコスト
 
 人々は安心を求めている。
 危機に直面したときはなおさらである。
 その恐怖感を打ち消し、そこから開放されるためならどんなコストも省みない。
 それは現実逃避のときもあるし、過剰反応でまったく必要のない撲滅運動に発展するときもある。
 魔女狩りなどと物騒な言葉を使うまでもなく、異常な抗菌趣味で抗菌消しゴムまでが流行る日本であるから、これは日常茶飯事だ。
 津波が襲った後は、巨大な防潮堤作りに必死となり、津波以外の災害に対する対応が手薄になる。
 放射能に怯える余り、科学的に十分安全だった除染の基準を無駄に引き下げ、除染した土の持って行き場に困り、無駄に金を使い、結果どこも安全にならない。
 子供たちは、必要以上に屋内に閉じ込められ、精神的な安定性を失い、バランスからすれば被害は拡大した。
 農作物や魚の風評被害についてはいうまでもなく、僅かな安心を得るために、不必要に避けることにより、多くの地域の農業を苦しめた。

 そして、今回のコロナウイルス騒ぎである。
 コロナリスクを減らすために、手洗いうがいを徹底することは、普通の風邪やインフルエンザにも効くし社会的に明らかにプラスだが(昨年以前にもやっていればインフルエンザで死ぬお年寄りがどれだけ減っていたことだろう)、必要のないマスクを世界中で人々が口に当てたり、そのマスクを求めて騒動が起きたり、あるいは無関係なトイレットペーパーを買うためにエネルギーを浪費したり、ぐらいのことなら滑稽ですむ。

 だが、経済活動を不必要に自粛して、経済的に停滞し、その停滞からの苦痛を回避するために政治家や中央銀行がカネをばら撒いて、ウイルス騒動が治まったときに、大きな無駄遣いに気づくなど、世界経済、世界社会を停滞させてしまうことは笑い話では済まされないし、他の医療や介護、教育など、社会インフラに使えた金を無駄な自粛による経済縮小対策としての浪費、ばら撒きにつかってしまうのは、今に始まったことではないが、あまりに愚か過ぎる。

 しかし、今日、私が言っているのは、もっと深刻な問題だ。
 日本人は安心が大好きだ。安全よりも安心を優先させる。
 皮肉をこめて言えば、原発事故以前の原発に対する不安を解消するために、事故が起きたときのシナリオ、対策などの議論を封印して、議論をする必要もないとかりそめの安心を得ることによって、安全を失った。
 これは政治側、行政側に責任があることは間違いがないが、政治、行政に議論をさせない雰囲気を作り上げたのは、国民、社会の側である。

  危険に対する思考停止
 
 だから私は、安心は無駄だ、安全のためにカネとエネルギーを使え、安心は無視しろ、と主張してきた。
 安心を得るために人々は経済的に非合理な行動をする、というのは行動経済学の理論モデルの一つの核だ。
 しかし、さらに大きな問題がある。
 安心を得ようとするのは無駄だが、現実には、人間社会では、人々は合理的でなく、個人よりも社会という集団になるとさらに非合理的な結論、行動に至る。
 これは群集社会学でも明らかだ。
 したがって、これは無駄だといっても現実として受け止めるしかない。
 問題はその先だ。
 人々が安心を得る。社会として安心な社会になる。そうするとどうなるか。
 人々はリスクに対する思考を停止する。
 考えなくて済む、というのが人々の求めている「安心感」であり、一方、常に考えて、頭と感覚を研ぎ澄ませて、リスクが近寄ってきていないか警戒し続けるのが、動物の本能による「安全対策」である。
 ゴルゴ13以外は、日本人だけでなく全人類が今やこれを忘れてしまっている。
 動物であることを失っている。
 動物としての能力が喪失している。
 それが安心ということなのだから、仕方がない。
 しかし、それでは、リスクを察知できず、リスクが実現したときに対応ができず、ただパニックになる。
 個人でもそうなら、社会的判断、政治的意思決定の歪みがさらに拡大している現在、社会は大パニックになる。

 つまり、安心を求め続けた社会は、思考停止社会となり、鈍感社会となり、世の中、世界、あるいは宇宙に起きるリスクに対する感度がなくなり、対応策も準備せず、いざそのリスクが実現したときには、破滅する可能性が高まるのだ。

 現在の新型コロナウイルスの危機は、確かに危機だ。
 しかし、絶望的な危機でもなく、頻繁に起こる、歴史的には普通の、定型的な危機だ。
 この定型的な普通の危機に対し、全世界で、社会的にパニックになっているようでは、本当に予期せぬ危機が来たときに、我々の社会は滅亡してしまうだろう。
 コロナウイルス危機以外の危機は、今、この瞬間にも世界に溢れている。
 紛争の危機、貧困の危機、虐待の危機、あらゆる危機、しかも本質的で解決にエネルギーと知恵とカネのいる危機をおっぽり出して、目先のささいな危機に、パニックから逃避し、安心を得るためだけに世界中のエネルギーを集中するのはどうかしている。
 だから、我々の社会は滅亡の危機にあると私は考えるのである。

                                  転載終わり。


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悪いけれど葡萄酒ならば自分の口唇ダイレクトで。洋杯よりも其の御口に注いで戴きたいのだもの。

2020年03月14日 15時39分01秒 | VSの日記
 或る夜の事。

 狐は先輩と一緒に或るパブリック・ハウスのカウンター席に腰をかけて、絶えずミルクを舐めてゐた。
 狐は以前に友人に「愛しの人に媚びを売りたいのだけれども如何したらよいものか?」と質問されて返答に困ったことを思い出し、如何答えればよいのか経験豊富な先輩に尋ねてみた。
 「愛しの人に媚びを売りたい?」
 先輩は頬杖をした儘、極めて無造作に私に呟いた。
 「ならば取敢えずは愛しのお方の前で猫耳をつけるがよい」
 猫耳???
 「媚びを売るならばいつそのことあざと過ぎるくらい媚びを売つたほうがよい。猫耳をつけて媚びを売つて売つてて売りまくるのだ。バニーちゃんでもよい」
 バニーちゃん……。
 「要は相手を萌えさせて燃えさせればよいのだ。恥じらいつつ恥を捨てよ」
 恥じらいつつ恥を捨てる……。
 「愛しのお方に媚びを売るのならば捨て身でなければならぬ。突貫せよ」
 捨て身……。突貫……。

 因みに猫耳とかバニーちゃんの衣装とか何処で手に入るのですか? と狐は先輩に尋ねました。
 すると先輩は目を綺羅綺羅と輝かせて「ん? 実物を見てみたいかね? 着てみたいかね? 私は持つているぞ」と答えました。
 持つているんですか! 何でそんな物を持つているのですか?
 「勿論、まいすい~とはに~に媚びを売る為だ!」
 ……。左様でございますか。
 「私の部屋に來れば猫耳とかバニーちゃんの衣装とか他にも色々あるぞ。今から私の部屋においで」
 ……。否です。
 「君の猫耳姿とかバニーちゃん姿が見たい! おいでよ」
 ……。否です。先輩は男女を問わず襲いかかる人です。怖いです。
 「大丈夫。怖くない怖くない。一寸だけ一寸だけだから。ね? ね?」
 ……。否です。私は先輩に美味しくいただかれたくはありません。先輩の部屋に行けば私はぺろりと食べられてしまいます。此の身を先輩にだけは穢されたくはありません。
 「襲わないから。何もしないから。猫耳姿を見せてくれるだけでよいから」
 ……。否です。私は先輩に媚びを売りたいわけではないのですから。
 「大丈夫。萌えても燃えても襲わないから。一寸だけ一寸だけだから。ね? ね?」
 ……。否です。先輩は襲う気満々です。先輩の部屋に行けば私は先輩に美味しくいただかれてしまいます。絶対に否です。それに先輩に媚びを売るなど絶対に厭です。あり得ません。唾棄すべき行為です。
 「では私が着るから。私がバニーちゃんの衣装を着るから」
 だから私は先輩に萌えたいとか燃えたいとか思つていないのですから。否です。もし、先輩に萌えて燃えてしまったならばそれは我が一生の不覚。その恥を雪ぐには喉を突いて自害して果てねばなりません。
 「むぅ」


 先輩はお喋りを止めて考え込んだ。
 狐の言葉は先輩の心を知らない世界へ神々に近い世界へと解放したのかもしれない。
 狐はウオッカを注文し、割賦の中でミルクと混ぜ合わせて、それを舐め続けた。
 先輩は言つた。「いけず。私のことが好きなくせに」

 狐は何か痛みを感じた。が、同時に又歓びも感じた。
 人の欲望とは、様々なものであるな。面白ひものだ。





 そのパブリック・ハウスは極小さかつた。
 しかしパンの神の額の下には赫い鉢に植ゑたゴムの樹が一本、肉の厚い葉をだらりと垂らしてゐた。


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『ビロウな話で恐縮です日記』/三浦しをん

2020年03月14日 11時20分48秒 | 小説・本に関する日記
 昨日の夜は、三浦しをんのエッセイ『ビロウな話で恐縮です日記』を読み返していました。
 日記を収録したエッセイ集であります。

 弟の罵倒を受け流し、母親との闘いに明け暮れ、父親の独り言を聞き流し、祖母とテレビを観る。
 ヲタク仲間とヲタク談義を交わし、奇妙な夢を見、タクシーの運転手の話に耳を傾ける。
 そして、仕事は捗らない。

 三浦しをん先生の日常は何ともスペクタクルであります。
 面白かったですよ。
 楽しめました。



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