以下の記事は、論座の越智小枝氏の『福島の経験から見る新型コロナ 「議論の二極化」と「報道依存」 分断と不信を煽る極端な主張ばかりがまかり通るのは何故なのか』と題した記事の転載であります。
『福島の経験から見る新型コロナ 「議論の二極化」と「報道依存」
分断と不信を煽る極端な主張ばかりがまかり通るのは何故なのか』
CoVID-19(新型コロナウイルス)のパンデミックに世界中が立ち向かう中、日本では「有識者」たちが自説を通すために極端な発言ばかりを繰り返している。
最近の報道を見てそう感じるのは私だけではないだろう。
そしてその有様に、原子力発電所事故後の福島を連想する方も多いのではないだろうか。
災害後の福島に多少関わった人間として今私が特に既視感を覚えるのは、CoVID-19に見る「議論の二極化」と「報道依存」だ。
甲状腺検査に見た「二極化」
福島第一原子力発電所事故の後に福島県の子どもを対象に行われた甲状腺検査においては、100人余りの子どもが甲状腺がんと診断された。
この甲状腺がんが放射能の影響によるものかどうか、ということが、専門家たちの間で大論争となったことは、多くの人の記憶に新しいことと思う。
これは放射線の影響でなく、「スクリーニング効果」(注)のためである、と考える人々は、「だから全例調査をやることが間違いだったのだ」と主張。
一方、放射能のせいでがんが増えた、と考える人々は、「全例調査をやめようとするのは都合の悪いデータを隠蔽したい政府の陰謀だ」と反論した。
さらには互いが自分の主張に合った「科学的エビデンス」を持ち出す泥仕合へと発展し、がんと診断された子どもやその家族を置き去りにする結果となった。
どちらの説が正しかったとしても、そこにはがんと診断された子どもがいる。
当時本当に必要だったのは、その子どもたち差別を受けず、安心して過ごせる社会をつくることだったのではないだろうか。
(注)小さながんを症状が出る前に見つけるため、がんの罹患率が高くなったように見える現象
その対立は必要か
それと全く同じことが、今のCoVID-19騒動でも起きているように見える。
特にPCR検査を希望者全員に行うべきか否か、という議論だけが何故ここまで紛糾するのか、端から見ている人間には理解しがたいものもある。
そこで見られたのは「希望者全員に検査は不要、だから検査を増やす必要はない」という意見に対し「現場で困っている人がいる、だから希望者には平等に検査を受けさせるべき」という不思議な二項対立だ。
つまり「全員にPCR検査が必要か否か」の議論と、「今現場で検査が足りているか否か」の議論がない混ぜになり、有識者が二極に分かれて互いを論破しようとしているのだ。
前者は真実検査の足りていない現場を見ようとせず、後者は設備の整わない施設で検査を行うリスクを見ようとしない。
しかしそもそもその二極化は「今」必要なことなのだろうか。
どちらの意見が正しかったとしても、必要な検査が現場に十分行き届いていないことは確かだ。
だからこそ今は重症の方や感染が強く疑われる方を優先的に検査し、気の毒でも他の方は後回しとせざるを得ない。
しかし同時並行で検査を拡充し、医療者が安全に検査を行えるロジを確立する必要はある。
その判断のどこにも、「全例検査」の議論が入る余地はないように見える。
二極論者が排除する過渡的視点
福島の甲状腺検査を振り返って見た時、一番の問題は、検査を行ったこと自体ではない。
当時の住民不安の中、検査の是非を議論できる余裕はなかった可能性もあるからだ。
むしろ検査を行う前に、「多くの人が検査陽性であった時にどうするのか」につき、十分な議論がされていなかったことこそが問題なのではないだろうか。
もちろんこれは事後だから言えることだろう。
しかしその学びはCoVID-19対策へつなげるべきではないか。
CoVID-19検査キットが普及すれば、軽症の陽性患者が大量に発見されることは必至だ。
どんなに政府が規制しようと、目の前にキットがあり、困っている患者が要れば、その全員に検査を行う医療者は必ず現れるからだ。
ではそのとき陽性患者を全て病院隔離するのだろうか。
数の上では病床は余っている、という人もあるが、それは地域格差を無視した計算だ。
もし医療過疎に悩む地域で集団感染が発生すれば、地域随一の病院が機能不全となり、地域医療の崩壊にすらつながり得るだろう。
軽症者は自宅待機するのが良い、という意見もある。
ではその場合、患者やその家族は、差別を受けずに暮らせるのだろうか。
また行動を制限された患者が買い物弱者とならないよう、支援を受けることはできるのだろうか。
個人的には、そのような社会のコンセンサスを得るためのリスコミ(リスク・コミュニケーション)は足りていない、と感じている。
問題は、このような準備不足の中、誰でもできる簡便な検査キットが着々と開発されつつあることだ。
開発を喜ぶ前に、私たちは準備もできないままに軽症陽性患者が増え得ることに、もっと危機感を覚える必要があるのではないだろうか。
二極論者たちはこのような「曖昧な」過渡的視点、生活の視点を排除しがちである。
現行の対策を批判するのであれば、このような正解のない問いへ答える覚悟が必要だろう。
今は全国が「災害現場」
私たちは今がパンデミックという「自然災害」の真っただ中にあることをもう少し認識すべきではないであろうか。
つまり私たち全員が被災者であり、ここは被災地なのだ。
他人事のように感染者を数値で語り、自説を通すために檄を飛ばす方々は、そのことを忘れていないだろうか。
災害医療と救急医療の本質的な違いは、資源の不足にある。
平時の救急外来では、運ばれてきた患者はどんな軽症でも必要な治療が提供される。
しかし大規模災害の後に傷病者が急増すれば、限られた資源の中で死者を最小限にとどめるために、病院は運ばれて来た患者を「トリアージ」する必要がある。
それは、重症患者を優先させ、平時であれば治療を施す患者であっても軽症であれば治療しない、という選択だ。
今、日本という「災害現場」ではCoVID-19という特定の感染症に対して、そのトリアージが行われている。
つまり国内でPCR検査が不足しているのは陰謀論でもなんでもなく、「それが災害というものだから」、というだけのことだ。
有事の不足の中でいかに効率よく資源を回し、今後いかに資源を獲得するか。
今「有識者」が専心すべきことはそれに尽きるのではないか。
災害対応に正解や二択はない
また、「他の国が失敗した=自分の国が正しい」「他の国が優れている=自分の国の対応は悪い」という二項化も、災害対策においては無益であろう。
先行事例を参照することは重要だが、政策はコミュニティの文化に寄り添い、住民の信頼なければむしろ人々の不安と反感を募らせる「災害」に終わるからだ。
たとえば英国では今回、「熱が出たらまずは自宅待機して、その後は電話対応、その後病院の隔離施設で検査、検査が陰性でも家で再び自己隔離」という対応が推奨されている。
しかしこれが速やかに実行できるのは、英国では元々、インフルエンザの時にも病院へ行かず自宅で治す、という文化があるからだ。
日本のように「インフルエンザで休むのに医師の診断書が必要」と言われるような国では、同じ対策を取るためには事前に入念なコミュニケーションが必要だろう。
災害対策・感染症対策は世界の偏差値でみるものではないし、点数を競うゲームでもない。
内省的に自国の文化と社会システム、経済、資源を眺め、その中でゴールのない「最善」を目指す、そういうものだと思う。
分断を煽る報道はなぜ起こるのか
あまりに当たり前のことばかり長々と述べてしまったが、その当たり前がマスメディア、特に映像系メディアに報道されていないのも事実だ。
では「当たり前」が報道されず、分断と不信を煽る極端な主張ばかりがまかり通るのは何故なのか。
私は、これは報道側のリテラシー不足だけではないと思っている。
なぜなら物議を醸す発言の多くが、報道のプロではなく「メディア素人」の「有識者」から発されているからだ。
メディアに慣れていない普通の人が、テレビに出ると過激な極論を言ってしまう。
その傾向は、震災後の福島でも度々見られたことだ。
私はその一因はメディア露出という行為の持つ耽溺性にある、と考えている。
福島報道が増幅した不幸体験
福島第一原発事故の後、多くの報道関係者が被災地を訪れ、住民の生の声を報道して回った。
届かなかった声を聞いてもらえた、そういう喜びの声はあちこちで聞かれたのも確かだ。
しかし一方で「楽しそうな顔をしているところにはカメラは回らないんだよな」と、皮肉な口調でつぶやかれる方がある程度いたことも印象的であった。
その後しばらくして、一部の住民の方々に「歪み」が生じるようになった。メディアは不幸しか報道しない、ということが知られるようになり、報道された一部の方々の中に、徐々に大袈裟な表現を用いて過剰に不幸を売る人が出てきたのだ。
それまで「ちょっと目立ちたがりだけどいい人」であった普通の方が、報道されたいあまりに復興の遅れや放射能への恐怖を誇張し、鼻血が止まらない、傷口がふさがらない、震災後から白血球数が下がり続けている、など、医学的整合性のない訴えすらするようになる。
それは異様な現象だった。
「復興ではなく不幸を売るようになった人々」の数は決して多くはない。
しかし恐ろしいのは、それがごく普通の方の間に起きたこと、そして自分の中にもそのような依存の芽があることだ。
「報道依存」はなぜ報道されないのか
依存症とは、特定の何かに心を奪われて、自分や社会に悪影響を及ぼしていてもそれをやめられない状態である。
医学的には薬物依存を指すことが多いが、ギャンブルやゲームなどの行為も依存症を引き起こすことが知られている。
メディアへの露出やSNSの「バズり」などは、時に依存症を引き起こし得る快感を伴う気がする。
その高揚感があるからこそ、SNSはここまで普及したのだろう。
問題は、それが行き過ぎて病的になってしまう場合、すなわち「その刺激がないといられなくなる」状態だ。
その病的状態においては、その刺激がなくなる恐怖から、社会への悪影響を顧みず報道受けする極論に執心してしまう可能性もある。
報道のプロたちは経験からその自制を学んでいる。
つまりメディアで刺激的な極論を吐く行為は、そのようなトレーニングを積んでいないごく普通の人間にこそ起こり得ることなのではないだろうか。
しかしこれを公然と指摘ことはとても恥ずかしいことだ。
なぜならメディア露出の耽溺性を他ならぬメディアで発信することで、それは強烈な自己批判となって返ってくるからだ。
報道依存があまり議論されないのは、この葛藤も一因ではないかと考えている。
もちろん福島と同じく、今メディアに出ている有識者の中でもそこまで依存されている方は少数だろう。
ただ、メディア露出への誘惑に耐えることは、普通の人間にはそれなりに難しいことだ、ということは報道側の方々にも理解していただきたい、と思う。
報道による「二次被害者」を減らすためにも、報道者はこのリスクを理解していただき、特に耳目の集まる有事には、過剰な報道により報道された方々が過度の依存に陥らぬような気遣いをいただけないか。
それは少数ながらも「依存症」を目にした者としての願いでもある。
「一つの真実」を目指して
二極化と報道依存。
両者に共通するのは、有名性が公益性に優先される状態だ。
そしてそれは、災害という有事にあっては最も避けなければならない事態なのではないだろうか。
有事の発信において必要なことは、社会的責任を負う発信者が、可能な限り〝一つの真実(one version of the truth)〟を追求すること。
それは言論統制などではなく、災害時の社会不安やパニックを起こさないための最低限のマナーだ。
もちろん情報の訂正や、体制への適切な批判は必要だろう。
また、同じ内容を違った言葉で表現することも大切なコミュニケーション手法だ。
しかしこの国難にあって、個人の主張のために他者を蹴落とすエネルギーは排除できないものだろうか。
今私たちは、「なるべく多くの方がCoVID-19に罹らず、かつ健康に過ごす」という高い山の頂上を目指している。
有識者の役割はその山を別ルートから登る人を蹴落とすことではなく、一人でも多くの人が頂上へたどり着けるために橋を架け、道を作ることだ。
そのような有識者を支援するために、私たち全員の知恵もまた集結する必要がある。
福島はじめ古今東西の被災地の学びが、社会を牽引する方々に少しでも届けば、と願っている。
転載終わり。