舞い上がる。

日々を笑い、日々を愛す。
ちひろBLUESこと熊谷千尋のブログです。

怒ってばかりいたのは、結局のところ人の意見に流されやすいし、人の意見と自分の意見をごっちゃにしてしまいがちな人間だったってことなんですよ。

2019-05-15 23:52:04 | Weblog
ここ最近、古町どんどん、DDTのプロレス、砂丘館などなど盛りだくさんだった、5/11(土)、12(日)の二日間の色んなことを書いてきました。(気になる方は振り返って読んでみてください)
と言うわけで、ここからはそのあとの日々のことや、自分の今の気持ちなどを書いていきます。





最近は温かくなってきたし日も長くなってきたこともあり、よく海まで夕焼けを見に行きます。
5/13(月)もそんな感じで海に行ったのですが、到着した時はすでに日が沈んだあとでした。





この日の夜は西の空に月が出ていて、月の光が海に写っているのがきれいだったので、いい感じに写真が撮れるんじゃないか…
…と思って関屋分水で写真を撮ってみたんですが、深夜の海が真っ暗で予想以上に怖すぎたし、写真もちょっとホラーっぽくなってしまいました。





翌日、5/14(火)、玄関に百合の花が咲いていました。





そしてこの日は、いつもの美容師さんに髪を切ってもらいました。
せっかく髪型が変わったのでどこかに遊びにでも行きたかったのですが、特に何の予定もなかったので無理矢理予定を作って万代シテイまで行ったものの、喫茶店で作業をするつもりがまったく何もせずに帰ってきました。



このまま、この日は何もせずに帰るはずでした。
しかし、ちょっと思いがけない展開があり、頭の中でまた新たに色々と思いを巡らすことになったので、そのことをちょっと書いていこうと思います。



この日、何となく電車で帰ったのですが、電車を降りて駅を出たところで、知り合いのたべさんに出会いました。
たべさんは、2015年に僕が新潟で最後に出演した演劇で共演した人で、家が近所なんですが最近はまったく会っておらず、久し振りに会ったので何となく挨拶を交わしました。
そのまま別れようとしたのですが、どうしてもたべさんに会ったら話しておきたいことがあったので、呼び留めて話すことにしました。
と言うのも、あんまりいい話じゃないんですが、それはたべさんが2016年、2017年に企画して上演した「アケルナル」という演劇に関することでした。

と言うのも、僕は「アケルナル」を2016年に観劇し、その内容やたべさんの活動方針について、2017年の再演時にかなり批判的なツイートを繰り返していました。
ざっくり要約すると、いじめ防止、自殺防止を目的とした演劇であるにもかかわらず、その内容がそういう当事者に見せるにはショックが大きいのではないかということ(実際に当事者の批判的な意見も当時あった)、そして、当時たべさんがその演劇の学校公演を目指していたことに対して、それはやめるべきだ、というものでした。

どんな内容の演劇でも上演するのは自由だと思うので、たべさんがあの演劇を上演することを責めるつもりはないんです。
ただ、あくまでお客さんが観るか観ないか自由に選択できる劇場などでの公演の場合では別に問題ないと思うのですが、もし本当に学校公演をして一方的に子供たちがそれを観ることになったら、あの内容では問題があるのではないか、というのが僕の意見でした。

演劇の上演が自由であるように、自分がこういう意見を持つこと、それを主張することも自由であるはずだ、と思っていました。
この考え方は基本的に今でもあまり変わっていないのですが、ただ、自分の行動が正しかったのかとあらためて考えると、反省することが多いのではないか思っていたのです。

と言うのは、当時僕がやったことは、「アケルナル」に対する僕の批判的な意見を、ひたすらSNSに投稿する、というものでした。
当時はそうすることで色んな人が考えるきっかけになればいいと思っていたし、それが正しいと思ってやっていたのですが、今思うと誤解を招いたり過剰に人を煽るような書き方をしていたなたと思い、そこは反省しているんです。(そういう理由で、当時のSNSやブログへの投稿はすべて削除しました)

個人的な話になりますが、当時はSNSであれ場何であれ、自分が正しいと思った意見を表面することにすごくこだわっていたのですが、当たり前の話ですが、SNSに何でも書けばいいというものではないと思うんですよね。
と言うのも、仮に主張の内容が正しかったとしても、主張の仕方一つで誰かを傷付けかねない危険をSNSが孕んでいることを、ここ最近はよく実感します。

当時は、ツイートした内容をまとめてたべさんにメールで送りはしたのですが、今思えば最初にたべさんに連絡するべきだったと思うんですよ。
変な言い方ですが、僕もたべさんの「自殺防止の活動がしたい」という部分は普通に賛同できるものだし、むやみに意見を対立させなくても、きちんと話し合えばもしかしたらもっといい道が見えていたのかも知れないな、とも思うんですよね。

まあ、そんな訳で、2年越しで今更だったのですが、たべさんに今のこういう気持ちを正直に話しました。
たべさんは普通に話を聞いてくれて、正直僕のやり方が迷惑だったという話や怒っていた話もしてくれたし、それ以外にもあれから色々あったという話もしてくれました。

なので、話を聞いてくれたたべさんにはすごく感謝してます。
そしてはっきり書いておきますが、たべさんという方を否定するつもりは昔も今も僕にはまったくありません。



と言うわけで、意見があるならSNSより前に出来るだけきちんと話し合うことが大切、という当たり前のことが出来なかった自分を、今では反省している、という話でした。
少し前にも32方位さんから「Twitterで政治に起こっても仕方ないよ」と言われたりもしたし、SNSの使い方を考え直すべきなのかも知れないと思う体験が、ここ最近はすごく多い気がします。



それにしても、「アケルナル」問題以外にも、2017年くらいの僕はとにかく色々なものに対して怒っていたなと思うんですよね。
大きなところだと政治や社会問題に対して、小さなところだと自分が利用したえんとつシアター支配人の態度が悪かった問題に対して(こう書くと本当しょうもない悩みだなこれ)、その他にも、身の回りでいじめやパワハラなどの悩みを抱えた人達から相談を受けることも多く、色んな「問題」に対してとにかく怒っていた気がするんですよ。

こうして、自分の頭の中であらゆる怒りが同時に発生して、何が何だか分からなくなっていた時期だったと思うんですよね。
それに加えて、当時は今よりも(主にSNS上で)主張が激しかったので、その結果としてのあの「アケルナル」への過剰な批判を行ってしまったような気がしています。

どうしてこういうことが起きてしまうのだろうかと真面目に考えてみたのですが、多分僕が、人の意見に流されやすいし、人の意見と自分の意見をごっちゃにしてしまいがちな人間だからじゃないかと最近思うんですよね。
そして、最近特に思うのですが、中でも一番人から影響されやすい感情って多分「怒り」だと思うんですよ。(Twitterから炎上がなくならないわけだ…)

そう考えると、今まで色々なことを考えてきた僕の、一体どこまでが自分の意見で、どこからが流された意見なんでしょう。
そもそも自分の意見って何なんでしょう、本当の自分って何なんでしょう…





そんなことを考え始めたら眠れなくなった、ガストで夜を明かしてしまいました。
そして、まったくの偶然なのですが、明け方に同じく西区に住んでいる友人の坂田くんがやって来ました。





朝になってから帰って寝て、昼過ぎに起きて何となく海を見に行きました。
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