日本とドイツもう謝罪は要らない - 日独は「誇り」を取り戻せ Part1
日本は悪い国だったのか
戦後、国内外で「日本は悪い国だった」と言われてきた。その指摘の最大の根拠は、「南京大虐殺」「従軍慰安婦」だろう。だが従軍慰安婦については、6月の政府調査で、それを認めた「河野談話」が、当時の日韓両政府の間で文言を調整したり、裏付け調査せずに「作文」されていたことを確認。「慰安婦の強制連行」がつくり話であることが、ようやく検証されてきた。では、「南京大虐殺」はどうか。「東京裁判史観」に警鐘を鳴らし続けてきた、保守系言論人の重鎮である渡部昇一氏に聞いた。
(編集部 山下格史、山本慧)
南京での「虐殺」は限りなくゼロに近い
上智大学名誉教授
渡部昇一
Shoichi Watanabe
1930年、山形県生まれ。55年上智大学大学院修士課程修了。ドイツのミュンスター大学、イギリスのオックスフォード大学に留学。哲学博士。フルブライト招聘教授。71年に上智大学教授。94年にミュンスター大学名誉哲学博士号を受ける。専門の英語学のみならず、多岐に渡る分野で言論活動を行う。『名著で読む日本史』(育鵬社)など多数の著書があり、訳書に『自助論 上・下』(幸福の科学出版)がある。
20万人以上のシナ人を殺したとする「南京大虐殺」が初めて登場したのは、日本を侵略国と決めつけて裁いた東京裁判です。しかし、大虐殺がなかったことを示す材料はたくさんあります。
例えば、被害者であるはずの中国国民党の蒋介石が、約300回にわたる外国人記者団との会見で一度も大虐殺に触れませんでした。また当時、国民党は、日本軍による南京空爆の際、爆弾が民家に落ちたことを国際連盟に訴えたにもかかわらず、大虐殺については一度も抗議していません。もちろん、中国共産党の毛沢東や米英仏の各国も公式に抗議していない。なぜか。それは「なかった」からです。
虐殺の目撃は「1人です」
当時の欧米人の中に、「虐殺があった」と主張した人がいるのは事実です。ただ彼らの多くは、決して公平な第三者ではありません。例えば、英紙「マンチェスター・ガーディアン」の特派員である、ハロルド・ティンパーリというオーストラリア人の記者は、南京陥落の半年後、『外国人の見た日本軍の暴行』という本を書きました。
これは事実上、唯一の「南京大虐殺」の記録ということになっていますが、彼は一度も南京に行かずにこの本を書き、国民党の宣伝部から金をもらっていました。反日プロパガンダ(政治的な宣伝)であることは明らかです。
また、南京につくられた安全区を管理する国際委員会のメンバーに、アメリカ人のマギー牧師がいました。東京裁判における「南京大虐殺」の審理は、彼らの証言を中心に進められましたが、証言は全てシナ人などの伝聞に基づくものでした。反日的なシナ人が日本軍を貶めるために、うそやデマを通報したことは容易に想像がつきます。
その証拠に、マギー牧師は反対尋問で、「では、あなた自身が実際に目撃した殺人は何件ですか」と尋ねられ、正直にも「1人です」と答えています。
国民党軍同士が殺害した
もちろん死んだシナ人もいますが、その多くは「便衣兵」です。便衣兵とは、軍人のくせに軍人の服装をせずに市民にまぎれ込む「ゲリラ兵」です。これは「山賊」と見なされ、殺されても仕方がありません。
そもそも交戦者(軍人)の資格は、国際法で決められています。第一に、兵士たちの責任を負う指揮官がいること、次に、遠くから見ても軍人と分かるような服装をしていること、第三に、武器を見えるところに持っていること、そして、戦争法規を守っていることです。
さらに、国民党には「督戦隊」がありました。これは、自軍の兵士が命令通り戦っているかを後方から監視したり、勝手に逃げたり、降伏しようとする兵士に発砲したりして、強制的に戦わせる軍隊です。南京ではこの督戦隊が、逃げてくる自軍のシナ兵をたくさん撃ち殺した。それさえも、全て日本軍による「虐殺」とされてきたのです。
日本に「虐殺の思想」はない
当時の日本軍の規律の高さは、世界トップレベルでした。
日本軍は南京以外にも、北京や青島、漢口、広東などの都市を攻略しましたが、そこで虐殺など起きていない。日本には、無差別に人を殺す「虐殺の思想」などないのです。ただ蒋介石は南京をオープンシティ(注1)にしなかったため、市街戦となり、双方に死者が出たのは確かです。
今年6月末から台湾の故宮博物院の展示が東京で始まりましたが、あの文化財は元々、北京の紫禁城にあったものを、蒋介石が重慶に逃げる時に持ち出したのです。その時、文化財の大部分は南京に残してありました。
その後、日本は南京を8年間占領しましたが、文化財には全く手を付けず、無傷のまま残しています。それを蒋介石が台湾に逃げる時に運んだ。どの国の軍隊も、金目のものを略奪するのは「常識」ですが、それを日本軍はやらなかった。こうしたことを考えても、「日本軍によるシナ人市民の虐殺は、限りなくゼロに近い」と言っていい。「南京大虐殺」の議論は、日本国内では精密な研究の結果、すでに「なかった」と決着が着いています。
日本は国際社会で「してもいないこと」を謝り続けるのではなく、「されたこと」をもっと主張すべきです。アメリカには「市民を標的にした東京大空襲で、ジェノサイド(虐殺)された」「広島と長崎に原子爆弾を落とされ、市民をホロコースト(大量虐殺)された」と言えばいい。
これに対し、日本は、政府の意思として市民を標的に攻撃したことはない。真珠湾攻撃も特攻隊も、狙ったのは軍艦です。そうした事実を伝えなければ、靖国神社に祀られている300万の英霊は浮かばれません。 (談)
そもそも解説
南京大虐殺はあった?
南京の難民が日本軍からお菓子やタバコなどの配給を受けて喜ぶ様子。
「南京大虐殺」とは?
1937年12月13日、日本軍は、当時の国民党政府の首都・南京を攻略します。この南京戦について、当時の国際社会では何も問題にされませんでした。ところが、敗戦後の東京裁判で、突如として「南京大虐殺」が登場します。「20万から30万人の市民や捕虜が殺された」「約2万人以上が強姦された」などと指摘され、松井石根大将は戦犯として処刑されました。
うそ 20万~30万人の市民や捕虜が殺された
真実 市内の欧米人が目撃していない
日本軍兵士とおもちゃで遊ぶ南京の子供たち。
大虐殺を認めた東京裁判の証言は、非常にずさんなものでした。当時南京に居て、多くの虐殺を報告したアメリカ人のマギー牧師は、自分で目撃した殺人がたったの1件だったことを打ち明け、それも誰何されて逃げたために撃たれたケースだった。
南京の欧米人が市民保護のためにつくった南京安全区国際委員会は、日本軍の殺人はせいぜい49件としています。しかしその被害さえも怪しいのです。
同委員会には中国人から日本軍による多くの被害報告が寄せられましたが、委員会は全て鵜呑みにして記録しました。懸念を抱いた日本人の外交官が、委員と一緒に報告された現場に向かうと、実際は何も起きていなかった例が数多くありました。
同委員会のアメリカ人、スミス博士も、「ここに記された事件は検証したものではない」としています。
うそ 2万人以上が強姦された
真実 日本兵の犯行は数件
日本軍兵士からミルクをもらい喜ぶ南京の女性たち。
「強姦2万人以上」の根拠は、国際委員会のドイツ人、ラーベの日記に基づいたものです。しかし、同委員会の資料では、強姦は361件と記録されています。しかも、そのうち日本軍の犯行と確定したのは7件に過ぎず、その日本兵は処罰されています。実は、虐殺を報告したマギー牧師と同じように、ラーベも自分自身で犯行現場を見ていません。
また、東京裁判に提出された南京の金陵大学病院医師のマッカラムの日記には「中国人難民から、強姦や略奪、放火などは日本兵がやったのではなく、中国兵がやったと聞いた」とあります。中国人の犯行が、日本軍の犯行に仕立て上げられる例が多かったのです。
当時の南京で、中国人女性の中絶や出産が極端に増えたという記録もありません。
真実 写真はほぼ捏造
右の写真は、『ザ・レイプ・オブ・南京』(アイリス・チャン著)に掲載されたもので、「日本軍が家屋に火を放っている」と説明しています。しかし、この戦車は、「97式軽装甲車」であり、本格的な生産は1939年からでした。つまり、南京陥落の37年には存在していません。このように南京大虐殺の証拠と言われる写真の多くが、作られたものや関係のないものです。
真実 「虐殺」を報告した欧米人と中国国民党の深い仲
ジョン・ラーベ
南京国際委員会委員長。ドイツ・シーメンス社の中国支社長として、国民党軍に大量の武器を売却していた疑いがあります。
ハロルド・ティンパーリ
英紙「マンチェスター・ガーディアン」のオーストラリア人記者。国民党中央宣伝部顧問も兼ねていました。
ルイス・スマイス
南京の金陵大学教授。『スマイス調査』は、国民党国際宣伝処の要請と資金提供で書かれた本と言われています。
「大虐殺」はなかった
この他にも、「大虐殺」がなかったことを示すものはたくさんあります。
例えば、日本軍の南京攻略の1カ月後に、南京の人口は20万から25万へと、5万人も増えています。3週間後には、電気や水道も復旧していました。また、戦後の東京裁判で、中国国民党は、中国人の死者の埋葬数を改ざんして、日本軍の虐殺に見せかけました(31ページインタビュー)。日本軍は南京で「大虐殺」などしていないのです。