https://ryuho-okawa.org/quotes/20190612/
「自分が一日を生きるために、いったい、
どれだけの人の手がかかっているか」と、根本から考えると、
おそらく、万の単位を遙かに超える人たちの力が加わっているはずです。
それだけ大勢の人の努力と汗があって、きょう一日、自分が生かされているはずなのです。
『青春の原点』 P.203より
https://ryuho-okawa.org/quotes/20190612/
「自分が一日を生きるために、いったい、
どれだけの人の手がかかっているか」と、根本から考えると、
おそらく、万の単位を遙かに超える人たちの力が加わっているはずです。
それだけ大勢の人の努力と汗があって、きょう一日、自分が生かされているはずなのです。
『青春の原点』 P.203より
https://ryuho-okawa.org/quotes/20191026/
平凡さの中に、一つの生き甲斐を見出せ。
平凡な日々における生き甲斐とは一体何であるか。
それが「愛」であると私は思う。
愛の本質は、日々変わりない毎日の中において、
相手を想い続けるということである。
愛の本質は、持続であり、忍耐である。
諸君よ、愛が単なる情熱ではないことを知れ。
『光ある時を生きよ』 P.143より
https://ryuho-okawa.org/quotes/20191025/
人生には、何度かターニングポイントがあります。
そこにおいて、よい方向に行けるようにするためには、
日ごろから、徳を磨き、器をつくっていくことが大事です。
そういう努力をして光の出ている人に対しては、
必ず導きがあります。
この導きは、その人にとって大きな力となるでしょう。
『感化力』 P.43より
はたして運命があるのかと言えば、個人によって、
その内容にも程度にも差がありますが、
運命を形成している因子がいくつかあることは事実です。
第一の形成因子は、業、つまり魂の傾向性です。
第二の因子は、両親や兄弟といった家庭環境です。
第三の因子は、時代環境、社会環境です。
第四の因子は、本人自身の努力です。
第五の因子は、他の人びとの協力です。
この五つの要素が運命をかたちづくっているのですが、
第四の「本人の努力」と第五の「他人の協力」の部分が、
未確定のものとして残されていると言ってよいでしょう。
『釈迦の本心』P.196
https://ryuho-okawa.org/quotes/20191024/
あまりマイナス思考にとらわれることなく、
あるいは、過去に引きずられることなく、
再出発していくことが大事です。
いろいろな不幸や災害、身内の問題、会社の問題、仕事の問題
などがあろうかとは思いますが、
済んだことは済んだことです。
川の水と一緒で、流れ去ったものは、
もう、もとには戻りません。
やはり、「これから、どう生きるか」ということが大事なので、
もう一度、宗教的なパワーを胸に秘めて、再出発をすることです。
『されど光はここにある』 P.173より
https://ryuho-okawa.org/quotes/20191023/
たとえ、嘲笑われようとも、
「宗教ごときが何を政治に乗り出しているのか」と言われても、やります。
正しいと思うことについては、勇気を持って戦います。
それによって、幸福の科学が利益を得ようが得まいが、
そんなことは、どうでもよいことです。
不惜身命です。
宗教家として世に立って以来、すでに命は捨てています。
真理のために戦います。
その戦いを、命尽きるまでやめません。
宗教家が畳の上で死ねるとは思っていません。
私は、やります。
『政治に勇気を』 P.134より
https://ryuho-okawa.org/quotes/20191021/
心の発展のなかで、
私は希望と勇気ということをあげましたが、
これでもたらされるものは、
魂の器が大きくなるということであり、
みなさん自身の魂のよき影響力、
感化力が増えてゆくということであり、
魂の足腰が強くなってゆくということでもあります。
単なる現状維持の自分の「悩みさえなければよい」
という思いから離れて、さらに荒々しい環境のなかで、
そのダイナミックスのなかで、
力強く希望に満ちて生きてゆくことによって魂をさらに発展させ、
そのことによって、自分も大いなるよろこびを得、
また、多くの人びとをもよろこびの道に率いてゆくことができるわけです。
『悟りに到る道』 P.155より
https://ryuho-okawa.org/quotes/20191020/
優しい言葉、優しい振る舞い、優しい心情、優しい表情──。
私の心のなかをよぎってゆく美しい光景は、
いままでに出会った人々の優しさに満ち満ちています。
優しさとは大切な美徳であり、
最も大切な思いです。優しさとは、愛の具体化そのものなのです。
『限りなく優しくあれ』 あとがきより
『できない理由』を言うのは、
本当に最後の最後です。
若者であるならば、『どうすればできるか』『いかにすれば解決できるか』
ということを、まず考えてください。
それが大事です。私は、いつも、そうしています。
(大川隆法『Think Big!』203ページ)」
「『心の態度』がその人自身をつくっていく」
(大川隆法『Think Big!』もくじ)
「もう少しで成功できるのに、たいていの人は、その手前で、あきらめてしまう」
(大川隆法『Think Big!』153ページ)
「人間は、自分が考えているとおりの存在になる」
(大川隆法『Think Big!』もくじ)
https://ryuho-okawa.org/quotes/20190609/
若いときには、いろいろと悩んだり、スランプがあったり、
劣等感で苦しんだりして、選手としては一流ではなかったけれども、
その分、人生の辛酸を嘗め、多くの人たちの気持ちが分かるようになった人には、
“名監督”になっていくような面があったりします。
「管理職年齢」以降の成功においては、
一般に、若いころの成功とは違ってくるところが大きいのです。
『人生に勝つための方程式』 P.37より
https://ryuho-okawa.org/quotes/20190613/
私が説いている仏法真理のなかに、「縁起の理法」(原因・結果の法則)がありますが、
学生時代ほど、この縁起の理法がよく当てはまる時代はありません。
実社会では、努力をしても、結果は、なかなかストレートには出てこないものです。
しかし、学生時代は、例えば、数学であろうと、英語であろうと、
的確な方法できちんと勉強すれば、「できなかったところが、できるようになる」
という効果が、はっきりと出てくるのです。
したがって、学校教育においては、子供たちに、
勤勉を中心とした努力の大切さを自分自身で確認させるとともに、
「努力をしたら、努力しただけの成果があがってくる」ということを、
きちんと自覚させることが非常に大事だと思います。
『教育の法』 P.181より
http://voicee.jp/201310196993
2人の子供を見送って
私たち家族は、幸福の科学の霊園である、栃木県那須郡にある「来世幸福園(らいせこうふくえん)」を訪れました。
ここに来ると、「あの世」は、この世と離れた場所にあるのではなく、すぐそこにある気がします。手が届くところで、あの世の人たちが手を振っている気がします。
私たち家族はここに来て、5人の納骨と法要をしました。
5年前に亡くなった2女の香菜、19年前に亡くなった長男の大樹。
そして私の母と、主人の父、私の叔母の5人です。
法要が始まると、天上界から燦々と光が降り注ぎ、5人の方々の「ありがとう」という声が聞こえてくるようでした。
死は永遠の別れではない。
この世で肉体が死んでも、あの世で魂は生きている。
そして、また愛する人と、あの世で再会することができる―――。
この幸福の科学の教えが、私たちにどれほど希望を与えてくれたことでしょうか。
振り返ると、2人の子供と過ごした日々が、走馬灯のようによみがえってきます。
お子さんをどうされますか?
大樹(たいじゅ)が私たちの子供として生まれたのは、19年前のことでした。
そのころ、私とお父さんは、とても夫婦仲が悪い状態でした。
しょっちゅうケンカばかりしていました。
自衛隊に勤務して、若いころはずっと船に乗って家を空けていたお父さん。
陸上勤務になっても、帰ってきたと思ったら、すぐに家を飛び出してしまい、家にいるということがありません
。
3人の娘を抱えていた私は、いつも不満ばかりでした。
「もっと家族と一緒にいて、家のこともしてくれたらいいのに……」
お父さんが熱中していたのは、幸福の科学の活動です。
私も幸福の科学の本は読んで、いいことが書いてあると思っていましたが、なぜそこまでお父さんがのめり込むのかが理解できず、いつもお父さんを責めていました。
そんなころ、私は妊娠しました。
3女を産んでから7年。
待望の男の子です。
私もお父さんも、娘たちも、どれほどあなたの誕生を喜んだことでしょう。
予定日から2カ月以上も早く、私は出産の日を迎えました。
微弱陣痛のため、薬を使ってやっと生まれてきた、あなたの泣き声は、まるで猫の鳴き声のようだったと覚えています。
上3人の娘とは違って、あなたとは、なぜかすぐに会わせてはもらえませんでした。
そして、あなたは別の病院に入院してしまったのです。
その事実を私が聞かされたのは、何日もたってからのことです。
お父さんが医師に呼ばれ、こう言われたそうです。
「お子さんには奇形があります。おそらく長くは生きられないでしょう。この子をどうされますか?」
「どうされるとは……? もちろん、育てます!」
お父さんは力強く、そう答えたそうです。
私があなたと初めて会えたのは、生後半月もたったころでした。
集中治療室に入っていたあなたを、ガラス窓の外から、覗いてみました。
下半身をタオルにくるまれていたので、奇形だということは、分かりません。
あなたは、すやすやと眠っていました。
「かわいいやん」
私の言ったひとことに、お父さんはすごくホッとしたそうです。
障害の子を育てる覚悟
私たちは、大きな樹のようにすこやかに育ってほしいという願いを込めて、あなたに大樹と名前を付けました。
あなたの片方の足は曲がっていました。
手の指も、硬くて曲がらない状態でした。
でも、私たちを見つめてキラキラ光る黒目がちの瞳も、私の手を握り返してくる小さな手も、すべてが愛しく、余計に涙がこぼれてきました。
「どうして、大樹は、こんなことに? 子供は五体満足で生まれるものだって、なんの疑問もなく、信じていたのに……」
そんなある日、同じ病室の方とお話ししました。
「私の子供は、今年4歳になります。生まれてから一度も病院から出られなくて……」
その子も重い病気を持っていました。
見回してみると、ほかにも病院内には、大きな病気を抱えた子供たちが何人もいました。
病院に入るまでは、そんな子供たちのことを考えたこともなかった私です。
「私だけじゃない。もっと大変な人はたくさんいるんだ。泣いてばかりいたってしょうがない。もっと前向きに生きなきゃ!」
弱気な心を励ましながら、もう、決して泣くまいと、誓いました。
そのとき、ようやく私は、あなたを育てる覚悟ができたのだと思います。
離れた心を一つに
生後1カ月で、あなたはようやく集中治療室を出て、自宅に帰ってきました。
お姉ちゃんたちのなかでも一番の仲良しは、2女の香菜でした。
翌月には東京ドームで大川隆法総裁の御生誕祭がありました。
私たちは、家族そろって広島から参加しました。
そのとき、8歳の香菜が、ずっとあなたを抱いていてくれました。
「私がだっこする!」
あなたを中心に、娘たちが笑い合っています。
その様子を見て、お父さんも私も顔を合わせて笑顔になりました。
離れていた家族の心が、あなたのおかげで、一つになれた気がしました。
しかし、それから間もなくのことです。
大樹のおなかの横に、ぽっこりとした出っ張りが見つかり、私は急いで病院につれて行きました。
レントゲンを撮った医師が言いました。
「脱腸ですね。それより、肺のなかが真っ白です。すぐに入院してください」
それ以来、大樹はずっと病院で過ごすことになりました。
小さな体で闘う大樹
入院してからも、あなたは小さな体で病気と闘い続けました。
私は3人の子育てがあるので、大阪に住む私の母が、ずっと病院に泊まり込んで、あなたの付き添いをしてくれました。
母は介護の仕事をしていたので、率先して引き受けてくれたのです。
本当にありがたかったです。
そして土日は、私とお父さんが交代で、あなたに付き添いました。
お父さんは、仕事が終わると毎日病院にやってきて、あなたの足や手をさすっていました。
「足が、よくなりますように。手が、よくなりますように」そう言いながら、あなたに話しかけていました。
私はそんなお父さんの様子を見て、見直しました。
不仲だった私たち夫婦の心が、あなたのお陰で、だんだんと元に戻っていったのです。
あなたの呼吸が止まり、命の危険にさらされたことも、9回ありました。
そのたびに、私たちの祈りが通じ、あなたは生き返ってくれました。
しかし、入院して7カ月になろうとしたころ、もう、あなたは自力で呼吸をすることができなくなっていました。
「人工呼吸器をつけますが、お子さんがまだ小さいので、肺がつぶれる可能性があります」
医師の言葉に、あなたの痛みを思うと、苦しくて私の胸もつぶれそうになりましたが、口からは「お願いします」と、言葉が出ていました。
もう、長くはないのか……私もお父さんも、そう思いました。
でも、一縷(いちる)の望みにかけたのです。
頑張り通した10カ月の命
その後、あなたは人工呼吸器を付けたあとも45日間、生き続けました。
この45日は、私たちが心の準備をするために与えられたのだと思います。
「大樹は一生懸命生きようと頑張っている。でも、生き延びても、大樹の苦しみが長くなるだけなのかもしれない。ひょっとしたら、大樹は、私たちのために、頑張っているのかも……」
そう思うと、この世にあまり引き留めるよりは、あの世にお返しして、また健全な体で生まれ変わることを望んだほうがいいのかもしれない。
私もお父さんも、だんだんと、そういう覚悟を固めていきました。
それはつらく、悲しい時間でしたが、生の意味、死の意味を、心底考える時間でもありました。
最期の日、医師が告げました。
「この心電図の波形を見ていてください。止まったら、教えてください」
主人と医師の言葉を聞きながらも、私は心電図を正視することができなくなっていました。
「大樹、もう、いい……よ。ありがとう。よく頑張ったね」
私の口からその言葉を聞いた大樹は、安心したように、静かに息を引き取りました。
お父さんも私も、人目もはばからず号泣しました。
「大樹は、私たちの心の準備ができるのを、ずっと待っていてくれたんだね。ありがとう。よく頑張ったね……」
そのとき、不思議な光景を目にしました。
亡くなった大樹の足が、まっすぐになり、固まっていた手の指も、曲がるようになっていたのです。
「ああ……、あなたはもう、不自由な肉体を抜け出して、自由自在になったのね。もう、苦しむことはないんだね……」
涙に暮れながらも、新たな希望の灯がともったようでした。
大樹、ありがとう
告別式には、大勢の人が集まってくれました。
棺には、あの世で天使たちに導いていただけますようにと、幸福の科学の根本経典である『正心法語(しょうしんほうご)』を入れてあげました。
幸福の科学の仲間が、あなたのために、みんなで『正心法語』を唱えてくれました。
「大樹、よかったね……。私たちの子供として生まれてきてくれて、ありがとう……」
みんなに送られて、あなたの小さな命はあの世に還っていきました。
私たちは、あなたにいろいろなことを教えてもらいました。
あなたの闘病と死を通じて、私は幸福の科学の教えを真剣に学ぼうと思うようになりました。
それは、あなたの10カ月という短い命の「意味」を考えたかったからです。
もし、幸福の科学の教えがなかったら、私はずっと悲しみに暮れていたでしょう。
でも、私は信じることができました。
「人は、死んでも、あの世で生きている。そしてこの世に生まれ変わってくる」こと。
「障害を持って生まれてくるのも、その人の人生の計画であり、人生は一冊の問題集である」こと。
「この世に生まれてくることは、とても危険を伴うけれど、あえて勇気を持って生まれてくる。だから、その命を大切にしなければならない」こと。
「愛する人とこの世で別れることは、避けられない宿命だけれども、あの世できっとまた会える」こと。
こういった「霊的人生観」を知り、信じることで、どれほど私たちは救われたことでしょうか。
あなたの短い人生にも、きっと大きな意味があったのだと思います。
その証拠に、私たち家族は、あなたのおかげで、幸福の科学の信仰家庭として、一つになることができたのですから。
3人のお姉ちゃんたちも、身近なきょうだいの死を経験して、命の大切さや、あの世があることを、素直に信じるようになりました。
大樹、ほんとうに、ありがとう。
あの世で、きっとすくすくと成長しているよね。
あなたと会える日が、ほんとうに楽しみです。
2女との別れ
香菜、あなたは、とてもいい子でした。
高校までは、まじめで、勉強熱心で、やさしい子でした。
そんなあなたが大学に入って、髪を金髪に染めたあたりから、私とお父さんは心配しました。
案の定、大学3年で、「できちゃった結婚」をして、娘のRを産みました。
あなたは、お父さんに似て完全主義で、とても頑固なところがあります。
彼とは結局うまくいかず、別れてしまったのに、「自分で働いて、絶対に育てる」と言い張って、一生懸命にアルバイトをして、自活しようとしていました。
でも、そんな無理がたたって、あなたは心臓に持病を抱えるようになりました。
それを知ったのは、後のことでしたが……。
5年前の10月のことです。
まもなく定年を迎えるお父さんとともに、結婚以来、初めての、夫婦水入らずでの旅行に出かけました。
お父さんは、9年前に、過労からくる心臓病と脳卒中で、重い障害が残りました。右半身がマヒし、記憶障害と、言語障害になってしまったのです。
いつも自分ですべて完璧にこなさなければ気が済まなかったお父さんが、「何もできない」というのは、ほんとうに苦しそうでした。
しかし、幸福の科学で信仰していた私たちは、これも我が家にとっての大きな「人生の問題集」と受け止め、リハビリに専念しました。
寝たきりの状態から、立ち上がり、歩き出し、杖を使わずに歩けるようになりました。
ほんとうに奇跡のような回復ぶりでした。
記憶はまだ、あいまいなところはありますが、仕事にも復帰できたのです。
この旅行に出て、今までの楽しかったこと、つらかったことを、夫婦であれこれ話しながら、ゆっくりした時間を過ごし、私たちは帰路につきました。
あなたの異変を知ったのは、その旅行からの帰途、新幹線のなかでした。
長女からの電話でした。
「香菜が……香菜が倒れて、救急車で運ばれたけど、だめだったって……」
あまりにも突然の訃報。
私も主人も声が出ませんでした。
それからのことは、頭のなかが真っ白になって、あまり覚えていません。
つい数日前、我が家で香菜の誕生日のお祝いをしたばかりなのに。
ケーキにろうそくをさして、子供みたいに、娘のRと一緒に吹き消していた香菜。
いつもありがとうって、手紙をくれた香菜。
誰よりも頑張り屋さんだった香菜。
「香菜、どうして……?」
それから、葬儀の手続きが始まり、あわただしく目の回るような日々でした。
死は別れではない
あなたには、離婚したあと、お付き合いしていた男性がいました。
その彼に香菜のことを知らせると、出張先から大急ぎで駆けつけてくれました。
「今日、僕が帰ったら、香菜さんに言おうと思ってたんです。……。結婚、してくださいって……。それが、まさか、こんなことになるなんて……。お父さん、お母さん、いまさらですが、香菜さんを、僕に、ください」
そう言って泣き崩れる彼の姿に、私たちも、ただうなずくばかりでした。
香菜もきっとそれを望んでいただろうと、棺に、彼との婚姻届を入れました。
幸福の科学式の帰天式(きてんしき)で、多くのお友達に見送られて、香菜は旅立って行きました。25歳という若さでした。
お父さんはとても立派でした。
喪主として、涙をこらえながら、あいさつをしていました。
「親として子供に先立たれるということは、本当につらいことです……。でも、誰でも必ずやがては、この世を去る日が来ます。遅いか早いかの違いだけです。
あの世は、確実にあります。そう私たちは信じています。そして、子供たちも、あの世で元気で生きている。そして、いつか必ずまた会える。そのときを信じて、この世で私たちも、命あるかぎり、懸命に生きたいと思います」
そのお父さんの姿に、きっと香菜も、あの世から声援を送ってくれていたことでしょう。
その場に集まってくれた、あなたの友達も、10名以上の方が、幸福の科学に入信してくれました。「僕も、あの世は、あると思います」「私も、そう信じたい」そう言ってくれました。
あなたは、ほんとうに友達思いだったのでしょうね。
その後も、大学時代のお友達が何人も何人も、我が家を訪れては、あなたのことを語ってくれました。
「ほんとうに、やさしくて、頑張り屋で、しっかりした人でした」
「香菜さんに励まされて、私も頑張れました」
それから、あなたが亡くなって数日後に、幸福の科学の友達が、「実は、昨日、香菜ちゃんの夢を見たの」と話してくれました。
「香菜ちゃんは、『体を悪くして、とても早いんだけど、今世の修行を終えて、先に還ります。お母さんの娘でよかった。とても感謝しています。お母さんのこと大好きでした。これからは、いつも天上界から見守っているからって、みんなに伝えて』と言っていましたよ」
それがあなたからのメッセージに間違いないと確信した途端、私は涙が涸れるまで泣きました。
いつかまた、めぐり会える日まで
あなたは、私たちにもうひとつ、大きなプレゼントを遺してくれました。
あなたの一人娘のRです。
Rは、あなたの子供のころにそっくり。
前から同居していたこともあって、あなたが今も「ママ」だけど、あなたが私を「お母さん」と呼んでいたので、Rはそれをまねして私のことをずっと「お母さん、お母さん」と呼ぶんですよ。
新しい我が子ができたようで、私たちはほんとうに喜びでいっぱいです。
Rも一緒に、来世幸福園に、あなたの三回忌の法要に行きました。
いつでも、あなたのことを思うと、すぐに通じる気がします。
この世とあの世は、離れているように見えて、そうではないのですね。そちらからは、こちらの世界が手に取るように見えるのでしょう。
香菜、短いこの世の人生でしたが、あなたなりに一生懸命に生きたよね。
あの世から、Rや私たちを見守っていてね。
そしてまた、あの世で語り合いましょうね。
大樹と香菜、2人の子を見送った私たちですが、今はもう悲しみはありません。
なぜなら、あの世は確実にあり、子供たちの魂は生き続けているからです。
幸福の科学の教えを信じることで、「死」は怖いものではなく、むしろ希望へと変わりました。
死は、この世からあの世へ還ることです。
あの世こそ、本来の私たちの住んでいる世界であり、この世の人生はわずか数十年の「旅」のようなものです。
そして、この世は「修行の場」ですから、苦しみや悲しみを避けて通ることはできません。
でも、その苦しみ悲しみを教訓とすることで、同じような立場で苦しむ方々に、幸福になる方法をお教えすることができます。
仏は、人々の悲しみもすべて受け止めてくださっています。
一切のものに仏の慈悲が宿っています。
この慈悲の世界を、多くの方に感じ取っていただきたい──。
そう願って、これからも伝道を続けていきたいと思います。
私たちのふるさとである、あの世に還る、その日まで。
「宇宙人はいる!」断言する宇宙飛行士たち
http://the-liberty.com/article.php?item_id=12834 幸福の科学出版
《本記事のポイント》
・アポロ12号の宇宙飛行士が宇宙人について発言
・宇宙人の地球飛来説を公言する宇宙飛行士たち
・UFOは宇宙人が飛来したという想定は非現実的ではない
地球に似た環境の惑星がいくつも見つかり、宇宙の生命体が発見される可能性が現実的なものとなりつつある。実際に月面に降り立ったアポロ計画の宇宙飛行士たちも、今までに宇宙人に関する様々なコメントを残している。
オーストラリアのニュースサイト、News.comの記事で、アポロ12号の宇宙飛行士アラン・ビーン氏の宇宙人観が話題になっている。ビーン氏は、1969年、アポロ12号で月に行き、月面に降り立った12人のうちの1人で、現在85歳。
彼は「地球に宇宙人が飛来しているとは思わない」と言う。その理由は、「地球に来れるほど文明が進化しているということは利他的で友好的なはず。本当に飛来していたら、地球がまだ解決できないガンの撲滅といった方法を伝授するだろう」「1000年先といった未来に、地球が他所の星に行ったとき、きっとそうするように」というものだ。
ただし、彼は宇宙人の存在は信じている。「数えきれない星の数からしても、統計的に生命体が存在するはずだ」と言っている。
◎「エイリアンは我々を観察している」
この記事を受けて、米ハフィントン紙(3月29日付)と、英デイリースター紙(4月6日付)は、明確に宇宙人地球飛来説を訴える宇宙飛行士たちを紹介する記事を掲載した。
昨年亡くなったアポロ14号の宇宙飛行士エドガー・ミッチェル氏は、「エイリアンが我々を観察しているし、時々、飛来している」と公言している。米政府が情報を隠し続ける理由は「エイリアンに敵意があるのかどうか不明で、ソ連(当時)にも知られたくないからだ」とも言っている。
また、アメリカ初の有人宇宙飛行計画マーキュリー計画に参加した宇宙飛行士の1人、ゴードン・クーパー氏も宇宙人の飛来を強く信じている。彼は、膨大な数のUFOを目撃しており、1985年、国連に対し地球レベルで取り組むことを提言している。
同じくマーキュリー計画に参加した1人、ディーク・スレイトン氏もUFOを目撃し、強く印象に残ったと言っている。元宇宙飛行士でNASAの科学者でもあるブライアン・オレアリー氏は、「彼らが飛来している証拠は豊富にある」と言い切ってもいる。
最近ますます宇宙での生命体探査が注目されているが、そもそも地球人も、広大な宇宙の中に存在する知的生命体だ。宇宙の億年単位の歴史と、文明の進化を考えると、地球人類よりも数億年単位で文明が発達した星があってもおかしくはない。UFOは他の星の知的生命体が飛来したものという想定も、決して非現実的なものではないはずだ。(純)
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2015年10月号 目を覚ませ!UFO後進国ニッポン - 宇宙人との遭遇 - マスコミが報じない真実
http://the-liberty.com/article.php?item_id=10083
2017年3月4日付本欄 アメリカだけではない! チャーチル英首相もUFO情報を隠していた?
http://the-liberty.com/article.php?item_id=12678
進化論は仮設であって真実ではない
『学校教育の影響でもあるのでしょうが、多くの人達は、「アメーバーが人類の祖先であり、そこから進化して人類になった。」と考えています。
そういう人達に対して、私は、「では、それを証明してごらんなさい」と言いたいのです。しかし、それを証明できた人などいません。
アメーバーから人間になっていく途中のものが、もし、生きて存在しているなら、連れてきて順番にならべてみてください。(中略)
その過程荷は、「途中にもの」、「変化中のもの」があったはずです。それは、今でも存在していなければいけないでしょう。ところが、今、存在している生き物は、は「すべて完成されたもの」ばかりです。
仮設にもとずいて意見を述べるのは結構ですが、仮設はあくまでも仮設であって、真実ではないのです。
あるいは、「人間の進化の過程について、アメーバーまでさかのぼるのはいきすぎだ」と言う人がいるかもしれません。
では、「あなたの先祖はネズミである」と言われたらどうでしょうか。
それを、「はい、そうです」と、もし百パーセント近い人が信じるならば、そういう世の中は狂っていると思った方がいいでしょう。
今、ネズミはネズミ、人間は人間であり、それぞれ「完成体」として存在していますが、「
なぜ、ネズミはネズミのままでいるのに、人間は人間になったのか、その説明せよ」ということです。
なぜ、ネズミはネズミのままでいて、なぜ、人間は高度な知能を発達させ、高度な感情を発達させ、高度な仕事ができるようになったのでしょうか。それを説明してください。偶然にそうなったと思いますか。