文科省は異端審問の誤りを繰り返す?
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文部科学省の大学設置審議会は、「幸福の科学教学は学問とは言えない」と指摘しているようだ。既存の学会の中で、既存の学者による厳しい検証作業を経ていない、というのだ。
ところが審議会委員の学者の方々は、審査にあたって大川総裁の主要な著作に目を通さないという。ただ、学識と経験の豊かな学者であれば、一つの著作がどれだけ世の中の批判にもまれた上で練り上げられているかは一目瞭然だろう。
大川総裁の書籍は国内外に何百万人、何千万人の読者がいる。その中には各分野の専門家も存在する。それだけの読者を獲得し続けているということは、最初の著作発刊以来約30年にわたって「厳しい検証作業」に耐え続けてきたことを意味する。
審議会の委員が言う「学会での検証」はもちろん必要なものだが、「それを経なければ学問ではない」「だから大学で教えてはいけない」というのは、“象牙の塔"でのみ通用する狭い考え方と言わざるを得ない。
中世の異端審問も、カトリック教会が“内輪のルール"で決めたことが350年後に歴史的な誤りになった。それを繰り返さないためには、どうすればいいだろうか。
異端審問の反省から「学問の自由」が出てきた
クロムウェルによる清教徒革命で、信教の自由や学問の自由といった近代自由主義の原型ができた。この精神は日本国憲法にも盛り込まれている。
カトリック教会の異端審問やその後のプロテスタントとの宗教戦争の反省から、17世紀、「学問の自由」「信教の自由」の考え方が生まれた。
イギリスでは、国教会側によるプロテスタント弾圧に対し、クロムウェルが清教徒革命を起こし、近代自由主義の原型をつくった。クロムウェルは自身が実現すべきことの第一として「信仰告白の自由」を挙げ、現に実行した。そこから言論・出版・結社・学問の自由が派生していった。
国教会側による出版検閲に抵抗し、クロムウェルと行動を共にしたジョン・ミルトンは、無許可の著作『アレオパジティカ』で「検閲は学問と学者に対する最大の侮辱」と批判した。
ミルトンは検閲が中世の異端審問から始まったとして、その害悪を訴えた。その時点の少数派に神の真理が降りるかもしれず、「真理と真理を結合する」ことが必要だと強調した。
確かに、釈尊もソクラテスもイエス・キリストも最初は一人。「少数派」に対する寛容さを持ち保護しなければならない、というのが「学問の自由」「言論の自由」の核心だ。
人類の叡智をとるか内輪のルールをとるか
この精神は、イギリス名誉革命の政治哲学者ジョン・ロックの思想を通じてアメリカ憲法に盛り込まれ、さらに日本国憲法にも受け継がれている。
大学設置審議会はこの人類の叡智に則って、「新しい学問」「新しい神秘思想」に対する寛容の精神を保てるだろうか。それとも、文科省や学会の“内輪のルール"によって「これは学問ではない。異端である」と宣言するのだろうか。
ことは憲法問題。文科省による「学問の自由」「信教の自由」の侵害を放置し続けるのかどうか、安倍晋三首相の判断にかかっている