人としてのパヴロワ夫人
尾上菊五郎
パヴロワ夫人ですか。芝居の都合で見られませんでしたが、仕舞つてからは是非見る積りです。
私は横浜へ夫人が乗つてゐる船が着いたとき榮三郎と男女藏とを連れて出迎ひに行つて逢ひ写真を撮り、引き伸ばして夫人に贈りました。
私は初めて逢つた時、たしかに此夫人は踊れる人と思つたのは、部屋の四十九号から出て来たときに非常に足に力がある女と感じましたさうして足が軽く上がるやうな気がしました。
外国人の話は一切為方 しかた 話ですが、取分けパヴロワ夫人は、それが多いやうで、その一々が総て踊 おどり の形で遣つてゐました。
握手をするのも、お辞儀をするのも、部屋へ這入つて戸を締めるのも一切踊の形になつてゐましたから、たしかに踊は旨いだらうと思ひました。
さうして桟橋を大概の人は屈 かが むのを、パヴロワ夫人は反身 そりみ で、爪先を立てゝゐました。
評判に拠ると上手だといふについて、果して自分の感想が当つたと思つて自負しました。
芝の家へ呼んでお茶を上げましたり〔上の写真:絵葉書のもので、撮影日は九月十二日〕、市村座の部屋へも参りました。
新聞で御承知の通りでせうが、家でいろゝの話から、パヴロワ夫人が土蜘 つちぐも の法被 はっぴ を着、私が山中平九郎の鱗 うろこ の着物を着て、是非写真を撮りたいといふので、二人で並んで写ました。〔上の写真は、左が絵葉書の、右が雑誌掲載のもので、「菊五郎とパヴロワ夫人」〕
その時パヴロワ夫人が「日本の着物、綺麗なものばかりあります」と云はれたから、私が「あなたの国、舞 をどり の着物にきたないものもありますか」と聞いたら、「それはない」と答へられました。
そこで私が「日本の踊の着物綺麗なものありますが、きたないものもあります」と云つたら見たいと云はれましたから、気違ひ幸兵衛の着物を出して見せました。
それから子供を見せてくれと云はれましたから、次男の清晁 せいてう を見せましたら、国へ連れて行きたいと云はれました。連れて行かれて堪まるもんですか。〔上の写真:左は、雑誌掲載の「菊五郎夫妻と菊五郎の愛児を抱けるパヴロワ夫人」、右は、絵葉書のもの〕
さうして気違幸兵衛の踊を遣つて見せましたら、是非遣つて見せましたら、是非遣 や つて見たいなどと云はれましたが、お世辞の好い事。一体日本の芸術家はお世辞が足りません。取分け私なぞはそのー点に就いてはパヴロワ夫人の爪でも煎じて呑みたい位にお世辞の好さ、踊は旨いと聞いただけ、まだ見ませんが慥 たし かに巧いに違 ちがひ がありません。
上の文は、大正十一年 〔一九二二年〕 十月一日発行の『新演芸』十月号 第七巻 第十号 に掲載された「日本舞踊家の見たるアンナ・パヴロワ」の三つの文の中のひとつである。
なお、「六代目菊五郎とその家族と共に。」という写真が、マーゴ・フォンテーン著・湯川京子訳の『アンナ・パヴロヴア』(文化出版局 昭和61年)にある。
この写真は、アンナ・パヴロワの踏影会〔菊五郎もその同人〕への御礼状で、大正十二年三月発行の『踏影』 第二号 の口絵に掲載されたもの。
その日本語訳は、掲載写真の裏面にある。 〔手紙の日付は、一九二二年九月十二日〕
若人達よ
兄等の一番御深切な待遇に心から感謝して居ります
美しい会員章の贈り物は私に「好い日本の思ひ出」として役立ちます
私は兄等の計画の目的に深い感銘を覚えました「完全な成功」が兄等の努力を待つて居る事を私は疑ひません
アンナ・パブロワ
踏影会皆々様
下の一文は、大正十一年 〔一九二二年〕 十月一日発行の『新演芸』 十月号 第七巻 第十号 に掲載された「日本舞踊家の見たるアンナ・パヴロワ」の三つの文のひとつである。
パヴロワ夫人の舞踊
松本幸四郎
帝国劇場では、十日から僕等が昼間舞台を勤めることになつて、夜は夜で、露西亜の舞踊を御覧に入れてゐます。
僕がその初日を見物すると、或人が僕にパウロワ夫人の舞踊に就いて「日本の踊 をどり と比較して如何 どう だ」といふお尋ねがありましたので、僕がそれに答へたのを、又お尋ねに拠つて申しますれば、
「それは日本の踊に比べることは出来ません。日本の踊は即ち振り所作で、始終表情があつて謂はゞ芝居の元となつてゐるのですが、あちらのは御覧なされた通り、体の鍛錬であり、又一つには特種の体でやるのですから全然 まるで 日本の踊とは趣が違ふのです。今夜見ました『瀕死の白鳥』は得意中の得意のものだと聞きましたが、なるほど結構なものでした。此の前有楽座でしたが、同じ露西亜婦人の『瀕死の白鳥』を見ましたが、あの時は白鳥にも羽が付いてゐたし、色電気を使つて見せました。今度のは羽などもなく淡 あつさ りとした服装 いでたち で、色電気も使はないところに、パヴロワ夫人の最大見識があつたやうに思はれました。稽古も毎日ちよいゝ見ましたが、物凄いやうでした。僕は大陸を歩いて来ませんから受合つて申されませんが、単に云へば、パヴロワ夫人の踊は、世界一だと云へようと思ひます。それは私のみならず、あの初日の夜、見物された名士の方々も大分来られたやうにお見受けしましたが、廊下で「それこそ本統の世界だ」と、どなただか褒めてゐられたのも耳にいたしました。」
この写真は、絵葉書のものであるが、同じ写真が「中村福助とパヴロワ夫人の握手」の説明で、下の『新演芸』に掲載されている。撮影日は、大正十一年 〔一九二二年〕 九月十六日と思われる。
中村福助は、帝劇の初日と三日目〔山田耕作夫妻・父の中村歌右衛門・友人近藤柏太郎らと〕にパヴロワの舞台を見ている。
下の文は、大正十一年十月一日発行の『新演芸』 十月号 第七巻 第十号 に「日本舞踊家の見たるアンナ・パヴロワ」として掲載された三つの文の中のひとつで、写真「中村福助とパヴロワ夫人の握手」もある。
何度でも見たい
中村福助
わたしは「瀕死の白鳥」が一番好きです。第一回の番組では、この「瀕死の白鳥」を見たいために二度見にゆきました。何度でも見にゆきたいと思ひます。
丁度、今度の羽衣会で、新しい舞踊「盲鳥」を上演することになつてゐたので、わたしにとつては、この上もない幸ひなことでした。
「盲鳥」は「瀕死の白鳥」とは殆んど違ふものですが、わたしの考へてゐたことが、こゝに実演されてゐて嬉しかつたことは、舞台の上下に電気を點けないことでした。その明るさは、落ちついた深みのある味になりました。又、唄のない音楽だけであること、つまり、音楽と踊りによつての表現をするといふ事でした。わたしは、ひどく嬉しくなつて、なほ、「盲鳥」のときに用ひる衣裳や、電気の実際的な方面のことをいろゝと考へました。さうしてノートに書いておきました。なほもつと深くつきつめて考へてみるためです。
二度目には、さうした考へを捨てゝかゝつて見にゆきました。丁度山田耕作氏が一緒に行つてくれたのは又幸でした。父も「瀕死の白鳥」を是非見たいといふので、ともゞそろつて出かけました。この時はわたしは「盲鳥」のことなんかの考へを全然すてゝしまつて、のん気な心持で見るつもりでした。しかし、一所に行つた耕作氏にいろゝ質問したりしました。わたしは舞台を前に見ながら、同氏からいろゝと説明されるので、前に見た時よりもよく分りました。又、始めて見た時より落ちついて見ることが出来たのもよかつたと思ひます。
近いうち、羽衣会ではこのパヴロワ夫人の一行の歓迎会を開く筈です。その時は直接に逢つていろゝと聞いてみたいことがあるけれども言葉が通じないのは残念です。いろゝ突ツ込んで聞いてみたいのですけれども……。
下は、大正十一年十月一日発行の『サンデー毎日』 一年 二十八号 に掲載された「パヴロワ夫人と私と」の一部である。
日本の踊は手振りなり顔の表情で意味を描き出しますが、手の働きより足の働き、分けても爪先 つまさき 。トウの力のはたらきを中心にして、手の形は日本舞踊と違つて自然に流し美を描くに任せて置くのです、そして全身の形を統一して美の表現をして居るのが非常に私の参考になりました。 夫人の来朝記念としてパヴロワさんに何か芸術上で頂戴したいと思つていましたが、幸ひ十六日に父が自宅へ夫人をお招きしましたので、種々(いろいろ)と教を仰ぎ啓発される処がありました。そして夫人からも御頼みがありましたので誠に不遜な事ですがお礼の心持で帝劇の稽古場で、日本の舞踊をお見せしたら大変喜んで居られました。
なお、この同じ号には、「東京千駄ヶ谷成駒家邸におけるアンナ・パヴロワ夫人ー向つて左歌右衛門、右福助、中央パ夫人の前が児太郎」という写真もある。
尾上菊五郎
パヴロワ夫人ですか。芝居の都合で見られませんでしたが、仕舞つてからは是非見る積りです。
私は横浜へ夫人が乗つてゐる船が着いたとき榮三郎と男女藏とを連れて出迎ひに行つて逢ひ写真を撮り、引き伸ばして夫人に贈りました。
私は初めて逢つた時、たしかに此夫人は踊れる人と思つたのは、部屋の四十九号から出て来たときに非常に足に力がある女と感じましたさうして足が軽く上がるやうな気がしました。
外国人の話は一切為方 しかた 話ですが、取分けパヴロワ夫人は、それが多いやうで、その一々が総て踊 おどり の形で遣つてゐました。
握手をするのも、お辞儀をするのも、部屋へ這入つて戸を締めるのも一切踊の形になつてゐましたから、たしかに踊は旨いだらうと思ひました。
さうして桟橋を大概の人は屈 かが むのを、パヴロワ夫人は反身 そりみ で、爪先を立てゝゐました。
評判に拠ると上手だといふについて、果して自分の感想が当つたと思つて自負しました。
芝の家へ呼んでお茶を上げましたり〔上の写真:絵葉書のもので、撮影日は九月十二日〕、市村座の部屋へも参りました。
新聞で御承知の通りでせうが、家でいろゝの話から、パヴロワ夫人が土蜘 つちぐも の法被 はっぴ を着、私が山中平九郎の鱗 うろこ の着物を着て、是非写真を撮りたいといふので、二人で並んで写ました。〔上の写真は、左が絵葉書の、右が雑誌掲載のもので、「菊五郎とパヴロワ夫人」〕
その時パヴロワ夫人が「日本の着物、綺麗なものばかりあります」と云はれたから、私が「あなたの国、舞 をどり の着物にきたないものもありますか」と聞いたら、「それはない」と答へられました。
そこで私が「日本の踊の着物綺麗なものありますが、きたないものもあります」と云つたら見たいと云はれましたから、気違ひ幸兵衛の着物を出して見せました。
それから子供を見せてくれと云はれましたから、次男の清晁 せいてう を見せましたら、国へ連れて行きたいと云はれました。連れて行かれて堪まるもんですか。〔上の写真:左は、雑誌掲載の「菊五郎夫妻と菊五郎の愛児を抱けるパヴロワ夫人」、右は、絵葉書のもの〕
さうして気違幸兵衛の踊を遣つて見せましたら、是非遣つて見せましたら、是非遣 や つて見たいなどと云はれましたが、お世辞の好い事。一体日本の芸術家はお世辞が足りません。取分け私なぞはそのー点に就いてはパヴロワ夫人の爪でも煎じて呑みたい位にお世辞の好さ、踊は旨いと聞いただけ、まだ見ませんが慥 たし かに巧いに違 ちがひ がありません。
上の文は、大正十一年 〔一九二二年〕 十月一日発行の『新演芸』十月号 第七巻 第十号 に掲載された「日本舞踊家の見たるアンナ・パヴロワ」の三つの文の中のひとつである。
なお、「六代目菊五郎とその家族と共に。」という写真が、マーゴ・フォンテーン著・湯川京子訳の『アンナ・パヴロヴア』(文化出版局 昭和61年)にある。
この写真は、アンナ・パヴロワの踏影会〔菊五郎もその同人〕への御礼状で、大正十二年三月発行の『踏影』 第二号 の口絵に掲載されたもの。
その日本語訳は、掲載写真の裏面にある。 〔手紙の日付は、一九二二年九月十二日〕
若人達よ
兄等の一番御深切な待遇に心から感謝して居ります
美しい会員章の贈り物は私に「好い日本の思ひ出」として役立ちます
私は兄等の計画の目的に深い感銘を覚えました「完全な成功」が兄等の努力を待つて居る事を私は疑ひません
アンナ・パブロワ
踏影会皆々様
下の一文は、大正十一年 〔一九二二年〕 十月一日発行の『新演芸』 十月号 第七巻 第十号 に掲載された「日本舞踊家の見たるアンナ・パヴロワ」の三つの文のひとつである。
パヴロワ夫人の舞踊
松本幸四郎
帝国劇場では、十日から僕等が昼間舞台を勤めることになつて、夜は夜で、露西亜の舞踊を御覧に入れてゐます。
僕がその初日を見物すると、或人が僕にパウロワ夫人の舞踊に就いて「日本の踊 をどり と比較して如何 どう だ」といふお尋ねがありましたので、僕がそれに答へたのを、又お尋ねに拠つて申しますれば、
「それは日本の踊に比べることは出来ません。日本の踊は即ち振り所作で、始終表情があつて謂はゞ芝居の元となつてゐるのですが、あちらのは御覧なされた通り、体の鍛錬であり、又一つには特種の体でやるのですから全然 まるで 日本の踊とは趣が違ふのです。今夜見ました『瀕死の白鳥』は得意中の得意のものだと聞きましたが、なるほど結構なものでした。此の前有楽座でしたが、同じ露西亜婦人の『瀕死の白鳥』を見ましたが、あの時は白鳥にも羽が付いてゐたし、色電気を使つて見せました。今度のは羽などもなく淡 あつさ りとした服装 いでたち で、色電気も使はないところに、パヴロワ夫人の最大見識があつたやうに思はれました。稽古も毎日ちよいゝ見ましたが、物凄いやうでした。僕は大陸を歩いて来ませんから受合つて申されませんが、単に云へば、パヴロワ夫人の踊は、世界一だと云へようと思ひます。それは私のみならず、あの初日の夜、見物された名士の方々も大分来られたやうにお見受けしましたが、廊下で「それこそ本統の世界だ」と、どなただか褒めてゐられたのも耳にいたしました。」
この写真は、絵葉書のものであるが、同じ写真が「中村福助とパヴロワ夫人の握手」の説明で、下の『新演芸』に掲載されている。撮影日は、大正十一年 〔一九二二年〕 九月十六日と思われる。
中村福助は、帝劇の初日と三日目〔山田耕作夫妻・父の中村歌右衛門・友人近藤柏太郎らと〕にパヴロワの舞台を見ている。
下の文は、大正十一年十月一日発行の『新演芸』 十月号 第七巻 第十号 に「日本舞踊家の見たるアンナ・パヴロワ」として掲載された三つの文の中のひとつで、写真「中村福助とパヴロワ夫人の握手」もある。
何度でも見たい
中村福助
わたしは「瀕死の白鳥」が一番好きです。第一回の番組では、この「瀕死の白鳥」を見たいために二度見にゆきました。何度でも見にゆきたいと思ひます。
丁度、今度の羽衣会で、新しい舞踊「盲鳥」を上演することになつてゐたので、わたしにとつては、この上もない幸ひなことでした。
「盲鳥」は「瀕死の白鳥」とは殆んど違ふものですが、わたしの考へてゐたことが、こゝに実演されてゐて嬉しかつたことは、舞台の上下に電気を點けないことでした。その明るさは、落ちついた深みのある味になりました。又、唄のない音楽だけであること、つまり、音楽と踊りによつての表現をするといふ事でした。わたしは、ひどく嬉しくなつて、なほ、「盲鳥」のときに用ひる衣裳や、電気の実際的な方面のことをいろゝと考へました。さうしてノートに書いておきました。なほもつと深くつきつめて考へてみるためです。
二度目には、さうした考へを捨てゝかゝつて見にゆきました。丁度山田耕作氏が一緒に行つてくれたのは又幸でした。父も「瀕死の白鳥」を是非見たいといふので、ともゞそろつて出かけました。この時はわたしは「盲鳥」のことなんかの考へを全然すてゝしまつて、のん気な心持で見るつもりでした。しかし、一所に行つた耕作氏にいろゝ質問したりしました。わたしは舞台を前に見ながら、同氏からいろゝと説明されるので、前に見た時よりもよく分りました。又、始めて見た時より落ちついて見ることが出来たのもよかつたと思ひます。
近いうち、羽衣会ではこのパヴロワ夫人の一行の歓迎会を開く筈です。その時は直接に逢つていろゝと聞いてみたいことがあるけれども言葉が通じないのは残念です。いろゝ突ツ込んで聞いてみたいのですけれども……。
下は、大正十一年十月一日発行の『サンデー毎日』 一年 二十八号 に掲載された「パヴロワ夫人と私と」の一部である。
日本の踊は手振りなり顔の表情で意味を描き出しますが、手の働きより足の働き、分けても爪先 つまさき 。トウの力のはたらきを中心にして、手の形は日本舞踊と違つて自然に流し美を描くに任せて置くのです、そして全身の形を統一して美の表現をして居るのが非常に私の参考になりました。 夫人の来朝記念としてパヴロワさんに何か芸術上で頂戴したいと思つていましたが、幸ひ十六日に父が自宅へ夫人をお招きしましたので、種々(いろいろ)と教を仰ぎ啓発される処がありました。そして夫人からも御頼みがありましたので誠に不遜な事ですがお礼の心持で帝劇の稽古場で、日本の舞踊をお見せしたら大変喜んで居られました。
なお、この同じ号には、「東京千駄ヶ谷成駒家邸におけるアンナ・パヴロワ夫人ー向つて左歌右衛門、右福助、中央パ夫人の前が児太郎」という写真もある。