るるの日記

なんでも書きます

須須ヶ嶽は、能登石動山修験道の霊場となる

2021-09-18 14:21:09 | 日記
珠洲地方の神社の由来を書き上げた
1749年の【珠洲組由来並社付帳】には
「鈴ヶ嶽五社大明神、但し先年、虚空蔵と書き上げ候、鈴神社奥社に御神体美穂須須見命を祭る」と記載
江戸時代中頃に修験者が本地仏として、【虚空蔵】を祀った小堂は、神社人側からは【鈴ヶ嶽五社大明神】とよばれ、【鈴神社奥社】と称されていた。主祭神は美穂須須見命であった

美穂須須見命は、古事記や日本書紀には登場しない神で、須須ヶ嶽の神すなわち、【原】須須神社の神の、美称として名づけられた神名
【現】須須神社が、その祭神をニニギノ命であると主張し始めたから、それに対して「式内社はこちらである!」という対抗意識から付された祭神の美称であったとも、、

須須ヶ嶽山頂の社殿に祀られたという虚空蔵(菩薩)は、能登における修験の聖地である石動山の本地仏であり、五社大明神なる社号も石動山の社号をとったもので、中世から近世にかけて、須須ヶ嶽は能登全域に勢力を及ぼしつつあった石動山系の支配する霊場となった

【まとめ】
須須ヶ嶽の神は美穂須須見命
神山は禁足地なので
社殿は須須ヶ嶽を仰ぎ見る場所で、神事を行う日置部が住む日置郷にあった【原・須須神社】。日置部は禁足地の須須ヶ嶽に入ることができ、毎夜火の神事を行い、その火は航海する船の目印になった
石動山修験道の影響を受け
鈴ヶ嶽大明神(五社大明神)を祀る山頂の社は、鈴奥神社(鈴御嶽社等)と称された
この修験者たちも火の神事を行い、航海する船を助けた
明治12年
石川県の命令で
正式に現在の須須神社の奥社と位置づけられ、名称も須須神社奥宮と定められた



須須ヶ嶽に修験者が定住。この時期も火の祭儀を行い船を助ける

2021-09-18 13:39:55 | 日記
■そして原須須神社は衰退
なぜなら、平安中期に東北地方が完全に朝廷の支配下に入り、かつて果たした能登の役割は終わり、中央の能登への熱い関心が冷却したからだ
中央政府からの庇護を失った原須須神社は、半島最突端にあって、他から隔絶されている不利な条件も重なって、再び村人の神として、原始の静けさに復した

■そして修験者がやって来る
鎌倉時代頃から、諸国の山峰を巡って修行をなす修験道の活動が始まった
須須ヶ嶽にも峰づたいに、あるいは海路から修験道の徒が訪れた
修験者たちは、親しく山頂を極め、神霊に接することを目標としたから、それまでは踏み入ることを禁じられた山々の山頂に、行場を定め祭儀をなし、あるいは社祠をたてた
須須ヶ嶽に定住した修験者は、松明神事を行っていた。山岳信仰の火がこの時期も、船の航路を示す役割をしていたのである

【能登名跡史】
「渡海の船、難風に出会い、岬権現に祈るに、火見ゆる也。それより山を見て難をのがるる也」

須須ヶ嶽が後世、山伏山といわれるようになったのも、このような修験者が出入りしたからである


原・須須神社の位置は日置郷・毎夜たかれる神火の神事を司る日置部

2021-09-18 13:12:25 | 日記
■神霊鎮まる山に、社は造れない。神山をいつも仰ぎ見る場所でなければならない

原須須神社の位置については、【大日本史神祇志】では、山伏山山頂にある須須神社奥宮だと比定している。しかし、成立期の須須神社は山頂にあったとは考えることができない
なぜなら山は神霊の鎮まる聖なる浄地であって、厳重に人の入るのを禁じた古代人の観念を考えれば
【神の山を常に仰ぎ見るけとができる場所】
でなければならない

とすれば、現在の須須神社ではなく、狼煙地域の浜辺か、小高い丘に、神祭りの場所が選ばれたと考えられる

■日置郷【日置部派遣地域】
原須須神社の所在した地は、古代珠洲郡に設置された日置郷であったと考えられる

日置郷などは全国各地にあって、いずれも古代に日置部(ひきおきべ)が設定された所であろうとする点で一致している
日置部の性格については、始めは祭祀にたづさわっていた人々が、やがては火を神聖視する信仰と、日の神信仰とが重層した中で成立した
【火継ぎの神事】に奉仕するようになり、その浄火の管理にたずさわる部として設定された

こうして編成された日置部は、次第に広く朝廷や官社の儀式や、神事に伴う浄火の管理を任務とするようになり、王権の伸長とともに地方へも派遣された

このような日置部が、朝廷によって原須須神社の神事に奉仕するものとして派遣された、、となるのが、日置郷の地名と関連して自然なことといえる

また、珠洲岬・須須ヶ嶽は朝廷から北方鬼門の鎮守として重視され、岬の斎場に毎夜たかれる神火が、闇の海をゆく船を導くものとして、その重要性が認識され日置部は派遣された


村人・船人・漁民・兵士による須須ヶ嶽の神信仰

2021-09-18 12:30:14 | 日記
■村人と船人、漁民による須須ヶ嶽の神への信仰

須須ヶ嶽(山伏山)の神は、村人たちだけでなく、昔から珠洲の岬沖合を航海する船人や、沖合に漁する漁民たちにも広く信仰された

沖合を行き来する船人は、この山を目印にして航路を定め、漁民にとってのこの山は、漁場を定める絶好の目標となる

危険な海を相手にするこれらの人々にとっては、この山の神霊の存在を信じあがめて、安全と庇護を祈願する気持ちになることは、自然なことだった。しかもこの須須ヶ嶽(山伏山)の神が広く知られるようになったのは、古代にさかのぼる

■戦い行く軍船に乗る兵士からの信仰

7世紀から9世紀の始めにかけて
中央政府は支配の及ばなかった東北地方の開拓に力をそそいだ
能登は東北経営のための補給・中継の拠点として重視された

珠洲岬を行き来する軍船が絶えることはなく、船人も兵士も航海の安全や異国における戦の勝利を須須ヶ嶽の神に熱く祈った。そして須須ヶ嶽の神の存在は次第に知名度を加えていく

始めは山麓住民の素朴な山岳信仰の対象に過ぎなかった須須ヶ嶽の神は、やがては須須ノ神と呼ばれて、北の海の道を鎮護する神として、あるいは都の北方鬼門を守護する神として中央政府に存在を認められることになり、官社に列せられるようになった
後世、延喜式に記載された須須神社は、このような事情で成立した




(原)延喜式内社・須須神社は、須須ヶ嶽(山伏山)の神さまが鎮座する社だった

2021-09-18 11:53:58 | 日記
現在の須須神社が、延喜式内の須須神社でないとすれば、原須須神社は何処に存在したのか?あるいは現在のどの神社なのか?

【大日本史神祇志】は式内須須神社について
「今、須須ヶ嶽(山伏山)に在り、奥鈴明神と称するもの、是なり」
と断定する

果たして山伏山山頂の宮が古代朝廷から官社に指定された須須神社であったのか、そうでないのか
そうでないとしても山頂に祀られた神は、どのような性格の神であったのだろうか?


山伏山山麓の狼煙地域の人々からの話
【須須ヶ嶽(山伏山)の神】
現在須須神社の奥宮として祀られているのは、山伏山の神である。山伏山の神は昔から狼煙地域の鎮守であって、現在須須神社の鎮座する寺家地域の者は山伏山に入らないし、山伏山の神に参拝することもなかった
狼煙地域の者もわざわざ須須神社に参拝することはなかった。須須神社と山伏山の宮は全然別の宮で、紋を見てもわかる。須須神社の紋は剣梅鉢、山伏山の宮の紋は菊の紋である

刃物を持って山に登ると祟りがある。拝殿を改築した大工たちの家に不幸が続いたのもそのためだ

【能登志徴】にも
「この山はみだりに登山する事は禁ぜり。これは神霊の鎮座(しずまる)神山なりし故に」
とある

昔、山の社には木像の虚空菩薩と、石の神さまを祀ってあったが、今は虚空菩薩は山麓の村の遥拝所にお祀りしてある。遥拝所には本殿がない。本殿は神さまのおられる山伏山だからである

【宝永元年一覧記】(江戸時代中期に出た)
山上に虚空蔵の小堂あり」
と記されているように当時から知られたものである