珠洲地方の神社の由来を書き上げた
1749年の【珠洲組由来並社付帳】には
「鈴ヶ嶽五社大明神、但し先年、虚空蔵と書き上げ候、鈴神社奥社に御神体美穂須須見命を祭る」と記載
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江戸時代中頃に修験者が本地仏として、【虚空蔵】を祀った小堂は、神社人側からは【鈴ヶ嶽五社大明神】とよばれ、【鈴神社奥社】と称されていた。主祭神は美穂須須見命であった
美穂須須見命は、古事記や日本書紀には登場しない神で、須須ヶ嶽の神すなわち、【原】須須神社の神の、美称として名づけられた神名
【現】須須神社が、その祭神をニニギノ命であると主張し始めたから、それに対して「式内社はこちらである!」という対抗意識から付された祭神の美称であったとも、、
須須ヶ嶽山頂の社殿に祀られたという虚空蔵(菩薩)は、能登における修験の聖地である石動山の本地仏であり、五社大明神なる社号も石動山の社号をとったもので、中世から近世にかけて、須須ヶ嶽は能登全域に勢力を及ぼしつつあった石動山系の支配する霊場となった
【まとめ】
須須ヶ嶽の神は美穂須須見命
神山は禁足地なので
社殿は須須ヶ嶽を仰ぎ見る場所で、神事を行う日置部が住む日置郷にあった【原・須須神社】。日置部は禁足地の須須ヶ嶽に入ることができ、毎夜火の神事を行い、その火は航海する船の目印になった
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石動山修験道の影響を受け
鈴ヶ嶽大明神(五社大明神)を祀る山頂の社は、鈴奥神社(鈴御嶽社等)と称された
この修験者たちも火の神事を行い、航海する船を助けた
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明治12年
石川県の命令で
正式に現在の須須神社の奥社と位置づけられ、名称も須須神社奥宮と定められた