須須神社は、山伏山山頂の社を奥宮
としている。なぜなら須須神社はもともと須須之御嶽(山伏山)に鎮座していたものが、奈良時代に現在地に遷座したからだ、、と理解していたが、、
全国の神社の中には
山を背に、山を仰ぎ見るような地点に位置するものが多い。そこでは山全体を神体とみなし、山頂あたりに聖地があって、これを本社に対して奥宮等と呼ぶ。本社と奥宮は同一の神を祀り、これに奉仕する神官や氏子は共通である
【須須神社と奥宮との関係は以上の条件を満たしていない】
★須須神社の位置が山伏山を背にするわけではなく、両社の位置が同一直線上に配置されず、向きがバラバラで、山頂の奥宮は東向、本社の須須神社は南向なのが一番の疑問
★両社に奉仕する神官が異なる
※須須神社の神官は、中世から近世初頭まで大宮氏、近世半ばから猿女氏になった
※奥宮の神官は、古い記録はないが、1718年、1732年の棟札では、飯田の春日神社の桂原氏が兼任
1866年からは、森井氏の支配
明治10年一時狼煙村の宇多氏が社を司り
県から山頂の宮が須須神社の奥宮と指定されて以後、須須神社猿女氏が支配するようになった
★両社の氏子が異なる
須須神社の氏子は、三崎町寺家の人々
奥宮の氏子は、狼煙町の人々
★祀神が異なる
※須須神社の祭神
高座宮→ニニギノ命
金分宮→コノハナサクヤ姫
※奥宮の祭神
ミホススミノ命
★神事に共通性がない
★伝承が異なる
※須須神社は、海にゆかりが深いもの
※奥宮は、須須ヶ嶽の神霊に関するもの
♦️須須神社と、山伏山(須須ヶ嶽)の宮は、本社と奥宮という繋がりはなく、両社の成立や歴史はもともと無関係なものであり、別な事情や経緯で成立した異なる神社であったと考えるより他ない
本社と奥宮と関係づけられたのは、近世の半ば以降と考えられる。それは須須神社が、式内須須神社を主張するようになったことと無縁ではない