るるの日記

なんでも書きます

須須神社の研究・須須神社と、その奥宮があると言われる山伏山の宮は無関係?

2021-09-18 10:37:26 | 日記
須須神社は、山伏山山頂の社を奥宮
としている。なぜなら須須神社はもともと須須之御嶽(山伏山)に鎮座していたものが、奈良時代に現在地に遷座したからだ、、と理解していたが、、

全国の神社の中には
山を背に、山を仰ぎ見るような地点に位置するものが多い。そこでは山全体を神体とみなし、山頂あたりに聖地があって、これを本社に対して奥宮等と呼ぶ。本社と奥宮は同一の神を祀り、これに奉仕する神官や氏子は共通である

【須須神社と奥宮との関係は以上の条件を満たしていない】

★須須神社の位置が山伏山を背にするわけではなく、両社の位置が同一直線上に配置されず、向きがバラバラで、山頂の奥宮は東向、本社の須須神社は南向なのが一番の疑問

★両社に奉仕する神官が異なる
※須須神社の神官は、中世から近世初頭まで大宮氏、近世半ばから猿女氏になった
※奥宮の神官は、古い記録はないが、1718年、1732年の棟札では、飯田の春日神社の桂原氏が兼任
1866年からは、森井氏の支配
明治10年一時狼煙村の宇多氏が社を司り
県から山頂の宮が須須神社の奥宮と指定されて以後、須須神社猿女氏が支配するようになった

★両社の氏子が異なる
須須神社の氏子は、三崎町寺家の人々
奥宮の氏子は、狼煙町の人々

★祀神が異なる
※須須神社の祭神
高座宮→ニニギノ命
金分宮→コノハナサクヤ姫

※奥宮の祭神
ミホススミノ命

★神事に共通性がない

★伝承が異なる
※須須神社は、海にゆかりが深いもの
※奥宮は、須須ヶ嶽の神霊に関するもの

♦️須須神社と、山伏山(須須ヶ嶽)の宮は、本社と奥宮という繋がりはなく、両社の成立や歴史はもともと無関係なものであり、別な事情や経緯で成立した異なる神社であったと考えるより他ない

本社と奥宮と関係づけられたのは、近世の半ば以降と考えられる。それは須須神社が、式内須須神社を主張するようになったことと無縁ではない



須須神社の研究・現在の須須神社は、延喜式神名帳の須須神社ではない?

2021-09-18 09:46:04 | 日記
♦️須須神社なる社号は、927年に完成した【延喜式神名帳】に登載された。以降文献には現れない

高座宮の名は1186年の【高勝寺結集解状案】に現れるのを始めとして、須須神社に残る鎌倉・室町期の文書にしばしば記載される

江戸初期の加賀藩からの須須神社神官に当てた書状は
【高座宮社家中】
【三崎金文・高座神主中】
等の宛書で記され
神主から加賀藩に差し出した由来書上書にも
【金分・高倉両社】
と記され、この時期の公式文書にも須須神社の社号は用いられていない

♦️式内社須須神社を主張
江戸時代において、須須神社の社号が初めて使用されるのは1653年
【式内社等旧社記】
「須須神社式内一座、三崎権現と称す。祭神高倉彦神故に高倉宮と称す」

1660年、須須神社神主が撰んだ縁起は【須須神社縁起】と記し、高座・金分両座をあわせて須須神社となる
ことを強調

1806年【高座金分由来帳】は
明確に「高座金分者式内之社須須神社なり」と主張

須須神社は

鎌倉から近世初頭まで
高座宮又は
高座・金分宮
を称している

17世紀後半から
式内須須神社を主張し、社号として用いるようになった

■社号の変化の理由・意味
現在の須須神社は、もともと高倉彦ノ神を祀る高座宮であり、近世になって式内須須神社を主張するに至った理由として
郷土史碩学日置謙氏は
「神官が式内社という美名に陶酔して、由緒ある高座宮の呼称を捨て去ったものか、あるいは宮司の叙爵を受けるためには、奉仕の神社が式内社であるとするのが有利であると判断したためだろう」
と手厳しく論断されている


須須神社の研究・通説の正否

2021-09-18 08:45:53 | 日記
■はじめに
須須神社は平安の昔から奥能登で由緒ある神社である。須須神社についての研究は、珠洲地方の文化の歴史、住民の信仰の歴史を探る上で大きな意味を持つ
須須神社の祭神の性格
神社の成立事情等を考察し
同社をめぐる民俗や神事・伝承などにも触れながら須須神社の歴史にせまりたい

■須須神社の文献の記載
須須神社に関わる確実な文献の記載は、平安初期に出された歴史書
【三代実録〈873年8月4日の条〉】
「能登国、従五位下【高倉彦ノ神】並授従五位上」が初見

次いで10世紀始めに作られた、全国の主な神社名を記載する
【延喜式神名帳〈能登国の部分〉】
「珠洲郡の三座として、古麻志比古神社・加志波良比古神社・須須神社」と記載されている

このことから、須須神社あるいは高倉彦ノ神は、平安時代には中央で知られた存在であったことは確実である

■須須神社の夫婦神
いま須須神社というのは、珠洲市寺家地内に所在する。【高座宮】と【金分宮】の両社を合わせた呼称である

両社の関係については
1824年、宮司より加賀藩寺社奉行所へ差し出した、神社の由緒を記した文書に
「往古、須須之御嶽に御同殿にて御鎮座。天平勝宝年中、今の御山へ御遷宮、其の後御両社に相成、尊神を高座と称し奉り、姫神を金分と称し奉り候」と述べている
両社はもと須須嶽(山伏山)に同一の社殿にあって、今の地に移ってから二社に分かれたものであるが、祭神が夫婦の神であるので不可分(分けられない程密接に結びついている)のものだという

高座宮と金分宮が、延喜式に記す
須須神社である理由

両社の神霊の鎮座地を須須ヶ嶽という。故に須須神社と呼ぶ。高倉彦神は神の御名なるが故に、御社を高倉宮と称す、あるいは高座にも作れり
神社名は須須ヶ嶽に由来
祭神は高倉彦ノ神

■三代実録に見える【高倉彦ノ神】の社は、須須神社・高座宮のことであり、高倉彦神社と用いなかったのは、当時珠洲地方唯一の大社であった故に、地名をとって須須神社と呼ばれていたから

■明治12年
山伏山(須須ヶ嶽)山頂にあって、鈴ヶ嶽社(あるいは五社大明神)称した社を、須須神社奥宮と称すべしと、石川県が指示したことも
須須神社が延喜式に載る社であって、奥宮の本社であるという通説に従ってのことである

■問題提起
問題としたいのは、この通説の正否である
現在の須須神社が、はたして延喜式に載っている須須神社であるのかどうか
山伏山の奥宮に対して、須須神社は本社の関係にあるといえるかどうか
通説を吟味し解明の作業を進めたい