会場で合流した恩師が、講演の前に小川英晴の“身体表現とポエジー”というタイトルで文章を寄せているなんかの本を部分コピーした紙片を渡してくれた。
その中に
『踊り手はみな意識下へと降りてゆき、原初の想いに辿りつくことをのぞんでやまない。
なぜならば、そこにこそ人類の忘れてはならぬふるさとがあるからである。
舞踊家は誰もがその境地へと至ることを望み、多くは道半ばで夢を絶たれる。
身体の極まった一瞬をしっかりとつかみとり、それを表現することは予想以上に難しいのだ。
意識そのものにこだわっていては、とうてい意識下へとは降りてゆけない。
この一線を越えるためには、誰もが超越的存在になる必要がある。
それゆえすぐれた舞踊家は時空を超えて舞い、時にふだんは見えぬ異界をも私達に垣間見させてくれるのである。
土方巽や大野一雄、それに大野慶人はまさにそのような舞踊家、舞踏家であった。』
というくだりがある。
お粗末な受信装置しか持ち合わせぬ人間ゆえ、一輪の花を持って車いすに座った彼が、とてつもなく濃密な重い空気に押されてじりじりと舞台を横切り、舞台端に辿りついたところで車いすから立ち上がり、虚空に向かってその花を掲げるというシーンはシンボリックであることは認めても、じゃあ、今回も客演で参加した大野慶人のどこに身体表現があったんだ?と首をかしげたものの・・・。
又、その特徴的な超スローモーな動きは、およそ太古からの時間の流れをシンボライズしているようだと言うことは感じるし、単純にその形態のイメージにおいて、田植えの情景が浮かんできたり、川が流れている様を想起したりすることはあるのだが、茫洋とした世界を何らかの意味のある空間として捉えるにはヒントが少なすぎるという不満を感じていたのだが・・・。
若林淳(写真では左端の剃髪で赤い腰布をまとった人物)の出で立ちを見たときに、そのボディメイクの分かり易さ、かっこよさに俗っぽさを感じてしまったのが、舞踏の目指すもののメッセージをわずかでも受け取りつつあった状況であったのか。
若林の踊りも今風なロボットダンスが取り入れられてて、エンタテインメント性が匂うのが異質に感じたのだ。
ただ演出の意図が読み取れないというか、終盤において頭上に被せていた新聞紙を引きちぎり、ひたすら踊り狂うシーンが異常に長く続き、観る者に苦痛を与えるのが趣旨なのかと勘ぐってしまった。
総体に技巧を感じさせぬように抑制が効いてるという印象は好ましく、独特の白塗りの演者たちがライトに照らされて暗闇に浮かび上がる様は幻想的で充分美しい光景だったと思う。
それと、J・Aシーザーのドラムが、近場で観る花火の音のように、ドンドンと直接胸に響いてきたのがやはり迫力もので、音楽は終始心地良く、舞台をうまくまとめていたと思う。
まあ、浅い感想しか述べることができませんが、一応レポートは終了ということで最後にブログ引っ越しのご挨拶。
gooさま、長いことお世話になりました。当ブログにお訪ね下さった皆さまにもありがとうございました。
月をあらためまして、FC2さん(こちら)の方へ引っ越しして同じタイトルでまた好きなことをことこと綴って行きたいと思います。
よろしければ、また、遊びにお越し下さい。ありがとうございました。