昔々、小遣いを貯めて、人物中国の歴史という、函入りハードカバーの全集を、11巻、順次発刊されるのを買い続けました。30年前で一冊1500円だったから、かなりの金額、コミック本5冊ぶんだったのですが、当時としても豪華な執筆陣(いまでは大家ばかり)と、元々、図書館の伝記は全て読み漁るほうだったので、かなり愉しんで読んだ記憶があります。
文庫版のはいまでも見掛けることがあるので読まれた方もいらっしゃるかと思いますが、わざわざ、朱に交われば赤くなる、と云わずに今回の記事タイトルにした所以を、開陳いたしました。
本題は、田中文科相の大学新設不認可騒動について。
まず間違いなく、この莫迦な文科相は、自分の権限の中に学校の許認可の全権があるかのように妄信し、文科省の官僚に自分を大きく見せるつもりで、不認可と言い出して、引っ込みが付かなくなり、あげくに明白に虚偽の答弁を吐いて他責にしたうえ、何もなかったことにしたいらしい。
私は、肥大化した国民を抱える民主主義国においては、為政者の嘘は許される場合もあるとは思う。その規模故に、頑迷で動かしがたい総体としての国を、反対するための反対論に屈せず、為政者の信ずる姿に動かすため、などの場合は、騙されても、納得できます。
ただ今回、そしてこの数年、日本の与党に巣くうエセ政治家が、保身のため、誰かを貶めるため、責任転嫁のため、強欲のため、妬み、怨みのために躊躇無く欺瞞を働くのに、飽き飽きしています。
また、その結果として、何らの咎めも受けず、のうのうとしているのが、更に腹立たしい。与党内での批判は、即、自党の終焉への引き金になりかねないから、庇い合う、その醜怪な姿に辟易します。
この人達は、かつて無いほどに、日本に於ける政治家という概念を貶めてしまいました。
こころを澄みやかに明鏡止水のごとくにして、あらためて見直してみると、日本的な精神、グローバルな視点からでも、あまねく価値のあるところの日本独自の価値観が、浅薄な考えから、ないがしろにされていることが、その汚濁のひとつの原因であるような気がします。
私が幼い頃からずっと学んだ書道は、上手く字を書くための稽古ではありませんでした。まず姿勢を正し、筆と墨をもって、半紙に向き合う、その気概を教わりました。とめはねはらいを整えるのは、それを綺麗に見せるためでなく、そこに闊達な知性とたおやかな精神の有りようを示すためでした。
毛筆印刷ソフトで年賀状の原稿をつくり、テキスト主体なんてブログを行いながらも、そんな思いが浮かぶ晩秋の日暮れなのです。
文庫版のはいまでも見掛けることがあるので読まれた方もいらっしゃるかと思いますが、わざわざ、朱に交われば赤くなる、と云わずに今回の記事タイトルにした所以を、開陳いたしました。
本題は、田中文科相の大学新設不認可騒動について。
まず間違いなく、この莫迦な文科相は、自分の権限の中に学校の許認可の全権があるかのように妄信し、文科省の官僚に自分を大きく見せるつもりで、不認可と言い出して、引っ込みが付かなくなり、あげくに明白に虚偽の答弁を吐いて他責にしたうえ、何もなかったことにしたいらしい。
私は、肥大化した国民を抱える民主主義国においては、為政者の嘘は許される場合もあるとは思う。その規模故に、頑迷で動かしがたい総体としての国を、反対するための反対論に屈せず、為政者の信ずる姿に動かすため、などの場合は、騙されても、納得できます。
ただ今回、そしてこの数年、日本の与党に巣くうエセ政治家が、保身のため、誰かを貶めるため、責任転嫁のため、強欲のため、妬み、怨みのために躊躇無く欺瞞を働くのに、飽き飽きしています。
また、その結果として、何らの咎めも受けず、のうのうとしているのが、更に腹立たしい。与党内での批判は、即、自党の終焉への引き金になりかねないから、庇い合う、その醜怪な姿に辟易します。
この人達は、かつて無いほどに、日本に於ける政治家という概念を貶めてしまいました。
こころを澄みやかに明鏡止水のごとくにして、あらためて見直してみると、日本的な精神、グローバルな視点からでも、あまねく価値のあるところの日本独自の価値観が、浅薄な考えから、ないがしろにされていることが、その汚濁のひとつの原因であるような気がします。
私が幼い頃からずっと学んだ書道は、上手く字を書くための稽古ではありませんでした。まず姿勢を正し、筆と墨をもって、半紙に向き合う、その気概を教わりました。とめはねはらいを整えるのは、それを綺麗に見せるためでなく、そこに闊達な知性とたおやかな精神の有りようを示すためでした。
毛筆印刷ソフトで年賀状の原稿をつくり、テキスト主体なんてブログを行いながらも、そんな思いが浮かぶ晩秋の日暮れなのです。