輝ちゃんつれづれに 

インスタ・LINE、スレッズ、mixi2を始めました。楽しかったこと、残しておきたいことを自分の言葉で書き込みます。

言うまいか、でも言おう

2015年08月16日 23時53分10秒 | ことば

安倍談話

とにかくブツブツ言う前に全文を読んでおこう。

読む前に、談話としては長すぎて「読もう」という気持ちになれない。文章講座の先生だったらそこから指摘するだろう。

読んだ!談話というのは何のために作る。歴史に自分の冠を記した「安倍談話」という名前を残したいがために作った。

誰が主人公で、誰のための談話ですか。
歴史認識を変えようとしていませんか。日露戦争、第一次世界大戦、満州事変、第二次世界大戦で日本はなにをやってきたのか本当のことを残さないと。
侵略、植民地化したのは日本です。誰を苦しめたのですか。酷いことをしましたね。忘れてはいけないことだからお詫びし、反省し続けるのです。
寛容の心で世界に助けられたとは本当のことでしょうか。
この談話は、日本は昔ちょっと悪いことをやったが、世界は寛容の心を持って今の日本を築いてくれた。積極的民主主義で・・・。
私はこの談話は必要ないと思う。意味を持てない。腹の底から日本を変えるという覚悟と本音、本気度、情熱が見られない。独り言程度だ。しかし、こんな文章しか書けないのかな?添削を仮に受けたら「結局あなたは何が言いたいの」、「ボツだよ」この原稿は。今の日本の政治力をよく表してくれた。

また降られた!武蔵境の南口で

何せイセタンでたくさん買い物したから雨の中を走るのは無理だ。駅前で止むのを待つ。

待てば日和の回路あり。こんな歌あったっけ。やっぱり違っていた。「待てば海路の日和あり」。焦らないことだね。

天文台通りをFC東京のユニフォームを着た家族連れが自転車で通る。味スタでゲームがあるのだろう。ワクワク感で溢れている。平和な世の中だ。

希望だ。それがあれば、人間は生きていける

小熊謙二

ぜひ読んでみたい本。朝日新聞に紹介されていた。

 http://digital.asahi.com/articles/DA3S11918159.html?ref=pcviewer

生きて帰ってきた男 ある日本兵の戦争と戦後

小熊英二著


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本気と情熱を示せ

2015年08月15日 23時43分40秒 | 日記

国民が本気になって国の過ちを指摘しないと政治の後始末はできない

 

ある人へのメールの一部から

今日も暑くなりそうです。8月15日ですね。敗戦を伝えられた日ということです。

日本の歴史がある一部によって変えられているような気がします。侵略戦争を知っている人が死んでいきます。また、知っていても語らない人が多くいます。物語風にして事実を葬り去ってしまいます。侵略は間違いであり、多大な苦しみを与えた。心からお詫びしますと書けば済む問題だ。談話を出すことによって日本は何をしたいのか。安部談話を歴史の流れの中に盛りたいだけなのだろう。

http://digital.asahi.com/articles/ASH8G5W9YH8GUTFK00T.html 安倍談話

つまらないことを書いてしまいました。

今日は骨折で入院していた従姉妹が退院します。28日間入院していたそうです。4階の入院棟に行く途中。今日で最後。記念に一枚。

今は年季を返す仕事が沢山あります。ありがたいことです。

日本の武士を見た 軍艦の中で

勝海舟(二)咸臨丸渡米 子母沢寛著

米利堅派遣 咸臨丸

鑑将、軍艦奉行・・・木村摂津守

艦長、教授方頭取・・・勝麟太郎

 「あたしは、わたしの先祖代々の財産を、悉く弗にかえて、それを背負って来ましたよ。幕府からは五千両の請願にたった五百両より拝借出来なかった。五百や千の金では、日本の武士がとて米利堅人を相手に対面は保てない。わたしは、幕府の役人としての対面を保つというよりは、どんなことをしても、まず日本人としての、対面を保たねばならぬと考えたのだ」

はじめて日本の役人として踏む米利堅の土地だ、木村の家この木村の将来などは問題ではない、日本の武士というのは、こういうものだ、われわれは、そういう事を、はっきりと知らせて来なくてはならぬ。われわれが、あちらで僅かばかりの金に困るようでは仕方ない話だ。勝さん、八万弗ある、少ないが、これで木村は精一ぱいだった。木村の家のものは、一文無しで日本に残った。後々どのように困ることが出来るかも知れないが、わたしは、それでもいいのだ。この金は、日本国という尊い国のために、あんたの自由に費い捨てて貰っていいのだよ。わたしは、米利堅の事も深くはなし、また水主たちの事にも疎いと思う。あんたにこの金を、より有効に使っていただければ、それで木村の、日本の武士としての本当の御奉公は出来るのだ。頼みますよ。

 


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突然の大粒の雨 油断は禁物

2015年08月14日 23時50分20秒 | マツンのおもい

やられた スコールに

ナイターテニスに出た。今日はコーチがいないのでフリー練習。ボールがないのでビィクトリアで買い物。階段を降りたとき大粒の雨。車までダッシュ。仙川付近で猛烈な雨、風。あっという間に水が溜まってくる。それでもラーメン「しばた」の行列は変わらない。ワイパーを最大限にしても前が見えない。

異常な降りかたである。今までの経験では対応できない何かがある。それなりの覚悟で運転しないと事故につながる。本当ならば「過ぎるのを待つ」べきであろう。結局テニスは中止に。

激しい変化

今年の夏は暑かった、と過去形で言いたくなるような季節の変化。連続猛暑日は確かにきつかった。久しぶりに熱帯夜を味わった。熱中症に敏感になった。俺も十分高齢者だ。敏感にならなくてはいけない。

夏は、「猛暑」「熱帯夜」「熱中症」がキーワードか。台風が来ていないな。怖いな、どでかい奴が上陸し大暴れする予感がする。

立秋を一つの境にして何か変わってきた。

藤原敏行は「秋来ぬと目にはさやかに見えねども 風の音にぞおどろかれぬる」(古今和歌集)と詠んだ。

暑そうもないので10時ごろLEO君の散歩に出た。何日ぶりだろう昼間の散歩は。本当のショートコース、国立天文台正門を曲がり、大沢雑木林公園を回ってくるコース。雑木林を残す為に囲んで公園にしている。寂しい武蔵野。

それでもハアハア言っている。早く帰らないと可哀想かな。

  

LEOくんは1日最低一回は車に乗らないと満足しない。大沢総合グラウンドから調布飛行場がいつものコース。小高い丘の上のベンチで小休止。それで大満足。

昨日も寝る前に部屋に来て挨拶しないと不貞腐れて狭いところに入って駄々をこねる。困った奴だが可愛いのだ。暑くて外にでれないストレスがあるような気がする。

気になった言葉

考えるな、感じるんだ
心を空にせよ、形を捨てて水になれ
ブルースリー 


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まあいいか 夏休みだ ゆっくりしよう

2015年08月13日 23時16分40秒 | 日記

残暑お見舞い申し上げます

東京は、明治八年の観測以来、八日連続猛暑日の記録を達成しました。喜んでいる場合ではありません。身体が痛む一方です。

大変ご無沙汰しています。平成二十七年度は縛られない生活を体験しています。年金生活者です。忙しい時は時間がないし、暇な時は金がないといった時代です。前期はルーテル学院大学の「日本宗教の源流」という公開講座を受講しました。神道、キリスト教などの宗教の一端を学ぶことができました。今年の梅雨は長くナイターテニスが一ヶ月できませんでした。年をとるに従い「熱中症」に敏感になってきました。無理をしない、控えることを念頭に置いています。が、つい・・・。くれぐれも健康にはご留意ください。

 

蝉時雨

浴びてリハビリ

ウォーキング

(日立の大先輩からの手紙の中から)

ちょっと昔のお話を

ちょっと用事があって武蔵野のおじいちゃんの家(母親の実家)に行ってきた。道幅の狭い鈴木街道の脇。武蔵野、田無、保谷、小金井の境目。西東京市なんて実感がわかない。言葉の響きが違うと思うのだが。住民はどう思っているのだろう。東東京市構想はあるのだろうか。聞いてみたい。

思い出の都立狭山・境緑道。昭和20年代のお話。おじいちゃんは田無から帰ってくるのだが、飲んでいるためこの緑道が限度で寝てしまう。起こしに行くのが孫の役目。でも、カバンの中にはお土産がどっしり。それが楽しみだった。夕暮れのすごく自然に囲まれた空間だった。

  

田無までの道のりは畑や雑木林で囲まれ歩くのも怖かった。全く変わり果てた。そして徳洲会病院ができた。自然がなくなった。

こんなことありませんか 俺だけか?

武蔵境のイトーヨーカドーの駐車場をいつも使う。駅前だし1時間は無料だから。ところがだ!車を停めた場所がわからなくなる。いつかは階数を間違えたこともある。満車という看板が出ていても空いている。どこでも停めちゃうからいけないのか。ある一定の約束を自分で作っておけばいいのか。メモしておけば一番いいのだろうが。今日も、あっちではない、こっちではないとウロウロしてしまった。

コメント (2)
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30年 あの時何を そして今は

2015年08月12日 22時41分46秒 | マツンのおもい

日航制服のまま消えた母へ「夢継ぐよ」墜落事故30年

http://digital.asahi.com/articles/ASH8B7FX2H8BUTIL03Z.html?iref=comtop_6_01 

520人が亡くなった1985年の日航ジャンボ機墜落事故は12日、発生から30年を迎えた。

文藝春秋九月特別号川上千春さんの独占手記(妹・川上慶子と私の30年)を読んだ。30年という歳月が区切りでマスコミに出ているようだ。マスコミに振り回されないでほしい。日航機墜落物語には組しないでほしい。しかし、事故を風化させてはいけない。供養し続けることが大事なんでは。

  12日の日記13日の日記

30年前の自分はどうだったのか。三つあげてみる。

一つ目、私の30年前の6時56分は自動車の中だった。カーラジオから飛行機が不明になったと繰り返し速報が入った。甲州街道の高井戸近辺だった。薄暗い遠くの空に無事であってほしいと祈りを込めた。全国高校定時制通信制第18回ソフトテニス大会が無事終わり疲れきって運転をしていた。墜落場所はわからない。どうも群馬県上野村らしいという。

二つ目は、私にとって上野村は強い思い出がある。T学園は関東近県から来た生徒が学園・寮生活を送っている。I君は上野村に実家があり夏休みが終わりテニス合宿に来た。聞いてみると物凄い山の中だという。交通も不便で学園に来るまで大変だということを。

三つ目は、卒業記念文集に書いた。

昭和60年度         起こせ新風 仲間とともに 

”生きる”とは何なのだろうか。日航の事故で瞬間に命を奪われた人。何にも抵抗できない、理由・理屈なんてないんだ。あらためて問い直そう、どう生きるかを。勇気・決断・努力。好きなことばだ。

私の朝食 その2 夏バテ防止


外出のない限りゆっくり食べる。朝の始まりはコーヒーを飲みながらメール等のチェック。G線上のアリアを聞きながらkさんにメール。それが終わると朝食の準備。当然、私が作る。この朝食が食べられないときは体調が悪いとき。

  

夏だけ一品加えた。新物砂丘らっきょう漬。

玉ねぎスープ /玉ねぎ、人参、トマト、卵
ウィンナーエッグ /ウィンナー、卵、青葉、チーズ、トマト、ラッキョウ
パン
果物/バナナ
ヨーグルト

きちんと食べていれば体重もコントロールできる。当然テニスをやっていても軽快なフットワークになる。1年中続けばいいが・・・。生き物だからそうはいかない。


 

コメント (2)
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