人には“いただく”年季と“返す”年季がある
わたしの半生 写真家・作家、藤原新也
http://digital.asahi.com/articles/DA3S11911102.html?ref=pcviewer
――四半世紀を経ての大きな変化ですね。
50代半ばから60歳にかけて何か心境が変わった。人には“いただく”年季と“返す”年季があるのではないかと、最近思いはじめている。つまり、人が育つ過程で他者からの愛情を含めさまざまな果報をいただく年代と、その溜(た)め込んだものを他者に返す年代ということ。『コスモス……』はそういう意味では返礼の書だと思う。逆に言えば60歳を過ぎても何も他者に返さない人生というのは精神衛生上よくない。いまの大人は返さないから。いただいたものを返して差し引きゼロとなって死ぬのがいちばんすっきりする。
なるほど!恩返しなどという当たり前の言葉ではない。60歳を過ぎた俺は他者に何かを返しているだろうか。まだガッツいている。自分だけ食えればいいという気持ちでいっぱいだ。情けない。でも、今後を考える意味では、いい機会にいい言葉と出会えた。年季ね!何ができるんだろうか。真剣に“返す”年季を考えよう。
つもりちがいの十ヶ条
一条 高いつもりで低いのは教養
二条 低いつもりで高いのは気位
三条 深いつもりで浅いのは知識
四条 浅いつもりで深いのは欲の皮
五条 厚いつもりで薄いのは人情
六条 薄いつもりで厚いのが面の皮
七条 強いつもりで弱いのは根性
八条 弱いつもりで強いのが 我
九条 多いつもりで少ないのは分別
十条 少ないつもりで多いのが無駄
武蔵境の杵築大社の受付に置いてあった「つもりちがいの十ヶ条」を拝借。かんちがい、つもりちがいが自分に当てはまる。
参考までに
■本当の「終戦の日」は?
太平洋戦争の「終戦」はいつだったのか。
一般には8月15日正午の玉音放送をもって終戦とし、その日を終戦記念日とします。しかし、その数日前に、共同通信や時事通信の前身に当たる同盟通信によって、ポツム宣言の受諾が対外発信され、ロイターなど海外通信社が米英など戦勝国でそれを転電していました。第一報の発信が8月10日。この(彼らにとっての)吉報が報じられ、連合国が戦勝を祝って歓喜に沸いたのが70年前の今日、8月11日です。つまり戦勝国の視点で言えば、今日こそが「戦争が終わった」日だったと言えるでしょう。
一方で、玉音放送が全国に流れたあとも「終戦」が訪れなかった人や場所もありました。戦地からの引き揚げで塗炭の苦しみを嘗め、あるいは引き揚げることすらできず苦難の日々を送った人もいました。あまり知られてはいませんが、旧日本軍による最後の組織的な戦闘とされる「通化事件」が起こったのが1946年2月3日。玉音放送から半年以上経ってのことでした。
戦争を知らない世代からすれば、あたかも、玉音放送が「戦争」というものをきっちりと終わらせたかのような錯覚を抱いてしまいます。8月15日という日付を、戦争を二度と繰り返さないための象徴の日として記憶に留めることに一定の意味はあるでしょう。しかし、どこか美しく描かれるあの景色——蝉が鳴く真夏の正午、頭を垂れて玉音放送を聴く日本人たちの姿——では語られない「終戦」の姿もありました。日本人には知らされないまま政府系通信社によって海外にだけ打電された「5日前の降伏報道」と、混乱が続く大陸で、ようやく戦争が終わって生還できると思っていた日本人たちが銃を執らざるを得なかった「半年後の戦争」。史書の中で「8月15日」と刻印され、収められてしまった歴史に隠された「できごと」の息遣いを感じずにはいられません。
日経ビジネスオンラインは、「通説」の向こうにあるノイズを大切にしています。
「歴史」と言って大げさなら、「事実」として整理・分類されてしまうその前に、そのできごとの周辺で関わる無数の人たちの運命が変転していく様を、その肉声に耳を傾けながら描いていきたいと思っています。そこには、収斂された事実や歴史に慣れた立場からは耐えられない声も含まれるはずです。ですが、そのオルタナティブな視点をお届けするのが私たち雑誌というメディアの大切な仕事の1つだと思っています。
日経ビジネスオンライン編集長 池田 信太朗