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輝ちゃんつれづれに 

インスタ・LINE、スレッズ、mixi2を始めました。楽しかったこと、残しておきたいことを自分の言葉で書き込みます。

真夏に考えること

2015年08月11日 23時17分32秒 | 日記

人には“いただく”年季と“返す”年季がある

わたしの半生 写真家・作家、藤原新也

http://digital.asahi.com/articles/DA3S11911102.html?ref=pcviewer 

――四半世紀を経ての大きな変化ですね。

 50代半ばから60歳にかけて何か心境が変わった。人には“いただく”年季と“返す”年季があるのではないかと、最近思いはじめている。つまり、人が育つ過程で他者からの愛情を含めさまざまな果報をいただく年代と、その溜(た)め込んだものを他者に返す年代ということ。『コスモス……』はそういう意味では返礼の書だと思う。逆に言えば60歳を過ぎても何も他者に返さない人生というのは精神衛生上よくない。いまの大人は返さないから。いただいたものを返して差し引きゼロとなって死ぬのがいちばんすっきりする。

なるほど!恩返しなどという当たり前の言葉ではない。60歳を過ぎた俺は他者に何かを返しているだろうか。まだガッツいている。自分だけ食えればいいという気持ちでいっぱいだ。情けない。でも、今後を考える意味では、いい機会にいい言葉と出会えた。年季ね!何ができるんだろうか。真剣に“返す”年季を考えよう。

つもりちがいの十ヶ条


一条  高いつもりで低いのは教養
二条  低いつもりで高いのは気位
三条  深いつもりで浅いのは知識
四条  浅いつもりで深いのは欲の皮
五条  厚いつもりで薄いのは人情
六条  薄いつもりで厚いのが面の皮
七条  強いつもりで弱いのは根性
八条  弱いつもりで強いのが 我
九条  多いつもりで少ないのは分別
十条  少ないつもりで多いのが無駄

武蔵境の杵築大社の受付に置いてあった「つもりちがいの十ヶ条」を拝借。かんちがい、つもりちがいが自分に当てはまる。

参考までに

■本当の「終戦の日」は?

 太平洋戦争の「終戦」はいつだったのか。

  一般には8月15日正午の玉音放送をもって終戦とし、その日を終戦記念日とします。しかし、その数日前に、共同通信や時事通信の前身に当たる同盟通信によって、ポツム宣言の受諾が対外発信され、ロイターなど海外通信社が米英など戦勝国でそれを転電していました。第一報の発信が8月10日。この(彼らにとっての)吉報が報じられ、連合国が戦勝を祝って歓喜に沸いたのが70年前の今日、8月11日です。つまり戦勝国の視点で言えば、今日こそが「戦争が終わった」日だったと言えるでしょう。

  一方で、玉音放送が全国に流れたあとも「終戦」が訪れなかった人や場所もありました。戦地からの引き揚げで塗炭の苦しみを嘗め、あるいは引き揚げることすらできず苦難の日々を送った人もいました。あまり知られてはいませんが、旧日本軍による最後の組織的な戦闘とされる「通化事件」が起こったのが1946年2月3日。玉音放送から半年以上経ってのことでした。

  戦争を知らない世代からすれば、あたかも、玉音放送が「戦争」というものをきっちりと終わらせたかのような錯覚を抱いてしまいます。8月15日という日付を、戦争を二度と繰り返さないための象徴の日として記憶に留めることに一定の意味はあるでしょう。しかし、どこか美しく描かれるあの景色——蝉が鳴く真夏の正午、頭を垂れて玉音放送を聴く日本人たちの姿——では語られない「終戦」の姿もありました。日本人には知らされないまま政府系通信社によって海外にだけ打電された「5日前の降伏報道」と、混乱が続く大陸で、ようやく戦争が終わって生還できると思っていた日本人たちが銃を執らざるを得なかった「半年後の戦争」。史書の中で「8月15日」と刻印され、収められてしまった歴史に隠された「できごと」の息遣いを感じずにはいられません。

 日経ビジネスオンラインは、「通説」の向こうにあるノイズを大切にしています。

「歴史」と言って大げさなら、「事実」として整理・分類されてしまうその前に、そのできごとの周辺で関わる無数の人たちの運命が変転していく様を、その肉声に耳を傾けながら描いていきたいと思っています。そこには、収斂された事実や歴史に慣れた立場からは耐えられない声も含まれるはずです。ですが、そのオルタナティブな視点をお届けするのが私たち雑誌というメディアの大切な仕事の1つだと思っています。

 

                日経ビジネスオンライン編集長 池田 信太朗


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偶然見つけた 武蔵野市立武蔵野第二小学校

2015年08月10日 23時44分15秒 | マツンのおもい

小学1年生の記録

私の小学校生活は武蔵野市立武蔵野第二小学校から始まる。平成25年4月で創立140年を迎えた歴史ある学校。

今日、偶然に二つの石碑を見つけた。一つは午前中LEOくんと杵築大社の境内でのこと。「何が書いてあるんだろう」と石碑を覗いた。ここに二小があったと書いてある。午後、大雨が降ったので雨に濡れた曹洞宗観音院に写真を撮りに行った。花も咲いていないから何かないかなと思ったら、石碑に二小があったと記されていた。待ってくれよ、どっちが先だ。

 

そういえば、昨日屋根裏から通知表を見つけた。1年から3年までは武蔵野市立武蔵野第二小学校。3年から卒業までは武蔵野市立境北小学校(昭和30年4月開校)。途中、武蔵野市立第二中学校で複式学級があった。3年生の時だと思う。給食の思い出がある。

何度も行っていても気がつかなかった石碑。学ぶ歴史をもう一度調べてみよう。

私の通った二小は駅前にあった。とにかく遠かった。玉川上水の土手を歩き武蔵高校が過ぎるともうすぐ。古い校舎だったのを覚えている。

     

身長が104.5㎝。整列の「前に習え」で手を伸ばした記憶はない。

びっくり!


急にざわざわし始めたら、雨の凄い降る音。土砂降りだい!

この後も止んで青空が出て安心。サミット屋上からは真っ黒な雲が。イトーヨーカドーの駐車場に着いた途端土砂降り。40分ぐらいカンヅメ。この時期は仕方ないな。

  

コメント (2)
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雲の合間から射す光

2015年08月09日 23時44分26秒 | マツンのおもい

瀬戸大也選手、男子400m個人メドレー 金メダル!

日本人初の連覇!オリンピック出場内定!おめでとう。

「自分を信じる」ことしかない。

苦しい厳しい状況に追い込まれた瀬戸、戦法を変え勝負に出て飛ばした。いいイメージはできなかったが、ポジティブに一発かけてやろうと誓った。一度ダメになっても立ち上げられたことは自信になる。嬉しいです。王者で二連覇、そしてオリンピック内定でホッとしている。

みんなへのメッセージは、「人間やればできる」なんでもがんばって欲しい。

  

まさか金メダルを堂々とした泳ぎで取れるとは夢にも思わなかった。待っている時も生あくびをしていた。プレッシャーで寝ていないんだろう。完璧に開き直り一発狙った。今までの日本人にはないタイプの選手が出てきた。油断するとずるずる落ちることを本人は悟ったことだろう。

あの夏の記録

文藝春秋 九月特別号 立花隆

日本はあの戦争にあれだけ負けたあとも、いまだにちゃんとした反省がない。なぜあれだけ負けたのか。あれだけ負けるなら、なぜやったのか。途中で異なる方向への転換がなぜできなかったのか。そういった反省なしに、いきなり一挙十一本もの安保法案を強行採決で取りそろえてしまうような乱暴を続けていたら、また戦争をしても大敗北を喫するだけだろう。

勝麟太郎が中島さんへ 長崎伝習所

勝海舟 第一巻 黒船渡来

長崎へなにしに来たんだ、毛唐共にへえこら云って馬鹿にされながら物を教わっているはなにが為だ、おのが為か、立身出世をしてえ為か。おい、お前さん、なんぼ馬鹿でも、まさか、そんな気でいるんじゃねえだろう。己れというを一切棄てて、夜の明けかけている神国の、お役に立とう身支度をしに来ているんだ。それをなんでえ、私事の喧嘩沙汰に、腹を切るの切らねえのと、何処を押せあそんな馬鹿ばかしい音が出るえ。

八重洲ブックセンターから勝海舟二巻から6巻が揃ったと電話あり。「威臨丸渡米」「長州征伐」「大政奉還」「江戸開城」「明治新政」へと続いていく。読み応えがあるな。いつ頃読了できるか。


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つらい時こそ笑顔で

2015年08月08日 22時33分33秒 | マツンのおもい

世界水泳女子200メートル平泳ぎ

渡辺香生子選手 抜群の追い上げでぶっちぎりの金メダル

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20150808/k10010182541000.html 

  

優勝しての第一声が、「みなさんに感謝したい」という素晴らしい言葉。自分一人の力では勝てない。本当に嬉しいです。オリンピックの内定も出たし、気を緩めず頑張っていきたいとコメント。

竹村コーチの、「苦しい時はがんばっている時、辛い時、しんどい時こそ笑顔を出そう」言葉で共に歩んでの金メダル。

金メダルに輝いた星選手、渡部選手共にメッセージ力が強い。聞き手に共感、感動をしっかり伝えてくれる。できそうでできないことである。

 私の青空

この大戦で約300万人の日本人が亡くなった。誰に責任があるのか。この時期になるとマスコミに乗せられ「戦争ものがたり」に組み入れられてしまう。美化しては決してならぬ。殺し合いだ。もう書きたくない、聞きたくない。ただ戦争は絶対してはいけない。沖縄、本土空襲、広島、長崎から敗戦。俺の小さい時の記憶の一部を辿ってみよう。

自然が残されていた。富士山が目の前に。小川もあった、タニシもいた。畑には黄金の肥溜め。ポットン便所。井戸。水汲みは辛かった。蚊帳なんて知ってるかな。ターニングポイント、生活が一変したのは桜堤団地ができたこと。昭和34(1959年)年6月、俺が中学2年の時に完成。

昭和39年(1964年)10月10日が東京オリンピック。

次の記事から敗戦から繋がる自分の生き様を考えてみた。

(昭一とひさしをたどって:5)笑いは、一瞬でわからせる 2015年8月7日16時30分

 http://digital.asahi.com/articles/DA3S11904689.html?ref=pcviewer 

そして「あの戦争が終わったときのあの青空」「あのときに見た青空。自由という感じが、空にまで届いているような、あの伸び伸びとした気持ちをいつまでも持ち続けたいな」といって、歌ったのが「私の青空」だった。

https://www.youtube.com/watch?v=GWDUnf9T5WA 

〈夕暮れに仰ぎ見る輝く青空/日暮れてたどるは我が家の細道/狭いながらも楽しい我が家〉(訳詞・堀内敬三)

 小沢昭一井上ひさし

2人が同時代を生き、ぶつかりながら、いくつも作品を残した幸運を思う。バカみたいな方法で、大事なことを伝えること。みんなが言う話は疑うこと。死の前で人は同じだからこそ、生きる喜びはあること。笑いには、それらを一瞬でわからせる力がある、と教えてくれた。「戦後」はこんな知恵も生んだのだ。

 エノケンから高田渡・漣の父子、大瀧詠一にまで受け継がれてきた「私の青空」

 http://www.tapthepop.net/song/28346 

 戦後の貧乏生活 直感で思い出すもの 

 プロレス 力道山、シャープ兄弟 吉祥寺

 ボクシング 白井義孝

 ラジオ 赤胴鈴之助 サンマの臭い

 水泳 山中毅 シドニーオリンピック 古橋 真空管

 喜劇 ロッパ、アチャコ、エノケン、金語楼

 歌 美空ひばり 小学校の登下校

  朝鮮人 トタン小屋

 戦争の傷跡 傷痍軍人、混血児、パンパン、基地(砂川問題)

 遊び メンコ、ベーゴマ、紙芝居 水飴、爆弾、盆踊り、屋台

 医者 ヤブ医者

 遊び場 小金井公園、広場、田無、深大寺、大沢

 花火 井之頭公園 ナイアガラの滝 事故があって中止に

 スポーツ かけっこ、野球、紙グローブ、相撲

 街 吉祥寺 ラーメン、おんぼろバス、ランドセル

 

 



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心にはちまきを!

2015年08月07日 23時37分32秒 | ことば

星奈津美選手、素晴らしい泳ぎ!
感謝の気持ちを持って金メダル!


バセドウ病の手術を乗り越えて。普通ならば怖くて運動なんてできないでしょう。多くの人に支えられ頂点に立ちました。本当におめでとう。大粒の涙がよかった。
インタビューが素直で良かった。聞く側の寺川さんの包み込むような温かさ。子どもたちが夢を持って泳ぎに夢中になれる「感動」というキーワードを引き出してくれた。

またコーチの存在を再認識した場面でもある。協力・協働作業の賜物であろう。

 味の濃いい言葉

最近、上滑りの言葉が多すぎる。そのうえ子どものような責任転嫁をする。例えば、新国立競技場が遅れた、白紙撤回になった原因は民主党にあるという。ふざけるなよ!いい加減にしろよ!政権交代した時きちんと責任も交代しているだろう。下村文科大臣、今しかやめるチャンスはないよ。オリンピック開催はもっと複雑で多様な課題が折り重なってくるよ!嘘はバレる!

そんな気持ちで新聞を見ていたら重厚な文章と出会った。

(人生の贈りもの)わたしの半生 写真家・作家、藤原新也:71歳

 http://digital.asahi.com/articles/DA3S11904698.html?ref=pcviewer

空っぽだった快楽の国アメリカ

アメリカという国家はネズミを強引にミッキーに変えてしまう自分本位な国だが、市井の一人ひとりは日本人より他者に対する思いやりがある面もある。マウンテンバイクで山を下りていて空中に投げ出されたことがあった。気がつくと十数人が顔を寄せ合い本当に心配しているんだ。東京・銀座の路上で以前、交通事故に遭ったときに遠巻きに冷たい視線を向けられたのとは対照的だった。けれども、国家になると二重人格者のように性格が一変する不思議な国だね。

 


コメント (1)
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