三浦俊彦@goo@anthropicworld

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オトイアワセ:
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2007/12/10

2000-03-13 00:14:40 | 映示作品データ
『戦火のかなた』Paisa (1946年、イタリア、126分)
監督 Roberto Rossellini
脚本 Federico Fellini

 前回に観た『悪魔の首飾り』の監督フェデリコ・フェリーニが無名時代に関わったリアリズム映画の傑作。6つのエピソードがタイトルなしで連続する構成。登場人物はすべて素人が演じているので、顔の知られた俳優による「ヤラセ」の確証を隠すことができ、論理的にドキュメンタリーの可能性を残す作りになっている。
 アメリカにとっては不必要な戦線と見られ、大英帝国の覇権主義に荷担させられた不本意な戦いであった地中海・イタリア戦線を描いているが、その戦線のしかも終戦間際のエピソードとなると、戦いの虚しさがいっそう際立ってくる。観賞した「修道院」のエピソードでは死傷者は1人も出なかったが、他のエピソードでは、アメリカ兵とイタリア娘が心を通わせあったとたんに、銃弾が2人の命を奪う、といったやるせない話が大半を占める。
 「修道院」も暗いと言えば暗いエピソードである。あからさまにドイツ支持を支持することで何百万人ものユダヤ人虐殺を可能にしてしまったローマ教皇庁の体質を思い出させる。宗教の本質そのものを暴き出しているとも言える。
 豊富な食料を提供して修道院に宿を求めた三人のアメリカ従軍牧師のうち、二人がユダヤ教とプロテスタントの牧師であることを知り、修道院の聖職者たちは狼狽する。通訳のカトリック牧師を説得して、あと二人の「汚れた魂」を救おうと試みる聖職者たち。その熱意はもちろん善意によるものだろうが、同時に、偏狭な宗派意識・排他主義でもあることに注意。崇高な理念の装いで残虐な戦いを繰り返してきた宗教の歴史を圧縮して観る思いがするだろう。
 最後に、二人の「汚れた魂」を救うために断食を表明する聖職者たちに対して、通訳のカトリック牧師が三人を代表して礼を述べる。「食事中は声を出してはならない」規律をあえて破っての発言なので、何か特別なことを言うのかと思いきや、ごく決まりきった謝辞を述べるのみである。何のオチもない。ハリウッド的基準では「何じゃこりゃ」といった終わり方であろう。しかし、そのありきたりな謝辞を口ごもりながら述べるカトリック牧師の言葉には、愛を説きながら異教徒を迫害し続けたキリスト教師へのしみじみとした感慨が込められているようにも思われる。

 『戦火のかなた』の各エピソードの舞台は、シチリア→ナポリ→ローマ→フィレンツェ→ゴシックライン→ポオ河 と北上してゆく。これは、連合軍の進出を示しているが、アルプス山脈の北、ドイツにおいても、同時進行で連合軍とソ連軍の侵攻が続いていた。つまり、ドイツとイタリアの場合は、国土が順次連合軍に占領されてゆき、その土地の住民にとっては連合軍に占領されたときが「戦争の終わり」を意味していた。全国民が一致して実感する「終戦の日」というものは、ドイツ国民とイタリア国民にとっては存在しなかったのである。それに対して日本は、沖縄を除いて、国土が戦場にならないうちに降伏できたために、8月15日に天皇の玉音放送を全国民がラジオで聴くという形で「終戦の日」を全員一致で実感できたのだった。
 一億総玉砕を叫んでいた日本が「徹底抗戦」せずにすんだのはなぜか、ドイツのように首都が戦場となり政府が消滅するまで戦わずにすんだのはなぜか、その理由をじっくり考えてみよう。