
【連載】呑んで喰って、また呑んで⑬
「アララット」の誘惑には勝てず
●スウェーデン・ストックホルム
その日の朝、デンマークの首都、コペンハーゲンから鉄路でストックホルム駅に着き、現地で働く友人R君と昼食を共にした。もちろん彼の奢りである。食事が終わって、さて、どうしたものか。R君の勤務が終わるまで数時間あったからだ。で、R君のすすめで、ストックホルムでもっとも大きなサウナで時間を潰すことにした。
そこはストックホルムでもっとも古いサウナだった。まるで宮殿のような建物で、中央に大きな室内プールもある。サウナで火照った体を冷やすにはもってこいだ。さ、サウナ室に入るぞ!
サウナ室には私以外に客はひとりしかいなかった。さあ、友人との再会までサウナで思う存分くつろぎ、旅の疲れを洗い流そう。5分もしないうちに汗が全身からにじみ出てきた。うーん、なんて気持ちがいいんだ。そう至福の喜びに浸っていると、先客の中年男が席を立ち、にじり寄ってきた。な、なんで、こっちに来るんだ。あっちに行けよ。心の中で悪態をつくが、ときすでに遅し。
「私の名はピーターだ」
と男が名乗り、私に握手を求めてきたのである。せっかくサウナでくつろいでいるのに……。ほんと面倒だが、無視するのも失礼というものだ。仕方がない。こちらも名乗り、熊のような手を握ってあげた。
「ワーオ、日本人なの」と男が少しばかり卑屈な笑みを浮かべた。「日本には前から興味を持っていた。あなたに会えて嬉しい」
「あ、そう」と私は気のない返事をした。
「今はストックホルムに住んでいて貿易の仕事をしているけど、じつはロシア人なんだ」
あたかも重大な秘密であるかのように男は小声になった。まだロシアが社会主義国のソ連だった時代である。亡命者なのか。それともソ連のスパイか。
「ピーターというと、ロシアでは『ピョートル』だよね」
さも興味があるように会話に応じたのだが、これがよくなかったようである。ピーターと名乗る男は、さらに異常接近して尋ねた。
「日本のことをもっと知りたい。これから私のアパートに来ないか?」
どうして、この会ったばかりの男のアパートまで行かなくてきならないのだ。ひょっとすると、あっちの方かも。残念ながら、私にはそういう趣味はない。
「友達と会うことになっているからダメだ」
そう断っても、ピーターは引き下がらなかった。
「何時に?」
「6時頃になるかな」
「まだ2時前じゃないか。アララットという酒を知ってるかい。アルメニア産のブランデーだ。美味いよ。一緒に呑もうよ」
知ってるも何も、当時の私が一番好んだ酒である。ノアの箱舟が漂着したというアララット山のふもとで採れた葡萄からつくったブランデーで、1945年のヤルタ会談でホスト役のスターリンがチャーチルにすすめたことでも有名だ。このブランデーをチャーチルはいたく気に入り、毎年400本もロンドン送らせたという。
▲ヤルタ会談でチャーチル(左)がアララットを気に入った
少し甘めなので、私は夏になると、朝から水と氷で薄めて目覚まし代わりに呑んでいた。いやあ、アララットの誘惑には勝てない。「妻も喜ぶよ」というので、安心したこともある。しばらくして、私とその男は市バスに乗っていた。15分ほどでバスは目的の停留所に着いた。そこから歩いて3分ほどのところにピーターのアパートがあった。
アパートと言っても、日本のぼろアパートを想像してもらっては困る。15階はあっただろうか、いわゆる高級マンションだ。男の部屋は確か8階にあった。だだっ広い部屋には高価そうなペルシャ絨毯がそこかしこに敷かれているではないか。市バスを利用したけど、お金持ちなのかも。ぐるっと見渡すが、夫人の姿が見当たらない。
「奥さんは?」
「きっと買い物に出かけたんだろう」とピーターは関心がなさそうに言う。「さっ、アララットだ」
ピーターがアララットの栓を開け、2つのブランデーグラスに遠慮がちに注ぐ。けち臭いことをせずに、もっと注げよ! つまみはキャビアだった。黒パンにのせて口に放り込む。幸せだ。来てよかった。1時間も経たないうちにボトルが空に。ピーターが両手にアララットを4瓶抱えて台所から戻ってきた。それにしても、夫人の帰りが遅い。再びあの不安が…。最初から夫人なんかいないのかもしれない。私は貞操の危機を感じた。いかん。友人に電話しなくちゃ。
「ピーター、電話を借りるよ」
「ああ」
R君はまだ事務所にいた。よかった。
「早く迎えに来てよ!」
そしてピーターに電話を代わり、住んでいる場所をR君に教えてもらった。電話を終えたピーターはがっかりした表情である。迎えに来ると言っても、あと1時間はかかるという。それまで何とか時間稼ぎをしないと。
「美味いね、アララットは最高だ。さ、もっと呑もう」
とピーターのグラスにアララットをなみなみと注いだ。呑みすぎたのか、ピーター眼がトローンとしている。うん、いいぞ。あともう少しの辛抱だ。私はここぞとばかりにキャビアを頬張り、アララットもゆっくりと味わう。
部屋のチャイムが鳴った。友人が到着したのである。ドアを開けたピーターだったが、R君の挨拶を最後まで聞くことはなかった。床にぶっ倒れたのである。起こすのも気の毒だ。こうして私とR君はすみやかにピーター宅から立ち去った。アララット2瓶を土産に。ピーター、有難う。