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「山の上ホテル」とヴォーリズ建築事務所 【短期集中連載】日本を愛したヴォーリズ①

2024-03-14 05:27:31 | 日本を愛したヴォーリズ

【短期集中連載】日本を愛したヴォーリズ①
「山の上ホテル」とヴォーリズ建築事務所

山本徳造(本ブログ編集人)

 

▲閉館された山の上ホテル

 

文豪たちの定宿「山の上ホテル」

 文豪たちの定宿として知られる「山の上ホテル」(東京都千代田区)が2月12日の営業を最後に閉館した。建物の老朽化が理由で、再開の時期は未定だという。このホテルのあった神田駿河台は、大学や書店が密集している文教地区だ。それに出版社もやたらと多いので、いつしか文化人御用達の宿となってしまった。なにしろ川端康成、三島由紀夫、池波正太郎、松本清張といった作家がこよなく愛し、定宿としていたことで有名である。檀一雄もその一人だった。晩年の檀は『火宅の人』を発表する。愛人関係になった舞台女優との日々と破局を描いた私小説で、すっかり檀の代表作みたいになってしまったが、愛人との同棲生活を送ったのが山の上ホテルだった。
 何よりも、都心でありながら静かな環境だったことから、作家たちに気に入られたようだ。それだけではない。大手出版社からも近かったので、編集者には何かと都合がよかったらしい。原稿の締め切りが迫った作家たちが「雲隠れ」しないように、担当編集者が「缶詰め」、つまり強制的に宿泊、いわば「軟禁」状態にしたのである。
 そんなわけで、いつしか山の上ホテルに「缶詰め」にされることは、「売れっ子作家」の証明にもなっていた。直木賞や芥川賞を受賞した作家が、受賞後の第一作を執筆する場所も山の上ホテルというのが、ほぼお決まりだったものだ。
 このホテルに「缶詰め」にされるのは、なにも売れっ子作家だけではない。一介のノンフィクション・ライターでも緊急の場合、「缶詰め」にされることがある。私がそうだった。もう40年以上も前のことだ。

タイに逃れたカンボジア難民

 1979年1月、アランヤプラテート――。バンコクから車で4、5時間ほど走ったところにあるカンボジアと国境を接する小さな街だ。普段は静かな田舎街だが、なぜか世界中からジャーナリストが押し寄せていた。カンボジア全土を恐怖と暴力で支配したポル・ポト政権が崩壊したからである。いつポル・ポトらがカンボジアからタイに逃れてくるのか。それを取材するために、国境地帯に張り付いていたのだ。
 その4年前の1975年、ベトナムのサイゴンが陥落し、社会主義政権が誕生した。カンボジアがクメール・ルージュによって共産化したのは、ベトナムより1カ月早い同年3月のことである。首都プノンペンの住民は農村に強制的に移動させられ、有無を言わさず過酷な労働に従事させられた。
 ポル・ポトらの指導者は、カンボジアの知識層や逃げ遅れたロン・ノル時代の軍人や官僚を一網打尽にしただけでなく、何百万人もの罪もない庶民を残忍極まりない方法で処刑したのである。まさに「キリング・フィールド」だった。
 しかし、その政権もベトナム軍の侵攻で崩壊し、ポル・ポトやイエン・サリらクメール・ルージュの指導者たちがタイ国境に逃れてくるのを、世界各国のジャーナリストが待ち構えていたのである。当時、バンコクにいた私もアランヤプラテートに移動し、毎日のように国境地帯に張り付くことになった。
 カンボジアから最初の一団がタイに逃れてきたのは、私が国境地帯で取材を始めて数日後のことである。数十人だった。その一団が地元の警察署に収容されたという情報をつかんだ私は、さっそく警察署に向かう。警察署の中庭に彼らの姿があった。着の身着のままという風体の彼らの顔つきからすると、ポル・ポト一派というより、ただの難民という感じである。
 彼らからカンボジアでの過酷な生活ぶりを聞き出すことに成功した。他にジャーナリストがいなかったので、私が一早く彼らに接触したに違いない。それを知った週刊ポストの編集者Sさんから連絡があり、「すぐに記事を載せたい」と言う。そんなわけで、私は急遽帰国することになった。

 

▲カンボジア国境でポル・ポトを待つ取材陣。右から4人目が筆者

▲取材陣目当ての屋台が国境に出没した。筆者(左)も汁ソバを注文。中央の白シャツがニール・デイビス(オーストラリア人の戦場カメラマン)だ。彼は1985年のタイ・クーデターを取材中、軍が発砲した流れ弾に当たって死去。ベトナム戦争時代からのニールの親友、クレス・ブラット(バンコク在住のスウェーデン人カメラマンで、私の友人)がバンコクで偲ぶ会を主催した

 

山の上ホテルで「缶詰め」に

 帰国した私は成田空港から週刊ポストを発行している小学館に直行、Sさんと合流してからタクシーであるホテルに向かう。そこが山の上ホテルだった。
「今日はここに泊まってください」
「えっ、このホテルに?」
「そうです。明日の昼までに原稿を書いてもらいますので、どこにも行かないように、カンヅメですよ」
 それまで単行本の締め切りが迫ったときなんか、どこにでもあるビジネスホテルや旅館に「缶詰め」にされたことが何度かあったが、しかし、あの文豪たちが定宿にし、売れっ子作家が「缶詰め」にされた山の上ホテルである。30歳にもならない若造の私が、嬉しさを押し隠すのに苦労したのは言うまでもない。

「あ、もうこんな時間ですか。とりあえず、腹ごしらえしましょう」
 Sさんが私を夕食に誘った。ホテル近くのレストランで分厚いステーキを食べた記憶がある。レストランを出てからSさんが言う。
「せっかくだから、ホテルのバーで少し飲みましょうか」
 いや、原稿が気になるので、止めときましょう。そんなこと、誰が言うか! なにしろ文豪たちがグラスを傾けたバーである。レストランでビールも飲んでいたので、ニコニコ笑ってバーへ。結局、2時間ほど飲んだろうか。
 いい気分で部屋に戻ってからも興奮冷めやらない。この部屋にどの作家が泊ったのか、あれこれ想像しながら幸せなひと時を過ごす。気がついたら午後11時を過ぎているではないか。いかん、原稿を書くのをすっかり忘れていた。執筆しようとデスクに座るが、酔いが残っていたうえ、バンコクからの長時間のフライトで疲れていたのだろう、激しい睡魔に襲われた。もう一行どころか、一字も書けない状態である。
 寝るしかない。原稿の執筆は明日の朝だ。そう決めて深い眠りに落ちた。目覚めたのは翌朝の8時頃だった。あと4時間しかない。それから一心不乱で書き続け、なんとか11時の締め切りに間に合った。
 そんな思い出のある山の上ホテルである。閉館の知らせを聞いて、当時の出来事を懐かしく思い出したのも当然だろう。私の「缶詰め」体験はともかく、テレビのニュースなどでホテルの外観を見ていると、どこかで見たような気がしてならない。気になって「山の上ホテル」を調べてみると、一人のアメリカ人建築家にたどり着いた。

設計したのはヴォーリズ建築事務所

 その前に山の上ホテルの歴史を振り返ってみよう。
 建物が完成したのは、昭和12(1937)年のことである。もともとホテルではなく、「佐藤新興生活館」と呼ばれていた。九州の石炭王だった佐藤慶太郎が、西洋の生活様式やマナーなどを日本人、とくに女性に教える啓蒙する施設として建てたのだ。
 しかし、第二次大戦後、マッカーサーのGHQに接収され、日本に進駐した米陸軍婦人部隊の宿舎として使われていた。「山の上ホテル」として営業したのは、昭和29(1954)年になってからである。
 さて、このアールデコ様式の建物を設計したのは、いったい誰なのか。ヴォーリズ建築事務所東京支店の所長だった松ノ井覚治だと言われている。ヴォーリズ建築事務所と言っても、たいていの人はピンと来ないだろう。
 では、同建築事務所の代表だったウィリアム・メレル・ヴォーリズという建築家を知っている日本人はどれほどいるのか。帝国ホテル施工の総指揮をとったフランク・ロイド・ライトはあまりにも有名だが、ウィリアム・メレル・ヴォーリズとなると、ほとんどの日本人は知らないに違いない。
 しかし、彼こそ、日本で数多くの西洋建築を手がけた建築家なのだ。建築家としての顔だけではない。ヴォーリズは関西を中心にキリスト教の伝道者、社会事業家、そして実業家として日本に確固たる基盤を築くことになる。日本人なら誰でもお世話になったことのあるメンソレータムを日本に普及させたのも、敗戦時に天皇を守るために尽力したのも、ヴォーリズだった。調べれば調べるほど、こんなに興味深い人物はいない。来日から没するまでの足跡を辿ってみよう。(つづく)


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