【連載】呑んで喰って、また呑んで(53)
出版社で鍛えられた酒①
●日本・東京
大学を卒業して就職した先は、都内の出版社だった。と言っても、最初に配属されたのは編集部ではない。営業部員として都内の主要書店を革靴の底に穴が開くほど歩き回る日々である。昼食の時間だけはしっかりと確保した。麻布周辺のちゃんとした店構えの中華料理屋にわざわざ足を運んで、焼売やピータンなどをつまみにビールの大瓶をぐいっと呑んだものである。それでも、不思議と顔が赤くならなかった。
外回りの営業はいい散歩になる。しかし、閉口したのは真夏の営業だった。汗っかきの私にはつらい。もう半袖のカッターシャツは汗でびしょびしょ。気持ちが悪いので、銭湯を見つけては飛び込んだ。冬は冬で気が滅入る。早く帰宅して、近くのおでん屋で熱燗をぐいっとやりたい。
そんなわけで、仕事に慣れてくると、いちいち会社に戻るのも面倒なので、私は勝手に「直帰」を選ぶことにした。そう、白金台の会社に戻らず、高田馬場のアパートに戻ったのだ。
この「直帰」が何回か続く。翌朝、出勤すると、なぜか上司が私の前に仁王立ち。顔が真っ赤で、肩が震えているではないか。体調でも悪いのかと思ったが、そうではなかった。
「き、キミー、なんで会社に戻ってこないんだ! 仕事、やってるのかよー!」
つまり、「直帰」を繰り返す私に怒りを爆発させたというわけだ。よかった。病気ではなくて。
そんな優雅な営業を続けて1年が経った。ある日、私は社長室に呼ばれた。成績優秀なので、給料を上げてくれるのか。いや、そんなわけはないだろう。やっぱりクビを宣告されるのか。覚悟を決めて社長室をノックした。おかしい。社長は笑顔で私を迎えるではないか。
「あー、君、編集部を希望していただろ」
「ええ」
「じゃあ、明日から雑誌の編集部に移ってくれたまえ」
「えーっ、突然ですね」
「ああ、雑誌の編集部員が全員辞めたんだ」
なんでも、文芸誌から総合オピニオン誌にするという編集方針に、若手の部員3人が反旗を翻して辞表を提出したらしい。編集部で残ったのは、副編集長のKさんたった一人である。編集長はいることはいるが、作家なので、ほとんど会社に顔を出さない。
そんなわけで、翌日からKさんと私の二人で約300ページの月刊誌を編集することになった。当時は、ファクスはあるが、今のようにパソコンという便利なものはなかったので、執筆者からの原稿をメールで受信するというわけにはいかない。
短い原稿ならファクスで済むが、長文の場合、わざわざ執筆者の自宅まで取りに伺うことになる。物書きには、お酒の好きな人が多い。だから、指定される受け渡し時間は、たいてい夜と決まっていた。
のちにテレビの深夜番組でМCを担当することになる作家のTさんに連載小説を依頼していたので、私が毎月原稿を取りに行くことに。一応簡単に原稿に目を通し終わると、待ってましたとばかり、
「さあさあ、2階へ行きましょう」
2階の畳の部屋に案内されると、座卓の上には、チーズや刺身やらが並べられている。アルコールはウイスキー、ブランデー、ビールとなんでも。いやあ、呑んだ、喰った、呑んだ。すっかり千鳥足になって高田馬場のアパートに戻ったものである。
原稿を取りに行くことがない日でも、酒から逃れることはできなかった。副編集長のKさんが無類の酒好きだったからである。いつも夜の11時過ぎまで編集作業や校正に追いまくられていたのだが、それが終わると、Kさんからのお誘いがかかる。
「ちょっと軽く行こうよ」
Kさんの言う「ちょっと軽く」は「徹底的に呑もう」と同義語だ。
今でこそ超近代的なオフィスビルが立ち並ぶ品川駅北側だが、当時はうら寂しいところだった。Kさんが好んだ店が、その一角にある小汚い居酒屋。ビール党のKさんは仕事を終えた解放感からか、じつにうまそうにビールを呑む。
酒の肴は「もつ煮込み」と決まっていた。週3日は二人してこの店に通っただろうか。ビールは必ず二人で大瓶2ダースは呑んだことを覚えている。店を出たときには、すでに終電が出た後だった。
そんなわけで、高田馬場へはいつもタクシーで帰宅したものである。タクシー代は誰が払ったのか。もちろん、私ではないことは確かだ。たぶん会社の経費だったのだろう。いずれにしても、この出版社には酒と食にまつわる話に事欠かないので、次回もお付き合い願いたい。(つづく)