【連載】呑んで喰って、また呑んで(99)
SМ作家から女ヤクザまで
●東京・四ツ谷
「みんな集まってるから来ない?」
「うん、行くよ」
Sとの間でそんな電話でのやり取りが週に2回はあっただろうか。
早く呑みたいから、急いで駅へ。営団地下鉄・丸ノ内線の「新高円寺」駅である。住まいから徒歩5分もかからない。東京に住んでいたころ、一番利用したのが丸ノ内線だった。「新宿三丁目「赤坂見附」、そして呑む誘いのあった「四ツ谷」。
その店は四谷警察に隣接したビルの3階にあった。スナックとクラブの中間みたいな呑み屋で、照明が適度に暗く、落ち着いた店である。30代後半の妖艶なママが女の子を一人雇って切り盛りしていた。
私たちが集まるのは、大体夜の9時過ぎ。この店を見つけたのは、写真月刊誌の編集長をしていたKである。当時、写真誌といえば、『フォーカス』(新潮社)と『フライデー』(講談社)が双璧だった。その2誌に追い付けとばかりにKはネタ探しに必死である。
私に電話をしてきたSもKの親友なので、同誌の編集を手伝っていた。Sの誘いで私も仕事を頼まれることも。台湾で軟禁状態に置かれている張学良の単独インタビューも試みようとした。あの蒋介石を拘束し、「共産党と一緒に抗日戦線を張ろう!」と迫った人物である。爆殺された張作霖のドラ息子と言ったほうが分かりやすいかも。
台北で待ち伏せしたのは教会である。敬虔なクリスチャンの彼が日曜に教会に行くと聞き、教会をハシゴした。取材を悟らせないように、讃美歌を歌ったことも懐かしい。結局、張学良に会えず、この取材は失敗に終わった。
ちなみに、Sは早大探検部出身のイスラム教徒である。酒には縁がないと思うのだが、なぜか呑兵衛だった。写真雑誌の編集部も四ツ谷にあったので、二人はその店には毎晩のように出向く。ライターとの打ち合わせも、取材相手との待ち合わせも、その店で。早い話が、「第二編集部」のような感じだった。もちろん、経費は会社持ちである。
そんなわけで、いつしか客は同誌関係者ばかりに。ママにしてみれば、毎日のように来て散財してくれるので、大歓迎だったに違いない。
「第二編集部」だから、客も多種多様である。SМ作家の団鬼六もKに連れられて来ていた。まさに大御所といった感じである。SМ作家だからと馬鹿にしてはいけない。話すとすごい教養人で、かもし出すオーラもすごかった。
芸能レポーターとして一世を風靡した梨元勝も顔を見せた。腰が低くて、対応もしごく丁寧である。上手にスクープ・ネタを聞き出すには、高圧的な態度で接するとダメなのだろう。いい勉強になった。
ヤクザの女親分も印象に残っている。まるで任侠映画に出てくるような粋な和服姿。美人で、しかも人当たりがいい。少しはにかんだところが、魅力的だった。ママと同じ30代後半だろうか。
たまたま私のバッグに米軍のアーミーナイフが入っていた。護身用でも何でもない。なぜか入っていたのだ。なにしろ相手は女親分とはいえ、ヤクザである。私がバッグからナイフを取り出すと、彼女は身構えた。戦闘態勢である。
「あのぉ、これ、よかったら使ってください」
彼女は上品な笑みを浮かべた。
「あら、いいの」
「ええ」
「私なんか使う道がないですから」
「そうね。くくくっ」
女親分は鳩のように笑った。
そのナイフが抗争に使われたかどうか知らない。
私が連れてきた新聞社の海外特派員も、この店をよく利用するようになった。あるときは女性同伴で。なんでもワシントン特派員の奥様だとか。いずれにしても、その店は連夜の大賑わい。ママも喜んだことだろう。
さて、この店で困ったのは料理の貧弱さである。乾きもの以外はお新香ぐらいか。だから、長丁場になると、腹が減って仕方がない。通りの向かいにステーキハウスがあった。小走りに駆け込み、よくステーキ定食を注文したものだ。それで深夜まで呑んでいた。帰りはタクシーしかない。たまに朝を迎えることも。そのときは丸ノ内線の始発で。
しかし、今から思えば、毎晩よく呑んだものである。呑んで喰った。そして、また呑んだ。一晩でウイスキーのボトルが3本は空になっただろうか。この連載も99回目である。キリのよい100回目で終わりとしよう。あと1回だ。さてと、今夜は何を呑もうか。