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「食は広州にあり」から金儲けの神様に 【連載】呑んで喰って、また呑んで㊺

2020-05-14 07:03:24 | 【連載】呑んで喰って、また呑んで

【連載】呑んで喰って、また呑んで㊺

「食は広州にあり」から金儲けの神様に

●日本・東京

山本徳造 (本ブログ編集人)  

 


「魚はねえ、この骨についている身の部分が一番美味しいんですよ」
 そう言って、その人は箸で器用につまみながら、まだ身がついている焼き魚の骨をしゃぶった。ぴしゃぴしゃしゅうしゅうと小気味のいい音を立てながら。
 見事だった。魚の種類が何であったのか覚えていないが、これほど魚を愛おしく、そして丹念に食する人を見たのは初めてである。その人の名は、邱永漢。食通で知られる作家である。
 当時、私は月刊誌『浪曼』の編集部員だった。編集長は作家の藤島泰輔である。編集長とは言っても、毎日出社するわけではない。ま、編集会議のときに白金台にある出版社に顔を出す程度である。毎月、編集長と「時の人」が対談することになっていたので、対談相手を探すのが大変である。みんなが思案に暮れているので、新米編集部員の私が提案した。
「あのぉ、美食家の邱永漢さんなんて、どうですか?」
 その頃、邱永漢の『食は広州にあり』という本を読んで、広東料理に凝っていたからだ。
「うん、いいね。邱永漢さんね。いいじゃない。彼にしましょう」
 そんなわけで、対談相手は邱永漢に決まった。
 対談の日がやって来た。その日もいつもの九段の料亭で行われることに。出されるのは、懐石料理である。私も会うのが楽しみで、朝からいそいそとしていた。まるで憧れのスターを待つような気分とでも言おうか。
 藤島編集長も邱永漢とは初対面なので、いつもより緊張しているようだった。対談はビールや熱燗の日本酒をチビリチビリやりながら、箸をゆっくりと料理に走らせる。じつにのんびりしたものだ。ちゃんとした対談になるのかというと、これがまた面白い。酒と美味は貴重な話を引き出す道具なのだろう。
 この日の対談もそんなペースで進む。冒頭の場面だが、食事も中盤に差し掛かった頃、つまり対談が一番盛り上がっているときである。このとき私は思った。食通は貪欲でなければならない、と。「骨の髄までしゃぶる」とは、こういうことか、とも。
 対談が終わって、夜遅く帰宅した。当時、私は高田馬場の下宿に住んでいたが、あの魚の食べ方が脳裏に焼き付いていたのだろう、料亭でご相伴に預かったのに、なぜか空腹を感じた。そして、行きつけの台湾料理屋に向った。それも駆け足で。私をそんな行動に駆り立てるほど、邱永漢は不思議な魔力を持っていたに違いない。
 さて、邱永漢とはどんな人なのか。
 大正13(1924)年、日本統治時代の台湾で台湾人実業家と日本女性との間に10人兄弟の長男として生まれた。台北高校尋常科に入学するが、同窓生に後に台湾総統となる李登輝がいた。文学青年だったが、なぜか東京帝大経済学部に入学。第2次大戦後に台湾に戻り、土建会社経営や中学の英語教師など転々とするが、砂糖の密輸で逮捕されたことも。そして、台湾独立運動にも関係していたことで国民党からにらまれ、逮捕される直前に香港に亡命する。1948年のことだった。
 亡命先の香港で、ようやく商才を発揮する。当時、敗戦直後の日本が物資不足だったのに目をつけた邱は、郵便小包を使って日本に輸出した。これが大当たりし、巨万の富を築く。余裕ができたのか、このときに処女作「密入国者の手記」を書く。『大衆文芸』に掲載されたことで、批評家たちから注目され、作家デビュー。香港から日本に移り住む。昭和30(1955)年には小説「香港」で第34回直木賞を受賞する。
 皮肉なことに、直木賞作家になったものの、小説はあまり売れない。日本人があまり登場しないからである。そこで邱は方向転換をはかった。文学よりも、金儲けと美食にテーマを絞ることに。編集者も賛同する。この決断は大成功だった。邱永漢が書く本や雑誌は飛ぶように売れたのである。こうして「株の天才」「金儲けの神様」が誕生した。
 その後、金儲けにも飽きたのか、邱永漢は昭和55(1980)年に家族と共に日本国籍を取得し、その直後に行われた参議院選挙(全国区)に無所属で立候補。が、金儲けよりも難しかったようで、たった15万票しか取れず、あえなく落選する。
 邱永漢は平成24(2012)年5月、東京都内の病院で88年の生涯を終えた。心不全である。その3年後、遺族3人が東京国税局から遺産20数億円の申告漏れを指摘されたという。

 余談だが、邱永漢が参院選挙に出馬する3年前に行われた第11回参院選にひとりの作家が自民党公認で全国区に立候補して落選した。九段の料亭で邱永漢と対談した藤島泰輔編集長である。そういえば、藤島編集長も美食家だった。


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