「戦場のピアニスト」の妻が91歳で死去
長男は日本在住の歴史学者
山本徳造(本ブログ編集人)
▲夫のウワディスワフさんとの写真が懐かしい▼
ポーランドの首都、ワルシャワで「戦場のピアニスト」の妻が亡くなりました。5月3日のことです。こうしてハリナ・シュピルマンさんは、20年前に死去した夫のもとに旅立ったのです。91年の充実した生涯でした。
ハリナさんは1928年、ワルシャワ南部のラドム市で生まれています。父親のヨゼフ・グジェツナロフスキさんは、ポーランド社会党の有力メンバーでした。第1次大戦後には死刑廃止運動の先頭に立ちました。
ロシアの10月革命にも参加した功績で「赤旗勲章」を受けた一方、ポーランド独立に尽力した人に与えられる「ポーランド復興勲章」も受章。この2つの勲章を持つ人物は、他にはいないでしょう。
またヨゼフさんはラドム市の市長や国会議員にもなり、第1次大戦後には死刑廃止運動の先頭に立ちました。ドイツ軍のポーランド侵攻でラドム市もナチスの支配下に置かれ、ヨゼフさんも収容所へ。第2次大戦終結でやっと解放され、スウェーデンで療養生活を送った後、祖国に戻ります。
ラドム市の市長や国会議員にもなったヨゼフさん。まさに波乱万丈の人生を送った人物を父親に持つハリナさんですが、彼女の夫となる人物も、彼女の父親以上に波乱万丈でした。ポーランドの古都クラクフで医学を修めたハリナさんは1950年に結婚します。その男性こそ、2002年に封切られた映画「戦場のピアニスト(原題=the Pianist)」の主人公だったからです。
その人の名は、ウワディスワフ・シュピルマンさん。ユダヤ系ポーランド人の著名ピアニストで、作曲家でもあります。第2次大戦中、ドイツ軍占領下のワルシャワでは、彼の家族や知人たちがゲットーや収容所に連れて行かれました。
しかし、ウワディスワフさんはゲットーから逃げ出し、廃墟を転々とし隠れ住みます。映画を観ても想像できますが、逃避行での寒さと飢えは筆舌に尽くせないものでした。そして、奇跡的に生き延びたのです。
ウワディスワフさんは戦後、自分の貴重な体験を回顧録「ある都市の死」にまとめました。その本が『戦場のピアニスト』の原作です。ポーランド出身のロマン・ポランスキーが監督となったことでも話題を呼び、カンヌ映画祭のパルム・ドール (2002年)をはじめ、翌2003年のアカデミー主演男優賞と監督賞、同年の英国アカデミー賞作品賞に輝きました。
残念なことに、映画が完成する2年前、ウワディスワフさんはワルシャワで亡くなります。妻のハリナさんは血液、関節炎などが専門の医学博士で、80代前半まで活躍した医師でした。医療活動に従事する傍ら、ハリナさんは障害者や貧しい人への支援活動にも積極的に取り組んできました。
ところで、私がハリナさんの訃報を知ったのは、5月12日午前のことです。それは友人からの電話でした。友人の名は、クリストファー・スピルマン。そう、ハリナさんの息子です。ちなみに、私たち友人は彼のことを「クリス」と呼んでいます。どうして「シュピルマン」ではなく、「スピルマン」なのか。イギリスやアメリカでの生活も長いことから、英語圏で呼びやすい「スピルマン」にしたとか。
さて、ポーランド時間の5月3日というのは、時差の関係で日本では4日になります。いみじくもクリスの誕生日で、千登勢夫人と祝っていた日でした。最愛の母親が亡くなったという訃報をポーランドの親族から聞いたクリスの悲しみは如何ほどだったのでしょうか。
悲しみはそれだけではありません。今は世界的なコロナ禍で、ポーランドに飛び立つこともできないのです。身内にとって、これほど残酷なことはありません。遺体を親族が荼毘に付した後、改めて葬儀を執り行うしか方法がないと、クリスは嘆いていました。
じつは私もハリナさんにお目にかかったことがあります。あれは2003年のことでした。ある取材でクリスと一緒にワルシャワの実家を訪れたのですが、ハリナさんが優しい笑顔で出迎えてくれたのです。1階の居間にウワディスワフさんが使っていたピアノが置かれていました。
訃報を知ったとき、そのピアノとハリナさんの笑顔が脳裏に浮かびました。あの笑顔をもう見ることが出来ないかと思うと残念でなりません。一日でも早くコロナ騒ぎが収拾し、ワルシャワで眠るハリナさんにクリスが会えることを願っています。合掌。
▲8歳のハリナさんが着物姿でポーズを決める
▲ハリナさん、まるで女優みたい
▲ヨゼフさん80歳の誕生記念式典でのハリナさん(右)とクリス(中央)
▲ロマン・ポランスキー監督(中央)とハリナさん(左)
▲映画でウワディスワフさんを演じてアカデミー主演男優賞を手にしたエイドリアン・ブロディ
▲晩年の夫とハリナさん
▲ポーランド訪問中のオバマ大統領(当時)と
クリストファー・W・A・スピルマン(歴史学者)
▲ハリナさんとクリス
1951年5月、ワルシャワ生まれ。18歳のときにイギリスに渡る。リーズ大学卒業後、ロンドン市役所に勤務するが、1976年に初来日。2年後にロンドン大学アジア・アフリカ研究学院日本語学科に入学し、翌年にイギリス国籍を取得した。その後、タイのバンコクでJVC(日本国際ボランティアセンター)のスタッフとしてインドシナ難民救済のボランティア活動に従事。1982年、米国のイェール大学大学院で東アジア研究と歴史学を学ぶ。1986年4月から1989年4月まで東京大学大学院法科政治研究科で研究生。1991年8月から2年間、米国のオールド・ドミニオン大学で歴史学部講師を務める。1993年6月、イェール大学で歴史学博士号を取得し、その翌年にデューク大学大学院に留学中の佐藤千登勢さんと結婚した。同年に再び来日し、拓殖大学日本文化研究所客員教授をはじめ、九州産業大学や帝京大学などで教授を務めた。第1次世界大戦から第2次世界大戦までの日本近代政治思想史が専門。「シュピルマンの時計」(小学館)、「近代日本の革新論とアジア主義―北一輝、大川周明、満川亀太郎らの思想と行動」(芦書房)の著書の他、編著「北一輝自筆修正版 国体論及び純正社会主義」(ミネルヴァ書房)、監修・解説「本間九介著『朝鮮雑記――日本人が見た1894年の李氏朝鮮』」(祥伝社)など。白井市には6回も来ている。
▲「本間九介著『朝鮮雑記――日本人が見た1894年の李氏朝鮮』」
▲「近代日本の革新論とアジア主義―北一輝、大川周明、満川亀太郎らの思想と行動」
▲成田空港に向かうため、早朝の白井駅へ(2003年3月24日)
▲ニューズウィークのインタビュー記事(2003年3月24日号)