
【連載】藤原雄介のちょっと寄り道㉔
「三本の小瓶」でジュネヴァを楽しむ
アムステルダム(オランダ)
「三本の小瓶=Three Little Bottles (De Drie Fleschjes)」の薄闇に足を踏み入れた。アムステルダム最古というジュネヴァ(別名=オランダ・ジン)のテイスティングルームである。この由緒ある「三本の小瓶」に私を連れてきてくれたのは、取引先の営業部長であり、友人でもあるローベルトだった。
さっそく冷えたジュネヴァを注文する。バーテンダーが一般的なオランダ人の体格には不釣り合いな低いカウンターに、薄く霜をまとったジュネヴァ専用のチューリップ型グラスを置き、液面が盛り上がるほどなみなみと酒を満たす。
私たちは、400年前から変わらない作法に則った。腰を折り、口を直接グラスにつけて最初の一口を啜る。それから'proost!'(プロースト=乾杯)とグラスを合わせた。
▲ 最初の一口は、グラスを持たずに啜る
ジュネヴァとは、17世紀にオランダ人医師が熱病に効くとい言われるジュニパー・ベリー(杜松の実)を蒸留酒につけ込んで再蒸留したもので、現在、世界の主流であるロンドン・ジン(ブリティッシュ・ジン)の原型と言われている。
オランダでは、冷やしたジュネヴァをストレートでハイネケンビールをチェイサーにして飲むのがスタンダードだ。17世紀には、オランダの植民地経営と共に世界に広がっていったジュネヴァだが、今や世界的には、ほぼ無名の酒だろう。世界の覇権の推移がそのまま投影されているようで、感慨深い。
16から20 種類もの草根木皮類と一緒に蒸留したロンドン・ジンは、華やかな香りと爽やかさ、そしてキリッとした喉越しである。一方のジュネヴァはというと、重く、(失礼な言い方だが)垢抜けない、もっさりとした代物なので、ロンドン・ジンとは比較にならない。
しかし、不思議な事に、アムステルダムにいるときにロンドン・ジンが飲みたくなることはなかった。アムステルダムの空気、食い物、オランダ語のキビキビとした響き、湿度といったものが影響するのだろうか。それはそれで旨いのである。何度か日本にジュネヴァを持ち帰ったことがあるが、まず飲む気にならないし、飲んでも旨くないのだ。
「三本の小瓶」は、アムステルダムの中心、ダム広場にある王宮の北北東徒歩3分ほどの新教会の裏にある。
1619年にブーツ・ジュネヴァ蒸留所によって、顧客がいろんな酒を購入前にテイスティングできる場所として開業したのが始まりだ。
店のインテリアは当時と殆ど変わっていない。店の壁は、法人や個人が所有する独自のレシピで作られたジュネヴァが満たされた「マイ樽」で埋め尽くされている。
▲▼「マイ樽」で埋め尽くされた「三本の小瓶」の壁。一緒に写っているのがローベルト
ジュネヴァは、基本的には食前酒である。アルコール度数は42度。いきなり飲むと胃がやられるので、定番のつまみは、固くて旨みの強いエダムチーズと牛の半生ソーセージ(名前を訊くのを忘れた)だ。ソーセージにはマスタードをたっぷり塗る。ジュネヴァとの相性は比類なし。ウマイ!
ディナーはもういいから、このまま、ジュネヴァに溺れたい、そんな気になる。が、ジュネヴァを愛するオランダ人 Robert は、私が4杯目のジュネヴァを注文するのを許してくれない。
「ここで、ぐっと我慢するから、今日のディナーが美味しくなる。そして、次にジュネヴァを飲むときに、待ちわびた喜びがある。それがジュネヴァとの付き合い方だよ」
▲ジュネヴァ定番のつまみは、エダムチーズと牛肉の半生ソーセージ
「ジンは、オランダ人が生み、イギリス人が洗練し、アメリカ人が栄光を与えた」と言われるが、言い得て妙である。私は、それぞれの段階に思いを馳せながら楽しんでいる。さて、今夜は、栄光のドライマティーニから始めようか。
▲「三本の小瓶」の奥でテイスティングを楽しむ女性ふたり
【藤原雄介(ふじわら ゆうすけ)さんのプロフィール】
昭和27(1952)年、大阪生まれ。大阪府立春日丘高校から京都外国語大学外国語学部イスパニア語学科に入学する。大学時代は探検部に所属するが、1年間休学してシベリア鉄道で渡欧。スペインのマドリード・コンプルテンセ大学で学びながら、休み中にバックパッカーとして欧州各国やモロッコ等をヒッチハイクする。大学卒業後の昭和51(1976)年、石川島播磨重工業株式会社(現IHI)に入社、一貫して海外営業・戦略畑を歩む。入社3年目に日墨政府交換留学制度でメキシコのプエブラ州立大学に1年間留学。その後、オランダ・アムステルダム、台北に駐在し、中国室長、IHI (HK) LTD.社長、海外営業戦略部長などを経て、IHIヨーロッパ(IHI Europe Ltd.) 社長としてロンドンに4年間駐在した。定年退職後、IHI環境エンジニアリング株式会社社長補佐としてバイオリアクターなどの東南アジア事業展開に従事。その後、新潟トランシス株式会社で香港国際空港の無人旅客搬送システム拡張工事のプロジェクトコーディネーターを務め、令和元(2019)年9月に同社を退職した。その間、公私合わせて58カ国を訪問。現在、白井市南山に在住し、環境保全団体グリーンレンジャー会長として活動する傍ら英語翻訳業を営む。