2023-09-30 「The News Lens」
アンソニー・トゥ回顧録④
台湾人化学者が共産圏で人情を実感「私がみたモスクワ、ウラジオストク」
杜祖健(Anthony T. Tu)
【注目ポイント】
日清戦争(1894~95)の結果、下関条約によって台湾は1945年まで約半世紀の間、日本の統治下に置かれた。戦前から戦後にかけて台湾医学の先駆者となった杜聡明氏の三男として生まれ、米国で世界的な毒性学の権威となった杜祖健(アンソニー・トゥ= Anthony Tu)氏。日本の松本サリン事件解決にも協力した台湾生まれ、米国在住の化学者が、自身とロシアとのかかわりを振り返る。
学会の場で何度も訪露誘われ
私がロシア人と初めて接触したのは1980年代の旧ソビエト連邦時代のことで、マレーシアで開かれた化学学会であった。
このとき接触した相手はウラジオストクの極東研究所の所長で、「機会があればロシアにいらっしゃい」という。
当時は日本人がウラジオストクで港の近くでうっかり写真を撮ってしまい、十数年も拘束される問題が起きていたのを私は知っていた。
それゆえに私は、「ウラジオストクはロシアの極東の軍港で、外国人は立ち入り禁止ときいているが…」といぶかしむと、彼は「杜先生は別ですよ」という。理由は後で述べるが私はあえてロシアをたずねようとは思わなかった。
それから何年もたった1990年代初頭に私はインドで開かれた学会に出席した。
その時もロシアのグリーシン博士が、「機会があったらロシアにいらっしゃい」という。私は単なるリップサービスだろうと思って、特に彼と深くかかわることもなかった。しかし米国に帰ってから彼の蜘蛛(クモ)毒に関する論文を読むとなかなか立派であった。
露研究者を逆に学会に招待
この当時私はワシントンD.C.で開かれる米国化学学会で毒性学のシンポジウムの責任者であったので、彼の立派なクモ毒の論文のことが強く印象に残り、私は講演者のひとりとしてグリーシン氏を招待することにした。彼に意向を打診すると、彼は「喜んで受理する」という返事をくれた。
私はワシントンD.C.ではヒルトンホテルに滞在した。そこに滞在中、突然モスクワから電話があった。グリーシン氏からの電話で、「ビザがなかなか発給されないので手伝ってほしい」というのだ。
どうして私がワシントンD.C.のヒルトンホテルに泊まっているのがわかるのか?ちょっと不思議に思いながらも私は国務省に電話して便宜をはかってくれるよう依頼した。
その結果、彼は無事にビザの発給を受けて無事ワシントンD.C.に来ることができた。その際彼はオクラホマ州立大学のクモ毒研究講座などにも招かれて講演を行った。
▲左から米国人のプライス博士、ロシアから来たグリーシン博士の助手、プライス夫人、グリーシン博士=ワシントンD.C.(筆者提供)
これが縁になり、グリーシン氏は帰国後しばらくして私にテレックスを送ってきた。
そこには短い文で次のように書いてあった。「ソ連政府は貴兄を私の研究所に招待します。このテレックスの電話番号を世界のいずれかのソ連大使館または領事館に示せば、ビザの発給が受けられます」。
米ソは冷戦で長らく世界を二分して対峙した関係。私は「台湾出身で米国在住の化学者が簡単にロシアに行っても大丈夫なのか?」と心中不安に思いつつも、結局は学術的興味が優って、訪露を決めた。招待の期日にしたがい当時の米大手航空会社パンアメリカン機に搭乗してドイツ・フランクフルト経由でモスクワに到着した。
バレエ鑑賞からエストニア出張まで
モスクワ近辺を旅客機から見ると森が多く見えたのが印象的だった。
モスクワ空港に着陸し入国手続きを済ませると、以前グリーシン氏と一緒に米国に来訪した若い助手が出迎えに来てくれていた。
私はあいさつもそこそこに、「ちょっと待ってほしい。いまドルをルーブルに両替するから」と応じると、彼は、「あなたはソ連政府の招待なのですからお金なんか要りませんよ。すべての費用はソ連政府が負担しますから」という。
彼の案内で政府招待所(ホテル)に入った。そこで本当に若干の現金を手渡され、「この給付金は施設滞在費や食費に使かってくれ」とのこと。
翌日はソビエト連邦科学アカデミーで講演を行い、これに関しても講師料としてなにがしかの現金が手渡されたのを覚えている。
その後でグリーシン氏は、「明日は有名なボリショイバレエ鑑賞はいかがですか。チケットを用意したからぜひ観てきてください」という。
私を劇場まで案内してくれた博士の若い助手は、終演まで劇場の外で私を待っていてくれた。
その後グリーシン氏がいうには、バルト三国の一番北方に位置するエストニアで「ソ連初の毒性学の会議が開かれるのでぜひそれにご出席ください。航空券は研究所がすでに用意したので、どうか明日エストニアに発ってください」という。急な話に面食らいながらも承諾した。
彼ら研究者一同も同行するものだと思っていたが、確認すると、彼らは「私たちは列車でエストニアに行きます。現地でまたお会いしましょう」とのこと。つくづく私はゲストとして特別にもてなされているのだと思い知った。
同宿の研究者にもうらやまれた厚遇
翌日私一人空路でバルト海に面したエストニアの首都タリンに着くと、エストニア科学アカデミーのシーゲル博士が空港で出迎えくれた。
グリーシン氏からシーゲル博士には、「すでにソ連政府が杜博士を招待しているのだから、エストニアから杜博士へ招待状は不要だ」と伝えられていたが、エストニアの学会の責任者は「学会の開催地はあくまでエストニアなのですから、エストニアからも貴殿に招待状を出しました」という。エストニアはソ連で最初に国家主権を宣言したわけだが、ソビエト連邦内における中央と地方共和国の確執、ソ連中央の力が落ちてきていることを実感させられた瞬間だった。
この学会は2日間の日程で、出席者は滞在中2人一組で宿泊先に案内された。
私が台湾人ということで気をつかってくれたのか、宿泊先でペアになったのは台湾から来ていた李鎮源博士(1915~2001)だった。李氏は台湾大学医学部長や国際毒素学会会長などを歴任した毒性学の権威のひとりだ。この李氏と2人で一緒に立派なソ連軍司令官の旧邸宅に泊まらせてくれたのだ。
その際の何気ない会話から李氏は私が招待されてモスクワでボリショイバレエを鑑賞したことを大変うらやみ、「ぜひ僕も観たい」とグリーシン氏にその要望をぶつけたようだ。
しかし出先から宿泊施設の軍司令官旧邸に戻ってきた李氏は、「グリーシン氏から『チケットは国立旅行社で手配できるので、そこで購入しなさい』といわれた」と憤慨し、「僕も世界的に有名な学者なのに、そんな冷淡な態度で僕に対するのは失礼だ。もう二度とロシアには来ない」と怒りをぶちまけていた。
グリーシン氏の態度が「そっけない」といって李氏が怒るのは、その場の、その時の、その人の受け取り様や主観なので仕方がないが、李氏の憤慨が「健ちゃん(彼は私のことをそう呼んでいた)、君が偉いと思ったら大まちがいだよ」と、私にまで矛先が向けられたのには閉口し、苦笑させられた。
▲「財団法人台湾医界聯盟基金会」を訪れた陳水扁総統から総統府顧問に任命される李鎮源氏(左)=財団法人台湾医界聯盟基金会HPより© Foundation of Medical Professionals Alliance in Taiwan
600ドル相当のルーブルが5ドルに暴落
それから3日後、私はソ連政府が用意してくれた航空券でモスクワに戻ったが、今度は女性ガイドが私についてクレムリン宮殿の中を案内してくれた。
普段は見られないような、むかしスターリンが君臨していたところまで見せてくれて、こちらが恐縮してしまったほどだ。そのたいそう立派な造作には感心させられた。
そうこうして過ごすうちに、いよいよソ連を離れるという前の晩は、グリーシン氏ら数人がモスクワ市内の一流レストランで小さな送別会を開いてくれた。
そのレストランではディナーショーも行われ、贅沢な気分を堪能し、翌日往路と同じパンアメリカン航空機でコロラドのわが家に戻った。全部で11日間というタイトな日程の旅であったが、その分密度の濃い、今となってはとても楽しい旅であった。
1990年代初頭のこの時代、ソ連は経済状況が最悪のころで、ロシアはまさに貧乏のどん底であった。それにも関わらず、私を精一杯歓待してくれたのは、私がグリーシン氏の学識を高く評価し、ワシントンD.C.で開催の学会に講師として招待し、そのビザ発給でも若干の骨を折ったことへの、手厚い恩返しだったのではないかと思う。李氏はそういう背景を知らずに、待遇に差をつけられたと思って憤慨したのだろう。
この旅で私は全部で約600米ドルに相当するルーブルを講師料としてもらったのだが、当時のソ連は、みやげに買って帰りたいものがそもそも何もなかった。私のソ連訪問の数か月後、ソ連は崩壊してしまった。
その後しばらくして私はオランダの学会に出た。
オランダの税関でソ連のルーブルを持っているが交換できるかと聞いたところ出来るという。交換してびっくり。返ってきたのはわずか5米ドルであった。もらったときの約600米ドル相当のルーブルはソ連の崩壊とともに価値が暴落し、紙くずのような貨幣となってしまっていたのだ。
▲ロシア極東の都市ウラジオストクの金角湾の眺め
厚い人情 いまもXmasカード交換
繰り返すが、当初私はロシアに行くのが大変怖かった。
その理由ははっきりしている。
実は私はこの当時、ソ連の生物兵器に関して、米国政府の顧問として1984年以来研究してきたからだ。
つまり米国側の対ソ連生物兵器(対抗兵器)についてお手伝いをしていた立場なので、ロシアも当然そのことについて知っているはずだろうと思っていたのだ。
しかし研究者として純粋にグリーシン氏の研究に興味を持ち、その結果、彼を米国の学会に招待した。つまり彼に渡米の機会をもうけたわけだが、こちらが思う以上にその恩を感じてくれたのだろうと思う。
それから数年後、やはりロシアのウラジオストクで毒性学の学会があり、主催者から「参加しないか」という手紙をもらった。そのプログラムを見るとすでに私の名前が準備委員として入っていた。
私に許諾を得る前に勝手に私の名前を入れていたのだが、それを見て逆に安心し、今度は躊躇なく出席を決めた。学会は盛大に行われた。
同じロシア人でもモスクワからの出席者らは飛行機で8時間もかけてウラジオストクまで来るという。ソ連は崩壊してもロシアはそれ単独で広大な領土を持っていることが実感できた。
招待してくれた極東研究所の人たちは学会の閉幕後に研究所を案内してくれた。新しい所長が自らガイドになってくれた。彼は「ウラジオストクの街もゆっくり見た方がいい」と女子学生2人を私のガイドにつけてくれた。
皆と一緒にいろんな所を訪れ、極東のサンフランシスコと呼ばれる街を堪能した。港にはロシアの潜水艦も停泊していた。
写真を撮ってもいいかと周囲にたずねたら「かまわない」というので沢山撮った。このとき知り合った極東研究所の秘書には大変丁寧にもてなしてもらった。私たちは今でも毎年クリスマスカードを交換している。
こういうわけで私は旧ソ連時代のモスクワと、同時代のエストニア・タリン、ソ連崩壊後のロシア・ウラジオストクをこの目でみたわけだ。ロシアは広大な国であるので、私が語れる都市の横顔や見聞などはごく狭い範囲なのだが、ありがたいことにそこでは多くの方から親切にされたことを自分でも不思議に思っている。
単に私が米軍に関係する研究者だからというだけでは十分に説明できないほどだ。
こうした体験を通して、私はたとえ共産主義国家でもそこに住む個々の人々には我々と変わらぬ人情があるということを実感させられたのである。
(2023-09-30 「The News Lens」からの転載)
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