
【連載】藤原雄介のちょっと寄り道(87)
日台を俳句で結んだ藤原若菜③
▲太魯閣渓谷の若菜
私が言うのも気が引けるが、若菜の綴る文章は大抵明晰であった。しかし、このエッセイに限っては、文書を読み進めてもなかなか引用符で囲まれた“日本人”とは誰のことなのか釈然とせず、珍しくもどかしさを感じた。
ネタばらしのようになってしまうが、第一の"日本人"は、日本語文芸に対する弾圧に命がけで向き合った黄霊芝先生を始めとする元日本人である台湾の先達に畏敬の念を抱き、自分自身も「日本語を扱うことに真摯でありたいという思い」を抱いた若菜自身である。
そして、若菜以外の“日本人”とはいったい誰なのか、と考えながら何度文章を読み返してみてもよく分からない。
文中、若菜は春燈会員の廖運籓さんの句を通して見た、烏山頭ダムを設計した八田與一と日本教育実践のために台湾に赴き抗日ゲリラにより殺害された「六師先生」として今なお台湾の人々に慕われている六人の日本人教師について語っている。
戦後、台湾の人々は國民党の迫害を必死にくぐり抜け、台湾に尽くした日本人の功績を讃える多くの碑や神社を守り抜き、また新たに建立してくれた。
彼女は、先人に対する恩誼と感謝を忘れぬ律儀な台湾の人たちの心の有り様を見習うべきだと言いたかったのかも知れない。そして、そうした感受性を持つ不特定多数の日本人を“日本人”と呼ぼうとしたのではないだろうか。今となっては確認のしようがないのが残念だ。
台湾俳句事情(その3)
―台湾に学んだ"日本人"
藤原若菜
■『春燈』2010年9月号から転載
昭和五十六年(一九八一)台湾から春燈誌への投句はまだ十名に満たなかったが、その中に陳候鳥さんというお名前があった。 この方は台北俳句会主宰である黄霊芝先生の姉上で、このご姉弟は「久保田万太郎論」を一時間、二時間と語り合い倦くことがなかったそうである。 タイムマシンがあるならばその会話を聞きに行ってみたいと思うのは私だけだろうか。
秋扇きのふのかぜはもうふかず 陳 候鳥
その陳候鳥さんと親しいご友人だった吉田葉(台湾名・黄葉)さんは、春燈入会後の一時帰国の折には加藤覚範さんのお宅で俳句指導を受けられたそうだ。「安住敦先生が大好きだった」と仰有る日本人女性で、戦前に台湾の男性に嫁がれ、仲睦まじいご夫婦だった。「海を越えてのご結婚に不安はありませんでしたか」と訊ねたことがある。「同じ日本国内ですもの、平気でしたよ」と明るく笑われた。当時女学校を卒業した良家のお嬢さんが現地の男性に嫁ぐなど、欧米型の植民地ならばあり得なかっただろう。(筆者注:安住敦=明治40年7月1日、東京生れ。俳人。昭和21年、久保田万太郎を擁し「春燈」創刊。同38年、万太郎の死に遭い、春燈主宰継承)
竜眼を干せば陰らす山の霧 吉田 葉
▲吉田葉=台湾名・黄葉さん(右から2人目)
吉田葉さんの少し後、昭和五十九年(一九八四)に入会された廖運藩さんは今も燈下集でご活躍である。その御作の中から戦前の日本と隣りの深い二句を紹介したい。まずは
折敷の八田與一像秋晴るる 廖 運籓
「戦争を知らない子供達」世代の私は「折敷」という軍隊用語に胸を衝かれた。この像に、もう少しリラックスした印象を持っていたからである。この感覚の差は八田與一に対する廖運藩さんの敬意の深さでもあろう。(筆者注:折敷=一方の膝を立て、他方の横に折り曲げて腰を下ろした姿勢)
八田與一は、当時東洋一のダムと言われた烏山頭水庫を設計した人物である。一九七三年に曾文溪ダムが完成したので今は台湾第二のダムとなったが、この曾文溪ダムも鳥山頭ダムと同時に八田與一が計画したものだ。この烏山頭水庫が十五万ヘクタールの土地に一万六千キロメートルの水路を行き渡らせた嘉南大圳により現在も緑の沃野が広がっている。その完成を喜び感謝した人々が建立したのが、この八田與一の銅像である。 戦争末期、金属の供出が需められた時、この像は姿を消した。 供出されたのではない。地元の人々が秘かに隠したのである。
昭和十七年(一九四二) 八田與一はフィリピンに赴く途中、アメリカ潜水艦の攻撃を受けて亡くなった。夫人は終戦の年(一九四五))「みあと慕いて我もゆくなり」と書き残し、夫の作りあげたダムの放水路に身を投げた。黒の喪服に白足袋だったという。(筆者注:みあと慕いて=浄土真宗の親鸞聖人の人生や言葉、著作をもとに、そのみあと(御跡)を慕い、真の年念仏者の生き方を考える仏教法話)
▲折敷姿の八田與一像と八田夫妻の墓(ウイキペディアより)
戦後、國民党により日本の遺物の破壊が続いたので、烏山頭管理事務所の人達が危険を冒して秘匿し続けた銅像がやっと元の場所に戻されたのは一九八一年のことである。その後ろには八田夫妻の墓も建立されている。墓ができた翌年の一九四七年から一度も欠かすことなく、八田與一の命日である五月八日に慰霊追悼式が行われ、またその忌日は「八田祭」として「台湾俳句歳時記』に収録されている。その八田與一像が秋晴れの下、見下ろしている嘉南大圳の水の煌めきと緑に包まれた人々の営み……。
二句目は次の句である。
初蟬や芝山巌頭六師塚 廖 運籓
「六師塚」については廖さんご自身が平成十九年九月号の春燈誌上「台湾倭学事始」で詳しく述べられているが、ここで改めてあらましを紹介する。
台湾が日本に割譲された一八九五年、日本教育を為すべく芝山厳の地に赴いた教師達は、武器の携帯を勧められたにも拘らず「身に寸鉄も帯びずして住民の群中に入らねば教育の仕事はできない。もし我々が国難に殉ずることがあれば台湾子弟に日本国民としての精神を具体的に宜示できる」と学堂を開いた。翌元旦、抗日ゲリラに終われ、出張中だった一人を除く六人全員が果てた。 その後建てられた「六師先生之墓」と「芝山厳神社」は國民党政権によって破壊されたが、一九九五年、学堂の後身である士林國民小学校が 「六師先生之墓」を復元し、今日墓苑はボランティアの人達に守られ、香華の絶えることがないという。
この初蝉の声は皆さんの胸にどのように響くだろうか。
▲六氏先生の肖像写真(ウィキペディアより)
▲芝山厳にある六氏先生の墓。毎年2月1日になると、今も慰霊祭が執り行われている(ウィキペディアより)
欧米型の植民地理念とは異なる「同じ日本」への理想を掲げて努力した日本人は数多いが、統治時代の日本人が良い事だけをしたとは言えない。台湾人と日本人の双方に多数の犠牲者が出た 「霧社事件」もあったし、学業優秀であったが為に黄霊芝先生は「台湾人のくせに生意気だ」と複数の日本人のリンチに遭い、肋骨が一本折れ一晩中血尿が止まらなかったという経験をされてもいる。その上で猶且つの日本語文芸であり俳句を愛する皆さんである。台湾で私が得たものの一つは、日本語を扱うことに真摯でありたいという思いだった。謹んで稿を了える。
〈本ブログ編集人から〉文中の写真は、本ブログ用に藤原雄介さんから提供されたものです。
八田與一や六師先生の他に、台湾では多くの日本人が祀られている。例えば、台南には、台湾に来襲した米艦載機との空中戦で戦死したゼロ戦のパイロット杉浦茂峰海軍飛行兵曹長をご神体として祀る「鎮安堂・飛虎将軍廟」という廟がある。
台湾南部の嘉義の「富安宮」には、住民に献身的に奉仕し、慕われた森川清治郎巡査が神様として祀られている。森川巡査は、警察官として勤務しながら、自費で寺子屋を開設し子供たちに読み書きを教え、蔓延する伝染病対策として排水溝の設置などに取り組んだ。
特筆すべきは、台湾総督府が新たに漁業税の徴収を開始すると森川は「貧しい村民に支払いは無理」と地方官庁に税の減免を嘆願したことだ。
役所の責任者は「警官でありながら、村民を煽動するつもりか」と叱りつけ、森川を戒告処分にした。無力感に苛まれ、悲嘆した森川は小銃の引き金に足の指をかけて喉から頭部を打ち抜き自殺したという。
三尾祐子氏の著書『台湾で日本人を祀る―鬼(クイ)から神(シン)への現代人類学』に因ると、台湾には、かつての支配者(日本人)を信仰対象とする廟や祠が多数存在しており、筆者は、これを「日本神」と名付けている。
一説によると、日本人に由来する 霊魂が台湾の廟で神として祀られるケースは 36 種類 49 か所あるという。世界を見渡しても希有な現象ではなかろうか。(つづく)
【藤原雄介(ふじわら ゆうすけ)さんのプロフィール】
昭和27(1952)年、大阪生まれ。大阪府立春日丘高校から京都外国語大学外国語学部イスパニア語学科に入学する。大学時代は探検部に所属するが、1年間休学してシベリア鉄道で渡欧。スペインのマドリード・コンプルテンセ大学で学びながら、休み中にバックパッカーとして欧州各国やモロッコ等をヒッチハイクする。大学卒業後の昭和51(1976)年、石川島播磨重工業株式会社(現IHI)に入社、一貫して海外営業・戦略畑を歩む。入社3年目に日墨政府交換留学制度でメキシコのプエブラ州立大学に1年間留学。その後、オランダ・アムステルダム、台北に駐在し、中国室長、IHI (HK) LTD.社長、海外営業戦略部長などを経て、IHIヨーロッパ(IHI Europe Ltd.) 社長としてロンドンに4年間駐在した。定年退職後、IHI環境エンジニアリング株式会社社長補佐としてバイオリアクターなどの東南アジア事業展開に従事。その後、新潟トランシス株式会社で香港国際空港の無人旅客搬送システム拡張工事のプロジェクトコーディネーターを務め、令和元(2019)年9月に同社を退職した。その間、公私合わせて58カ国を訪問。現在、白井市南山に在住し、環境保全団体グリーンレンジャー会長として活動する傍ら英語翻訳業を営む。