「おれ、もう疲れたよ」
と、眼をしょぼしょぼさせて阿瑯《あろう》が言った。
「坊主、おまえの親はどこにいる。明日にでも家に連れて行ってやるから、教えろ」
夏侯蘭《かこうらん》がたずねると、阿瑯はむすっとした顔をふいっとそむけた。
「帰るところなんてないやい。余計なことをしないでおくれよ、はげのおじさん」
「明日のことは、また明日、相談しましょう。眠いわよね、奥に布団があるから、そこで寝ていいわよ」
藍玉にうながされ、阿瑯は奥へと消えていった。
夏侯蘭はというと、長く走った疲れはあったものの、『壺中』の人攫いと陳到との戦いを見たあとで、興奮して眠れそうになかった。
混乱する頭の中で、例の旅装の『壺中』の男の死にざまが、悪夢のように、なんども頭の中で再生された。
趙雲の武芸の腕もすさまじいと思っていたが、陳到という男も、同等にすさまじい。
万軍の敵と呼ばれる張飛や関羽に至っては、どれほどなのか…
劉備を恐れる曹操の気持ちがわかる。
曹操といえば、曹操の手下ではないと言い切った狼心青年は、『壺中』の存在を知っていたのだろうか。
いや、知らないのだろう。
知っていたなら、狗屠《くと》に仲間がいる、などと回りくどい言い方はせず、『壺中』という仲間がいると、はっきり言ったはずだ。
『壺中』はどういう組織なのか。
荊州を拠点に置いているというのなら、劉表が組織しているものなのだろうか。
藍玉は劉表の細作であったとういことなのか?
狗屠もまた、劉表に飼われている刺客なのか?
阿瑯を寝かしつけると、藍玉はすぐに夏侯蘭のもとへ戻って来た。
手には、用意のいいことに湯の入った茶碗がある。
「喉がかわいたでしょう。これを飲めば落ち着くわよ」
「白湯《さゆ》か」
「薬湯よ。すこし苦いけれど、からだにいいわ。
あなた、忘れているかもしれないけれど、五石散の毒はまだ抜けきっていないのよ」
藍玉にうながされるかたちで、夏侯蘭はしぶしぶ薬湯を口に運んだ。
甘さと苦さの混ざったような、いやな味のする薬湯だった。
この薬は、あの冷たい目をした嫦娥《じょうが》が煎じたものだろうかと考えながら、夏侯蘭は一気に飲み干す。
「ねえ、蘭さん」
いくぶんなれなれしさを含んだ声で、藍玉が切り出した。
「ここ数日、あなたを見ていて確信したのだけれど、あなたは人が好すぎるわ。
奥さんの仇《かたき》を討ちたいという気持ちはよくわかるけれど、あなたの性格に、復讐なんて、似合わない。
あとは、わたしたちに任せて、あなたは許都に戻ったらどうかしら」
「勝手なことを言うな。いや、待て。わたしたちに任せてということはどういうことだ。
おまえたちが、おれの代わりに狗屠を退治してくれるというのか」
「正しくは、『壺中』を、ね」
寂しそうに笑いつつ、藍玉は言う。
その笑みは、いくぶん投げやりにも見えた。
「おまえとて、『壺中』であったのだろう。
かつての仲間を裏切って、しかも退治しようとしているということなのか。いったいなぜ?」
「いろいろ事情があるのよ。ねえ、蘭さん、あなたって、わたしの兄上に似ているところがあるわ。
情に厚くて、ちょっとカッとなりやすいところとか、人が好いところとか、ほんとうにそっくり。
だから、あなたが苦しんでいるのを見るのがつらくなってしまったのよ」
藍玉は卓の上に無造作に置かれた夏侯蘭の手に、自分の手を重ねた。
さらに、その手をぎゅっと親し気に握る。
目は、まっすぐと夏侯蘭を見ていた。
不快ではなかったが、夏侯蘭は藍玉がまちがいなく手練手管《てれんてくだ》に長けた妓女だったことを思い知った。
素人の女が、こんなふうな説得の仕方をすることはない。
藍玉の指先は冷たく、柔らかかった。
そのひんやりとした心地よい感触が、むしろ悲しかった。
この女のこれまでの人生が、どれほど過酷なものであったか、なんとなく垣間見えた気がしたからである。
「おれに手を引けというのか」
「そうよ。復讐なんて、割に合わないものよ。あなたは汚れ仕事をしていいひとじゃないわ。
もっと、表の、きれいな仕事をこなすべきひとよ」
「ありがたい評価だが、あいにくと引くわけにはいかん」
「狼心さんとやらに気を使っているの?」
「妻にも顔向けができぬからな」
「奥さんのことは本当に気の毒だったと思う。でも」
「いや、狗屠は、どうしてもおれが退治せねば気が済まぬ。
藍玉、おれはいますぐにでも襄陽へ発つぞ。やつがどこに潜んでいるのか、教えてくれ」
「どうしても行くのね」
「ああ、そうだ。いますぐにでも」
旅の支度を、と言いかけたところで、夏侯蘭は急激な眠気に襲われた。
おかしい、さきほどまで目もらんらんに冴え、意識もはっきりしていた。
それなのに、巨大な黒い睡魔の手に包み込まれたかのように眠い。
頭がぐらぐらしているなかで、夏侯蘭は気づいた。
さきほどの薬湯に、眠り薬が入っていたのだ。
「いまはお眠りなさい。落ち着いたら、また考えが変わるかもしれない」
藍玉の優しい声が聞こえてきた。
中庭の虫の声とあいまって、その声は、まるで子守歌である。
「眠るのよ。だいじょうぶ、あなたが変わってしまっても、だれも責めたりしない」
変わるもんか。
そう胸の内で悪態をつきつつ、夏侯蘭は泥のような眠りの中へ引きずられていった。
つづく
※ いつも当ブログに遊びに来てくださっているみなさま、ありがとうございます!(^^)!
ブログ村およびブログランキングに投票してくださっているみなさまも、感謝です!
おかげさまで順位をキープ中。
投票があるとないとでは、やはり気持ちがちがいます♪
これからもがんばりますので、ひきつづき応援していただけるとうれしいです(*^▽^*)
寒暖差が激しい毎日。みなさまご自愛くださいねー!
(本日は、あとで近況報告を更新します。お礼を述べさせていただきたいことがたくさんある!)
と、眼をしょぼしょぼさせて阿瑯《あろう》が言った。
「坊主、おまえの親はどこにいる。明日にでも家に連れて行ってやるから、教えろ」
夏侯蘭《かこうらん》がたずねると、阿瑯はむすっとした顔をふいっとそむけた。
「帰るところなんてないやい。余計なことをしないでおくれよ、はげのおじさん」
「明日のことは、また明日、相談しましょう。眠いわよね、奥に布団があるから、そこで寝ていいわよ」
藍玉にうながされ、阿瑯は奥へと消えていった。
夏侯蘭はというと、長く走った疲れはあったものの、『壺中』の人攫いと陳到との戦いを見たあとで、興奮して眠れそうになかった。
混乱する頭の中で、例の旅装の『壺中』の男の死にざまが、悪夢のように、なんども頭の中で再生された。
趙雲の武芸の腕もすさまじいと思っていたが、陳到という男も、同等にすさまじい。
万軍の敵と呼ばれる張飛や関羽に至っては、どれほどなのか…
劉備を恐れる曹操の気持ちがわかる。
曹操といえば、曹操の手下ではないと言い切った狼心青年は、『壺中』の存在を知っていたのだろうか。
いや、知らないのだろう。
知っていたなら、狗屠《くと》に仲間がいる、などと回りくどい言い方はせず、『壺中』という仲間がいると、はっきり言ったはずだ。
『壺中』はどういう組織なのか。
荊州を拠点に置いているというのなら、劉表が組織しているものなのだろうか。
藍玉は劉表の細作であったとういことなのか?
狗屠もまた、劉表に飼われている刺客なのか?
阿瑯を寝かしつけると、藍玉はすぐに夏侯蘭のもとへ戻って来た。
手には、用意のいいことに湯の入った茶碗がある。
「喉がかわいたでしょう。これを飲めば落ち着くわよ」
「白湯《さゆ》か」
「薬湯よ。すこし苦いけれど、からだにいいわ。
あなた、忘れているかもしれないけれど、五石散の毒はまだ抜けきっていないのよ」
藍玉にうながされるかたちで、夏侯蘭はしぶしぶ薬湯を口に運んだ。
甘さと苦さの混ざったような、いやな味のする薬湯だった。
この薬は、あの冷たい目をした嫦娥《じょうが》が煎じたものだろうかと考えながら、夏侯蘭は一気に飲み干す。
「ねえ、蘭さん」
いくぶんなれなれしさを含んだ声で、藍玉が切り出した。
「ここ数日、あなたを見ていて確信したのだけれど、あなたは人が好すぎるわ。
奥さんの仇《かたき》を討ちたいという気持ちはよくわかるけれど、あなたの性格に、復讐なんて、似合わない。
あとは、わたしたちに任せて、あなたは許都に戻ったらどうかしら」
「勝手なことを言うな。いや、待て。わたしたちに任せてということはどういうことだ。
おまえたちが、おれの代わりに狗屠を退治してくれるというのか」
「正しくは、『壺中』を、ね」
寂しそうに笑いつつ、藍玉は言う。
その笑みは、いくぶん投げやりにも見えた。
「おまえとて、『壺中』であったのだろう。
かつての仲間を裏切って、しかも退治しようとしているということなのか。いったいなぜ?」
「いろいろ事情があるのよ。ねえ、蘭さん、あなたって、わたしの兄上に似ているところがあるわ。
情に厚くて、ちょっとカッとなりやすいところとか、人が好いところとか、ほんとうにそっくり。
だから、あなたが苦しんでいるのを見るのがつらくなってしまったのよ」
藍玉は卓の上に無造作に置かれた夏侯蘭の手に、自分の手を重ねた。
さらに、その手をぎゅっと親し気に握る。
目は、まっすぐと夏侯蘭を見ていた。
不快ではなかったが、夏侯蘭は藍玉がまちがいなく手練手管《てれんてくだ》に長けた妓女だったことを思い知った。
素人の女が、こんなふうな説得の仕方をすることはない。
藍玉の指先は冷たく、柔らかかった。
そのひんやりとした心地よい感触が、むしろ悲しかった。
この女のこれまでの人生が、どれほど過酷なものであったか、なんとなく垣間見えた気がしたからである。
「おれに手を引けというのか」
「そうよ。復讐なんて、割に合わないものよ。あなたは汚れ仕事をしていいひとじゃないわ。
もっと、表の、きれいな仕事をこなすべきひとよ」
「ありがたい評価だが、あいにくと引くわけにはいかん」
「狼心さんとやらに気を使っているの?」
「妻にも顔向けができぬからな」
「奥さんのことは本当に気の毒だったと思う。でも」
「いや、狗屠は、どうしてもおれが退治せねば気が済まぬ。
藍玉、おれはいますぐにでも襄陽へ発つぞ。やつがどこに潜んでいるのか、教えてくれ」
「どうしても行くのね」
「ああ、そうだ。いますぐにでも」
旅の支度を、と言いかけたところで、夏侯蘭は急激な眠気に襲われた。
おかしい、さきほどまで目もらんらんに冴え、意識もはっきりしていた。
それなのに、巨大な黒い睡魔の手に包み込まれたかのように眠い。
頭がぐらぐらしているなかで、夏侯蘭は気づいた。
さきほどの薬湯に、眠り薬が入っていたのだ。
「いまはお眠りなさい。落ち着いたら、また考えが変わるかもしれない」
藍玉の優しい声が聞こえてきた。
中庭の虫の声とあいまって、その声は、まるで子守歌である。
「眠るのよ。だいじょうぶ、あなたが変わってしまっても、だれも責めたりしない」
変わるもんか。
そう胸の内で悪態をつきつつ、夏侯蘭は泥のような眠りの中へ引きずられていった。
つづく
※ いつも当ブログに遊びに来てくださっているみなさま、ありがとうございます!(^^)!
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おかげさまで順位をキープ中。
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