気付くと、しんと闇に沈む襄陽城の、北側にやってきていた。
どこもかしこもきれいに磨きこまれている城の奥。
そこは物置として使用されている部屋のようであった。
無造作に積まれた卓や椅子、棚などの調度品があり、蜘蛛の巣がかかっているものもある。
どこまで行っても塵ひとつない空間の連続であった襄陽城において、こんなに乱雑な部屋があるということに、趙雲は、むしろほっとした。
襄陽城はたしかに清浄なところであったが、しかし、気を落ち着かせる清浄さではなく、むしろ、躍起になって人の気配を消そうとしているような、いびつな神経質さが感じられていたのだ。
花安英は、部屋に入り込むと、そのなかの衝立《ついたて》のひとつの後ろに隠れる。
そうして、姿を隠して、手だけを出し、おいでおいでと趙雲を誘う。
「おい、ふざけるな」
趙雲は胸が悪くなり、乱暴に言うと、衝立の向こうから、花安英だけの声が聞こえた。
「ここまでついてきたのは、面白いものが、見たいからじゃなかったのですか」
「くだらぬ物であったら、タダではおかぬぞ」
「それは、見る人にもよると思いますけれど」
意味ありげなことを言って、花安英は、衝立の向こうで忍び笑いをする。
ここまで来たのだし、花安英のような脆弱《ぜいじゃく》そうな少年に、力で負けることはないだろう、いざとなればぶん殴って、いま来た道を戻ればよい。
そう思った趙雲は、衝立の向こう側へと足を向けた。
※
衝立の裏には、紙燭を手にした花安英が普通に立っており、趙雲がやってきたのを認めると、またも満足そうに、花のような笑みを浮かべた。
その笑みを見た瞬間に、ふっと明かりが消え、あたりは真の闇に包まれた。
趙雲が身構えるより早く、花安英が真正面から飛び込むようにして、抱きついてきたのがわかる。
鼻腔いっぱいに、花安英の身につけている、香り袋の甘い香りが飛び込んでくる。
この香りは、どこかで嗅いだことがあるな、と趙雲はふと思ったが、思い出すことができなかった。
いくら相手が美少年とはいえ、抱きつかれて喜ぶ人間はめったにない。
とっさに払いのけようとした趙雲であるが、花安英はそれを先に察したらしく、腕を掴む両手の力を、さらにつよくしてきた。
投げ飛ばすか。
趙雲は闇の中、手探りで花安英の襟《えり》を掴んだが、当の花安英は、なにを勘違いしているのか、やはり、くすくすと忍び笑いをしているのだった。
「勘違いをなさらずに。この衝立は狭いので、二人も隠れる場所がない。だからこうして身を寄せているだけなのですから」
「隠れる?」
「そう。ほら、聞こえませんか?」
花安英のささやきに、耳をすませると、ひたひたと、足音が近づいてくるのがわかった。
衝立の隙間からそっと伺うと、真っ暗闇の中を、ゆっくりと、薄衣をかぶって顔を隠している女が、ひとりでやってくるのが見える。
その、おぼろに浮かぶ姿は、まるで幽鬼のように見えて、ぞっとする。
柳腰の、悄然とした歩き方をする女であった。
「そら、もうひとつ」
花安英はささやきつつ、趙雲の袖を引っ張り、別な方向に耳を寄せるようにうながす。
それに倣《なら》って、趙雲が耳をすませると、静かながらも、規則正しい足音が近づいてくるのがわかった。
女は、趙雲たちの潜む物置部屋に入ってくると、もう一方の足音のほうを向いて、乗り出すように首を伸ばした。
足音は、迷う様子もなく、物置部屋の前にまでやってくる。
一人。
手には、ちいさな蝋燭ひとつきり。
そのちいさなちいさな灯火に、浮かび上がった顔を見て、趙雲は、眉をしかめた。
何度か顔をあわせたことがある、いかにも大将然とした外貌をそなえた中年男、蔡瑁《さいぼう》である。
孔明の妻の、叔父にあたる男。
姉である蔡夫人の子・劉琮を、次期州牧に据えようと、画策している中心人物だ。
趙雲は、身近にある花安英の顔を盗み見た。
闇に慣れた目に、長い睫毛《まつげ》をたたえる、花安英の双眸がある。
その目は、獲物をねらう猛禽のように、暗い喜びに光っている。
華やかな面差しには、腹の底からわきあがっているであろう、嘲笑が浮かんでいる。
なまじ顔立ちがよすぎるために、その表情は、悪鬼のようにみえた。
つづく
どこもかしこもきれいに磨きこまれている城の奥。
そこは物置として使用されている部屋のようであった。
無造作に積まれた卓や椅子、棚などの調度品があり、蜘蛛の巣がかかっているものもある。
どこまで行っても塵ひとつない空間の連続であった襄陽城において、こんなに乱雑な部屋があるということに、趙雲は、むしろほっとした。
襄陽城はたしかに清浄なところであったが、しかし、気を落ち着かせる清浄さではなく、むしろ、躍起になって人の気配を消そうとしているような、いびつな神経質さが感じられていたのだ。
花安英は、部屋に入り込むと、そのなかの衝立《ついたて》のひとつの後ろに隠れる。
そうして、姿を隠して、手だけを出し、おいでおいでと趙雲を誘う。
「おい、ふざけるな」
趙雲は胸が悪くなり、乱暴に言うと、衝立の向こうから、花安英だけの声が聞こえた。
「ここまでついてきたのは、面白いものが、見たいからじゃなかったのですか」
「くだらぬ物であったら、タダではおかぬぞ」
「それは、見る人にもよると思いますけれど」
意味ありげなことを言って、花安英は、衝立の向こうで忍び笑いをする。
ここまで来たのだし、花安英のような脆弱《ぜいじゃく》そうな少年に、力で負けることはないだろう、いざとなればぶん殴って、いま来た道を戻ればよい。
そう思った趙雲は、衝立の向こう側へと足を向けた。
※
衝立の裏には、紙燭を手にした花安英が普通に立っており、趙雲がやってきたのを認めると、またも満足そうに、花のような笑みを浮かべた。
その笑みを見た瞬間に、ふっと明かりが消え、あたりは真の闇に包まれた。
趙雲が身構えるより早く、花安英が真正面から飛び込むようにして、抱きついてきたのがわかる。
鼻腔いっぱいに、花安英の身につけている、香り袋の甘い香りが飛び込んでくる。
この香りは、どこかで嗅いだことがあるな、と趙雲はふと思ったが、思い出すことができなかった。
いくら相手が美少年とはいえ、抱きつかれて喜ぶ人間はめったにない。
とっさに払いのけようとした趙雲であるが、花安英はそれを先に察したらしく、腕を掴む両手の力を、さらにつよくしてきた。
投げ飛ばすか。
趙雲は闇の中、手探りで花安英の襟《えり》を掴んだが、当の花安英は、なにを勘違いしているのか、やはり、くすくすと忍び笑いをしているのだった。
「勘違いをなさらずに。この衝立は狭いので、二人も隠れる場所がない。だからこうして身を寄せているだけなのですから」
「隠れる?」
「そう。ほら、聞こえませんか?」
花安英のささやきに、耳をすませると、ひたひたと、足音が近づいてくるのがわかった。
衝立の隙間からそっと伺うと、真っ暗闇の中を、ゆっくりと、薄衣をかぶって顔を隠している女が、ひとりでやってくるのが見える。
その、おぼろに浮かぶ姿は、まるで幽鬼のように見えて、ぞっとする。
柳腰の、悄然とした歩き方をする女であった。
「そら、もうひとつ」
花安英はささやきつつ、趙雲の袖を引っ張り、別な方向に耳を寄せるようにうながす。
それに倣《なら》って、趙雲が耳をすませると、静かながらも、規則正しい足音が近づいてくるのがわかった。
女は、趙雲たちの潜む物置部屋に入ってくると、もう一方の足音のほうを向いて、乗り出すように首を伸ばした。
足音は、迷う様子もなく、物置部屋の前にまでやってくる。
一人。
手には、ちいさな蝋燭ひとつきり。
そのちいさなちいさな灯火に、浮かび上がった顔を見て、趙雲は、眉をしかめた。
何度か顔をあわせたことがある、いかにも大将然とした外貌をそなえた中年男、蔡瑁《さいぼう》である。
孔明の妻の、叔父にあたる男。
姉である蔡夫人の子・劉琮を、次期州牧に据えようと、画策している中心人物だ。
趙雲は、身近にある花安英の顔を盗み見た。
闇に慣れた目に、長い睫毛《まつげ》をたたえる、花安英の双眸がある。
その目は、獲物をねらう猛禽のように、暗い喜びに光っている。
華やかな面差しには、腹の底からわきあがっているであろう、嘲笑が浮かんでいる。
なまじ顔立ちがよすぎるために、その表情は、悪鬼のようにみえた。
つづく