「まずは、わたくしの身の上話からさせていただきます」
そう言って、軟児の父は、とつとつと語り始めた。
もともと荊州の人間ではなく、洛陽《らくよう》の商家の三男坊として生まれた。
家は羽振《はぶ》りが良く、黄巾の乱が起こった後も、うまく立ち回って、物資や武器や馬を政府に調達し、大金を稼いだ。
「そのころはまだわたくしも、世間知らずの幸せな若者のひとりでした」
しょんぼりと子礼が言う。
未来のことなどまともに考える必要がないほどに、幸せな青春時代を過ごした。
ぼんやりと、家業を継ぐか、兄の手伝いをして各地の商談をまとめる仕事に就くのだろうと思っていた程度。
ほどなく、苦労の連続をすることになるだろうとは夢にも思っていなかったという。
運命が暗転したのが、かわいがってくれていた父が急死してからだ。
老いた父はまだまだ元気であったが、たまたま庭で転んで、石に頭をぶつけた。
打ち所が悪く、その日に亡くなってしまい、家業は一番上の兄が継ぐことになった。
ところが、この長兄の嫁というのが吝嗇家《りんしょくか》なうえに心の冷たい女で、あまたいた義理の弟たちが自分たちの財産を食いつぶすことを嫌い、はした金を渡したきりで、かれらを家から追い出してしまった。
気の弱い子礼《しれい》は、兄嫁にさからうことができず、泣く泣く家を離れた。
そして、文字が好きだったということもあり、細々と書物や筆を扱う商売をはじめた。
ところが、である。
何進《かしん》と宦官の争いが宮廷で激化した。
あれよあれよという間に情勢が変わり、涼州から董卓軍が洛陽に入城したところから、さらに急転直下を迎える。
董卓は、はじめのころこそ、商人たちとうまくやっていたが、打倒董卓の軍がせまってくると、遷都を決行。
そのさい、洛陽の富豪や貴族から金品を巻き上げることをしたが、兄夫婦は、それに抵抗してしまった。
董卓に睨まれて生きていける者のない時代だった。
兄夫婦とその家族はすべて殺されてしまい、その話を聞いた孫子礼は、連座を恐れて、あわてて洛陽から逃げ出した。
そのあと、洛陽は炎上。
一族を殺した憎い董卓のいる長安に行く気持ちはまったく起きず、洛陽を離れ、新天地をもとめて揚州へ向かった。
揚州には戦乱を嫌った人々の多くが流れていっており、そこに商機を見出したのだった。
ところが、その道中で孫子礼は、妻となる娘と出会う。
荊州は襄陽《じょうよう》の出だという娘についていくかたちで、あっさり揚州行きをやめて荊州に行き先を変更した。
それがかえって成功した。
荊州に君臨した劉表は、州境ではたびたび争いを起こしたものの、襄陽を中心とする内陸部においては戦乱を招かなかった。
おかげで、孫子礼も安心して商売をすることができたのだ。
たちまち家はうるおい、待望していた子供もできた。
それが軟児《なんじ》である。
男の子ではなかったのが残念だったが、玉のように美しい子で、孫子礼は、それこそ掌中の珠のようにわが娘を可愛がった。
「それが、どうして壺中なんぞに預けることになったのだ」
苛立ちを込めて趙雲が言うと、それに同調するように、子礼の背後にいた梁紫紅《りょうしこう》が、夫の背中を軽くたたいた。
「ほんとうですよ、このひとったら、話がいつも長いんです。早く軟児のことをお話しなさいな」
「ぶたなくっていいじゃないか、おまえ」
ぶつぶつ文句を言いつつ、あいかわらずの猫背のまま、子礼は先をつづけた。
学が多少あった孫子礼は、代書の仕事も請け負った。
もとの筆と書物をあつかう商売に加えて、代書の仕事もうまくいき、すべてが順調のように思われた。
ところが、軟児が三つの時、妻は流行り病であっさりと逝ってしまう。
遺された子礼は、軟児をかかえて途方に暮れた。
それほどに前妻を愛していたからなのだが、ぼおっとしていて生活が回るほど世の中は甘くなかった。
さらには運悪く、商売敵が子礼の商売をつぎつぎと邪魔するようになっていた。
もともと、気の弱い子礼はこれに太刀打《たちう》ちすることができず、たちまち家は零落《れいらく》。
襄陽城市にかまえていた店は閉め、雇人も散り散り。
それを機に、妻の実家のある襄陽城のそばの集落に引っ越し、代書の仕事だけを細々として、親子で暮らしていくことになった。
そんなしょぼけた、覇気のない子礼を見かねて、面倒を見てくれるようになったのが、集落の土豪・梁家の娘の紫紅であった。
すでに八つになっていた軟児が紫紅にすぐなついたこともあり、子礼もその好意に甘えていた。
紫紅に下心があったわけではない。
もともと、彼女も襄陽のとある男に嫁いでいたのだが、なかなか子宝に恵まれず、実家に帰ったばかりだった。
「手持無沙汰だったというのもありますし、なにより軟児ちゃんがあんまりに可哀そうで」
と、紫紅は言った。
「このひとったら、満足に子育てもできないくらい落ち込んでいたんですよ」
紫紅のことばに、子礼はまた首をすくめた。
つづく
そう言って、軟児の父は、とつとつと語り始めた。
もともと荊州の人間ではなく、洛陽《らくよう》の商家の三男坊として生まれた。
家は羽振《はぶ》りが良く、黄巾の乱が起こった後も、うまく立ち回って、物資や武器や馬を政府に調達し、大金を稼いだ。
「そのころはまだわたくしも、世間知らずの幸せな若者のひとりでした」
しょんぼりと子礼が言う。
未来のことなどまともに考える必要がないほどに、幸せな青春時代を過ごした。
ぼんやりと、家業を継ぐか、兄の手伝いをして各地の商談をまとめる仕事に就くのだろうと思っていた程度。
ほどなく、苦労の連続をすることになるだろうとは夢にも思っていなかったという。
運命が暗転したのが、かわいがってくれていた父が急死してからだ。
老いた父はまだまだ元気であったが、たまたま庭で転んで、石に頭をぶつけた。
打ち所が悪く、その日に亡くなってしまい、家業は一番上の兄が継ぐことになった。
ところが、この長兄の嫁というのが吝嗇家《りんしょくか》なうえに心の冷たい女で、あまたいた義理の弟たちが自分たちの財産を食いつぶすことを嫌い、はした金を渡したきりで、かれらを家から追い出してしまった。
気の弱い子礼《しれい》は、兄嫁にさからうことができず、泣く泣く家を離れた。
そして、文字が好きだったということもあり、細々と書物や筆を扱う商売をはじめた。
ところが、である。
何進《かしん》と宦官の争いが宮廷で激化した。
あれよあれよという間に情勢が変わり、涼州から董卓軍が洛陽に入城したところから、さらに急転直下を迎える。
董卓は、はじめのころこそ、商人たちとうまくやっていたが、打倒董卓の軍がせまってくると、遷都を決行。
そのさい、洛陽の富豪や貴族から金品を巻き上げることをしたが、兄夫婦は、それに抵抗してしまった。
董卓に睨まれて生きていける者のない時代だった。
兄夫婦とその家族はすべて殺されてしまい、その話を聞いた孫子礼は、連座を恐れて、あわてて洛陽から逃げ出した。
そのあと、洛陽は炎上。
一族を殺した憎い董卓のいる長安に行く気持ちはまったく起きず、洛陽を離れ、新天地をもとめて揚州へ向かった。
揚州には戦乱を嫌った人々の多くが流れていっており、そこに商機を見出したのだった。
ところが、その道中で孫子礼は、妻となる娘と出会う。
荊州は襄陽《じょうよう》の出だという娘についていくかたちで、あっさり揚州行きをやめて荊州に行き先を変更した。
それがかえって成功した。
荊州に君臨した劉表は、州境ではたびたび争いを起こしたものの、襄陽を中心とする内陸部においては戦乱を招かなかった。
おかげで、孫子礼も安心して商売をすることができたのだ。
たちまち家はうるおい、待望していた子供もできた。
それが軟児《なんじ》である。
男の子ではなかったのが残念だったが、玉のように美しい子で、孫子礼は、それこそ掌中の珠のようにわが娘を可愛がった。
「それが、どうして壺中なんぞに預けることになったのだ」
苛立ちを込めて趙雲が言うと、それに同調するように、子礼の背後にいた梁紫紅《りょうしこう》が、夫の背中を軽くたたいた。
「ほんとうですよ、このひとったら、話がいつも長いんです。早く軟児のことをお話しなさいな」
「ぶたなくっていいじゃないか、おまえ」
ぶつぶつ文句を言いつつ、あいかわらずの猫背のまま、子礼は先をつづけた。
学が多少あった孫子礼は、代書の仕事も請け負った。
もとの筆と書物をあつかう商売に加えて、代書の仕事もうまくいき、すべてが順調のように思われた。
ところが、軟児が三つの時、妻は流行り病であっさりと逝ってしまう。
遺された子礼は、軟児をかかえて途方に暮れた。
それほどに前妻を愛していたからなのだが、ぼおっとしていて生活が回るほど世の中は甘くなかった。
さらには運悪く、商売敵が子礼の商売をつぎつぎと邪魔するようになっていた。
もともと、気の弱い子礼はこれに太刀打《たちう》ちすることができず、たちまち家は零落《れいらく》。
襄陽城市にかまえていた店は閉め、雇人も散り散り。
それを機に、妻の実家のある襄陽城のそばの集落に引っ越し、代書の仕事だけを細々として、親子で暮らしていくことになった。
そんなしょぼけた、覇気のない子礼を見かねて、面倒を見てくれるようになったのが、集落の土豪・梁家の娘の紫紅であった。
すでに八つになっていた軟児が紫紅にすぐなついたこともあり、子礼もその好意に甘えていた。
紫紅に下心があったわけではない。
もともと、彼女も襄陽のとある男に嫁いでいたのだが、なかなか子宝に恵まれず、実家に帰ったばかりだった。
「手持無沙汰だったというのもありますし、なにより軟児ちゃんがあんまりに可哀そうで」
と、紫紅は言った。
「このひとったら、満足に子育てもできないくらい落ち込んでいたんですよ」
紫紅のことばに、子礼はまた首をすくめた。
つづく
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次回もおたのしみにー(*^▽^*)