主要閣僚の続投が固まっている7日の内閣改造で、安倍晋三首相が目玉ポストと位置付けているのが「1億総活躍担当相」だ。
ただ、受け持つ分野が経済再生担当相や厚生労働相と重なるなど、その権限は曖昧だ。閣僚を支える事務局の体制づくりもこれからで、埋没を懸念する声が早くも出ている。
「1億総活躍社会」の実現に向けて、首相は担当相の下に「国民会議」を設置するとともに、「日本1億総活躍プラン」を策定する方針。政府は、国民会議の運営などに当たる事務局の規模や人選について調整を進めている。
しかし、「1億総活躍」に向けて首相が打ち出した「新3本の矢」のうち、「強い経済」については、経済再生相との役割分担がはっきりしていない。残る「子育て支援」と「社会保障」についても、政府内からは「厚労省と似た組織をつくるなら効率が悪いだけ」(官邸筋)との声が漏れる。
首相は昨年9月に第2次改造内閣を発足させた際、看板ポストとして地方創生担当相を設け、石破茂氏を起用すると同時に、地方創生の司令塔として、首相を本部長とする「まち・ひと・しごと創生本部」を発足させた。政府関係者は「『まち・ひと・しごと』は新しい試みだったが、『1億総活躍』は既にやっている取り組みも多い」と指摘する。
首相は先のジャマイカ訪問時、1億総活躍相の有資格者について「それなりの突破力、結果を出す能力が必要だ」と強調。首相周辺も「閣内で調整できる人でないと務まらない」と、実力者の起用をほのめかした。
しかし、野党などは「1億総活躍社会」などのスローガンについて、「聞こえはいいが、実効性や具体性が非常に乏しい」(古賀伸明連合会長)と批判を強めている。「共生社会」を掲げる民主党はアベノミクスに対抗する理念の構築を急いでおり、秋以降、与野党論戦の焦点となりそうだ。

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以前にもあった1億総中流他...この『一億白痴化』の中程に「総」がつけられて広まり流行語となったのが『一億総白痴化』である。大宅壮一がこの記事を書く動機となったのは、三國一朗司会の視聴者参加番組『ほろにがショー 何でもやりまショー』(日本テレビ、1956年11月3日放送分)であるとされている。大宅の娘でジャーナリストの大宅映子の談話によると、出演者が早慶戦で慶應側の応援席に入って早稲田の応援旗を振り、大変な騒ぎになって摘み出される場面を見た大宅は「阿呆か!」と呟いたという。
また、朝日放送の広報誌『放送朝日』は、1957年8月号で「テレビジョン・エイジの開幕に当たってテレビに望む」という特集を企画し、識者の談話を集めた。ここでも、松本清張が「かくて将来、日本人一億が総白痴となりかねない。」と述べている。
このように、当時の識者たちはテレビを低俗なものと批判しているが、その背景には書物を中心とした教養主義的な世界観があった。
書物を読む行為は、自ら能動的に活字を拾い上げてその内容を理解する行為であり、それには文字が読めなければならないし、内容を理解するために自分の頭の中で様々な想像や思考を凝らさねばならない。これに対して、テレビは、単にぼんやりと受動的に映し出される映像を眺めて、流れてくる音声を聞くだけである点から、人間の想像力や思考力を低下させる、といったことを指摘している。
「一億総**」という用法に関しては、これ以前にも太平洋戦争で本土決戦が差し迫った際の「一億玉砕」「進め一億火の玉だ」、敗戦後の「一億総懺悔」(当時の東久迩宮首相)といった語もあり、大勢に流れ易く流れに棹差す日本人の集団主義心性も表している。高度経済成長以後には55年体制下安定した政治経済を背景に貧富の差の少なくなった「一億総中流」といった語も生まれた。
大宅が「一億(総)白痴化」と発言した時代ではテレビは高級品であったが、現在ではテレビが各家庭に普及しており、人々が生活に必要な情報を得る手段として定着し、普及率も百パーセントを超えた。また番組の低俗化に対する度重なる批判に答える形で、番組内容向上のための組織が、NHKや民放連によって設立され、発展して現在のBPOとなっている。
大宅が指摘しているのは、テレビを次々と視る事により、「思想が刷り込まれ」たり、「思考停止」に陥ったりする可能性から、白痴化と発言したのではないか、という考え方がある。