白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・東日本大震災、その唯一性と反復

2025年03月11日 | 日記・エッセイ・コラム

山津見神社「本殿」へのルート。思いがけず、そういうことに遭遇することはさほど稀ではない。どこがそのルートなのか。もしや迷子になったのではなかろうなと自分で自分自身の方向感覚をいぶかしみながら手探りで歩いていく。と、さらに思いも寄らず老夫婦にばったり出くわす。びっくりしているのは老夫婦の側だ。彼らはおそらくずっとこの土地のネイティヴとして生きている。するとにわかにこういう対話が胸の奥から立ちのぼってくる。

 

「オ前ハ、ドコカラ来タ、ドコカラ唐突ニ顕(アラ)ワレタノダ?と。僕の異物感、異人(まれびと)性。そうか、僕が?この俺が?」(古川日出男「太陽、月、キカイダーその後」『群像・4・P.137』講談社 二〇二五年)

 

ルートだが、それを見つけたのは下山するときのことでのぼってくるときには見えていなかった。

 

老夫婦との間で起こるだけではない。それはサルの群れに遭遇した際にも繰り返される。「僕」には見えて「いない」けれどもサルたちが図るコミュニケーションの中の「耳」には「僕」が見えて「いる」。

 

「逃げるサルたちは互いに声でコミュニケーションを図っている。僕の目には『いない』が彼らの耳には『いる』のだ、離れても群れが。群れの成員が。だから散りぢりに避難できる」(古川日出男「太陽、月、キカイダーその後」『群像・4・P.139』講談社 二〇二五年)

 

しかしなぜ「いる」ということと「いない」ということとが生じているのだろう。どうして主体が二重になっているのか。両者の生き方の間に隔たりがあるということ、両者の生き方の仕方が異なっているからにほかならない。まぎらわしい。だからといってどちらか一方がもう一方(他者)を無理矢理片付けてしまうと片付けた側がせっかく現われた自身の鏡(他者)を破壊してしまうことになる。すると片付けた側もまた消えてしまう。どこからも見えて「いない」世界へ押し戻されるばかりだ。異種あるいは異人のいないところで人間が自分自身を認識することは決してできない。

 

古川日出男は、もしそんなマシンがあるとすればいわば「認識マシン」として東日本大震災後の「飯舘村」をあるいている。取材ともいえるし記録ともいえる。とともに記録しようとした途端、取材の困難は出現するということをも読者に伝える。吉村昭「三陸海岸大津波」を読んでこう考える。

 

「そこに、その子供が《書いた》ーーー『僕と女中さんは、隣の木下医院の窓にすがっていた。お母さんがひろ子をおぶって、せんろの方へにげようとしたら、木下医院の間から大波が来てお母さんの足をさらっていった。そのときぼくは<お母さんが死んだ>と思った。私は、思わず涙が出た。病院の窓にしっかりすがりついて、ぼくの家の方を見たら家はたおされていた』。ぼく、と綴られている文章が、この部分を含めて二か所だけ、唐突に”私”と綴られる。二つめは妹の死体に触れる箇所である。

悲しみの極限の瞬間にだけ、この子は、自分を”私”にしている。

緊迫がこの自称を選ばせている。

それは”ぼく”が”ぼく”に距離をとっているということだ。ここには真実の文章がある」(古川日出男「太陽、月、キカイダーその後」『群像・4・P.125』講談社 二〇二五年)

 

もう一箇所は次の文章。

 

「少したって女中さんが来て、ひろ子の死体を柴田病院に持って来たといった。私は、驚いてしまった」(吉村昭「三陸海岸大津波・P.164」文春文庫 二〇〇四年)

 

その少し後に「ぼくはかなしくて、かなしくてわからなかった。ぼくが泣いているとーーー」と続く。「私」ではなく「ぼく」へ戻っている。もし大人が書いたとすれば逆になっていたかもしれない。例えばだが最後に「私は慟哭した」とか「私は込み上げてくる涙を抑えきれなかった」とかの、よく見かけるステレオタイプに陥っていたに違いない。

 

しかし一度吉村昭が「小学生の作文」を採用することでやって見せたことと同じ書き方はできない。かつての震災と東日本大震災とは違っている。その唯一性と真実性とをどのように描きあげることができるだろうかと考える。

 

環境省の職員に或る高齢の男性がこんなふうな質問をする。

 

「『それでも日本は回ったのに、回ってたでしょう?大変だったにしても。それなのに、いま、どうして原発は動かすのかな?』」(古川日出男「太陽、月、キカイダーその後」『群像・4・P.130』講談社 二〇二五年)

 

わざわざ吉村昭が小学生の作文から引用した意図はこのような言葉の不意の出現において始めて可視化されるものだ。

 

「原発<を>動かすのかな?」ではなく「原発<は>動かすのかな?」。

 

答えられることがあるとすれば途方もない規模の諸問題が炸裂することだろう。歩くこと。それは多分死ぬまで延々つづく長い長い旅になるだろう。

 

ちなみに滋賀県の現在の満月度は81.4%である。


Blog21・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて1092

2025年03月11日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

読書再開。といっても徐々に。

 

節約生活。

 

午前五時に飼い猫の早朝のご飯。

 

体操の後、エクスペリメンタルやインダストリアルを中心に飼い猫がリラックスできそうな作品リスト作成中。

 

Autechre「bnc Castl」

猫はすでに本棚部屋を探検中。地下鉄延伸工事の点検作業を思わせる金属音で始まる。深めのリヴァーブがかかっていていかにも地肌が剥き出しになっている箇所がいくつか目に見えるようだ。0:15になると音響は一転。リヴァーブが切れるとともに慌てて工事に取りかかったかのように聴かせておいてそのじつ作業は地上の大型建築物のリフォーム工事を一日分録画した映像でしかなくそれを早送りで点検している本社ビルの中間管理職の視聴覚へ到達する。さらに労働時間と労賃の合理的算出に入る前に曲はとっとと終わるかのようだ。早すぎる速度が一片の後ろめたさを醸し出していて大建築であるにもかかわらずすべて木材を使用していることで環境との調和を大々的に謳ってしまった取り消せない欺瞞が三文コミックのオチに聴こえる。


Blog21・二代目タマ’s ライフ497

2025年03月10日 | 日記・エッセイ・コラム

二〇二五年三月十日(月)。

 

早朝(午前五時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。

 

朝食(午前八時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。

 

昼食(午後一時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。

 

夕食(午後六時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。

 

タマの写真撮ってくれたんだね。推定誕生日より早かった。

 

うん。たまたま天気予報があたった。朝ごはんのあとにどこ行ったかなって探してたら二階のベッドでごろごろくつろいでてさ、日差しもなかなか良かったんでどさくさ紛れに撮影したんだ。

 

いまの旬なんだ、二階のベッド。仰向けでも香箱すわりでもちょうどいい具体になってきた。飼い主もいっしょに横になるといいよ。

 

飼い主は飼い主の布団があるからそれでいいのさ。馴染んでるしね。二階のベッドは死んじゃった婆さんが十年くらい使ってたものでね、猫の写真撮りたいんだけどっていうとちょっと待っててって言ってよく場所を開けてくれた。初代タマが生きてた頃から膵臓癌で階段をのぼれなくなるまでいつも撮影に使わせてくれてたんだ。

 

癌で階段がのぼれなくなるまでって、食欲がなくなっちゃってもしばらくは上り下りしてたでしょお婆さん。

 

癌の終末期医療で胃痛と嘔吐を繰り返すようになっても手すりにつかまって上り下りができているうちは夜になると二階のベッドで寝ることにしてたからね。ほんの僅かでも体力のあるうちは安易なものに頼っちゃいけない。だから二代目タマがおちびさんの頃も上り下りができてる間はタマが姿をみせるとね、写真撮影に向いてるいい日差しだと素早く察してえっちらおっちらベッドから降りて一階の居間で体を休めてたんだ。何も食べる気がしないって苦痛を訴えるんだけど猫にはやさしかったなあ。

 

そのベッドが今のタマのベッドなの?

 

そういうことになるね。うちでは一番快適な寝床ってことさ。

 

黒猫繋がりの楽曲はノン・ジャンルな世界へ。ジョン・グレイシャー。ヒップホップがなぜマッチョなのか?おかしいではないか?という批判はかなり昔からあった。反批判としてそこそこ力強くなければ闘えない、あるいは政治的に訴えかける力くらい必要でなおかつ残すべきなんじゃないかという、もっともな主張が楽曲のあちこちで必然性を帯びて垣間見えていた。ヒップホップは他の音楽ジャンルと比較して桁違いに言葉をぎゅうぎゅうづめに詰め込む。政治性の度合いがわかりやすく、ゆえに議論はときに大学で行われるアカデミックな社会批評と肩を並べる。さらに世界的規模へ発展した「場としてのヒップホップ」は始めから小さなアカデミズムの外部で成長してきたという経緯も重なり、今や逆にアカデミズムの場へ繰り返し少なからぬインパクトあるいはダメージを与えている。アカデミズムの世界はもはやラッパーの繰り出す言葉の洪水とその広がり、浸透度を無視して議論を進めることは不可能になった。すると従属していたはずのシニフィエ(意味内容)の側が従属させていたはずのシニフィアン(言語表記)の側へ何度も逆流し、徐々にではあれラカンが「専制君主」と呼んだシニフィアンを随時解体-変容させていく光景が日常化してきた。マッチョか非-マッチョかというともすれば不毛な堂々巡りに陥りやすい傾向は多分続いていくとしても、ジョン・グレイシャーは問題の焦点を逸らしてばかりの政治的「折り合い」ではなく「溶かしてしまう」という大胆な方向性、それこそ一九八〇年代から何度も誤解され中傷されてきた「ポップ」で誘惑的な揺さぶりを新たに見出しつつあるのかもしれない。


Blog21・プラットフォーム資本主義から様々な匿名のネットワークへ(補遺)/「あなたは(わたしも)卑怯である」

2025年03月10日 | 日記・エッセイ・コラム

坂口安吾から。

 

「夜の空襲はすばらしい。私は戦争が私から色々の楽しいことを奪ったので戦争を憎んでいたが、夜の空襲が始まってから戦争を憎まなくなった。戦争の夜の暗さを憎んでいたのに、夜の空襲が始まって後は、その暗さが身にしみてなつかしく自分の身体と一つになるような深い調和を感じていた。

私は然し夜間爆撃の何が一番すばらしかったかと訊かれると、正直なところは、被害の大きかったのが何より私の気に入っていたというのが本当の気持なのである。照空燈の矢の中にポッカリ浮いた鈍い銀色のB29の爆音。花火のように空にひらいて落ちてくる焼夷弾、けれども私には地上の広茫たつ劫火(ごうか)だけが全心的な満足を与えてくれるのであった」(坂口安吾「続戦争と一人の女」『坂口安吾全集4・P.203』ちくま文庫 一九九〇年)

 

宇野常寛は現代のネット普及期の同時代人としてこう解釈する。東日本大震災と新型コロナショック発生時にも同様に見られ確実に記録された現象。

 

「要するに、この女性は戦争のもたらす世界の変化そのものに感動しているのだ。自然の与える通常の変化よりも速く、不確実に発生するその変化(破壊)を知ることが彼女にとって最大の『遊び』なのだ。

私はこの女性の気持ちがよく分かる。コロナ・ショックの渦中、私は一人の生活者として、このウイルスという目に見えない力が日常を侵食することを恐れていた。しかしその一方で、確実にこの日常性が侵食されることいん、興奮を覚えていた。世界のルールが確実に書き換わっていることを、歓迎している自分がいた。私はこの間、社会不安に乗じて自身に関心を集める類の発信をまったく行っていない。多くの研究者や言論人が、ここぞとばかりに人々の不安に付け込み新型コロナウイルスは大したことのないウイルスだとか、その逆に某グローバル企業の開発した殺人兵器であるとか、それが拡散されることを目的とした投稿を反復し集票や集金を試みたことは記憶に新しい。むしろ私はこうした現象に警鐘を鳴らす立場から発言を続けたが、その一方でこうした卑しく、表面的な事象とは別のレベルで世界が燃えるのを歓迎していたことは間違いない。

それはある意味、これはとても懐かしい空気、でもあった。そう、私はこの空気を、過去に確実に経験していた。それは二〇一一年の三月に、この国を襲ったあの震災ーーー東日本大震災のものに、とても似ていた。あのとき、人々は錯綜する情報ーーーとりわけ、震災によって発生した福島第一原子力発電所の事故のもたらす放射能被害ーーーに怯えていた。そしてその怯えを解消するために、確たる証拠も科学的な分析もない『願望』以外のものではない情報を、もっといえばフェイクニュースや陰謀論と呼ばれる類のものを、主にこの震災をきっかけに広がったTwitterを用いて拡散していった。『安全厨』『危険厨』という言葉を覚えている人も多いだろう。多くの人々が、『発信する』ことで、目に見えない脅威に対する怯えを中和しようとしていたことは間違いない。そう、放射能の被害はそれほど大したことはないのだと述べる『安全厨』も、そんなことはない、もっともっとその被害は深刻に違いないと触れ回る『危険厨』も私にとっては同じだった。専門知識もない人間が、ソースも不確かな情報をシェアすることに、彼らの精神を安定させる以上の意味が存在する余地がないからだ。もちろん、目に見えない脅威からの不安を解消したい、と考えるのは自然なことだ。しかしその手段として、インターネット上に不確かな情報を無批判に投稿することは、大きく人類全体の利益を損なう行為であったことは間違いないだろう。

しかし、人々は『書く』ことをやめなかった。誰がが欲望のままに発信することが、社会に与える混乱と息苦しさを与えることを、このとき少なくともこの社会は(頭では想像できていたとしても)実感はしていなかったのだと思う。しかし、今となっては自明なことだ。人間は安心するために『書く』。さらに人間は自らの言葉に呪縛される。自分がインターネットに吐き出した言葉からフィードバックを受け、不安の解消として選んだ物語を絶対的な真実だと思いこむようになる」(宇野常寛「庭の話(16)」『群像・11・P.437』講談社 二〇二三年)

 

再び坂口安吾から。女は男に向けていう。「あなたは卑怯(ひきょう)よーーーどうして一人だけ脱けだしたいと思うのよ」。

 

「『あなたは卑怯(ひきょう)よ。御自分が汚くていて、高くなりたいの、脱けだしたいの、それは卑怯よ。なぜ、汚くないと考えるようにしないのよ。そして私を汚くない綺麗な女にしてくれようとしないのよ。私は親に女郎に売られて男のオモチャになってきたわ。私はそんな女ですから、遊びは好きです。汚いなどと思わないのよ。私はよくない女です。けれども、良くなりたいと願っているわ。なぜ、あなたが私を良くしようとしてくれないのよ。あなたは私を良い女にしようとせずに、どうして一人だけ脱けだしたいと思うのよ』」(坂口安吾「戦争と一人の女」『坂口安吾全集4・P.185~186』ちくま文庫 一九九〇年)

 

短い小説だが女の言葉の切迫感が男の背中に血のりのようにべったり貼り付けられる瞬間だ。

 

「おそらく野村は敗戦後に訪れる退屈な世界を予感している。だからこそ、自己と女性との間に線を引き、自己をその来るべき世界から切り離そうとする。そのために野村は敗戦によって自分の人生が終わると、少なくともスイッチのオンとオフが切り替わるように世界が切り替わると考えようとする。世界の終わりを仮定することで、野村は女性との共犯関係から、つまりこれからはじまる退屈な平和から、自己の中にある汚辱から目を背けているのだ。それは同時に、女性が自覚している世界が燃えるところが観たいと感じる欲望から目を背けることでもある」(宇野常寛「庭の話(16)」『群像・11・P.440』講談社 二〇二三年)

 

さらに安吾から。六〇歳くらいのふたりの登場人物「カマキリとデブ」。空襲と聞くといつも現場にかけつけるのだが、彼らのメインは何か。

 

「こういう老人共の空襲下の恐怖ぶりはひどかった。生命の露骨な執着に溢(あふ)れている。そのくせ他人の破壊に対する好奇心は若者よりも旺盛で、千葉でも八王子でも平塚でもやられたときに見物に行き、被害が少いとガッカリして帰ってきた。彼等は女の半焼の死体などは人が見ていても手をふれかねないほど屈(かが)みこんで丁寧(ていねい)に見ていた」(坂口安吾「続戦争と一人の女」『坂口安吾全集4・P.198』ちくま文庫 一九九〇年)

 

戦時下でしばしば見られたし今のウクライナやパレスチナではもはや桁外れなほど大々的に「発信」されている。エロティシズムの高まりは惨殺された人間の死体をまじまじと覗き込み千切れた部位を置き換えてうれしがり嘲笑うグロテスクな嗜癖にまでおよぶ。スマホひとつで誰もが惨殺死体嗜癖者へいともあっさり変貌する。

 

「彼らの関心は常に他人にある。自分より惨めで、劣位に置かれた人々の存在を確認することで、充足したいという願望を彼らは隠そうとしない。彼らは、閉じた相互評価のネットワークの中で外部のことに、戦争そのものに目と耳を塞ぐことで、辛うじて自我を保っているのだ。

もし、この二〇二〇年からはじまるコロナ・ショックの時代にこの女性が生きていたらどう思うだろうか。彼女がかつて戦争は美しいと思ったように、この状況に奇妙な高揚を覚えていたのではないかと私は思う。私がかつて感じていたように、おそらくはそして多くの人が口にしないだけで確実に感じていたように」(宇野常寛「庭の話(16)」『群像・11・P.440』講談社 二〇二三年)

 

終わりのほうで宇野常寛はこのように逆説的な「可能性」を「庭」の条件としてとらえる。

 

「空襲で焼ける空にこの女性が美しさを感じたように、ウイルスによって世界が絶望に覆われていくさまを見たいと心のどこかで思っている人間は決して少なくない。<私はどうして人間が戦争をにくみ、平和を愛さねばならないのだか、疑った>と彼女は述べる。それはなにも特別な感情ではなくウイルスを恐れ、人類の勝利と社会機能の回復を心から願う気持ちと同居し得るものだ。ここにはおそらく『庭』的な場所の最大の可能性がある。この女性は、戦争が一方的に自分を襲い、そして世界を変える可能性を示したことに魅入られていたのだ。そこには自己が世界に関与し、影響を与えることをアイデンティティの中核に置く発想もなければ、他の誰かと承認を交換することの充足もない。ここには、プラットフォームの与える相互評価の、承認の交換のゲームを相対化する決定的な力が発生している」(宇野常寛「庭の話(16)」『群像・11・P.441~442』講談社 二〇二三年)

 

ところで今月号の対談で國分功一郎が言っていたのだが「暇と退屈の倫理学」を出したとき、ほとんど批評されなかったという不可解な事情について触れている。文庫化されたときに買ったのだが「東大・京大で売上N0.1」という盛大な帯を付して哲学・思想系の書籍としてはたいそう売れたことは確かだ。にもかかわらず、そして批評の可能性の新しい地平のひとつをもたらしたにもかかわらず、なぜただ単なる「消費」へ回収されていったのか。今やamazonで検索してみると速くも古書としての取り扱いのほうが多い気がする。もっとも過渡期の論考といえばいえる。しかし過渡期でない論考とはなんなのか。

 

先月号の千葉雅也「未来人の全身タイツ」で一九九〇年代後半から出没しだした「ギャル(男)」について「ヤマンバ」まで行ってしまう過程が述べられていたが、千葉雅也は「ヤマンバ」から「ふつう」へ戻ってきたというふうには捉えていない。グローバル資本主義とネットの普及によって、ファッションあるいはモードというものが過去へ戻るというようなしおらしさを持つことは、もはや無縁となった。例えば昨今著しく目立って仕方のない資本化したスポーツ競技を見ていると顕著なように人間が生死の境いをさまようほど過酷なレースを競い合いながらほとんど「世界的大企業のロゴ」と化して「ロゴ」をせっせと運んで走る都合の良いマシンへ加工=変造されていく奇妙な光景を見ない日はない。

 

少し付け加えておくと、新型コロナ流行期とフィリピンに拠点があるとかないとかいう「悪質商法とその<支持役>」探し流行期、特にテレビのワイドショーでは何時間もかけてああでもないこうでもないと御用コメンテーターが連日発言することで日本政府が主導する軍事的な大きな転換点を覆い隠すことに貢献したことは隠そうにも隠せないに違いない。

 

マス-コミはよく知っている。知らないとは口が裂けてもいえない。3.11やパンデミックはごく最近の出来事だ。東京大空襲についてマス-コミがいうとすれば「大日本帝国のロゴ」と化して「ロゴ」をせっせと運んで走る都合の良いマシンへ加工=変造されていく日本列島を見ない日はなかったろうとおもう。


Blog21・プラットフォーム資本主義から様々な匿名のネットワークへ

2025年03月10日 | 日記・エッセイ・コラム

宇野常寛「庭の話」について。新聞の書評欄で紹介されているのを見たが連載に目を通していた立場からして一体何人の読者が手に取って読もうとするだろうかとほんの僅かな諦観がよぎる。思想/哲学/批評という分野に類別される書籍が提出ないし提案する決して小さくはなく逆に日を追うごとに巨大化しつつある諸問題が、なぜか日を追うごとに隅のほうへ隅のほうへ追いやられていくという状況をありありと見ているとそんな諦観が身体の半分くらいをすでに侵食してしまっているのではとふと肩を落とすような事態に日常生活のいろいろな場面で襲われる。

 

と思いつつ半ば半分しか目を開けていないような日々を送っていたら宇野常寛と國分功一郎との対談が載っているのを見つけた。対談形式の是非は別としてこの場合は大変わかりやすくなっているとおもえる。幾つか引用したい。

 

世界をほとんど席巻=支配しつつある巨大プラットフォームともはや接続過剰な状態を日常化させてしまったまま麻痺状態に陥っている人間の奇妙さを、例えばハムレットの言葉を引っ張っていえば<脱節させる>ということになろうが、ただ単にそうするだけでなくそこに「庭」というものを作ろうと宇野常寛は思考する。

 

「宇野 正確には浪費を失敗させる力が『庭』には必要だと考えています。ただ事物を受け取ることだけではプラットフォーム資本主義が支配するアテンション・エコノミーのゲームを、言い換えれば市場からの評価や共同体からの承認を相対化するのはむずかしい。なんらかのかたちで能動的に世界に関与する回路がないといけないと考えて、この『制作』という概念に注目しました。ただ、制作の快楽は強力だけどこれを覚えるのはハードルが高く、とくに動機づけがむずかしい。なので、公共空間=庭のあるべき姿を構想するとき、人びとを制作に動機づける回路が備わっていないと、プラットフォームに敗北するだろうと考えたんです」(宇野常寛×國分功一郎「公共性を『作り直す』ために」『群像・4・P.214』講談社 二〇二五年)

 

宇野常寛は「動機づけ」といっていて、もしかしたらそれが「誘導」になってしまうのではという躊躇を國分功一郎は覚えるわけだが、その意味の「動機づけ」ではなく國分功一郎も「暇と退屈の倫理学」(新潮文庫 二〇二二年)でドゥルーズを援用し述べていた「不法侵入」と同時に始まる「思考」を想定している。二箇所。

 

(1)「概念というものは可能性を示しているにすぎないのだ。概念に欠けているのはひとつの爪である。絶対的必然性の爪、すなわち、思考に加えられる根源的暴力という、また奇妙さという、あるいはそれだけが思考をその自然的昏迷とその永遠の可能性とから救い出す敵意という爪であるようなひとつの爪である。これほどの事態であってみれば、思考のなかに強制的に引き起こされた、非意志的な思考〔作用〕よりほかに思考は存在せず、不法侵入によって、偶然から世界のなかに生まれ出るがゆえに、ますます絶対的に必然的であるような思考しか存在しない。思考において始原的であるもの、それは不法侵入であり、暴力であり、それはまた敵であって、何ものも愛知(フィロゾフィー)〔哲学〕を仮定せず、一切は嫌知(ミゾゾフィー)から出発するのだ」(ドゥルーズ「差異と反復・上・P.371~372」河出文庫 二〇〇七年)

 

(2)「思考するということはひとつの能力の自然的な〔生まれつきの〕働きであること、この能力は良き本性〔自然〕と良き意志をもっていること、こうしたことは、《事実においては》理解しえないことである。人間たちは、事実においては、めったに思考せず、思考するにしても、意欲が高まってというよりはむしろ、何かショックを受けて思考するということ、これは、『すべてのひと』のよく知るところである」(ドゥルーズ「差異と反復・上・P.354」河出文庫 二〇〇七年)

 

自分から選ばなかった「ショック」であり「不法侵入」であり「暴力」。受動的にそれを受けて始まる「思考」を始めようという。でなければ「事物を享受」しているとは到底いえない。「傷つき」ひとつ十分にできない。例えば「茶を飲むこと」も実は享受できていない。向き合えていない。もっともな話におもえる。

 

さらに読者のひとりとしていえば、この一年ほどの様子を見ていておそろしく目立ってきたのは接続過剰状態を前提に吹き荒れる承認欲求の暴風雨。そんな中でますますせわしない承認欲求のゲーマーと化している人間は以前からある程度予測されていたように、予測されていたにもかかわらず、ただ単にイーロン・マスクに支配され「所有されて」よろこんでしまっているという「猿の惑星」的光景。日々ネットに接する人々は意識するしないにかかわらず多少なりともそうであるほかない。宇野常寛のイーロン・マスク観はどうだろう。

 

「宇野 イーロン・マスクは、遊んでいるように見えているけれど、僕はじつはあまり遊んでいるとは思っていないんです。一言でいうと、露悪的な自己に酔っているように見える。自分の露悪的なキャラクターが、とくにある世代の男性に世界的に支持を受けていて半分はその快楽に支配されている。國分さんの言葉を使うと完全に『目的-手段連関』のなかにいると僕は考えています。イーロン・マスクはその程度の人間なんだけど、その程度の人間だからこそ誰も止められなくなっているということに問題の本質がある、というのが僕なりのイーロン・マスクについての理解です」(宇野常寛×國分功一郎「公共性を『作り直す』ために」『群像・4・P.216』講談社 二〇二五年)

 

カントの「目的-手段連関」を引いてきた國分功一郎はいう。

 

「國分 ここは今後の課題ですが、『遊ぶ(play)』と『ゲームをする』のは違うんじゃないでしょうか。ゲームのなかに、自由に楽しんで遊んでいる場合と、『目的-手段連関』に従って行為している場合とがある気がします。イーロン・マスクは無邪気に遊んでいるのではなく、承認を得たり影響力を行使するといった目的を達成するための手段として、あのような振る舞いをしているというわけですね。カントの議論を援用した『手段からの解放』でいえば、『目的-手段連関』は第三象限(低次の欲求能力)に位置します。なおこの本では、『目的-手段連関』の構図(第三象限)に汚染されて、ただ単に楽しむという行為(第四象限)が消滅する危険を論じました。その代表が依存症です」(宇野常寛×國分功一郎「公共性を『作り直す』ために」『群像・4・P.216』講談社 二〇二五年)

 

カントから。

 

「《君自身の人格ならびに他のすべての人の人格に例外なく存するところの人間性を、いつでもまたいかなる場合にも同時に目的として使用し決して単なる手段として使用してはならない》」(カント「道徳形而上学原論・P.103」岩波文庫 一九六〇年)

 

國分功一郎は現時点へ引きつけてこういう。

 

「イーロン・マスクは無邪気に遊んでいるのではなく、承認を得たり影響力を行使するといった目的を達成するための手段として、あのような振る舞いをしているというわけですね」

 

ふたりとも指摘しているのは「目的-手段連関」という転倒についてだ。すべての依存症にあてはまる。なかでもアルコール依存症の場合はわかりやすいだろう。

 

「宇野 國分さんは以前からアルコール中毒の人に関心が高くて、アル中の人は酔うためにお酒を味わっていない、酩酊によって精神的なつらさから逃避するための手段としてお酒を飲んでいるのだと、よく言っていますよね。同じようにタバコも、味わうためではなくて手持ち無沙汰だからつい吸ってしまう。それらは嗜好品であるにもかかわらず、別の目的に対する手段になっている」(宇野常寛×國分功一郎「公共性を『作り直す』ために」『群像・4・P.216』講談社 二〇二五年)

 

さらに二〇二三年の連載時、宇野常寛は依存症で顕著になる「目的-手段連関」という転倒した状況についてそれはほとんど意識されることのない「強制」として出現すると述べていた。

 

「國分は『ビリー・バッド』を読解して述べている。吃音という障害を抱えるビリーは身体の、過去のいきさつから嫉妬を制御できないクラッガートは感情の、そして社会的責任を過剰に問われる立場にあるヴィアは歴史の、それぞれ奴隷である、と。そのため、彼らがある事物に接したときにその反応として現れる変状は、自己の本質から離れたものになってしまうーーー相対的に彼らは、大きく『強制』されているーーーのだと」(宇野常寛「庭の話9」『群像・2023・04・P.408』講談社 二〇二三年)

 

転倒した「目的-手段連関」が徹底的に最大化される「ネット共同体内の承認の交換」について。

 

「宇野 『目的-手段連関』に人間をもっとも強く落とし込むのが、共同体内の承認の交換です。人間は共同体から逃れられない存在で、僕も共同体そのものを否定したいとは微塵も考えていない。しかし、人間の共同性への欲望がプラットフォーム資本主義によって情報技術を用いてハックされている現在、その抵抗運動はむしろオルタナティヴな共同体をつくることではなく、何者でもない主体になれる場所を提供することです。そのために必要なのが『目的-手段』から一時的にでも解放されて、事物を『享受する』時間だと思います。

 

國分 僕も共同体は好きじゃないです。『目的-手段連関』のほうが人間は受け入れやすいという話は興味深い。『事物の享受を人は好まない』は『知覚が人間に働く暴力』と言っていいかもしれません。つまり、なにかを受け取ることには必ず暴力がある。多かれ少なかれ傷つきがある。事物の享受を人間は好まないとは、まったくそのとおりだと思います」(宇野常寛×國分功一郎「公共性を『作り直す』ために」『群像・4・P.217』講談社 二〇二五年)

 

「なにかを受け取ることには必ず暴力がある。多かれ少なかれ傷つきがある。事物の享受を人間は好まない」

 

國分功一郎がいっているのは、自分から選ばなかった「ショック」であり「不法侵入」であり「暴力」である「傷つき」のないところでは、どんな事物であってもしっかり向き合うこと・享受すること、それができなくなってしまうということだ。転倒した「目的-手段連関」が徹底的に最大化されるネット空間のうちに出現する「依存《症》」は間違っている。何かを作ることであれ、茶を飲むことであれに、ただ単に遊ぶことであれ、「目的-手段連関」が転倒した「依存《症》」状態ではそのどれも享受する(向き合う)ことはできない。

 

ちなみに資本主義経済における「依存」はどのような形態を持っているか。宇野常寛も國分功一郎もこの対談では言及していないけれども「依存《症》」との違いを明確にしておきたいとおもう。

 

「生産物交換は、いろいろな家族や種族や共同体が接触する地点で発生する。なぜならば、文化の初期には独立者として相対するのは個人ではなくて家族や種族などだからである。共同体が違えば、それらが自然環境のなかに見いだす生産手段や生活手段も違っている。したがって、それらの共同体の生産様式や生活様式や生産物も違っている。この自然発生的な相違こそは、いろいろな共同体が接触するときに相互の生産物の交換を呼び起こし、したがって、このような生産物がだんだん商品に転化することを呼び起こすのである。交換は、生産部面の相違をつくりだすのではなく、違った諸生産部面を関連させて、それらを一つの社会的総生産の多かれ少なかれ互いに依存し合う諸部門にする」(マルクス「資本論・第一部・第四篇・第十二章・P.215~216」国民文庫 一九七二年)

 

マルクスの資本論ではこれが人と物とが「依存」し合う「交換」形態である。

 

そんなわけでついさっき宇野常寛はいっていた。

 

「何者でもない主体になれる場所を提供すること」

 

では一体「庭」とは何か。話は前後するがこう述べている。

 

「市場でも共同体も評価や承認を通して、人間を何者かにしようとするのですが、むしろ人間が何者でもない誰かになれる場所こそが、いま必要な公共空間の条件だと思います。それを、都市のあちこちに作ってネットワーク化していこう、ということを僕は提案していて、それが『庭』なんです」(宇野常寛×國分功一郎「公共性を『作り直す』ために」『群像・4・P.214』講談社 二〇二五年)

 

任意の匿名性のネットワーク。さらにそれは決してひとつではなく逆にもろもろのレベルであり得るだろうと思える。

例えば東日本大震災の地震や津波の被害者として「傷ついた」人々、原発事故で被災し「傷ついた」人々、それを報道で聞かされ間接的にしか語ることができずに「傷ついた」人々、などなどいろいろな「傷つき」があり、そのどれもが接続過剰な承認欲求の堂々巡りから生まれる資本の「罠」を巧妙に退けながら匿名のネットワークを繋ぎ合わせていくこと、その場としての「庭」。試みは現在進行中だ。