宇野常寛「庭の話」について。新聞の書評欄で紹介されているのを見たが連載に目を通していた立場からして一体何人の読者が手に取って読もうとするだろうかとほんの僅かな諦観がよぎる。思想/哲学/批評という分野に類別される書籍が提出ないし提案する決して小さくはなく逆に日を追うごとに巨大化しつつある諸問題が、なぜか日を追うごとに隅のほうへ隅のほうへ追いやられていくという状況をありありと見ているとそんな諦観が身体の半分くらいをすでに侵食してしまっているのではとふと肩を落とすような事態に日常生活のいろいろな場面で襲われる。
と思いつつ半ば半分しか目を開けていないような日々を送っていたら宇野常寛と國分功一郎との対談が載っているのを見つけた。対談形式の是非は別としてこの場合は大変わかりやすくなっているとおもえる。幾つか引用したい。
世界をほとんど席巻=支配しつつある巨大プラットフォームともはや接続過剰な状態を日常化させてしまったまま麻痺状態に陥っている人間の奇妙さを、例えばハムレットの言葉を引っ張っていえば<脱節させる>ということになろうが、ただ単にそうするだけでなくそこに「庭」というものを作ろうと宇野常寛は思考する。
「宇野 正確には浪費を失敗させる力が『庭』には必要だと考えています。ただ事物を受け取ることだけではプラットフォーム資本主義が支配するアテンション・エコノミーのゲームを、言い換えれば市場からの評価や共同体からの承認を相対化するのはむずかしい。なんらかのかたちで能動的に世界に関与する回路がないといけないと考えて、この『制作』という概念に注目しました。ただ、制作の快楽は強力だけどこれを覚えるのはハードルが高く、とくに動機づけがむずかしい。なので、公共空間=庭のあるべき姿を構想するとき、人びとを制作に動機づける回路が備わっていないと、プラットフォームに敗北するだろうと考えたんです」(宇野常寛×國分功一郎「公共性を『作り直す』ために」『群像・4・P.214』講談社 二〇二五年)
宇野常寛は「動機づけ」といっていて、もしかしたらそれが「誘導」になってしまうのではという躊躇を國分功一郎は覚えるわけだが、その意味の「動機づけ」ではなく國分功一郎も「暇と退屈の倫理学」(新潮文庫 二〇二二年)でドゥルーズを援用し述べていた「不法侵入」と同時に始まる「思考」を想定している。二箇所。
(1)「概念というものは可能性を示しているにすぎないのだ。概念に欠けているのはひとつの爪である。絶対的必然性の爪、すなわち、思考に加えられる根源的暴力という、また奇妙さという、あるいはそれだけが思考をその自然的昏迷とその永遠の可能性とから救い出す敵意という爪であるようなひとつの爪である。これほどの事態であってみれば、思考のなかに強制的に引き起こされた、非意志的な思考〔作用〕よりほかに思考は存在せず、不法侵入によって、偶然から世界のなかに生まれ出るがゆえに、ますます絶対的に必然的であるような思考しか存在しない。思考において始原的であるもの、それは不法侵入であり、暴力であり、それはまた敵であって、何ものも愛知(フィロゾフィー)〔哲学〕を仮定せず、一切は嫌知(ミゾゾフィー)から出発するのだ」(ドゥルーズ「差異と反復・上・P.371~372」河出文庫 二〇〇七年)
(2)「思考するということはひとつの能力の自然的な〔生まれつきの〕働きであること、この能力は良き本性〔自然〕と良き意志をもっていること、こうしたことは、《事実においては》理解しえないことである。人間たちは、事実においては、めったに思考せず、思考するにしても、意欲が高まってというよりはむしろ、何かショックを受けて思考するということ、これは、『すべてのひと』のよく知るところである」(ドゥルーズ「差異と反復・上・P.354」河出文庫 二〇〇七年)
自分から選ばなかった「ショック」であり「不法侵入」であり「暴力」。受動的にそれを受けて始まる「思考」を始めようという。でなければ「事物を享受」しているとは到底いえない。「傷つき」ひとつ十分にできない。例えば「茶を飲むこと」も実は享受できていない。向き合えていない。もっともな話におもえる。
さらに読者のひとりとしていえば、この一年ほどの様子を見ていておそろしく目立ってきたのは接続過剰状態を前提に吹き荒れる承認欲求の暴風雨。そんな中でますますせわしない承認欲求のゲーマーと化している人間は以前からある程度予測されていたように、予測されていたにもかかわらず、ただ単にイーロン・マスクに支配され「所有されて」よろこんでしまっているという「猿の惑星」的光景。日々ネットに接する人々は意識するしないにかかわらず多少なりともそうであるほかない。宇野常寛のイーロン・マスク観はどうだろう。
「宇野 イーロン・マスクは、遊んでいるように見えているけれど、僕はじつはあまり遊んでいるとは思っていないんです。一言でいうと、露悪的な自己に酔っているように見える。自分の露悪的なキャラクターが、とくにある世代の男性に世界的に支持を受けていて半分はその快楽に支配されている。國分さんの言葉を使うと完全に『目的-手段連関』のなかにいると僕は考えています。イーロン・マスクはその程度の人間なんだけど、その程度の人間だからこそ誰も止められなくなっているということに問題の本質がある、というのが僕なりのイーロン・マスクについての理解です」(宇野常寛×國分功一郎「公共性を『作り直す』ために」『群像・4・P.216』講談社 二〇二五年)
カントの「目的-手段連関」を引いてきた國分功一郎はいう。
「國分 ここは今後の課題ですが、『遊ぶ(play)』と『ゲームをする』のは違うんじゃないでしょうか。ゲームのなかに、自由に楽しんで遊んでいる場合と、『目的-手段連関』に従って行為している場合とがある気がします。イーロン・マスクは無邪気に遊んでいるのではなく、承認を得たり影響力を行使するといった目的を達成するための手段として、あのような振る舞いをしているというわけですね。カントの議論を援用した『手段からの解放』でいえば、『目的-手段連関』は第三象限(低次の欲求能力)に位置します。なおこの本では、『目的-手段連関』の構図(第三象限)に汚染されて、ただ単に楽しむという行為(第四象限)が消滅する危険を論じました。その代表が依存症です」(宇野常寛×國分功一郎「公共性を『作り直す』ために」『群像・4・P.216』講談社 二〇二五年)
カントから。
「《君自身の人格ならびに他のすべての人の人格に例外なく存するところの人間性を、いつでもまたいかなる場合にも同時に目的として使用し決して単なる手段として使用してはならない》」(カント「道徳形而上学原論・P.103」岩波文庫 一九六〇年)
國分功一郎は現時点へ引きつけてこういう。
「イーロン・マスクは無邪気に遊んでいるのではなく、承認を得たり影響力を行使するといった目的を達成するための手段として、あのような振る舞いをしているというわけですね」
ふたりとも指摘しているのは「目的-手段連関」という転倒についてだ。すべての依存症にあてはまる。なかでもアルコール依存症の場合はわかりやすいだろう。
「宇野 國分さんは以前からアルコール中毒の人に関心が高くて、アル中の人は酔うためにお酒を味わっていない、酩酊によって精神的なつらさから逃避するための手段としてお酒を飲んでいるのだと、よく言っていますよね。同じようにタバコも、味わうためではなくて手持ち無沙汰だからつい吸ってしまう。それらは嗜好品であるにもかかわらず、別の目的に対する手段になっている」(宇野常寛×國分功一郎「公共性を『作り直す』ために」『群像・4・P.216』講談社 二〇二五年)
さらに二〇二三年の連載時、宇野常寛は依存症で顕著になる「目的-手段連関」という転倒した状況についてそれはほとんど意識されることのない「強制」として出現すると述べていた。
「國分は『ビリー・バッド』を読解して述べている。吃音という障害を抱えるビリーは身体の、過去のいきさつから嫉妬を制御できないクラッガートは感情の、そして社会的責任を過剰に問われる立場にあるヴィアは歴史の、それぞれ奴隷である、と。そのため、彼らがある事物に接したときにその反応として現れる変状は、自己の本質から離れたものになってしまうーーー相対的に彼らは、大きく『強制』されているーーーのだと」(宇野常寛「庭の話9」『群像・2023・04・P.408』講談社 二〇二三年)
転倒した「目的-手段連関」が徹底的に最大化される「ネット共同体内の承認の交換」について。
「宇野 『目的-手段連関』に人間をもっとも強く落とし込むのが、共同体内の承認の交換です。人間は共同体から逃れられない存在で、僕も共同体そのものを否定したいとは微塵も考えていない。しかし、人間の共同性への欲望がプラットフォーム資本主義によって情報技術を用いてハックされている現在、その抵抗運動はむしろオルタナティヴな共同体をつくることではなく、何者でもない主体になれる場所を提供することです。そのために必要なのが『目的-手段』から一時的にでも解放されて、事物を『享受する』時間だと思います。
國分 僕も共同体は好きじゃないです。『目的-手段連関』のほうが人間は受け入れやすいという話は興味深い。『事物の享受を人は好まない』は『知覚が人間に働く暴力』と言っていいかもしれません。つまり、なにかを受け取ることには必ず暴力がある。多かれ少なかれ傷つきがある。事物の享受を人間は好まないとは、まったくそのとおりだと思います」(宇野常寛×國分功一郎「公共性を『作り直す』ために」『群像・4・P.217』講談社 二〇二五年)
「なにかを受け取ることには必ず暴力がある。多かれ少なかれ傷つきがある。事物の享受を人間は好まない」
國分功一郎がいっているのは、自分から選ばなかった「ショック」であり「不法侵入」であり「暴力」である「傷つき」のないところでは、どんな事物であってもしっかり向き合うこと・享受すること、それができなくなってしまうということだ。転倒した「目的-手段連関」が徹底的に最大化されるネット空間のうちに出現する「依存《症》」は間違っている。何かを作ることであれ、茶を飲むことであれに、ただ単に遊ぶことであれ、「目的-手段連関」が転倒した「依存《症》」状態ではそのどれも享受する(向き合う)ことはできない。
ちなみに資本主義経済における「依存」はどのような形態を持っているか。宇野常寛も國分功一郎もこの対談では言及していないけれども「依存《症》」との違いを明確にしておきたいとおもう。
「生産物交換は、いろいろな家族や種族や共同体が接触する地点で発生する。なぜならば、文化の初期には独立者として相対するのは個人ではなくて家族や種族などだからである。共同体が違えば、それらが自然環境のなかに見いだす生産手段や生活手段も違っている。したがって、それらの共同体の生産様式や生活様式や生産物も違っている。この自然発生的な相違こそは、いろいろな共同体が接触するときに相互の生産物の交換を呼び起こし、したがって、このような生産物がだんだん商品に転化することを呼び起こすのである。交換は、生産部面の相違をつくりだすのではなく、違った諸生産部面を関連させて、それらを一つの社会的総生産の多かれ少なかれ互いに依存し合う諸部門にする」(マルクス「資本論・第一部・第四篇・第十二章・P.215~216」国民文庫 一九七二年)
マルクスの資本論ではこれが人と物とが「依存」し合う「交換」形態である。
そんなわけでついさっき宇野常寛はいっていた。
「何者でもない主体になれる場所を提供すること」
では一体「庭」とは何か。話は前後するがこう述べている。
「市場でも共同体も評価や承認を通して、人間を何者かにしようとするのですが、むしろ人間が何者でもない誰かになれる場所こそが、いま必要な公共空間の条件だと思います。それを、都市のあちこちに作ってネットワーク化していこう、ということを僕は提案していて、それが『庭』なんです」(宇野常寛×國分功一郎「公共性を『作り直す』ために」『群像・4・P.214』講談社 二〇二五年)
任意の匿名性のネットワーク。さらにそれは決してひとつではなく逆にもろもろのレベルであり得るだろうと思える。
例えば東日本大震災の地震や津波の被害者として「傷ついた」人々、原発事故で被災し「傷ついた」人々、それを報道で聞かされ間接的にしか語ることができずに「傷ついた」人々、などなどいろいろな「傷つき」があり、そのどれもが接続過剰な承認欲求の堂々巡りから生まれる資本の「罠」を巧妙に退けながら匿名のネットワークを繋ぎ合わせていくこと、その場としての「庭」。試みは現在進行中だ。