大江は「《鞘》」について次のように書いている。
「生きいきと苔が活動して水をすいあげている濡れた岩、それらの間のぐっしょり濡れた泥のようにこまかな砂。そうした場所のところどころに、猛(たけ)だけしい勢いで繁茂している、大きい蕗(ふき)。ーーーこの沢は《鞘》のようおじゃが!と年嵩(としかさ)の子供らがいいかわしては笑い声をあげたが、僕は幼い者らとともに、この女子性器をあらわす言葉を地形の印象につなぐことができなかったーーー傾斜が急になるままに、目へ転倒せぬようのけぞるようにしながらすすみ、ついに自分の足裏が泥のような砂にめりこんで水に包まれた時、僕は立ちどまって顔を真上にむけ眼を開いた。そしてすでに月のかたむいた後の、濃い黒に紫色の点を撒(ま)きちらした異様に高い空を、裂けめのかたちに見出したのだ。そしてはじめて僕は、その原生林の木立の裂けめにかさなる沢の全容を、これがサヤのかたちなのかと自然に納得する思いを持ったのだ。妹よ、そのようにして森の裂けめの深い空を見あげている間に、鶏卵の黄身のような色とかたちの飛行体が、当の裂けめの上限から下限へと、輝きつつ回転して通過した。それが僕の頭上にある時は、その赤っぽい黄色の光が、紅を塗った僕の肩から腕、上膊(じょうはく)を暗闇からくっきり浮びあがらせたーーー宇宙からの飛行体が森の空をこのように飛ぶのである以上、フシギはやはり異星から到来した生物なのだ。そしてそれはいまも、この沢の土の中にひそんでいるだろう、と僕は考えた。それによってアポ爺、ペリ爺の二人組への胸苦しい恥の思いがいくらかは軽減されてゆくような思いで。そしてさきの光が僕のすぐ前に照しだしていた倒木に向けて確実に腕を載せると、はじめて指を捻挫している足を休ませたのだ。砂のなかを流れる水に熱を吸いとられて気持がよく、そのうち僕はしゃがみこむと、その足の周りに砂をかきあつめて足頸(あしくび)までを埋めた。四方に腕を伸ばすうち自分の頭ほどの石に触ったのを、動かして尻の下に据え、あらためて倒木に上躰(じょうたい)をもたせかけて僕は眼をつむった。そして眠りこむ前に、僕はやはり『生れる前の思い出』のように知っていることとして、この沢がかたちにおいてでなく、当の実体そのものによって《鞘》であることを感得したーーー」(大江健三郎「同時代ゲーム・P.568~569」新潮文庫 一九八四年)
神話的・宇宙論的「性」の循環運動の隠喩というよりそれそのものとして「感得した」といえるに違いない。
ところで吉田三陸の論考を参照しつつ工藤庸子はいう。
「これまでいくたびも見たように、言葉はしばしば神話的なイメージを喚起し、エピソードを起動する。たとえば《鞘》という言葉ーーー子供の時分から《その字面から官能的な熱が頬に照り返してくるようだった》と大人の『僕』は回想する。この述懐は【第二の手紙】で演劇をやる同郷の若者から《<壊す人>がキノコのようなものとして冬眠していた『穴』から探し出され》て、そのキノコのようなものを、妹が胎内で、あるいは外性器で育てあげたという噂を伝え聞いたことによる、大きい感慨を物語る三ページほどの記述のなかにある。内性器においては日常的に繰りかえされる不思議なのだからーーーという『僕』の弁明のような言葉を読む者は、たしかに神話のエピソードであれば荒唐無稽ではない、としっかり頷いて、《きみの<鞘>を介しての<壊す人>の再生からあたえられる恍惚感》を分かち合えばよいのではないか?」(工藤庸子「文学ノート・大江健三郎(最終回)」『群像・7・P.92』講談社 二〇二四年)
「神話的なイメージを喚起し、エピソードを起動する」
その通りかもしれない。とともに「神話・伝承」から喚起され起動する言葉もそこへ乗り入れてくるのではと考えられる。「壊す人」は何度も繰り返しよみがえる。
「妹よ、メキシコで受けとった手紙によっても、《壊す人》の巫女の役割をはっきり引きうけていることの感じとられるきみが、キノコのように小さく乾いて冬眠していた《壊す人》を『穴』から見つけ出してよみがえらせ、犬ほどの大きさにまで回復させたこと。そしてそのような《壊す人》を膝(ひざ)にのせて、この手紙のかたちの神話と歴史を読みとってゆくのだということ、それを考えて僕は限りなく励される。巨人化した《壊す人》の完成した村=国家=小宇宙の神話と歴史の総体が、いまは犬ほどの大きさの《壊す人》を膝にのせた巫女であるきみによって読みとかれる。それは大きい循環をなす始めと終りの、すばらしい再統合のように僕には感じられるのだ。そしてそのように神話と歴史を読むことは、きみにとってまたきみを巫女とする《壊す人》において、決してわれわれの土地の歴史のしめくくりをしるす経験ではないだろう。つい最近のことだ。僕はわれわれの土地の衰退の証拠が具体的にあきらかとなった、つまりそこでもう新しい出産が見られなくなったこの二十年の、そのもっとも遅れて生れてきた人間のひとりであるのらしい、谷間の出身の若者から、《壊す人》ときみについての噂を聞いた。かれは小劇団の演出家としてこの大都市に暮しているのだが、かれは僕の神話と歴史とはまたちがったかたちで、村=国家=小宇宙の実在性を証明しようとしている。つまりその伝承に根ざした芝居を計画しているわけなのだ。この若者の話したところでは、妹よ、きみがキノコほどの《壊す人》を、永い冬眠の場所であった『穴』から探し出してきた時、それは父=神主に手引きされてのことだったという。もともとは父=神主も、ただ谷間の三島神社を割当てられた他所者(よそもの)であったわけだが、谷間と『在』の老人たちに信任されて、われわれの土地の伝承に関心をいだき、ひとり研究を続けてきた。僕が村=国家=小宇宙の神話と歴史を書く仕事を、自分の生涯の目標として選びとってしまうまでに、幼・少年時からスパルタ教育をしたのはかれだし、同時にかれによって《壊す人》への巫女としての訓練をきみは受けさせられることになった。もっともその運命に激しくさからうようにしてきみがかさねた遍歴の後に、それこそ死んだような沈黙からよみがえって谷間に帰ると、ついに父=神主はきみを巫女としてその勢力圏をとり戻した。そしてゆきつくところ、永年の伝承研究の成果によって、きみに冬眠中の《壊す人》の居場所を示しえたのだと、若者はいう。『死人の道』に近い斜面の、戦時にいったん入口を掘りおこした後、あらためて埋められた『穴』のひとつの奥に。この噂をつたえた若者自体、実際にそうしたことが起ったと信じているかどうかは疑わしいし、むしろ噂を信じたふりをして伝播(でんぱ)することに楽しみを見出している具合なのだが、かれはもっと現実的に見える推測にもとづく噂もつたえた。それはまさしく身も蓋もないもので、きみの膝の上で犬ほどの大きさまで回復した、といっても誰ひとりそれを見たのじゃない《壊す人》とは、きみの生んだ赤んぼうだというわけなのだ。しかし妹よ、きみは谷間に戻って以来、男と一緒にいるところを目撃されたことはな。またきみはいったん谷間に帰ってくるともう一歩たりともそこから出て行ったことはないという。それよりなにより、噂をつたえた若者自体が、『在』と谷間の最後の赤んぼうのひとりだったように、そこではこの二十年、新生児が生み出されたことがないのだ。したがってきみがひそかに出産したという噂に無理があることも、若者は承知しているといっていた。そこで僕に噂をつげた若者は、演劇をやる人間らしくドラマティックに総合して、ふたつの噂をひとつにしての、かれの解釈を語ったのだ。妹よ、かれは《壊す人》がキノコのようなものとして冬眠していた『穴』から探し出されてきたことを信じたいという。その上で、このキノコのようなものを、父=神主がなんらかの方法できみの胎内に戻し、そしてきみがあらためて出産することによって、生命を回復した《壊す人》があらわれたのだと。子宮に戻すというのがありえぬことなら、鞘(さや)にしまう具体に、外性器にキノコのようなものを差しこんでおいたのかもしれぬとーーーそして僕は、この構想に魅惑された!僕はほとんど恍惚(こうこつ)としたのだが、そのように強く僕に働きかけた核心は、ほかならぬ鞘という言葉だった。サヤ。それを鞘と表記しても、莢(さや)と書いても、子供の時分から僕には、その字面から官能的な熱が頬に照り返してくるようだった。その文字を見るだけでなく、サヤと耳に聞いてすらも。それは谷間と『在』でもっとも美しい言葉と僕に感じられた、女子性器をあらわす単語だったからーーー妹よ、きみの《鞘》、すなわちきみの外性器が、内性器の受胎の役割を代行する!僕がそれを細部にわたって仔細(しさい)に想像しうるというのではないが、いかにも自然なことにそれは感じられたのだ。その想像力の恍惚のなかで思い出したのは、妊娠・出産が性行為に根ざしており、またその性行為が外性器において、つまり《鞘》によっておこなわれると、谷間の遊び仲間に教えられた頃に見た夢だ。僕はその時も恍惚として、厨子(ずし)のなかの小さな仏像のような、きれいな赤んぼうを《鞘》にはさんで横になっている、素裸のきみを見たのだったーーー小さくひからびたキノコのような、永年の冬眠をつづける《壊す人》を、『穴』からとり出して来る。それをきれいにし、妹よ、きみの《鞘》のなかにいれる。人間の再生にもっとも自然な温度と湿気の、《壊す人》の孵化(ふか)装置がしつらえられる。そのようにしてきみの外性器が実現した不思議が、歴史のなかでただ一度しかおこらぬ出来事だとしても、内性器においては日常的に繰りかえされている不思議、つまり受胎から胎児の発育、出産という不思議にくらべて、どちらが荒唐無稽かをいうことはできまいと思えるほど自然にーーーそのようにして、小さくひからびていたキノコのようなものが、柔らかくなりふくらんで、わずかながら自力の動きをも示すようになった時、きみはそれを鞘からとり出して、産湯をつかわせた。そしてガーゼにくるみこみ胸にかかえたのであっただろう。いまそれは、犬ほどの大きさに回帰して、きみの膝の上にいる《壊す人》だ」(大江健三郎「同時代ゲーム・P.133~136」新潮文庫 一九八四年)
神話的《性》は循環する。果てしなく循環し、循環しつつ分岐・増殖していくのである。