二〇二五年四月五日(土)。
早朝(午前五時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。
朝食(午前八時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。
昼食(午後一時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。
夕食(午後六時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。
飼い主さあ、大江健三郎の小説読んでる途中で「ヤマイヌ」か「オオカミ」かわからないって言ってなかった?
うん。重要な箇所だけどわからないところだね。大江がそういうふうに書いた理由はただ単にわからないってことが問題なんじゃないんだよ多分。「ヤマイヌ」にせよ「オオカミ」にせよ、柳田國男とかの記録を見ると日本列島には古くから狼信仰があってね、どちらに「咬まれた」かはどうでもいい。山神信仰とリンクする狼信仰が語られるエピソードの中で「咬まれた」って話が組み込まれることが大事だから。登場人物のひとりである「妹」が「壊す人」の巫女になる過程で通過しなくてはならない儀式として「咬まれた」ことになるんだけど、「咬む」側が「狼=大神」という構造を是非とも組み込まないといけなかったからさ。実在した「ヤマイヌ」か「オオカミ」かという問題は問題じゃない。
ふ~ん。タマがテレビで聞いたことなんだけど日本狼はもう絶滅したって話。じゃあ最初はどんなのだったのかなあと思って。
おそろしく古いよ。「日本書紀」に出てくる。秦大津父(はだのおほつち)って人が見かけたエピソードにこんなのがある。二頭の狼が喰い合おうと闘ってるところに居合わせてね、声をかけるのさ。「狼はたいへん高貴な神であって荒々しい行いをこのむ。でもそんなことやってるところを猟師が見つけたりしたらあっという間に捕獲されておしまいだよ」って。そう聞かされた狼は相争うのをやめて血だらけの体をきれいに洗って毛繕いしなおした。そんで両方とも仲直りして命をまっとうしたって話。
「山(やま)に二(ふた)つの狼(おほかみ)の相闘(くひあ)ひて血(ち)に汗(ぬ)れたるに逢(あ)へきりき。ーーー『汝(いまし)は是貴(これかしこ)き神(かみ)にして、麁(あら)き行(わざ)を楽(この)む。儻(も)し猟士(かりびと)に逢(あ)はば、禽(と)られむこと尤(けやけ)く速(すみや)けむ』」(「日本書紀3・巻第十九・P.236」岩波文庫 一九九四年)
きれいに毛繕いし直したの?なんだか猫みたい。
そうだなあ。夜になると独特の鳴き声で仲間たちが呼び合ってたらしい。その声がなんとも怖くて大昔から信仰の対象になってたみたいだ。でも近代明治国家になって軍隊が山の奥深くまで軍事管理するようになると同時に大資本があちこちの山間部で不気味な開発を始めた。それで自然環境破壊が一挙に進んで以降、狼が生きていけるような森林はどこもかしかもめちゃめちゃに破壊・汚染されて絶滅するほかなくなったってこと。で、昨今はどうなってるかというと人間同士の戦争が過激化して原発施設や核兵器で人間自身の生活がめちゃめちゃになりつつある。その意味ではかつての大神信仰=狼信仰と今の核開発とはそれこそ真逆のおかしな世の中になってると言うしかないね。
黒猫繋がりの楽曲はノン・ジャンルな世界へ。釈迦坊主。ラップというのは何でもかんでも言葉を詰め込めばいいというわけではない。見るからにマッチョでなくても全然構わない。何が言いたいのかあんまりはっきりしていなくてもいいというか、どう言えばいいのかわからないというところに生まれる音楽というものもあるわけで、むしろそういうものが音楽になったりならなかったりという場所は今なお健在。しかし釈迦坊主の今作はどこか微妙な孤独感というかリリシズムを感じさせる。