白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・「同時代ゲーム」と《神話的な性》2

2025年03月31日 | 日記・エッセイ・コラム

大江は「《鞘》」について次のように書いている。

 

「生きいきと苔が活動して水をすいあげている濡れた岩、それらの間のぐっしょり濡れた泥のようにこまかな砂。そうした場所のところどころに、猛(たけ)だけしい勢いで繁茂している、大きい蕗(ふき)。ーーーこの沢は《鞘》のようおじゃが!と年嵩(としかさ)の子供らがいいかわしては笑い声をあげたが、僕は幼い者らとともに、この女子性器をあらわす言葉を地形の印象につなぐことができなかったーーー傾斜が急になるままに、目へ転倒せぬようのけぞるようにしながらすすみ、ついに自分の足裏が泥のような砂にめりこんで水に包まれた時、僕は立ちどまって顔を真上にむけ眼を開いた。そしてすでに月のかたむいた後の、濃い黒に紫色の点を撒(ま)きちらした異様に高い空を、裂けめのかたちに見出したのだ。そしてはじめて僕は、その原生林の木立の裂けめにかさなる沢の全容を、これがサヤのかたちなのかと自然に納得する思いを持ったのだ。妹よ、そのようにして森の裂けめの深い空を見あげている間に、鶏卵の黄身のような色とかたちの飛行体が、当の裂けめの上限から下限へと、輝きつつ回転して通過した。それが僕の頭上にある時は、その赤っぽい黄色の光が、紅を塗った僕の肩から腕、上膊(じょうはく)を暗闇からくっきり浮びあがらせたーーー宇宙からの飛行体が森の空をこのように飛ぶのである以上、フシギはやはり異星から到来した生物なのだ。そしてそれはいまも、この沢の土の中にひそんでいるだろう、と僕は考えた。それによってアポ爺、ペリ爺の二人組への胸苦しい恥の思いがいくらかは軽減されてゆくような思いで。そしてさきの光が僕のすぐ前に照しだしていた倒木に向けて確実に腕を載せると、はじめて指を捻挫している足を休ませたのだ。砂のなかを流れる水に熱を吸いとられて気持がよく、そのうち僕はしゃがみこむと、その足の周りに砂をかきあつめて足頸(あしくび)までを埋めた。四方に腕を伸ばすうち自分の頭ほどの石に触ったのを、動かして尻の下に据え、あらためて倒木に上躰(じょうたい)をもたせかけて僕は眼をつむった。そして眠りこむ前に、僕はやはり『生れる前の思い出』のように知っていることとして、この沢がかたちにおいてでなく、当の実体そのものによって《鞘》であることを感得したーーー」(大江健三郎「同時代ゲーム・P.568~569」新潮文庫 一九八四年)

 

神話的・宇宙論的「性」の循環運動の隠喩というよりそれそのものとして「感得した」といえるに違いない。

 

ところで吉田三陸の論考を参照しつつ工藤庸子はいう。

 

「これまでいくたびも見たように、言葉はしばしば神話的なイメージを喚起し、エピソードを起動する。たとえば《鞘》という言葉ーーー子供の時分から《その字面から官能的な熱が頬に照り返してくるようだった》と大人の『僕』は回想する。この述懐は【第二の手紙】で演劇をやる同郷の若者から《<壊す人>がキノコのようなものとして冬眠していた『穴』から探し出され》て、そのキノコのようなものを、妹が胎内で、あるいは外性器で育てあげたという噂を伝え聞いたことによる、大きい感慨を物語る三ページほどの記述のなかにある。内性器においては日常的に繰りかえされる不思議なのだからーーーという『僕』の弁明のような言葉を読む者は、たしかに神話のエピソードであれば荒唐無稽ではない、としっかり頷いて、《きみの<鞘>を介しての<壊す人>の再生からあたえられる恍惚感》を分かち合えばよいのではないか?」(工藤庸子「文学ノート・大江健三郎(最終回)」『群像・7・P.92』講談社 二〇二四年)

 

「神話的なイメージを喚起し、エピソードを起動する」

 

その通りかもしれない。とともに「神話・伝承」から喚起され起動する言葉もそこへ乗り入れてくるのではと考えられる。「壊す人」は何度も繰り返しよみがえる。

 

「妹よ、メキシコで受けとった手紙によっても、《壊す人》の巫女の役割をはっきり引きうけていることの感じとられるきみが、キノコのように小さく乾いて冬眠していた《壊す人》を『穴』から見つけ出してよみがえらせ、犬ほどの大きさにまで回復させたこと。そしてそのような《壊す人》を膝(ひざ)にのせて、この手紙のかたちの神話と歴史を読みとってゆくのだということ、それを考えて僕は限りなく励される。巨人化した《壊す人》の完成した村=国家=小宇宙の神話と歴史の総体が、いまは犬ほどの大きさの《壊す人》を膝にのせた巫女であるきみによって読みとかれる。それは大きい循環をなす始めと終りの、すばらしい再統合のように僕には感じられるのだ。そしてそのように神話と歴史を読むことは、きみにとってまたきみを巫女とする《壊す人》において、決してわれわれの土地の歴史のしめくくりをしるす経験ではないだろう。つい最近のことだ。僕はわれわれの土地の衰退の証拠が具体的にあきらかとなった、つまりそこでもう新しい出産が見られなくなったこの二十年の、そのもっとも遅れて生れてきた人間のひとりであるのらしい、谷間の出身の若者から、《壊す人》ときみについての噂を聞いた。かれは小劇団の演出家としてこの大都市に暮しているのだが、かれは僕の神話と歴史とはまたちがったかたちで、村=国家=小宇宙の実在性を証明しようとしている。つまりその伝承に根ざした芝居を計画しているわけなのだ。この若者の話したところでは、妹よ、きみがキノコほどの《壊す人》を、永い冬眠の場所であった『穴』から探し出してきた時、それは父=神主に手引きされてのことだったという。もともとは父=神主も、ただ谷間の三島神社を割当てられた他所者(よそもの)であったわけだが、谷間と『在』の老人たちに信任されて、われわれの土地の伝承に関心をいだき、ひとり研究を続けてきた。僕が村=国家=小宇宙の神話と歴史を書く仕事を、自分の生涯の目標として選びとってしまうまでに、幼・少年時からスパルタ教育をしたのはかれだし、同時にかれによって《壊す人》への巫女としての訓練をきみは受けさせられることになった。もっともその運命に激しくさからうようにしてきみがかさねた遍歴の後に、それこそ死んだような沈黙からよみがえって谷間に帰ると、ついに父=神主はきみを巫女としてその勢力圏をとり戻した。そしてゆきつくところ、永年の伝承研究の成果によって、きみに冬眠中の《壊す人》の居場所を示しえたのだと、若者はいう。『死人の道』に近い斜面の、戦時にいったん入口を掘りおこした後、あらためて埋められた『穴』のひとつの奥に。この噂をつたえた若者自体、実際にそうしたことが起ったと信じているかどうかは疑わしいし、むしろ噂を信じたふりをして伝播(でんぱ)することに楽しみを見出している具合なのだが、かれはもっと現実的に見える推測にもとづく噂もつたえた。それはまさしく身も蓋もないもので、きみの膝の上で犬ほどの大きさまで回復した、といっても誰ひとりそれを見たのじゃない《壊す人》とは、きみの生んだ赤んぼうだというわけなのだ。しかし妹よ、きみは谷間に戻って以来、男と一緒にいるところを目撃されたことはな。またきみはいったん谷間に帰ってくるともう一歩たりともそこから出て行ったことはないという。それよりなにより、噂をつたえた若者自体が、『在』と谷間の最後の赤んぼうのひとりだったように、そこではこの二十年、新生児が生み出されたことがないのだ。したがってきみがひそかに出産したという噂に無理があることも、若者は承知しているといっていた。そこで僕に噂をつげた若者は、演劇をやる人間らしくドラマティックに総合して、ふたつの噂をひとつにしての、かれの解釈を語ったのだ。妹よ、かれは《壊す人》がキノコのようなものとして冬眠していた『穴』から探し出されてきたことを信じたいという。その上で、このキノコのようなものを、父=神主がなんらかの方法できみの胎内に戻し、そしてきみがあらためて出産することによって、生命を回復した《壊す人》があらわれたのだと。子宮に戻すというのがありえぬことなら、鞘(さや)にしまう具体に、外性器にキノコのようなものを差しこんでおいたのかもしれぬとーーーそして僕は、この構想に魅惑された!僕はほとんど恍惚(こうこつ)としたのだが、そのように強く僕に働きかけた核心は、ほかならぬ鞘という言葉だった。サヤ。それを鞘と表記しても、莢(さや)と書いても、子供の時分から僕には、その字面から官能的な熱が頬に照り返してくるようだった。その文字を見るだけでなく、サヤと耳に聞いてすらも。それは谷間と『在』でもっとも美しい言葉と僕に感じられた、女子性器をあらわす単語だったからーーー妹よ、きみの《鞘》、すなわちきみの外性器が、内性器の受胎の役割を代行する!僕がそれを細部にわたって仔細(しさい)に想像しうるというのではないが、いかにも自然なことにそれは感じられたのだ。その想像力の恍惚のなかで思い出したのは、妊娠・出産が性行為に根ざしており、またその性行為が外性器において、つまり《鞘》によっておこなわれると、谷間の遊び仲間に教えられた頃に見た夢だ。僕はその時も恍惚として、厨子(ずし)のなかの小さな仏像のような、きれいな赤んぼうを《鞘》にはさんで横になっている、素裸のきみを見たのだったーーー小さくひからびたキノコのような、永年の冬眠をつづける《壊す人》を、『穴』からとり出して来る。それをきれいにし、妹よ、きみの《鞘》のなかにいれる。人間の再生にもっとも自然な温度と湿気の、《壊す人》の孵化(ふか)装置がしつらえられる。そのようにしてきみの外性器が実現した不思議が、歴史のなかでただ一度しかおこらぬ出来事だとしても、内性器においては日常的に繰りかえされている不思議、つまり受胎から胎児の発育、出産という不思議にくらべて、どちらが荒唐無稽かをいうことはできまいと思えるほど自然にーーーそのようにして、小さくひからびていたキノコのようなものが、柔らかくなりふくらんで、わずかながら自力の動きをも示すようになった時、きみはそれを鞘からとり出して、産湯をつかわせた。そしてガーゼにくるみこみ胸にかかえたのであっただろう。いまそれは、犬ほどの大きさに回帰して、きみの膝の上にいる《壊す人》だ」(大江健三郎「同時代ゲーム・P.133~136」新潮文庫 一九八四年)

 

神話的《性》は循環する。果てしなく循環し、循環しつつ分岐・増殖していくのである。


Blog21・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて1114

2025年03月31日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

読書再開。といっても徐々に。

 

節約生活。

 

午前五時に飼い猫の早朝のご飯。

 

体操の後、アンビエント、エクスペリメンタル、ポップ、ジャズを中心に飼い猫がリラックスできそうな作品リスト作成中。

 

Alva Noto&Ryuichi Sakamoto「Duoon」

猫はいつものように窓際から外を眺めている。オフィスというものは世界化されるとどこという場所の特定が不可能になる。解放されて浮遊するともいえる。どこまでが領土でどこからが非-領土だとかいうおしゃべりは無効化される。位置決定可能性よりも位置決定不可能性のほうが遥かに決定的におもえる。浮かび上がるピアノは中心を知らない。そしてどれほど聴き込もうとしても浮遊するピアノの中を聴き抜けることはできず束の間そのそばへ近寄りふたたび遠ざかっていくほかない。


Blog21・二代目タマ’s ライフ517

2025年03月30日 | 日記・エッセイ・コラム

二〇二五年三月三十日(日)。

 

早朝(午前五時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。

 

朝食(午前八時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。

 

昼食(午後一時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。

 

夕食(午後六時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。

 

タマね、また玉の歌見つけたよ。「玉かぎる」っていうらしい。

 

あ、いいかも知れない。夕にかかる枕詞。陰と陽とのあいだの時間。

 

「玉かぎる夕(ゆふ)さり来(く)れば猟人(さつひと)の弓月(ゆつき)が岳(たけ)に霞たなびく」(「万葉集」『日本古典文学全集 万葉集3・P.46』小学館 一九七三年)

 

春霞も詠みこんでるのかな。

 

春だけどこの霞は夕暮れに薄い雲がたなびいてる感じかも。もっとも今じゃ霞んでたら花粉も一緒なのが当たり前の異常気象になってるけどね。

 

思い出した。今朝の飼い主さ、花粉で目がかゆいって言ってなかった?

 

言ってた。目のかゆみはねぇ、掻いちゃダメだからこれまたアレルギー体質としてはつらいところさ。タマはどうだい?

 

特に違和感はないなあ。家猫だし外に出ないからかな。

 

ん~、ここんとこ外気にはちょっと気をつけないと。水もね。どんな物質が混入してるかって政府発表もいい加減でますます信用ないしね。自然災害とか言ったって人災の割り合いが急増してるし。

 

黒猫繋がりの楽曲はノン・ジャンルな世界へ。ホワットエヴァー・ザ・ウェザー。微細なグリッチや大胆なサンプリングをまじえたアンビエント。といってもその正体はロレイン・ジェイムス。アンビエント作品は別名義のホワットエヴァー・ザ・ウェザーで一度発表しているらしい。今回が二作目。ブライアン・イーノ以来のアンビエントがただ単に耳触りのいい商業施設の平穏なBGMへ偽造されてしまい偽アンビエントのほうがアンビエントだと錯覚されている昨今。アルバムを通してロレイン・ジェイムスとは違った実験的な多彩ぶりを聴かせる。


Blog21・「同時代ゲーム」と《神話的な性》1

2025年03月30日 | 日記・エッセイ・コラム

柳田國男から三箇所。

 

(1)「山に走り込んだという里の女が、しばしば産後の発狂であったことは、事によると非常に大切な問題の端緒かも知れぬ。古来の日本の神社に従属した女性には、大神の指命を受けて神の御子(みこ)を産み奉りし物語が多い」(柳田國男「山の人生」『柳田國男全集4・P.93』ちくま文庫 一九八九年)

 

(2)「イチは現代に至るまで、神に仕える女性を意味している。語の起りはイツキメ(斎女)であったろうが、また一の巫女(みこ)などとも書いて最も主神に近接する者の意味に解し、ーーー公の制度としては斎女の風は夙(つと)に衰えたけれども、なお民間にあっては清くかつ慧(さか)しい少女が、あるいは神に召されて優れたる御子を産み奉るべしという伝統的の空想を、全然脱却することを得なかったのかと思う」(柳田國男「山の人生」『柳田國男全集4・P.171』ちくま文庫 一九八九年)

 

(3)「かつては狼をただちに神と信じて、畏敬祈願した時代があって、その痕跡は数々の民間行事、ないしは覚束(おぼつか)ない口碑の中などに、辿(たど)ればこれを尋ね出すことができるわけである」(柳田國男「山の人生」『柳田國男全集4・P.169』ちくま文庫 一九八九年)

 

柳田國男は「狼あるいは大神」についての民話・伝承。大江は「狼」ではないが「ヤマイヌ」として次のように書いている。

 

「たとえばきみが、ヤマイヌに性器を咬(か)まれた出来事の記憶がある。僕は大学に入ることまで、睾丸(こうがん)に鈍い痛みを感じては、これは『死人の道』の傍(そば)に住むヤマイヌに咬まれた、あの時の傷痕が奥深くに後遺症として残っているのだと感じたものだ。妹よ、きみがむきだしの下半身を血だらけにして、というのもきみにあたえられているわずかな衣類を血で汚すことを惧(おそ)れて着物を尻はしょりして、憐れにもそろそろと摺(す)り足で谷間に降りてきた時、幼女ながらきみは、谷間と『在』のすべての男たちに鋭い戦慄(せんりつ)をあたえた。そしてその戦慄に始って、それから十年たちそれでもまだ十四、五のきみがわれわれの土地の性的中心になるという、考えてみれば不思議な出来事の遠い根がつくられたのだ」(大江健三郎「同時代ゲーム・P.123」新潮文庫 一九八四年)

 

「妹」の神格化は明らかだろうと思える。なぜそうしたのか。大江は「僕」と「妹」とは双子の「兄妹」だということを何度も繰り返している。「兄妹」の性交から宇宙が始まるという民族建国神話は世界中に幾つもあるということを考えてみると、「妹」との近親相姦を匂わせつつ、しかし多岐に渡っていく回路として「僕」の「父=神主」と「妹」との関係について物語られる余地が出現する。ところで父=神主は「壊す人」のことをどのように捉えていたのか。二箇所。

 

(1)「生涯最晩年の《壊す人》はまったく無頓着であった。森の言葉、谷の言葉ともいうべき、盆地全体との交感に役だつ言葉のみを理解するようであったのだ」(大江健三郎「同時代ゲーム・P.184」新潮文庫 一九八四年)

 

(2)「もし谷間と『在』の人間との言葉よりも、盆地の上辺から谷間へ突出する山稜、その勢いに対応して盆地の下辺を閉じるようにせりだす両山腹、それらの全域を閉す森の、地形学的な全構造と通いあう言葉を優先させる《壊す人》に対してなら、かれとの相互理解の道を開くには、あらためて人間の言葉をかれに回復させるようつとめるより、人びとが盆地の地形の表現する言葉の読みとりにつとめるのが早道である」(大江健三郎「同時代ゲーム・P.184」新潮文庫 一九八四年)

 

そして工藤庸子はこう繋げる。

 

「父=神主は、《聖なるもの》の顕現といかに相対していたか?前項でふれたように、孤独な生活を送る《壊す人》は、やがて人間の言葉を忘れてしまい、《森の言葉、谷の言葉ともいうべき、盆地全体との交感に役だつ言葉のみを理解するようであった》とされる。つづく断章には、盆地と山稜の全域を閉ざす森の《地形学的な全構造と通いあう言葉》を優先する《壊す人》との《相互理解の道》を開きたいのであれば、人びとは《盆地の地形の表現する言葉の読みとり》につとめるべきだ、という指摘があり、父=神主の仕事がつぎのように想起される」(工藤庸子「文学ノート・大江健三郎(最終回)」『群像・7・P.95』講談社 二〇二四年)

 

さらに「村=国家=小宇宙」の「森」の中での「父=神主」の振る舞いについて。二箇所。

 

(1)「その時期からいかにも永い時が流れた後、かれ自身は他所者ながら村=国家=小宇宙の神話と歴史の伝承蒐集に生涯をついやした父=神主は、一時期、真夜中に、『死人の道』へ登ってゆき、咆哮して歩き廻ることで、《壊す人》の言語の側に入ってみることがあった模様なのだから。それゆえにこそ父=神主は、『穴』に冬眠するキノコのようなものとしての《壊す人》と交感し、かれが幼女のころから《壊す人》の巫女としようとしたきみの、ほかならぬ《鞘》によるその回復を実現しえたのだと僕は思う」(大江健三郎「同時代ゲーム・P.184」新潮文庫 一九八四年)

 

(2)「それらの横穴のいくつかは、『在』のはしっこい子供らにはよく知られていたのでもあった。それというのも、われわれがヤマイヌと呼んでいたところの凶々(まがまが)しい獣、妹よ、きみの性器を咬んだやつだが、それが絶滅したはずのニホンオオカミなのか、あるいは野生に戻った犬にすぎぬのか、ともかくもそいつらがそこを根城に群れをなして住み、繁殖を続けてもいる『穴』のことを、噂(うわさ)としてはよく聞いていたから」(大江健三郎「同時代ゲーム・P.131~132」新潮文庫 一九八四年)

 

工藤庸子はこう論じる。

 

「父=神主は、前項で見たように、人並みはずれて大きく頑丈な躰軀、《外国主の大型の犬》に似て大ぶりの角ばった造作の顔を持ち、しかも獣のように《咆哮》するという。ヤマイヌに似ているということ?ーーーそれに『死人の道』へ登る斜面の高みには多くの横穴があり、ヤマイヌがそこを根城に群れをなし繁殖を続けていることは、子供らにも知られていた。《地形的》には、その辺りが《壊す人》と父=神主の交感の場となっていたのだろうーーーそれはそれとして『僕』の妹の妊娠・出産は、実の父親との『近親相姦』によるものか?それとも動物である山神との『異類婚姻』の例なのか?おそらく結論しようとすること自体が無意味なのであり、そうした二者択一とは無縁に、全体をヴェールに包みこむような具合に、《神話的な性》の様ざまのあり様ということが想像されるのだと思う」(工藤庸子「文学ノート・大江健三郎(最終回)」『群像・7・P.95』講談社 二〇二四年)

 

「『僕』の妹の妊娠・出産は、実の父親との『近親相姦』によるものか?それとも動物である山神との『異類婚姻』の例なのか?おそらく結論しようとすること自体が無意味なのであ」る。そもそも大江自身、ヤマイヌかオオカミかということを端から問題にしていない。それより「二者択一とは無縁に、全体をヴェールに包みこむような具合に、《神話的な性》の様ざまのあり様ということ」へ頭を置き換えることのほうが断然重要だろうと。「《神話的な性》の様ざまのあり様」が多元的に語られ得るということが大事なのだ。


Blog21・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて1113

2025年03月30日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

読書再開。といっても徐々に。

 

節約生活。

 

午前五時に飼い猫の早朝のご飯。

 

体操の後、アンビエント、エクスペリメンタル、ポップ、ジャズを中心に飼い猫がリラックスできそうな作品リスト作成中。

 

Alva Noto&Ryuichi Sakamoto「Noon」

猫は窓辺で外の景色を眺めている。「Noon」のミニマルな音響は十分を越える。そして何事も起こらない。しかし実際のオフィスではノイズに聴こえない作業音が曲のなかではグリッチ=ノイズに聴こえる。ピアノがノイズではないから電子音がノイズに聴こえてしまうという無邪気な比較はまったくの的外れでしかない。逆にこの曲でピアノはグリッチノイズを欲している。そもそもピアノはノイズではないなどという風評の垂れ流しに加担してきたのは誰なのだろうか。それにしてもこの静寂をどう言えばいいのだろうと想いはするもののむやみに言語化するのを控えるよう曲は語りかける。だが少なくともいわゆる「成熟」とは何の関係もない。むしろ逆にますます先鋭化していく当時の二人の背中を見ていた記憶がよみがえってくるのだ。