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白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・可能性としての「移動」

2025年04月14日 | 日記・エッセイ・コラム

出稼ぎ労働者のエチオピア人女性。その経験は何を教えてくれているか。連載最終回で松村圭一郎は何人かの印象的な言葉を再び取り上げている。

 

アンバルの言葉。

 

「『そんなことないわよ!嘘よ。私がここで病気になって寝ていても、誰も心配なんかしてくれないわ。働いて懐にお金があってこその話よ』」(松村圭一郎「海をこえて(4)」『群像・11・P.348』講談社 二〇二三年)

 

アンバルはエチオピアの村にいる家族のいうことは「嘘」だと家族の目の前でいう。女性たちがどんな生き方を選ぶかは女性たちが決める。エチオピアの村の中にいるかぎり男性の思い通りに動かされて終わるばかりだという現実を指摘している。

 

次にラザの言葉。夫に帰国するよう迫られて帰ってはみたものの。また海外へ出稼ぎに「行きたい気持ちはある」と述べる。

 

「『行きたい気持ちはある。ディノに三輪タクシーの一台でも買えたらよかったんだけど。うちにはコーヒーの土地もないし。土地があれば問題なかったのに。ディノは貧しいからねーーー』」(松村圭一郎「海をこえて(3)」『群像・9・P.479』講談社 二〇二三年)

 

村に戻ってみても「夫はラザを養ってくれるわけではない」。逆に夫は「ラザが養っていかねばならない存在」なのだ。夫が怪我をしたとかそういうことではまるでない。エチオピアの大都市中心部のほんの一部は別として、そうではない大変多くの村の伝統的生活というのはものの見事なまでの家父長制であり夫たち男性が家族を養うことができなくても家父長制であり続けているという転倒した社会だ。

 

さらにウバンチの言葉。海外での出稼ぎ労働はもう十五年以上になる。ウバンチもエチオピアの村のなかにいては思いも寄らなかった生き方を見出した。

 

「『お店でも、仕事でも、何か自分で生活できる確信を得てからじゃないと、結婚は考えられない。ーーーそれは働くわよ。平等がいい。私が起きて食事の準備をしたら、夫が家の掃除とか、ベッドを整えたりする。だから仕事から帰ってきたら、家がきれいになっているの。あとは座って夕食を食べるだけね。私だけが働いて、家のことは全部、夫にやってもらってもいいわ』」(松村圭一郎「海をこえて(13)」『群像・10・P.481』講談社 二〇二四年)

 

いずれの女性も出稼ぎ労働をはじめたとたんに性格やライフスタイルが急変したというわけでは全然ない。連載を通してみてきたわけだが本人も家族もかなり葛藤を抱えている。しかし「変化」した。「変化」は何によってもたらされたのか。「移動」である。

 

松村圭一郎はグレーバー+ウェングロウ「万物の黎明」から引用する。失われたものとは何か。「移動の自由」。

 

「じぶんの環境から離れたり、移動したりする自由」(グレーバー+ウェングロウ「万物の黎明・P.570」光文社 二〇二三年)

 

たとえば北米最大の都市だったカホキア。「暴力的統治、知の統制、カリスマ的政治」の三位一体が頂点に達した十五世紀頃、瓦解した。

 

「どのような要因の結合があったにせよ、一三五〇年ないし一四〇〇年頃には大量の離反が発生した。カホキアの大都市は、多様な人びとを、しばしば遠距離から集める支配者の力能と通して築かれた。こんどは逆に、それらの人びとの子孫が、端的に立ち去ってしまったのである。『空白地帯』は、カホキアの都市が象徴していたすべてのものの自覚的拒絶を意味している。とすれば、なぜそうなったのだろうか?カホキア臣民の子孫たちのあいだでは、移住は社会的秩序全体の再構築を意味すると考えられていた。そこでは、離脱すること、服従しないこと、あたらしい社会的世界を構築することという、わたしたちの三つの基本的な自由が、単一の解放のプロジェクトに統合されているのである」(グレーバー+ウェングロウ「万物の黎明・P.533」光文社 二〇二三年)

 

こう言い換えることができるだろう。

 

「わたしたちがいま社会運動(ソーシャル・ムーヴメント)と呼んでいるものは、多くのばあい、[この時代には]文字通りの物理的移動(フィジカル・ムーヴメント)というかたちをとっていたのである」(グレーバー+ウェングロウ「万物の黎明・P.534」光文社 二〇二三年)

 

ケアの関係について。様々な形が考えられるにもかかわらず「人類」が「喪失した」ものとは何か。

 

「たがいに関係し合う方法を自由に再創造(リクリエイト)することによってみずからを再創造するという能力を、人類がどうして喪失したのか」(グレーバー+ウェングロウ「万物の黎明・P.581」光文社 二〇二三年)

 

さらに「なにかがひどくまちがっていたとしたら」としてグレーバーらは次のように問いかけている。

 

「人類史のなかで、なにかがひどくまちがっていたとしたらーーーそして現在の世界の状況を考えるならば、そうではないとみなすのはむずかしいのだがーーー、おそらくそのまちがいは、人びとが異なる諸形態の社会のありようを想像したり実現したりする自由を失いはじめたときからはじまったのではないか」(グレーバー+ウェングロウ「万物の黎明・P.569」光文社 二〇二三年)

 

また以前引用した箇所だが、昨今の考古学的な知見をかんがみて、ほんの「例外」に過ぎないとされてきたことが長いあいだに硬直し「規則」と化してしまっていた「通例」をどんどん押し退けていっていることに触れておく必要があるだろう。

 

「複雑さはいまだ、往々にしてヒエラルキーの同義語として使われている。いっぽう、ヒエラルキーとは指揮命令系統(『国家の起源』)の婉曲語法である。つまり、大量の人びとがひとつの場所に住み、共通のプロジェクトに参加することを決めた瞬間、かれらは必然的に第二の自由、すなわち命令を拒否することを放棄しなければならず、そのかわりにたとえば、命じたことをしない者を殴ったり監禁したりする法的機構を導入しなければならない、というわけだ。

 

これまで見てきたように、これらの仮定はいずれも理論的に必要不可欠というわけではないし、歴史がそれを裏打ちしていないこともしばしばである。鉄器時代のヨーロッパの専門家である人類学者キャロル・クラムリーは、自然であれ社会であれ、複雑なシステムがトップダウンで組織される必然性はないと長年指摘してきた。ところが一般的にはそのようには考えられていない。おそらくそのような態度は、研究対象についてよりも、わたしたち自身のありかたをより多く語っているといえる。このような指摘をしているのは彼女だけではない。しかし、たいてい、このような意見はだれの耳にも届かないのである。

 

そろそろ、耳を貸すべきときだろう。というのも、『例外』が急速に『規則』を上回りはじめているからである」(グレーバー+ウェングロウ「万物の黎明・P.582~583」光文社 二〇二三年)

 

「移動」することは「問題」だろうか。むしろ「移動」を「可能性」として捉えるべき時期に入っていることは確かだとおもえる。


Blog21・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて1128

2025年04月14日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

読書再開。といっても徐々に。

 

節約生活。

 

午前五時に飼い猫の早朝のご飯。

 

体操の後、アンビエント、エクスペリメンタル、ポップ、ジャズを中心に飼い猫がリラックスできそうな作品リスト作成中。

 

Alva Noto&Ryuichi Sakamoto「Pionier IOO」

猫は窓辺で外の景色を眺めている。そこはまだメインストリームではなくメインストリームになることもなくメインストリームというものがもはや急速に空洞化しつつある世界へ潜り込んでしまったに過ぎない。中心の消滅。そのような事態について意識的である音の重なりや連なりや離脱を演じることはどこまでも脱中心的であり半ば予想される空虚の中で意外な断片と出会いつつ何らかの新しい揺らぎを発生させてしまうことになってしまうかもしれない。そこで引き起こされる新らしい揺らぎがただちに中心から遠ざかるにしても。


Blog21・二代目タマ’s ライフ531

2025年04月13日 | 日記・エッセイ・コラム

二〇二五年四月十三日(日)。

 

早朝(午前五時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。

 

朝食(午前八時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。

 

昼食(午後一時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。

 

夕食(午後六時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。

 

タマね、アラブのことわざ見つけてきた。昔からあるらしいけど今ではアメリカ大統領さんのことを揶揄する言葉としてもこっそり言われてたりするみたいだよ。

 

ん?それだけじゃわかんないなあ。どんなテーマだった?

 

なんでもね、正義をふりかざすネズミさんの話だって。

 

それか。言われてみればあったな。多分イギリスとかの英語圏でも通じるあれだ。“The violence of a cat is better than the justice of a mouse”直訳すると「ネズミの正義よりも猫の乱暴のほうがマシ」ってこと。

 

あはは、外国でも猫とネズミってコンビで出てくるんだね。

 

ちょっとひねったところだとね、例えばフィンランドでは猫とおばあさんのコンビで面白い喩えがあるよ。「おばあさんは猫でテーブルを拭きながら言った」という話。

 

猫の身としては時々モップに使えそうって聞くからありえないことじゃないかも。けどそれってどんな意味?

 

英訳だと“There are many ways to do it”日本語訳だと「やり方はいくらでもある」ってこと。

 

黒猫繋がりの楽曲はノン・ジャンルな世界へ。エリオット・ギャルヴィン。何をやっているのか何がしたいのか。よくわからない音楽が世の中には溢れかえっている。ところがやっている本人たちは意外なところで知り合いどおしということがこれまた多い。音楽学校というのは世界中にたくさんあってそこで知り合り意気投合してセッションを二、三度やったことはあるというケースを数えるとおそらく無数にある。たぶんリスナーの側に情報が行き渡っておらず結果的にあまりに知らなさ過ぎるという現象を引き起こしているのかもしれない。UKのジャズシーンでは以前から名前を知られていたエリオット・ギャルヴィンだが今作の紹介を見たときはまだ二月頃でYou Tubeでも二曲しか検索できずにいたがようやくアルバム全曲が聴けるようになったようだ。で、二曲しか聴けなかった時点でとっさに脳裏をかすめたのはデビューしてすぐ一体何がしたいのかさっぱりわからんと一般リスナーからほとんど顧みられなかったセロニアス・モンクの横顔。モンクの音楽はジャズということになっているが今なお抵抗感なしに聴くことができないリスナーは数多い。ところがモンク登場と同時にその可能性にいち早く気づき「ラウンド・アバウト・ミッドナイト」という楽曲へ変奏して引っ張り出したジャズ・ジャイアンツのひとりがマイルス・デイヴィスだったということは誰もが知っている。だから決してわかりやすい音楽ではなく、ジャズ黄金時代ではさらにない昨今、むしろ暗く重いとさえ感じるリスナーがいることも承知の上でエリオット・ギャルヴィンがなぜこの音を選んだのか。考えたい。


Blog21・「同時代ゲーム」・《壊す人》を殺すこと/殺した《壊す人》をみんなで食べること

2025年04月13日 | 日記・エッセイ・コラム

「同時代ゲーム」に出てくる「壊す人」は殺されなくてはならなかった。そして村=国家=小宇宙の構成員によって食されなければならなかった。「僕」はそう手紙に書いている。二箇所。

 

(1)「妹よ、谷間の共有地の広場に建てられた納屋にあらためて暮すようになった《壊す人》を、やはり永い時がたつうちに、暗殺してしまいたい、しかももう決して再生しては来ぬかたちでそれをしたい、と希求する者らがあらわれた。その理由はといえば、ただ『不死の人』の発散する重い威圧感に耐えかねてのことだった。それだけにこの恐しい希求を共有する者らは多かったのだ。そして実際に《壊す人》は暗殺され、谷間と『在』のあらゆる人びとが、再び《壊す人》がよみがえらぬようにと、あるいはひとりの巨人化した人間としてよみがえってくるのではなく、この閉じた盆地の人間みなのうちに共有されてよみがえるようにと、死んだ《壊す人》の肉体を、人数分に切りわけて、老人から赤ん坊までがみなその一片ずつを食ったのである」(大江健三郎「同時代ゲーム・P.193~194」新潮文庫 一九八四年)

 

(2)「その勇ましい《壊す人》の死体の肉を、谷間と『在』に生きているかぎりの、すべての人びとが喰った。乳飲児はそれを生のまま磨(す)りおろして、肉汁として飲まされたし、歯のない年寄は、それを歯茎(はぐき)で噛(か)みにかみ、柔らかくして嚥(の)みくだした。《壊す人》の躰が巨人化していたことは確かだが、谷間と『在』のすべての人びとにそれが分けられたのだから、ひとりあたりがたいした分量であったわけではないだろう。それでも人びとは永い時間をかけて、いかにも念入りに《壊す人》の肉を喰ったのだ。日のある間は、すべての人びとが屋内にこもらず道端に立って、隣人が《壊す人》の肉を喰うのを見つめながら、自分も割りあてられた《壊す人》の肉をすこしずつ喰っていた。ひとつの伝承では、『不死の人』たる圧制者の《壊す人》を斃(たお)した歓びに燃え立ちながら、その歓びの時をさらに引きのばすために、チューインガムでも噛むようにしてその肉片をあじわいつづけたということだ。その行為には、《壊す人》の巨人化した力を、自分の肉と血のうちにとりいれたいという始原的な願いの裏打ちがあったのでもあろう」(大江健三郎「同時代ゲーム・P.201~202」新潮文庫 一九八四年)

 

大江が参照したのは明らかにJ.G.フレイザー「金枝篇」に収集された古代信仰だろう。四箇所。

 

(1)「偉大な目に見えない神さえ死ぬと考えられている以上、人間の肉体や血液の中に住まう神が、死という運命を免れていると考えられるわけもない。さて、すでに見たように、未開人の人々はときとして、自らの安全と、さらにはこの世の存続さえも、人間神もしくは神の化身である人間の生命に、結びついていると信じている。それゆえ当然のことながら、彼らは自らの生命を守るために、その人間神の生命維持に最大限の配慮をする。だがどれほど世話をやき予防措置を取ろうとも、人間神が年を取り、弱り、果ては死んでしまうことを、防ぐことはできない。崇拝者たちはこの悲しい必然性に対して覚悟を決め、最善の努力をしてこれに向き合わなければならない。危険は恐るべきものである。つまり、自然の成り行きがこの人間神の生命にかかわっているのであれば、彼の力が徐々に弱まり、最後には死という消滅を迎えることには、どれほどの破局が予想されることだろうか?これらの危険を回避する方法はひとつしかない。人間神が力の衰える兆しを見せ始めたならばすぐに、殺すことである。そうして彼の魂は、迫り来る衰弱により多大な損傷を被るより早く、強壮な後継者に移しかえられなければならないのである。こうして人間神を、老齢や病で死なせる代わりに殺してしまう。このほうが好都合であることは、蛮人たちにしてみれば明らかである。というのも、人間神がいわゆる自然死によって死んでしまえば、蛮人たちから見てそれは、彼の魂が、自らの意志でその身体を離れ、帰還を拒絶していることを意味するからである。あるいはまた、少なくとも、それが彷徨っている間に拘留されてしまったことを意味する。いずれにせよ人間神の魂は、崇拝者たちからは失われたことになる。そしてその魂とともに、彼らの繁栄は過ぎ去り、彼らの存在自体が危うくなる。たとえ彼らが、死にゆく人間神の魂を、口や鼻から出てきたところを捕らえ、後継者の中に移しかえたとしても、彼らの目的を遂げることにはならない。なぜなら、そのように病で死にかけている以上、魂は衰弱と消耗の最終段階にある身体から、必要にかられて去って行くのであり、ならばそのような魂は、移しかえられた別の身体にも、虚弱な存在を持ち込んだままでい続けることになるからである。これに対して、殺してしまえば、まず第一に崇拝者たちは、逃げ出す魂を確実に捕らえ、適切な後継者にしかと移しかえることが可能になる。そして第二に、人間神の持つ自然力が衰える前に彼を殺すことで、崇拝者たちは、人間神の衰弱で世界が衰退するという危険を、確実に排除できるのである。それゆえすべての目的は適えられる。人間神を殺し、その魂を、まだ盛時のうちに強壮な後継者に移しかえることにより、あらゆる危険は回避される」(フレイザー「金枝篇・上・第三章・第一節・P.301~303」ちくま学芸文庫 二〇〇三年)

 

(2)「クレタ島人たちは、ディオニュソスの受難と死を表象するときには、生きた牡牛を歯で引き裂いた。実際、生きた牡牛と仔牛を裂きむさぼり食うことが、ディオニュソスの祭儀の不変の特徴であったように思われる。この神を牡牛の姿、もしくはなんらかの牡牛の特徴を備えた姿で表す習慣、聖なる儀式において彼は牡牛の姿で崇拝者たちの前に現れるという信仰、そして、彼は牡牛の姿で引き裂かれたという伝説ーーー、これらの事実をすべて重ね合わせてみれば、ディオニュソスの祝祭で生きた牡牛を裂きむさぼり食う崇拝者たちが、自分たちは神を殺し、その肉を食い、その血を飲んでいるのだと信じていたことは、疑いを容れない」(フレイザー「金枝篇・上・第三章・第七節・P.446」ちくま学芸文庫 二〇〇三年)

 

(3)「ここでわれわれに関係があるのは、アイヌの熊の祭り〔いわゆる『イオマンテ』、『熊送り』を指す〕である。冬の終わりになると、彼らは幼い熊を捕らえて村に連れてくる。最初はアイヌの女が乳を与え、その後は魚が与えられる。強い大人の熊に育ち、入れられている木の檻を壊す恐れがあるほどになると、祭りが催される。しかし『とりわけ驚かされるのは、幼い熊が単に上質の食べ物を与えられるのみならず、呪物として、あるいはむしろ、一種の高次のの存在として扱われ、崇められている事実である』。祭りは一般に九月か十月に行われる。その前にアイヌたちは神々に謝罪し、これまでこの熊を可能な限り大切に扱ってきたが、もはやこれ以上食事を与えることはできず、殺さざるを得ない、と申し立てる。熊の祭りを行う男は親戚や友人を招き、小さな村ではほとんど村人全員がこの祭りに加わることになる。このような祭りのひとつについては、ショイベ博士が目撃し、記録している。博士が小屋に入ると、およそ三十人のアイヌたちがいた。男も女も子どもも、皆盛装している。この家の主人はまず、炉で火の神に神酒を捧げ、他の客たちもこれに倣う。つぎに新酒はこの小屋の聖所で家の神にも捧げられる。その間、これまで熊を育ててきた家の主婦は、ひとり悲しみに沈んで静かに座り、ときおり涙を溢れさす。彼女の悲しみに偽りがないことは明らかであり、それは祭りの進行とともに深まるばかりである。つぎに、家の主人と何人かの客が小屋から出て、熊の檻の前で神酒を捧げる。数滴は皿に入れて熊に与えられるが、熊はすぐにこれをひっくり返す。そして主婦たちと娘たちが、檻の周りで踊る。熊の檻に顔を向け、膝をわずかに曲げ、起き上がっては爪先で飛び上がるという踊りである。踊りながら女たちは手拍子を打ち単調な歌を歌う。熊に向かって両腕を差し出し、愛情のこもったことばで呼びかける。若者たちはほとんど悲しみとは無縁な様子で、笑いながら歌を歌う。騒がしさに心乱された熊は檻の中で激しく動き回り、悲しげな遠吠えを上げる。つぎにアイヌの小屋の外に立てられている、イナウ〔神事に用いられる木製の幣束〕という名の神聖な細枝の束に、新酒が捧げられる。この枝は二フィートほどの長さで、先端は削られ、螺旋状の鉋屑のようになっている。この祭りでは、笹の葉を付けた五本の新しいイナウが立てられた。これは熊が殺されるときにはかならず立てられるものである。笹の葉には、熊が蘇るようにという願いが込められている。熊が檻から出されると、首に縄が掛けられ、小屋の周りを引き回される。この間、男たちは、ひとりの長(おさ)に先導され、先端に丸い木の付いた矢を放つ。ショイベ博士もこれに加わらなければならなかった。つぎに熊はイナウの前に連れてこられ、一本の棒が口に入れられる。九人の男が膝で抑えつけ、柱に首を押しつける。五分後に熊は声も上げずに息絶える。一方主婦たちと娘たちは男たちの後ろに立ち、嘆きながら踊り、熊を殺した男たちは打つ。つぎに熊の遺体は、イナウの前に敷かれた筵の上に置かれ、イナウの中から取り出された剣と箙(えびら)が熊の首に下げられる。熊が雌の場合、首飾りと耳輪もつけられる。そして雑穀の煮汁と雑穀の塊、および鉢一杯の酒が、食べ物と飲み物として熊に捧げられる。死んだ熊を前にして筵の上に座っている男たちは、これに神酒を捧げ、大酒を飲む。一方主婦たちと娘たちは、悲しみの跡をすっかり消し去り、陽気に踊り、老婆たちもまただれにも劣らず陽気に踊る。宴たけなわとなった頃、熊を檻から出した二人の若者が、小屋の屋根に上り雑穀の塊を皆に投げる。皆は老若男女の区別なく、これを奪い合う。つぎに熊は皮を剥がれ、はらわたを抜かれ、胴から首が切り落とされるが、このとき、皮は首のほうに残るようにする。血は椀に受けられ、これを男たちが大いにありがたがって飲む。禁じられてはいないものの、女と子どもは飲まないようである。肝臓は細かく切り刻まれて生のまま塩をつけて食されるが、これは女も子どもも食べる。肉とその他の内臓は家に持ち帰られ、翌々日まで保管されるが、その日には、宴に参加した者たち全員がこれを分け合う。血と肝臓はショベイ博士にも配られた。熊がはらわたを抜かれている間、主婦たちと娘たちは最初と同じ踊りを踊る。だが今回は檻の周りではなく、イナウの周りを踊る。この踊りで、先ほどまで陽気だった老婆たちは、再びさんざんに涙を流す。熊の頭から脳が取り出され、これが塩とともに飲み干されると、頭蓋は皮から切り離され、イナウの傍の竿に吊るされる。熊の轡(くつわ)となっていた棒もまた、竿に括り付けられ、遺体に下げられていた剣と箙も同様に竿に付けられる。後者は一時間ほどで外されるが、他はその後もそこに立てられたままになる。人々は皆、男も女もこの竿の前で騒々しく踊り、今度は女たちも加わって酒宴が始まり、これが終わると祭りも終わる」(フレイザー「金枝篇・下・第三章・第十二節・P.134~137」ちくま学芸文庫 二〇〇三年)

 

(4)「事実、神を表象する人間を殺すという風習は、メキシコにおいてほど組織的かつ大規模に行われた地はないように思われる。アコスタはつぎのように言っている。『彼らは善良と思った人間を捕虜にした。そしてこれを彼らの偶像神たちのために生贄にしたが、その前に彼らはこの生贄に、生贄が供される当の偶像神の名前を与えた。そしてその偶像神と同じ装飾をこの生贄に施し、これは同じ神を表すものである、と言った。また、この神の表象が生きている間、つまり、祝祭に応じて一年であったり六ケ月であったり、あるいはもっと短い期間、人々は彼を本来の偶像神と同じ方法で敬愛し、崇め、一方彼はその間、飲み、食い、享楽した。この生贄が街路を行くと、人々は進み出て彼を崇め、だれもが彼に施しを行い、彼が癒してくれるよう、祝福を与えてくれるようにと、子どもや病人を連れて来た。彼には一切のことが許されていたが、ただ、逃げ出さないよう十人から十二人の男が付き添っていた。また彼はときおり(通り過ぎる際に崇める者もいるので)小さな横笛を吹き、人々が彼への崇拝の準備をできるようにした。祝祭の日が訪れ、生贄が太った頃に、人々は彼を殺し、裂き、食すという、厳かな生贄を執り行ったのである』。たとえば、復活祭の頃からその数日後に当たる、大神テスカトリポカ〔アステカ族の主格神〕の毎年の祭りでは、ひとりの若者が選ばれ、一年間テスカトリポカの生きた化身として扱われた。若者は穢れのない体でなければならず、あるべき優雅さと威厳を備えた堂々たる役割を維持できるよう、入念な訓練を受けた。彼は一年間贅沢に耽り、王自らが、この未来の生贄がきらびやかな衣裳に身を包んでいるようにと気を配った。『王がすでに彼を神として崇めていたからである』。若者は、王家の仕着せを纏った八人の小姓に付き添われて、昼であれ夜であれ意のままに、花を持ち横笛を吹きながら首都の街路を歩き回った。彼の姿を見た者は、だれもがその前に跪き、彼を崇め、彼はその敬意を愛想よく受け入れた。彼が生贄にされる祝祭日の二十日前、四人の女神の名前を持つ、生まれ育ちの良い四人の乙女が、花嫁として彼に与えられた。生贄になる前の五日間、彼は神々しい栄誉をこれまで以上にふんだんに与えられた。王は宮殿に留まったが、廷臣たちは皆運命の生贄について行った。至る所で厳かな晩餐会や舞踏会が開かれた。最終日、若者は、いまだ小姓たちに付き添われながら、天蓋のある艀(はしけ)で、湖の向こう岸にある小さな寂れた神殿に護送された。これはメキシコの一般的な神殿と同じく、ピラミッド状の建造物である。神殿の階段を上る際、若者は一段につき一本、栄光の日々に咲いていた横笛を折った。頂上に達すると彼は捕らえられ、石の台盤に抑えつけられ、ひとりの祭司がその胸を、石の短刀で切り裂いた。祭司は心臓を取り出し、太陽に捧げた。首は先行の生贄たちの頭蓋とともに吊り下げられ、脚と腕は調理され、領主たちの食卓に上げられた。この若者の地位は、その後即座につぎの若者に受け継がれる。その若者もまた一年間、同様の深い尊敬の念をもって扱われ、一年の終わりには同じ運命に身を委ねたのだった。このように人間による表象を殺すことで殺された神が、今一度即座に甦るという考え方は、メキシコの儀式にはっきりと見ることができる。殺された人間神の皮を剥ぎ、その皮の中に別の生きた人間を包むと、今度はこの生きた人間が、新たな神性の表象となったのである。たとえば、神々の母トシ(Toci)を表象する女は、毎年の祭りで生贄に供された。彼女は装身具で飾り立てられ、女神の名で呼ばれる。彼女がその生きた化身と考えられている女神である」(フレイザー「金枝篇・下・第三章・第十六節・P.283~285」ちくま学芸文庫 二〇〇三年)

 

(1)は総論的な記述だが(2)(3)(4)はそれぞれ具体例として上げられている。そのなかで注目されるのがディオニュソス祭では「聖なる儀式において彼は牡牛の姿で崇拝者たちの前に現れる」、あるいはトーテムの場合なら「熊は皮を剥がれ」るといった共通点。

 

後に「取り替え子」(チェンジリング)で描かれるシーン。

 

「それは古義人に、アレの過程で錬成道場の若者らにやられたことを思い出させた。古義人と吾良が不安定な高い台に腰を掛けていた、その背後から、畳一枚ほどの大きさの、剥いだばかりの仔牛の皮が押っかぶせられた。重く厚い濡れた膜(まく)に覆(おお)われて呼吸ができず、両腕の自由はないまま、恐慌にかられて足を蹴りたてるのみだったーーー 吾良の身体がもがきたてる勢いを失って古義人の胸倉(むなぐら)に倒れ込んで来た後で、やっと仔牛の皮は取り除かれた。酔った若者たちの笑い声に囲まれて、獣の血と脂と自分の涙を拭い取った古義人が、気絶しているのかと脇にじっとしている吾良を覗き込むと、不機嫌な幼児のような眼がゆるゆると見開かれたーーー」(大江健三郎「取り替え子(チェンジリング)・P.226~227」講談社文庫 二〇〇四年)

 

一度はわかったと思っていたのだが、また別の問いかけがなされてくる。かつては「死と再生」といって済ませてしまっていた。しかしそれだけではあまりに単純すぎる手続きではなかったかと。あるいはもっと他の人間の手へ繋がっていき、いまやがらりと姿形を取り換えているかもしれないと。


Blog21・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて1127

2025年04月13日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

読書再開。といっても徐々に。

 

節約生活。

 

午前五時に飼い猫の早朝のご飯。

 

体操の後、アンビエント、エクスペリメンタル、ポップ、ジャズを中心に飼い猫がリラックスできそうな作品リスト作成中。

 

Alva Noto&Ryuichi Sakamoto「MicroonⅡ」

 

猫は窓辺で外を眺めている。ピエロの姿はどこを探してもなかなか見えてこない。けれども翻って見せる跳躍が聴こえる。それにしてもピエロがこんなに律儀であっていいのだろうか。と、まあ、そんな心もとないイメージが断片的に紡がれていく。しかし演じることをまったく知らないピエロがいるとして、その見ぶりを安心して見ていることが誰にできるだろうか。シンセは一貫して重く分厚い。それがなかったらピエロの落下を見とどけることになるのかもしれない。