白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて1069

2025年02月16日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

読書再開。といっても徐々に。

 

節約生活。

 

午前五時に飼い猫の早朝のご飯。

 

体操の後、エクスペリメンタルやインダストリアルを中心に飼い猫がリラックスできそうな作品リスト作成中。

 

Autechre「Rpeg」

0:27からぬめり気を帯びた水音がドリュリュルルルと何度も繰り返し打ち込まれる。猫は慣れた様子で窓際へ移動して外の景色を眺めている。ベースのリズムは変則性がないぶん柔らかなゴロゴロ音よりずっと硬く感じる。しかしこの硬さはひょっとすると遠くアフリカのこだまでもあるのだ。


Blog21・二代目タマ’s ライフ474

2025年02月15日 | 日記・エッセイ・コラム

二〇二五年二月十五日(土)。

 

早朝(午前五時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。

 

朝食(午前八時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。

 

昼食(午後一時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。

 

夕食(午後六時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。

 

どうしたタマ?

 

えへへ、「玉」にもいろんな意味があるんだなあって思ってたらうとうと昼寝しちゃってた。で目が覚めたらふいに思い出したんだ。「お年玉」。どう?

 

ははは、その昔は「御歳魂」と書いて「おとしだま」といったらしいけどよくわからない。年に一度子どもに「魂」というか「気合い」というか、そんなのを込め直してほしいって大人の願望があったんだろう。けど「お年玉」の中身がお金になったのはごく最近のことで戦後十年以上経って貨幣が行き渡りだした頃からかな。

 

タマとしては現物支給で構わないよ。おもちゃとかキャットフードとかだし。

 

現物支給かあ。ちなみに小林一茶がこんな句を読んでる。

 

「雪とけて村一ぱいの子ども哉」(「一茶俳句集・P.202」岩波文庫 一九九〇年)

 

一茶さんって子どもにも猫にもとっても愛情たっぷりなのかあ。この前「くいくい猫の鼾(いびき)かな」って教えてくれたの覚えてるよ。

 

十歳くらいの時すでに世の中を見切ったようなところがある。話が複雑だからまた暇なときに教えてあげるよ。それはそれとしてタマはこのブログのタイトルになんで「庵」って付けたのって聞いてただろ。一茶にも「庵」を入れた句があるんだ。

 

「野はかれて何ぞ喰(くひ)たき庵(いほり)哉」(「一茶俳句集・P.76」岩波文庫 一九九〇年)

 

むむむ、これまた寒そうだなあ。

 

黒猫繋がりの楽曲はノン・ジャンルな世界へ。エセル・ケイン。ジャンル化すればダーク・アンビエントということになるのだろう。現実がホラーを越えてしまっている世界でもしホラー映画がまたひとつ作成されたとしよう。その映画音楽が今や日常化した現実のホラー性に揺さぶりをかけるほどの音楽になり得るかどうか、おそらく無理なのではという諦観ただよう昨今。そこで映像はいったん別として、現実生活の開き直った明るすぎる暴力的ホラー政治が横行する中で、大人たちのマッチョでありながら時おり無防備な首筋にオルゴールを持った無表情な幼児が背後からチーニングの壊れた音でじわじわ疵を刻みつけ次第に内部から滲み出てくる痛みを浸透させつつ、ホラー化した現実に微々たるものだとはいえ確かに違いのあるダークな世界のことを思い出してはくれまいかと耳を傾けさせる方法についてこのごろ考えていた。できるとすればありふれたゾンビではなく幽霊的なもの。明瞭なノイズではなく息も絶えだえに擦れ去っていく廃墟のリヴァーブ。


Blog21・男女二元論バブルの終焉

2025年02月15日 | 日記・エッセイ・コラム

三宅香帆は引用する。

 

「あれはたぶん子供の名前をつけることで、私と夫の母親がいさかいのようなものをした時からだったと思う。夫の母は宗教みたいなのに凝っていて、そこで名前を『いただいて』きたのだ。どんな名前だったかは忘れたが、でもとにかく私はそんなものを『いただく』気はなかった。それで私と姑はかなり激しく言い合いをした。でも夫はそれに対して何も言えなかった。ただ隣で私たちをなだめているだけだった」(村上春樹「眠り」『TVピープル・P.198』文春文庫 一九九三年)

 

このようなシーンは現実の日常生活からもう消え失せただろうかと言えばそんなことはなく、残っているところでは相変わらず、けしからぬほどぬけぬけと残り居着いてしまってさえいる。村上春樹は「宗教」と書いているが「家父長制」へ置き換えればわかりやすい。けれども「家父長制」とだけ言ってしまうと単純素朴すぎるというかいきなり言葉ばかりが大きすぎるというか、ともかくこぼれ落としてしまう微粒子のような要素があまりにも多い。そこへ読者の目を持っていこうとすれば面倒でぐねぐね曲がりくねった手法ではあっても「小説」が有効だろうとはおもう。その種の事情が変わらない限り、むしろネット普及期を経て新しくなおかつさらに混み入りつつ増殖し始めている以上「小説」は必要とされるだろう。「小説」に見切りをつけた人々が漫画、アニメ、映画などへ流出し出したのも一九九〇年代後半から二〇一〇年代前半にかけてという事情も込みで。

 

三宅香帆が上野千鶴子の論を引きつつ述べる《「私」は外へ出た、「と思ったが問題」》とでもいうべきもの。それは一九八〇年代後半一杯をかけて確かに存在した。出たら出たで今度は新しく作るところがないという鉄の掟。

 

小説の終わりのほうにこうある。

 

「私はあきらめてシートにもたれ、両手で顔を覆う。そして泣く。私には泣くことしかできない。あとからあとから涙がこぼれてくる。私はひとりで、この小さな箱に閉じ込められたままどこにも行けないのだ。今は夜のいちばん深い時刻で、そして男たちは私の車を揺さぶりつづけているのだ。彼らは私の車を倒そうとしているのだ」(村上春樹「眠り」『TVピープル・P.210』文春文庫 一九九三年)

 

男女二元論が動かしようのない前提になっているとこのような悪夢的シーンと向き合い続けるほかなくなる。

 

「男たちは私の車を揺さぶりつづけているのだ。彼らは私の車を倒そうとしている」

 

というような場合「男たち」が持つ「一般的」価値観にそぐわなければ女たちのひとり=「私」は抹殺されるか精神病院の鉄格子の中へ放り込まれるしかなかっただろう。

 

ところでニーチェは「一般的」価値観に上手く収めることのできないケースを「反語」としてあげている。一般的に平均的な「女性」よりも小柄な男の存在について。「小柄な男の存在は女にとって永遠の反語である」ということを言っている。ちなみに、幼稚園、小学校、中学校、高校、大学と一貫して、一番小柄な女子よりいつも身長が低かった立場からすれば、男女二元論は常にあまりに粗雑な議論にしか見えなかった。

 

大学生になってもまだ男といえば女より常に体が大きく体力もあり声にも力があり、例えば抗議デモのような体力勝負という事態ではいつも男に頼るほかなくなるか弱い存在たる女はーーーという粗雑この上ない議論が「平均的な男女の間だけ」で延々続く。大学へ行ったら行ったで自分のように女子学生より常に小柄な男の存在は「いる」か「いない」かではなく周囲の議論のなかで「出現する(いる)」こともあれば「消滅する(いないとされる)」こともある宙ぶらりんな世界を浮遊していた。主体性というものは何やらどろどろと変容するものであって、世界によってあらかじめ設定されたり設定解除されたりと自分の知らないところで手前勝手に加工=変造されているのだと繰り返し目撃しない日はないのだった。


Blog21・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて1068

2025年02月15日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

読書再開。といっても徐々に。

 

節約生活。

 

午前五時に飼い猫の早朝のご飯。

 

体操の後、エクスペリメンタルやインダストリアルを中心に飼い猫がリラックスできそうな作品リスト作成中。

 

Autechre「TM1 open」

曲の最初からベース音が同じリズムを単純に反復させる。幾つかの電子音が折り重なるうちに0:58付近でクチュクチュという水とスライムを混ぜたような猫好みの音がバリエーションを展開。たまたまオウテカを聴いて始めて反応を示したゴロゴロ音やグルルル音とまあまあ近く今やいつもの遊びの始まりとして捉えている。パソコン机に乗って一度キーボードの前で横たわり飼い主の作業を停止させたあと窓際へ移動して外の景色を眺めだす。二階の窓から景色を眺める時間がこのところ徐々に長くなった。7:58くらいから8:46にかけてテンポよくリズムを打っていたベース音は消える。ラスト二分ではコントラバスのようなベース音が四分の一の速度で打たれるなかを時々金属加工音がランダムに響く。それと窓外の景色をじいっと眺める猫の姿はどこか絵になりそうに見える。だが絵にするとしたら音はどのように描かれるべきだろうか。


Blog21・二代目タマ’s ライフ473

2025年02月14日 | 日記・エッセイ・コラム

二〇二五年二月十四日(金)。

 

早朝(午前五時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。

 

朝食(午前八時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。

 

昼食(午後一時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。

 

夕食(午後六時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。

 

来週からまた寒くなりそうってテレビで言ってたんだけどさ、飼い主。

 

らしいね。

 

この前はお家の前の道路にもうっすら雪が積もってたよ。

 

滋賀県でもここらへんはあんまり降らないんだけどね。それがなぜかタマが暗いうちから早朝にかけて遊び始める時間帯くらいだったか、ちょうど真夜中から明け方にかけてかなり冷えたな。

 

また降るの?こないだはどっちかっていうと暴風雨みたいな風の轟音にびっくりしちゃった。

 

だったね。東北では例年になく激しかったようだ。ここらへんでも雪になるかどうかはわからないけど風の轟音はびびるだろ?雪だけならまだしもここ数年の暴風雨は異常だよね。初雪が風流だった時代でさえその前に吹く暴風は結構怖がられてたんだぞ。え~と、これかな。

 

「窓たたく嵐にさやぐ呉竹のよごとに雪をあすやとぞ待(まつ)/永福門院」(「中世和歌集 鎌倉編」『新日本古典文学大系 中世和歌集 鎌倉編・P.413』岩波書店 一九九一年)

 

そうそうまさしく「窓たたく嵐」って感じ。タマびびってソファの隅でじっとしてた。

 

でもこれね、はるか昔に白居易が先に言ってる。

 

「蕭蕭暗雨打窻聲

 

(書き下し)蕭蕭(しょうしょう)たる暗雨(あんう) 窓(まど)を打(う)つ声(こえ)」(白楽天詩選・上・P.128」岩波文庫 二〇一一年)

 

はあ?猫がこれやったら泥棒猫って言われるのに~。例の本歌取りってやつ?

 

この場合は違っててね、白居易の漢詩は「教養」ってことで盗用でも本歌取りでもなかったのさ。

 

黒猫繋がりの楽曲はノン・ジャンルな世界へ。エセル・ケイン。ジャンル化すればダーク・アンビエントということになるのだろう。現実がホラーを越えてしまっている世界でもしホラー映画がまたひとつ作成されたとしよう。その映画音楽が今や日常化した現実のホラー性に揺さぶりをかけるほどの音楽になり得るかどうか、おそらく無理なのではという諦観ただよう昨今。そこで映像はいったん別として、現実生活の開き直った明るすぎる暴力的ホラー政治が横行する中で、大人たちのマッチョでありながら時おり無防備な首筋にオルゴールを持った無表情な幼児が背後からチーニングの壊れた音でじわじわ疵を刻みつけ次第に内部から滲み出てくる痛みを浸透させつつ、ホラー化した現実に微々たるものだとはいえ確かに違いのあるダークな世界のことを思い出してはくれまいかと耳を傾けさせる方法についてこのごろ考えていた。できるとすればありふれたゾンビではなく幽霊的なもの。明瞭なノイズではなく息も絶えだえに擦れ去っていく廃墟のリヴァーブ。