中野にある「東京警察病院」の敷地内に「陸軍中野学校」の碑がある。わかりづらい場所にあるが、早稲田通りの角に建っている。
裏には碑文↓
『國際情勢の緊迫と列強秘密戦の激化に鑑み軍は昭和十三年七月九段に後方勤務養成所を臨設
翌年四月現在地に移設し昭和十五年八月これを陸軍中野学校と改称した
昭和二十年四月群馬件富岡町に移転するまで六星霜全軍より厳重に審査簡抜せる要員を集め情報勤務教育を施すと共に国軍高度の秘密戦研究に当たった
創設の精神を発揚し負荷重責を果たすため本校は特に精神の陶冶を重視してその中心として楠公社を建立学生は夙夜この社頭に魂の修練を重ねた此の碑の立つ所即跡地である。
陸軍中野学校 初代幹事 福本亀治 謹書
中野校友会 建立』
中野学校の淵源は、将に相沢中佐による永田軍務局長刺殺、その後の2.26事件にあり。
2.26事件後、事態を重く見た大元帥は、「機密保持改善に関する件」(密受第1007号)を6月22日に発し、その後、粛軍人事を断行した。この後8月1日、陸軍省官制の一部が改正され、この際に新設された兵務局に任務として「防共に関する業務」を付与。防共は、速やかに「防諜」と改められ、最先端の科学的防共機関として先端機器の導入などを行い装備充実、才気煥発な諜報憲兵を中心とした『警務連絡班』が立ち上がった。しかし、これは表面上の事で、秘匿名称「ヤマ」は2.26事件以前から関係者の内偵活動を行っていた。その一端をNHKアーカイブスで観ることが出来る。
「警務連絡班」の任務は、以下の通り。
(1)電話諜報網の整備機械化
(2)開翰作業の安定能率化
(3)秘密戦用各種資材の開発整備に関する事項
(4)内外地分派機関の設置の関係業務
(5)所要特種経費の折衝
(6)関係各局及官衙機関との折衝
(7)横浜港の防諜対策
(8)後方勤務要員養成所の創設業務
(9)中国の外交部亜州司長高宗武の和平打診来日時の誘導
警務連絡班設立後、田中新一兵務課長、岩畔豪雄兵務課員、参謀本部ロシア課班長・秋草俊中佐が、阿南兵務局長の私邸によばれ、『現在の国際情勢に就て、我国も国際情勢に即応して先づ「極秘裡に科学的防諜機関」を至急設立する必要があると思うので極秘裡に急いで機関の設立を研究せよ』との指示を受けている。局長の私邸である事が重要。そう陸軍省内では容易に盗聴されうる。
この席で、碑文にある福本亀治は、秋草と初めて会った。この後、昭和12年3月1日には「防諜委員設置に関し処務規定改正の件」が通知され、参謀本部内に防諜体制の強化を図るための防諜委員会が設置され、正式裡に活動を開始。
警務連絡班は、後に中野学校となる「防諜研究所」を昭和13年3月に発足させ、応急的措置として九段下愛国婦人会本部に付属する建物を借受け「陸軍省別室」の看板を掲げ活動を開始。所長は秋草中佐、幹事、福本中佐、訓育主任、伊藤佐又少佐と言う陣容。
同年7月17日に第1期生19名が入所し特殊勤務要員の教育がスタート。特殊勤務とは、碑文にある秘密戦であり、中野学校では秘密戦士の精神を教えた。
即ち、秘密戦士の精神とは、尽忠報国の至誠に発する軍人精神にして、居常積極敢斗、細心剛胆、克く責任を重んじ、苦難に堪え、環境に眤まず、名利を忘れ、只管天業恢弘の礎石たるに安んじ、以て悠久の大義に生くるに在りで、この精神を重んずるならば、このような碑を建立するのは、その精神に反するとして反対する校友が多かったとも言うが、さもあらん。
防諜研究所として発足後、翌昭和14年3月31日に中野に駐屯する第一電信連隊の隊舎に移転。同年5月11日「軍令陸乙第13号」に基づき防諜研究所を「後方勤務要員養成所」に改名・改編される中、第1期生が卒業した。第1期生の教育は前期と後期に分かれ、前期は昭和13年7月から昭和14年1月、後期は、昭和14年2月から昭和14年7月であった。因みに中野移駐後は「陸軍通信研究所」と称していた。
1940年(昭和15年)8月警務連絡班は組織を拡充・改名し、陸軍大臣直轄の軍事資料部となった。同時に中野学校も東部第33部隊として、秘密工作戦を専門とする特務機関や各部隊に卒業生を配置。昭和18年になると戦局悪化に伴い、遊撃戦の教育が開始され、昭和19年には遊撃戦専門教育機関として静岡県磐田郡二俣町に『陸軍中野学校二俣分校』が設置された。空襲が激化する昭和20年には、中野本校は群馬県富岡町に疎開し、そこで終戦を迎えた。
裏には碑文↓
『國際情勢の緊迫と列強秘密戦の激化に鑑み軍は昭和十三年七月九段に後方勤務養成所を臨設
翌年四月現在地に移設し昭和十五年八月これを陸軍中野学校と改称した
昭和二十年四月群馬件富岡町に移転するまで六星霜全軍より厳重に審査簡抜せる要員を集め情報勤務教育を施すと共に国軍高度の秘密戦研究に当たった
創設の精神を発揚し負荷重責を果たすため本校は特に精神の陶冶を重視してその中心として楠公社を建立学生は夙夜この社頭に魂の修練を重ねた此の碑の立つ所即跡地である。
陸軍中野学校 初代幹事 福本亀治 謹書
中野校友会 建立』
中野学校の淵源は、将に相沢中佐による永田軍務局長刺殺、その後の2.26事件にあり。
2.26事件後、事態を重く見た大元帥は、「機密保持改善に関する件」(密受第1007号)を6月22日に発し、その後、粛軍人事を断行した。この後8月1日、陸軍省官制の一部が改正され、この際に新設された兵務局に任務として「防共に関する業務」を付与。防共は、速やかに「防諜」と改められ、最先端の科学的防共機関として先端機器の導入などを行い装備充実、才気煥発な諜報憲兵を中心とした『警務連絡班』が立ち上がった。しかし、これは表面上の事で、秘匿名称「ヤマ」は2.26事件以前から関係者の内偵活動を行っていた。その一端をNHKアーカイブスで観ることが出来る。
「警務連絡班」の任務は、以下の通り。
(1)電話諜報網の整備機械化
(2)開翰作業の安定能率化
(3)秘密戦用各種資材の開発整備に関する事項
(4)内外地分派機関の設置の関係業務
(5)所要特種経費の折衝
(6)関係各局及官衙機関との折衝
(7)横浜港の防諜対策
(8)後方勤務要員養成所の創設業務
(9)中国の外交部亜州司長高宗武の和平打診来日時の誘導
警務連絡班設立後、田中新一兵務課長、岩畔豪雄兵務課員、参謀本部ロシア課班長・秋草俊中佐が、阿南兵務局長の私邸によばれ、『現在の国際情勢に就て、我国も国際情勢に即応して先づ「極秘裡に科学的防諜機関」を至急設立する必要があると思うので極秘裡に急いで機関の設立を研究せよ』との指示を受けている。局長の私邸である事が重要。そう陸軍省内では容易に盗聴されうる。
この席で、碑文にある福本亀治は、秋草と初めて会った。この後、昭和12年3月1日には「防諜委員設置に関し処務規定改正の件」が通知され、参謀本部内に防諜体制の強化を図るための防諜委員会が設置され、正式裡に活動を開始。
警務連絡班は、後に中野学校となる「防諜研究所」を昭和13年3月に発足させ、応急的措置として九段下愛国婦人会本部に付属する建物を借受け「陸軍省別室」の看板を掲げ活動を開始。所長は秋草中佐、幹事、福本中佐、訓育主任、伊藤佐又少佐と言う陣容。
同年7月17日に第1期生19名が入所し特殊勤務要員の教育がスタート。特殊勤務とは、碑文にある秘密戦であり、中野学校では秘密戦士の精神を教えた。
即ち、秘密戦士の精神とは、尽忠報国の至誠に発する軍人精神にして、居常積極敢斗、細心剛胆、克く責任を重んじ、苦難に堪え、環境に眤まず、名利を忘れ、只管天業恢弘の礎石たるに安んじ、以て悠久の大義に生くるに在りで、この精神を重んずるならば、このような碑を建立するのは、その精神に反するとして反対する校友が多かったとも言うが、さもあらん。
防諜研究所として発足後、翌昭和14年3月31日に中野に駐屯する第一電信連隊の隊舎に移転。同年5月11日「軍令陸乙第13号」に基づき防諜研究所を「後方勤務要員養成所」に改名・改編される中、第1期生が卒業した。第1期生の教育は前期と後期に分かれ、前期は昭和13年7月から昭和14年1月、後期は、昭和14年2月から昭和14年7月であった。因みに中野移駐後は「陸軍通信研究所」と称していた。
1940年(昭和15年)8月警務連絡班は組織を拡充・改名し、陸軍大臣直轄の軍事資料部となった。同時に中野学校も東部第33部隊として、秘密工作戦を専門とする特務機関や各部隊に卒業生を配置。昭和18年になると戦局悪化に伴い、遊撃戦の教育が開始され、昭和19年には遊撃戦専門教育機関として静岡県磐田郡二俣町に『陸軍中野学校二俣分校』が設置された。空襲が激化する昭和20年には、中野本校は群馬県富岡町に疎開し、そこで終戦を迎えた。