イザベラバードのセミナー3回目
(第2回目お休みしちゃったんだけど)
十一屋のゲストルームで開かれる、
マダムに混じっての
このセミナーにも少し慣れてきましたw
イザベラバード、最近色々出てるそうで、
直木賞作家で、映画化した「小さいおうち」の
原作者の中島京子さんも、イザベラバードの
ことを書いた「イトウの恋」っていうのを書いてます
それから、漫画まで出てるそうですよ~
この日、2巻目が発売の日だったとかw
そ~んな、イザベラバードを学ぶ会ですが、
この日は、イザベラが山形市のどのあたりに来たか。。
イザベラバードの旅行記と、明治の地図を
読み解きつつ、今は無き明治時代にはあった
建物に思いを馳せたりしたのでした
山形県新築の図(長谷川竹葉の筆)は、
1881(明治14)年に明治天皇の山形県巡礼幸記念に
発行されました。
薩摩藩出身の三島通庸が山形の初代県令に就任し、
明治の新しい時代にふさわしい県都山形の街づくりを
積極的に行った、そんな明治の街並みの地図です
(A)の今は文翔館の初代県庁から見て
(C)山形にも製糸工場があったんですねぇ~~
近代化の先駆けとして、産業革命の中心を担った
生糸や繊維工業。
イザベラバードの山形編にも、この製糸工場の
ことが出てきます
「...明るくて天井が高く、風通しのいい建物で
清潔で身なりもいい50人の娘たちが50台の
紡績機を動かしています。。。」云々。。
(F)の湯殿山神社。今は文翔館の隣にありますが、
昔は、この初代県庁から見ての鬼門の位置にあったそう。
県庁をお守りする形だったそうな
(I)の山形警察署。県庁と向かい合わせにあった県警。
イザベラバードも書いてますが...
「...地方官僚のトップにいるのが県令で、内務省に対して
責任を負います(中略)県令の第一の職務は
警察を通じて秩序を維持することですが、
警察は県令の指揮下にあるわけではなく、
東京の警察庁が管轄しています。」
と、書かれてます。
そして、それは今も同じで、そうゆう仕組みは
明治時代からつくられたものなのかな。
...というように、外国人であるイザベラバードは
すご~く、よくと日本という国を見つめてるんですねぇ
あたしゃ、もうバードスパイ説信奉者かも。。。
この日の十一屋(和洋菓子屋さん)の
おやつタイムに出たお菓子は、
さくらんぼのブッセと、ホロホロ抹茶クッキーで
まぁ。和菓子でなかったからよかったけれど、
ケーキじゃないんだなぁ~。。
ってか、ブッセ、わざわざ個装された袋から出さないで
貰えたら、みんな持って帰れるのにな~...などと
思うのだった
あたしは全部食べたけど、マダムは残してたんでww
それに、この後ランチするんでw
さて、H先生と↑この山形県新築の図が欲しい~
っと言ってたら、自転車で通りかかったとこに
偶然見つけたのが、受けたw
昔と今を描いてて、見比べてなるほど~と
見入ってしまいました~
こちらがあるのは、パン屋フィンズのとこ
そこから少し上の方に行くと、
道路元標なるものがありました
江戸日本橋から92里
(1里は約3.9kmなので、358.8km)
さて、江戸の日本橋。
阿部寛のドラマの「麒麟の翼」でも有名になりましたね~
あの麒麟のモニュメントあの辺りにある、
道路元標が日本の道路の起点となります。
日本の道路の起点から、ここまでのしるし。
さて、H先生が、この辺にガス燈があるらしい...
と言うので、通りの街灯を見廻って探すことに..
でも、見ても分からないのであった....
細工が細いから、これっぽくない?とか
言ったりしてたら、目の前が梅月堂だった↓
この建物も古いもので、1936年(昭和11)に
当時のモダニズム建築デザインの名手と言われた
建築家、山口文象の設計によるもので、
1930年代当時は、国際建築様式と言われた
流行の超モダンデザインであり、最先端過ぎたそうなw
なんでそんな、新進の流行作家とも言うべき建築家で
しかも、絶頂期だった山口文象氏がこちらの設計を...?
という疑問は→コチラを見てねw
さて、この梅月堂
今でこそ、なんだかよくわかんない建物になっちゃって
テナントもころころ変わるし、長続きしないし、
パッとしてない感じですがあたしの知る
昔の梅月堂は、パン屋さんでした。
なかなか美味いパンで、姉がバイトしてたのよね。
当時、そんなにパン屋も無かったので
ミルキーって細長のソフトフランスパンにサンドされた
ミルククリームが美味しかったの、覚えてる
懐かしいなぁ~
失くなったり、潰れたりして
今はもう味わえないものって、結構あるなぁ~
さてさて、どんどん違う話になってってるがw
何やらと話の流れで、
古い建物巡りへと移行してったんであるw
今は郵便局になってる、この建物も好き
こちらは大正時代の建物です。
洋品店として大正14(1925)年に建てられたもの。
鉄筋コンクリートの建物は、大正後半になってから
多く作られることになるので、初期のこちらは
当時、珍しかったそうですよ~
さて、我々はガス灯を探しておったのだった
こちら。。。これは違うよねぇ~~
と言いつつ、写真をパチリw
この通りは「シネマ通り」というんですが
シネマ..映画館は郊外へと移ってしまい、
3、4軒あった映画館が、もう無いんですが
一応シネマ通りなんでしょうね・・・(笑)
ちなみに、山形は国際ドキュメンタリー映画祭も
開かれるほど、映画に通づる都市でもあります
シネマ通りの歩道には、シネマの名残か
金属板が埋め込まれてました~
駅前通りに面した第二公園にあった「千歳座」は、
明治35年に芝居小屋として建設されましたが、
昭和初期には映画館になったそう
大正時代にあった「霞城館」は洋風建築だったそう。
こちらは、映画街のシネマ通りにあって、
ミューズって映画館の前の姿だそう。
昭和時代は、映画の絶頂期で
娯楽といえば映画だった時代。っと
うちの母なんかよく言ってますけどねw
いや~
それにしても、この街にずっと住んでますが
知らないことの多さの方が多いですなw
今回のブログ記事はめっちゃお勉強ブロでしたw
(第2回目お休みしちゃったんだけど)
十一屋のゲストルームで開かれる、
マダムに混じっての
このセミナーにも少し慣れてきましたw
イザベラバード、最近色々出てるそうで、
直木賞作家で、映画化した「小さいおうち」の
原作者の中島京子さんも、イザベラバードの
ことを書いた「イトウの恋」っていうのを書いてます
それから、漫画まで出てるそうですよ~
この日、2巻目が発売の日だったとかw
そ~んな、イザベラバードを学ぶ会ですが、
この日は、イザベラが山形市のどのあたりに来たか。。
イザベラバードの旅行記と、明治の地図を
読み解きつつ、今は無き明治時代にはあった
建物に思いを馳せたりしたのでした
山形県新築の図(長谷川竹葉の筆)は、
1881(明治14)年に明治天皇の山形県巡礼幸記念に
発行されました。
薩摩藩出身の三島通庸が山形の初代県令に就任し、
明治の新しい時代にふさわしい県都山形の街づくりを
積極的に行った、そんな明治の街並みの地図です
(A)の今は文翔館の初代県庁から見て
(C)山形にも製糸工場があったんですねぇ~~
近代化の先駆けとして、産業革命の中心を担った
生糸や繊維工業。
イザベラバードの山形編にも、この製糸工場の
ことが出てきます
「...明るくて天井が高く、風通しのいい建物で
清潔で身なりもいい50人の娘たちが50台の
紡績機を動かしています。。。」云々。。
(F)の湯殿山神社。今は文翔館の隣にありますが、
昔は、この初代県庁から見ての鬼門の位置にあったそう。
県庁をお守りする形だったそうな
(I)の山形警察署。県庁と向かい合わせにあった県警。
イザベラバードも書いてますが...
「...地方官僚のトップにいるのが県令で、内務省に対して
責任を負います(中略)県令の第一の職務は
警察を通じて秩序を維持することですが、
警察は県令の指揮下にあるわけではなく、
東京の警察庁が管轄しています。」
と、書かれてます。
そして、それは今も同じで、そうゆう仕組みは
明治時代からつくられたものなのかな。
...というように、外国人であるイザベラバードは
すご~く、よくと日本という国を見つめてるんですねぇ
あたしゃ、もうバードスパイ説信奉者かも。。。
この日の十一屋(和洋菓子屋さん)の
おやつタイムに出たお菓子は、
さくらんぼのブッセと、ホロホロ抹茶クッキーで
まぁ。和菓子でなかったからよかったけれど、
ケーキじゃないんだなぁ~。。
ってか、ブッセ、わざわざ個装された袋から出さないで
貰えたら、みんな持って帰れるのにな~...などと
思うのだった
あたしは全部食べたけど、マダムは残してたんでww
それに、この後ランチするんでw
さて、H先生と↑この山形県新築の図が欲しい~
っと言ってたら、自転車で通りかかったとこに
偶然見つけたのが、受けたw
昔と今を描いてて、見比べてなるほど~と
見入ってしまいました~
こちらがあるのは、パン屋フィンズのとこ
そこから少し上の方に行くと、
道路元標なるものがありました
江戸日本橋から92里
(1里は約3.9kmなので、358.8km)
さて、江戸の日本橋。
阿部寛のドラマの「麒麟の翼」でも有名になりましたね~
あの麒麟のモニュメントあの辺りにある、
道路元標が日本の道路の起点となります。
日本の道路の起点から、ここまでのしるし。
さて、H先生が、この辺にガス燈があるらしい...
と言うので、通りの街灯を見廻って探すことに..
でも、見ても分からないのであった....
細工が細いから、これっぽくない?とか
言ったりしてたら、目の前が梅月堂だった↓
この建物も古いもので、1936年(昭和11)に
当時のモダニズム建築デザインの名手と言われた
建築家、山口文象の設計によるもので、
1930年代当時は、国際建築様式と言われた
流行の超モダンデザインであり、最先端過ぎたそうなw
なんでそんな、新進の流行作家とも言うべき建築家で
しかも、絶頂期だった山口文象氏がこちらの設計を...?
という疑問は→コチラを見てねw
さて、この梅月堂
今でこそ、なんだかよくわかんない建物になっちゃって
テナントもころころ変わるし、長続きしないし、
パッとしてない感じですがあたしの知る
昔の梅月堂は、パン屋さんでした。
なかなか美味いパンで、姉がバイトしてたのよね。
当時、そんなにパン屋も無かったので
ミルキーって細長のソフトフランスパンにサンドされた
ミルククリームが美味しかったの、覚えてる
懐かしいなぁ~
失くなったり、潰れたりして
今はもう味わえないものって、結構あるなぁ~
さてさて、どんどん違う話になってってるがw
何やらと話の流れで、
古い建物巡りへと移行してったんであるw
今は郵便局になってる、この建物も好き
こちらは大正時代の建物です。
洋品店として大正14(1925)年に建てられたもの。
鉄筋コンクリートの建物は、大正後半になってから
多く作られることになるので、初期のこちらは
当時、珍しかったそうですよ~
さて、我々はガス灯を探しておったのだった
こちら。。。これは違うよねぇ~~
と言いつつ、写真をパチリw
この通りは「シネマ通り」というんですが
シネマ..映画館は郊外へと移ってしまい、
3、4軒あった映画館が、もう無いんですが
一応シネマ通りなんでしょうね・・・(笑)
ちなみに、山形は国際ドキュメンタリー映画祭も
開かれるほど、映画に通づる都市でもあります
シネマ通りの歩道には、シネマの名残か
金属板が埋め込まれてました~
駅前通りに面した第二公園にあった「千歳座」は、
明治35年に芝居小屋として建設されましたが、
昭和初期には映画館になったそう
大正時代にあった「霞城館」は洋風建築だったそう。
こちらは、映画街のシネマ通りにあって、
ミューズって映画館の前の姿だそう。
昭和時代は、映画の絶頂期で
娯楽といえば映画だった時代。っと
うちの母なんかよく言ってますけどねw
いや~
それにしても、この街にずっと住んでますが
知らないことの多さの方が多いですなw
今回のブログ記事はめっちゃお勉強ブロでしたw