ハレルヤ!  喜び、喜びおどろう

聖書のことばを中心に、2019年12月から、あふれる思いをブログにまとめています

家庭礼拝と聖餐式の記録

2020-04-06 | 礼拝説教
〇出席者:3名  欠席者:1名 自宅で礼拝

〇準備 :朝、メールで、教会によって週報ボックスの中のものと、教会手作りランチパックを受け取ってきていただくように連絡をした。
教会で受け取ってから来ていただくように連絡をしました。
聖餐式のジュース、3杯分は極小の醤油用ガラス瓶を持参して入れて来る。

〇礼拝 
・床マットとイスとテレビの位置を前回より、ほんの少しですが動かしたことによって、前回よりも快適になった。
・「主にあって愛します」の挨拶は、各部屋の人達とライン映像を用いて挨拶。立ち位置を考えて、顔に光が当たるようにカメラを構えると明るく写せる。顔を携帯画面に近づけると、目がはっきり見えて良い。
・讃美に合わせて換気のために窓を開けた。少し寒かった。
・報告用の記念写真は、礼拝後の食事の準備を始める前に2枚だけ撮った。

〇礼拝後
・朝作った差し入れの味噌汁を温めて、ランチタイムとした。説教の感想や応答の分かち合い等をしながらゆっくり過ごしました。
・食前の祈り、説教への応答の祈り、解散する前の祈り、3人がそれぞれ担当した。

〇全体
初めての聖餐式。ハイティースタンドを利用して、上から、パン、ジュース、献金袋を載せて傍らのテーブル机に置いた。
・掃除や接待に気が散らされないように、土曜の夜に、所属するグループに祈祷課題をあげて祈ってもらった。
・土曜の夜は、説教個所の予習もいつも以上に深めてやった。聖餐式の前日でもあり、謙遜になって祈った。マルタにならないように気をつけた。



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イエスの洗足の意味 すごい!

2020-04-06 | 礼拝説教
  1. イエス・キリストが、上着を脱いで、手ぬぐいを取って腰にまとわれたのも
  2. たらいに水を入れ、弟子達の足を洗ったのも
  3. 腰にまとっておられる手ぬぐいでふき始められたのも

父のみもとに行くべき自分の時を知られたから
そして、自分の者である、愛する弟子達に、彼らを愛する究極の愛を示すためであった。

  1. イエス自身が持っている最後の物、衣服のすべてを脱ぎ棄てて、恥をさらして裸になって十字架にかかり、弟子達の罪をあがなった----新生
  2. 悪魔はユダの心に罪の思いを入れたが、イエスは弟子達の洗い桶に、水(みことば)を入れて、一番汚れている両足を洗った----聖化 
  3. 唯一身につけていた腰巻でふき始めたのは、殉教する弟子達のための埋葬の準備であった----栄化
そのように結論つけることのできる根拠は

  1. 脱いだ上着は複数形で、上着も下着も含めた一切の服の意味
  2. 脱ぐとは、命を棄てるヨハネ10:11と同じ、捨てるという意味
  3. 手拭いとは、ラテン語で、イエスの埋葬の時に巻かれた亜麻布と同じ意味
  4. 手拭いは単数なので、一枚の腰巻のようなものと思われる
  5. 神の御子であるお方が、究極の愛を示すために、腰巻だけの姿になられ

  1. 悪魔はユダにイエスを引き渡す思いを「入れた」という言葉と、イエスがたらいに水を」「入れた」という言葉と、入れたというのが同じ動詞である
  2. ユダの心「に」と、たらいの「中に」とは、同じ前置詞である
  3. すでに悪い思いが投げ入れられたユダをも、イエスは水で洗い始めた
  4. ユダだけでなく、すでに初めから罪人である人間の罪を赦してきよめ続けようとする究極の愛を示されたのである
  5. 水を投げ入れるのも、洗うのも現在形です。イエス様は今も私の汚れた心に水、みことば、聖霊を注いで、洗いきよめ続けてくださって、究極の愛を示してくださっています

  1. 手ぬぐいで「拭く」と言う言葉は、ベタニヤのマリヤがで御足を涙でぬらし始め、髪の毛でぬぐい、御足に口づけして、香油を塗った。それはイエスの埋葬の備えとなった。ヨハネ12:3
  2. その時、ユダは「なぜ、この香油を三百デナリで売って、貧しい人々に施さなかったのか」と言った。イエスが「マリヤはわたしの葬りの日のために、それを取っておこうとしていたのです」と言われたが、ユダも弟子達も、その意味がわからなかった。
  3. 次元の超えた、イエス様は、霊的にまだ目が開かれていないわかっていない状態の弟子達の行き先も、苦しみもわかった上で、永遠の御国まで一歩一歩導き、終わりまで信仰を全うさせてくださるという究極の愛を示してくださっています



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明日も、家庭礼拝&聖餐式

2020-04-04 | 礼拝説教
明日の説教個所は、ヨハネの福音書13章1〜11節
説教タイトルは「知っておられる主イエス」です
予習をして、いったい主イエスはここでは何を知っているというのかを調べました
そして、自分でつけたタイトルは、「知っておられる主イエス」と「知らなかった弟子達」

イエスが知っておられたこと
世を去り父のみもとに移るべき時がすでにやって来たと知っていた。1節
父が万物を両手の中に与えたことを知っていた3節
神から出て、神のところに戻ることを知っていた3節
自分を裏切る者を知っていた11節
しかし、
弟子たちは知らなかった7節

イエスが父のところからこの世に来られて、そして今、この世を去って、父のところに帰る時が来たことが、前置詞ではっきり書かれていることを知った。
しかし、当時の弟子たちはみな、わからなかった。

私達は父なる神、創造主のところからこの世に来た
この世で御子なる主イエス・キリストを知り信じて、
聖霊の働きによって、聖められ続けて
時至って、再び来られるイエス・キリストとともに、
再創造をなさる父なる神の御国に入れられます

私達は、自分がどこから来て、どこに行くべき者であるのかをはっきり知っていなくてはならない。
もし、二心になって不信感を持ったり、主イエス・キリストに逆らおうと思うなら、その思いのすべてを、全地全能の主はご存じです。日々、悔い改めに早く、祈の中で生活しなくてはならない。

あすは聖餐式があります。我が家でもまた、小人数でネット礼拝をします。
礼拝は3回目ですが、聖餐式は初めてです。委ねて、感謝して、明日を待ち望みます

夕焼けの橋
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家庭での礼拝の祝福

2020-03-31 | 礼拝説教
コロナ感染対策として、会堂に集まるのは小人数にして、他は小さく分かれてネット礼拝
教会に近い私の部屋では、4人で礼拝

★準備をしたのは
運び込み---教会からパイプ椅子 (わが家の椅子には背もたれがない)
買物---小分けドリップコーヒー、少しのお菓子
作った---煮豆入りの味噌汁

★礼拝時
。映像にも音声にも問題なく、臨場感があった。いつも通りに讃美もした。
・後日に分かち合うための写真撮影を、礼拝中にやったことを反省。次回からは映像配信礼拝が終わってからにするつもり。
・「主にあって愛します」と挨拶をする時は、指示されていた相手と携帯のラインをつないだ。使い方に慣れていなくて、今後は工夫が必要。

★礼拝後
・奉仕のために早く退室される姉妹が、代表してお祈りをしてくださいました。
・昼食のために、3人で、脇に寄せていたテーブル机を出して来てきて、説教の感想と応答の分かち合いを一人ずつした後、一人の姉妹が食事前のお祈りをしてくださいました。
・食事とお茶をいただきながら、次年度のセルの会についてなどを話し合う。午後の各セルの集まりから連絡を受けて、一人の姉妹が最後のお祈りをしてくださり解散。
・教会の各部屋に分かれてのミーティングには遅れることなく参加できました。

★全体的に
家庭内での礼拝でしたが、昼食時もその後も、主日の一日のすべてが礼拝であるという雰囲気を、聖霊の臨在とともに感じることができて祝福でした。




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私たちの心はうちに燃えていたではないか

2020-03-24 | 礼拝説教
ルカ24:15話し合ったり、論じ合ったりしているうちに、イエスご自身が近づいて、彼らとともに道を歩いておられた。

1998年は、新幹線に乗って、4箇所を巡り続けていましたが、イエスご自身が私にも近づいて、ともに道を歩いていてくださいました・

住所があったのは-----学生だった子供達がいた
妹の家----癌で入院、小さい子供達の世話のために滞在した---ここで聖書をもらった
空の実家----法事や親戚付き合い、庭の手入れに、毎月通っていた
夫の単身赴任先-----ここで初めて教会を訪問   
礼拝出席 3/8   3/22  4/5  4/26  5/24  6/7 
牧師との面談 7/21  7/28   8/3 イエス・キリストを受け入れた 
続けて、年末までに13回の個人指導をしてくださった。夫のところに滞在する日が増えて落ち着いてきて、婦人会にも出席した。
12/13 受洗 翌年も牧師の個人面談は何回か続いた

ルカ24:32 そこでふたりは話し合った。「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。」 

震災後すぐであったし、求道者の数が少ない時だった。私の知らないところで、きっと祈られていたことでしょう。

礼拝説教は、この年、使徒の働きの連続講解説教が始まったばかりの時でした。イエス・キリストの昇天の話は、信仰のない私にも、衝撃的で、印象の残る話でした。

個人面談では、牧師が初めて書いて出版したばかりだった本をいただいて、読んで学びました。その後、たくさん執筆されるようになりましたが、私は書かれた本で学んだ信徒第一号となりました。

ルカ24:45 そこで、イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、 24:46 こう言われた。「次のように書いてあります。キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、 24:47 その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。 

牧師は、自分のいのちをかけて、弟子を生んで育てて、そして弟子づくりのできる弟子を育てておられる。その彼に、「私たち」と言ってもらえるくらいのチームに入って、「人を回心に導いて「、その人を弟子づくりをする働き」に、残されたいのちをかけようではないかと思う。燃やされようではないかと思った。ちなみに牧師は私と同年齢。


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