ハレルヤ!  喜び、喜びおどろう

聖書のことばを中心に、2019年12月から、あふれる思いをブログにまとめています

イエスが栄光を受けられてから、思い出した

2020-01-07 | 礼拝説教

ヨハネ12:12-19 の説教より

 

当時、イエス・キリストがエルサレムの町に入って来た様子を語る中で、まるで時空を越えたように挿入されているヨハネ12章16節が印象的でした。聖霊の働きについて考えてみました。

 

 

ユダヤ人達は、神のことばである旧約聖書をよく知っていて、預言どうりに、「ホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に。」と歌った。しかし、そこに祝福はなかった。自分達に都合の良い政治的経済的な王、目に見えるものを求めているだけで、霊的には盲目でした。

 

 

どうしてこの節が挿入されているのか、それは、ヨハネがそれまで霊的なプロセス、経験を積んで来たからだと思いました。

l  まず、キリストの十字架・復活・昇天、そして聖霊降臨を通して、内面が大きく変えられ目が開かれた。

l  そしてその後、祈りとみことばによって整えられ、使命である弟子づくりを、聖霊の導きに従って一歩一歩進んで行ったことによって、ますます霊的な視野が深められていった。

l  それで、過去のキリストの言動を思い起こして、さらに旧約聖書のことばとも照らし合わせて、霊的に預言と預言の成就を理解することができて書けたのです。

 

 

私達、聖霊をいただいている者は、みことば、キリストの言動を思い起こすことで、自分の罪が見えるとともに、それにもまさる恵みも賜物も見えて来る。また現在、置かれている環境の意味もわかって来る。

さらに旧約聖書を読んでみると、だんだんに、預言がイエスによって成就し、今も成就しつづけていることが明らかになって来るのではないかと思いました。それで、旧約聖書をこれまでとは違った読み方ができるのではないかと、期待しているところです。

 

 

そこで祈りました。
●私達が、聖霊に満たされて祈りとみことばにおいて深められて行くように。

●それぞれの置かれている環境の中で働いておられる神を見て生活できるように。

●もし今よくわからないという中にいても後日、回想した時には、さらに聖霊に満たされて、確かに主が言われたとおりであったと思い出すことができるようにと。

 

 

12:16初め、弟子たちにはこれらのことがわからなかった。しかし、イエスが栄光を受けられてから、これらのことがイエスについて書かれたことであって、人々がそのとおりにイエスに対して行ったことを、彼らは思い出した。



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御酒が大好きだった夫も救われた

2020-01-06 | 伝道

夫がまだイエス・キリストを受けてれる前のことです。夫はお酒が好きで、毎晩飲んでいた。

★牧師の娘さんが家に泊まりに来て下さって時、夫は彼女にお酒を勧めた。
彼女も、彼女の父親もお酒を飲まないことを知っている私は、どうなることかと見ていた。
すると、彼女は、さっと飲んだ。
しかし、ほんのしばらくしたら、顔が真っ赤になったので、夫はそれ以上は進めないで自分ひとりで機嫌よく飲んでいた。


★牧師の家庭に招かれた時、夫は上等をワインを手土産に持参した。
彼にとって、お酒のない食事会は考えられなくて、ワインならと、考えたのでしょう。牧師も牧師の家族も、誰も敢えてお酒の話はしないで、乾杯の代わりに皆で手をつないでお祈りをしてくださった。
そしてワインは、何となく少量を付き合って飲んでくださった。


★役員さんのお宅でバーベキューパーティをするからと招かれた時、
夫はビールを持参しても良いかと私に聞いたので、役員さんに尋ねたら
「私の家では、誰も、いっさいお酒は飲まないことにしています」と言われたので
夫は、パーティに行くのを辞退した


お酒に関するこの三件の経験は、どれが先で、どれが後だったか覚えていない。
しかし、どちらの経験も、夫が救いに導かれるプロセスの中で必要なことだったのだうと思える。
死ぬまでお酒を飲み続けると宣言していた夫が救われたのは、癌末期になって一滴も飲めなくなった後だった


そのお酒をはっきりと断った役員さんは、夫がイエス・キリストを受け入れてから、教会員の中で一番多くの回数、彼の病室を訪ねてくださって、聖書の話などをしてくださったのだった。、


次のみことばを読んで、思い出しました。
Ⅰコリント 9:2227
22弱い人々には、弱い者になりました。弱い人々を獲得するためです。すべての人に、すべてのものとなりました。それは、何とかして、幾人かでも救うためです。
23私はすべてのことを、福音のためにしています。それは、私も福音の恵みをともに受ける者となるためなのです。

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ホサナと歌っていても、盲目だった 

2020-01-06 | 礼拝説教

「ホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に。」

 

ヨハネ12章16節から回心者に与えられる聖霊の導きについて考えました。回心をする前の人々、ユダヤ人達は、神のことばである旧約聖書を知っていても、またその通りにホサナと歌っていても、自分達の政治的経済的な、目に見えるものを、勝手に求めているだけで、霊的には盲目でした。

 

ヨハネや弟子たちは、キリストの十字架・復活・昇天、そして聖霊降臨を通して、内面が大きく変えられ目が開かれた。その後、祈りとみことばによって整えられ、また弟子の使命である弟子づくりを、導きに従って一歩一歩進んで行った。

 

すると、奇蹟的に開かれた目は、その後もますます霊的な視野が広められ深められ、キリストの言動を思い起こし、自分の賜物も、置かれている環境も理解でき、旧約聖書に書かれていたことが、成就し、成就しつづけていることを明らかに知って行きました。

 

新しく回心した信仰者が、聖霊に満たされて祈りとみことぱに深まっていくようにと、その置かれている環境の中で働いておられる神に目を注いて行くように励ます必要があります。 去年に受洗した婦人と一緒に学んだり、仕えたりする機会が与えられていることを感謝しています。

 

 

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創世記44章 ユダの身代わりの申し出

2020-01-06 | 通読・創世記

おいついたヨセフの家の管理者は、ヨセフが命じたとおりに兄弟たちに言った。

兄弟は、「見つかった者を殺してください。他の兄弟は奴隷になりましょう」と言った。
管理者は「見つかった者を奴隷になり、他の兄弟たちは無罪にしよう」と言った。

それがベニヤミンの袋から見つかった時、兄たちは、全員がヨセフのところに引き返した。
この時から、ユダが兄弟たちのリーダーになった。

ユダは、正しく弁明をした。
父にヨハネの言葉を伝えた。
父の言葉をヨハネに伝えた
父のいのちは末の子にかかっていると言った。
末の子の身代わりに自分を奴隷となり、他の兄弟たちは無罪とするとように言った。

キリストはユダ族から生まれました

キリストは父なる神のみこころを伝えてくださいます
キリストは私達の罪の身代わりに、犠牲となって十字架にかかって死んでくださいました
罪のために死ぬべき者であった私達を無罪とし、
永遠のいのちを得させてくださいました
罪が赦されたからには、生かされたいのちを、キリストの奴隷として生きていきます
キリストは私達の祈りを聞いてくださいます
どう考え、どう生きるのかを、キリストは教え導いてくださっています

以前は、キリストはヨハネの子孫かと勘違いをしていましたが、今回は、この章のユダからキリストを見ました

 

昔の自分の罪を思い出す。

もし、あの嘘がばれていたら・・・・元働いていた会社からか、どこかの役所から連絡があったかも知れなかった
もし、あの間違いを犯した時、時・場所が守られていなかったら、・・・自分の体に危険が及び、家族からの信頼を失望させたかもしれない
もし、あの時、私が違う方向で考えていたら、〇〇をあれほど傷つけることはなかっただろう。しかし、そのことについて今も、〇〇は何も語らない
回心をした時に、このように、私の全人生を根本から壊しかねなかった罪が、キリストにより赦された。恐れが取り去られた。
クリスチャンになった今も、様々に犯す罪を、その都度悔改めて、赦されて生きている

  

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創世記43章安心しなさい。恐れることはありません

2020-01-04 | 通読・創世記

ヨセフの家の入口で、ヨセフの兄たちは、管理人に恐る恐る、長々と弁明をした。

すると彼は

「安心しなさい。恐れることはありません。あなたがたの神、あなたがたの父の神が、あなたがたのために袋の中に宝を入れてくださったのに違いありません。あなたがたの銀は私が受け取りました。」

そして、へブル人達と、ヨセフと、へブル人とは一緒に食事ができないエジプト人と、皆で一緒にご馳走を食べた。これは、天国での宴会のようです。イエス様を中心にユダヤ人と異邦人がともに祝宴をしているようです。

 

 

何年か前に、元牧師夫人の未亡人が話してくださったことを覚えています。
最期の病床で、何度もこんなことがありました。彼が「自分には罪がある。天国に入れるか不安があって、死ぬのが恐ろしい。聖書の〇〇の箇所を読んでください」と言われたので、読んで聞かせた。そして一緒に安心して祈ったものでした。

 

私の夫は強気な人でしたが、副作用で苦しんでいる時、「医者は病気や治療については教えてくれるが、どうやって死ぬのか教えてくれないから不安だ。」と、私に初めて弱みを見せた。
「どうやって死ぬのか、死んだ後にどうなるのかも知っていますから、私が案内をしましょう」と、退院するまでの三カ月間、一度も家で寝ることなく、昼も夜も、彼の枕元で過ごした。最初は頼まれて新聞を読み聞かせ、信仰書をボツボツ読み進め、聖書を読むようになった。その私の声は通路だれでなく、向かい側の看護師の詰め所まで響いていたかもしれない。

 

そしてとうとう、夫はイエス・キリストを救い主として受け入れた。私達の病室は聖霊の宮となった。入って来た医師や看護師が部屋を見回して「この部屋は、他の部屋に比べて、なんか明るいなあ」と言われることが何度もあった。香り付きのシートで床を掃除した後に入って来た人は「なんや、いい匂いまでする」と言われた。

あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい。第一コリント6:20


 

牧師夫人は、聖書のどんな箇所を読んでおられたのかを、尋ねておけばよかったなあと、今思う。

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