会津天王寺通信

ジャンルにこだわらず、僧侶として日々感じたことを綴ってみます。

「中村彰彦先生が会津藩家老山川兵衛や土方の小姓市村鉄之助を紹介」  柴田聖寛

2021-11-28 12:21:03 | 読書

  左は山川健次郎、右は土方歳三

 作家の中村彰彦先生は月刊「はなその」(花園神社社務所発行)に「歴史の坂道」というコラムを連載されていますが、10月号と11月号では、それぞれ「種痘接種を主張した名家老・山川兵衛」「土方歳三の小姓・市村鉄之助は何処へ」という文章を書いておられます。
 山川家が家老にまでなることができたのは、山川浩・健次郎兄弟の祖父山川兵衛の代になってからです。兵衛は目付、勘定奉行、若年寄と抜擢されましたが、天保10年(1839)には家老に指名され、山川家はそれまでの300石から1千石に増えたのでした。
 それから安政6年(1859)に隠居するまで20年間家老職にあり、海のない会津の人々に栄養を摂らせるべく、ウナギ、ナマズ、シジミの養殖を奨励したほか、会津松平家の人々に種痘を接種してもらおうと努力したのでした。
 この種痘に関しては、容保公が9代目の藩主に就いたときには、先代の容敬公の遺児である当時10歳の敏姫との婚約が決まっていましたが、藩医の反対に遭って実現しなかったために、嘉永5年(1852)に敏姫は疱瘡を発病し、「天与の美貌」といわれていたのが、あばたが残ることになってしまいました。そして、容保公との祝言は安政3年(1856)にあげたものの、わずか19歳で薄幸な生涯を閉じたのでした。
 中村彰彦先生は女性史研究家の柴圭子さんの「松平照子」(『会津藩の女たち』収録)から引用され、今の世にあっても、コロナウイルスのワクチンを接種しない人たちに向かって「こういう発想は山川兵衛の意見を無視した会津藩医のそれに近いように思えてならない」と書いておられます。

市村鉄之助に関しては、司馬遼太郎の『燃えよ剣』でも登場。中村彰彦先生が書いておられるように、新選組ファンからは「鉄つぁん」と呼ばれて愛されている人物です。明治2年7月、土方歳三が五稜郭で戦死してから約2カ月が経った雨の夕方、鉄之助は浮浪者のような少年として武州多摩郡日野宿の佐藤彦五郎の屋敷に姿を現しました。そして彦五郎と面会すると、土方から託された洋装に小刀を手挟んだ土方の写真と、「使の者の身の上頼み上候 義豊」という文字がしたためられた小切紙を手渡したのでした。義豊とは土方の諱(いみな)であり、彦五郎の妻は土方の姉であったばかりか、彦五郎は近藤勇と義兄弟の盟約を結んでいたのです。

 鉄之助は新選組の隊士でしたが、まだ16歳の少年であったために、不憫に思った土方が個人的な役目を申し付けることで、命を長らえさせようとしたともいわれています。その目的を果たすと、市村は明治4年3月まで佐藤家に世話になり、その後出身地の大垣に帰り、明治10年2月の西南戦争が勃発すると、薩軍に身を投じて戦死したとも伝えられています。

私は中村彰彦先生の愛読者でありますから、「歴史の坂道」というコラムを毎回楽しみにしています。小説家らしい臨場感が伝わってくるからです。

 


「会津の徳一を世に知らしめた師茂樹先生の『最澄と徳一 仏教史上最大の対決』」

2021-11-06 18:04:50 | 信仰

 

 師茂樹先生の『最澄と徳一 仏教史上最大の対決』が岩波新書の一冊として先月20日に発行されましたが、私の畏友である吉田慈敬師の御子息吉田慈順師と一緒に、仏教学の共同研究のリーダーとして活躍されているのが師先生でもあり、学術的な仏教としては珍しくベストセラーとして話題になっていることもあり、何度も読み返しています。
 ともすれば私たちは、最澄・徳一の論争を、師先生が述べていられるように「一三権実論争」というように単純化してしまっているように思えます。
「はじめに」において、師先生は「特に、論争の最中に最澄が提示した論争氏の叙述は。まさに『三一権実』論争という枠組みを生み出したものであり、近現代の仏教学者が仏教
史を把握する際のパースペクティブを規定してしまうほどの影響力を持った。『三一権実』論争とは、まさに最澄が提示した仏教史観によって規定された最澄・徳一論争の見方なのである」と書くとともに、その見取り図を突破して、新たな見取り図を示そうとする野心的な試みなのです。このため、師先生は「それが最澄に対する批判だとするならば、本書は―不遜な物言いに聞こえるかもしれないがー最澄・徳一論争の続きをしようとしている、いえるかもしれない」と公言して憚らないのです。
 師先生によると、最澄・徳一論争以前に、奈良仏教界では三論宗と法相宗との対立があり、和気広世・真綱の兄弟は、その解消を最澄に託しました。それに最澄も協力したことで、徳一の接点が生まれのです。三論宗はナーガルジュナの『中論』、法相宗はヴァズバンドの『成唯識論』などを宗旨としています。諭師が注釈、解説した論書であり、ブツダの説いた『法華経』の経書との違いを強調し、天台宗の優位性を主張したのでした。
 最澄・徳一の論争事態のきっかけは、徳一が『仏性抄』を世に問うたからですが、今では道忠教団に対しての書であったといわれますが、「『法華経』の一乗は仮り(権)の教えである」と書かれていたことに、最澄が猛反発したのでした。
 師先生は徳一の立場に寄り添うかのような書き方をしています。空海にあてて書いた『真言宗未決文』がそうであったように、「ただ疑問を決し、知恵と理解とを増やし、ひたすら信じることとに帰し、もっぱらその教えを学ぶことを欲しているだけである」との個人的な動機や覚悟がうかがえるのに対し、最澄は自分への批判でないにもかかわらず、徳一の行為を「謗法」と受け取ったというのです。
 そうした師先生の見方はユニークでありますが、最澄が触発されたことで、「仏教史上最大の対決」となり、二人はそれだけに5年を費やしたのですから、誤解であろうとも、堰を切ったように、語るべき言葉が最澄からあふれ出たのは確かです。
 また、師先生は徳一が「当時『外道』扱いされていた天台宗の四教説(蔵教・通教・別教・円教)に対して、因明を使って批判した、最澄は、その指摘に対して、やはり(やや曲解しながらも)因明を用いて反論した」と解説していますが、言葉の限界を感じつつ、言葉に頼らざるを得ないというのが、宗教と哲学の違いでありますから、その点は二人とも身に染みて分かっていたと思います。学としては徳一が優っていても、それを突き抜ける日本仏教という信仰を示した功績は最澄の側にあります。仏教の先進地であった中国において、仏教は力を持たず、儒教や道教の教えが根付くことになったのは、最澄のような仏教徒が日本のようにいなかったからだと思います。
 師先生の本がでたおかげで、会津の徳一のことが多くの人に知られることになったのではないでしょうか。そのきっかけとなった一書であり、私としては師先生の活躍を今後とも期待しています。

合掌


伝教大師伝⑧『依憑天台集』で法相や真言などの他宗を批判

2021-10-13 13:58:57 | 天台宗

 

 伝教大師最澄にとって衝撃であったのは、桓武天皇が延暦25年3月17日に70歳で崩御されたことです。このため桓武天皇の御功績を讃えるために、比叡山では毎年3月17日を天皇講と称し、御供養申し上げる行事は現在も続けられています。 
 天台宗の年度分限者が認められるようになったわずか2カ月半後に桓武天皇はお亡くなりになられたのでした。また、その御栄に浴したのは天台宗ばかりではありませんでした。それ以前は法相宗と三論宗とで10名の割り当てがありましたが、それは形式上のことであり、国からお墨付きをもらいという権威づけではありませんでした。
 だからこそ、法相宗の勝虞らの5名の僧綱が「仏法の太陽が沈んでしまおうとしている時に、天皇の戈(ほこ)によって再びあげられ、仏法の綱が殆ど切れそうになってしないそうになっているのに、天皇の心の索(つな)そそえることによってまた続くことが出来るように」「釈門の老少誰か抃躍(べんやく・手を打って喜ぶ)せざらん」(『最澄辞典』田村晃祐編)と述べたのでした。伝教大師最澄は日本仏教の再興にも大きな役割を果たしなのでした。
 これによって、南都の律宗と華厳宗は各2名、三論宗と法相宗は成実宗と俱舎宗を加えて3名ずつとし、そこに天台宗2名が割り当てられたのです。前回も書きましたように、天台宗の2名には、それぞれ『摩訶止観』と『大日経』を専門に読むべき僧という条件が課せられたことで、天台円教と密教が盛んになる道筋が作られたのでした。弘法大師空海との急接近もそうした背景があったのです。
 しかし、それは伝教大師最澄の本意ではありませんでした。中国に出かけて学ぼうとしたのは、大乗仏教の天台の教えであり、法華経であったからです。そこで弘仁7年(816)『依憑天台集』を著わし、南都六宗や密教の根本には天台の教えがあると主張したのです。
 これがきっかけとなって会津在住の法相宗の僧徳一との論争が繰り広げられることになりましたが、弘法大師空海は一切反論することはありませんでした。
『依憑天台集』の序文において、伝教大師最澄は「天台(智顗)が伝える法は諸宗にとって明鏡である。陳、隋以降、唐が興る以前、[天台という]人は歴代[皇帝]から大師と称され、[天台が伝える]法は諸宗によって証拠とされてきた」(大竹晋訳『現代語訳最澄全集・第一巻入唐開宗篇』)と書いたのです。   
 伝教大師最澄からすれば、もっとも古いのが天台であり、その影響を受けなかった諸宗はなかったと断じたのでした。さらに、伝教大師最澄は、法相宗については「[玄奘(602―664)が法相宗の所依の経綸を翻訳し始めた]貞観19年(645)、権(“方便”)が振るい、実(“真実”)が隠れた日に、家々は義憤を発し、人々は実が滅びたのを歎き、雄雄しい筆を執って檄を馳せ、よこしまな敵を摧(くだ)いて幢(はやぼこ)を建てた。そうでありにせよ、海外における内額の者(仏教徒)はただ吠え声を出す苦労を有するだけであり、いまだ知が少ない事の委曲を理解していない」(『同』)、真言宗については「新しく来た真言家(真言宗)は[面受の相承を重んじ、]筆授の相承を滅ぼしている」と批判したのです。法相宗を中国に伝えた玄奘の訳が間違っていると指摘するとともに、書物に重きを置かない空海の真言宗も痛烈に批判したのです。

 

 


「十二年籠山行」で「好相行」に導かれた渡部光臣師 柴田聖寛

2021-09-20 16:41:51 | 天台宗

 

 比叡山時報令和3年9月8月号では、前号に続き「比叡山と十二年籠山行」のことが後編として特集され、現役の侍僧として真に道心ある菩薩僧を目指す渡部光臣師へのインタビュー記事が掲載されています。
 その一部を皆さんに紹介したいと思います。渡部さんは山形大学理学部地球科学科卒で、大学時代から仏教に興味があり、比叡山で在家から延暦寺の僧侶を要請する「叡山学寮」のことを知って入寮しました。渡部さんはあらかじめ選ばれた人だと思うのは、そこに入るにあたって「山形県から半年をかけての旅路のなか、四国のお遍路を経て学寮へと入寮いたしました」と書いているからです。心に絶えず問いかけながら、自らの意思で天台宗の僧となったのです。平成14年4月、叡山学院第5期生として入山、同10年に得度、その後叡山学院、叡山学寮、本山交衆の諸課程を経て、同21年4月に「浄土院」の住職に就任したのでした。
 一時は、渡部さんは再度旅に出ることを考えていましたが、「十二年籠山行」を遂行された112人目となる侍真僧で、当時叡山学院の院長であられた堀澤祖門己講大僧正の本を手にし、「好相行」(行者が仏の姿を目の当たりにすること)に興味を抱くようになり、それを機会に一山住職になろうと決心したのでした。
 同年6月16日には「好相行」へと入行、75日目の8月29日午後1時ころ、「好相」を感得。これが先達の宮本祖豊師により証明され、9月11日、戒壇院にて大乗菩薩戒(十重四十八軽戒)を自誓受戒。それから浄土院で侍真僧として十二年籠山行へと入行し、本年の4月1日に同行を遂業したのでした。
 渡部さんはお勤めをしている時に、直接伝教大師様(最澄)から受け取ったメッセージとして「ご遺誡」にある「口に麁言無く、手に笞罰せず、今我が同胞、童を打たずんば、我が為に大恩なり、努力めよ、努力めよ」でした。いつも穏やかな気持ちでいなさいということですが、それは同時に、渡部さんにとっては、欲を無くすことであり、伝教大師様の『願文』にある「常に仏事を作さん」というのを自覚することでもありました。日々の御勤めは比叡山にとどまらず、全国の寺社仏閣で行われており、各家庭でもお仏壇に手を合わせています。このことに指摘しながら、渡部さんは「そのネットワークが我が国を覆っている。大袈裟な話になってしまいますが、その祈りの総体で日本は護られている。そんな気がしています」と語っています。
 そして、同行を遂業した感想として、人と比べるのではなく「心の持ち方一つで物事は変わる」と述べるとともに、エネルギー問題の解決で世界平和を実現することを、自らの果たすべき「利他行」であり、「そのすべての実践が菩薩行に繋がると思っているからです」と自らの今後に関しても述べています。
 十二年籠山行の厳しさを知っている者として、私は渡部光臣師の話に心動かされました。「浄土院」では今もなお生きているがごとく、毎日侍真僧によってお給仕が続けられていますが、それ以外には「好相行」を感得することはできないのです。


「花その」社報で会津藩士秋月悌次郎を紹介  柴田聖寛

2021-09-16 09:08:57 | 読書

 

 東京都新宿にある花園神社発行の「花その」社報令和三年九月一日号が私どものところにも届きました。一面に片山裕司宮司が「中秋の名月」と題したコラムを書いていられます。明治6年に明治政府が行った旧暦から新暦の移行したことを話題にされています。閏年で13カ月の年回りであったのに、明治政府は11月の大酉終わった次の週に新年を迎えることにしたからで、給与を一か月分無くすという苦肉の策でした。これによって日本も世界の標準の中に含まれることになったのです。
 また、片山宮司は今回の東京オリンピック・パラリンピックについて評価が分かれていることに触れ、「十年、二十年後にはこの開催の全ての挑戦が好意的な評価で定着されることを念願しています」と述べていられます。
 毎回私が楽しみにしているのは、作家の中村彰彦先生の「歴史の坂道80」のページです。今回は「鶴ケ城址 夏草刈りて明るけり」。会津藩士で、京都で公用方を務め、長州を都から一掃することになった八・一八政変で重要な役割を果たし、会津の降伏にあっあても設営にあたった秋月悌次郎を取り上げています。獄中生活を経て漢文の教師となり、第一高等中学校の教諭を経て、明治二十三年九月には熊本第五高等中学校に赴任しましたが、「老いてからは学生たちの行軍を案じて草を刈る仙人のような人物となったのである」と書いています。
「鶴ケ城址 夏草刈りて明るけり」は会津の俳人新城杏所さんつくられた句だと思いますが、松平容保公の孫娘であった節子様が、昭和三年に秩父宮家に勢津子妃として嫁がれたことを記念した句だといわれています。賊軍の汚名が晴れたという思いがこめられているからです。

 合掌