会津天王寺通信

ジャンルにこだわらず、僧侶として日々感じたことを綴ってみます。

伝教大師伝⑦最澄と空海 柴田聖寛

2021-09-13 11:58:01 | 天台宗

 

 

 —写真は伝教大師最澄—

 伝教大師(最澄)の入唐の目的は天台の教えを日本に伝えることでしたが、帰国後は密教の普及に力を割かれることになります。弘法大師(空海)も伝教大師(最澄)と同じ遣唐使に便して留学をしましたが、伝教大師(最澄)よりも一年遅れて帰国しました。この差が密教の世界で大きな意味を持つことになるのです。弘法大師(空海)は長期間の滞在が許される留学僧でしたが、伝教大師(最澄)は期間が限定された還学僧としての入唐だっただけに、後れを取ったと言われても仕方がありません。
 弘法大師(空海)との密な交際が始まる以前の延暦二十五年(八〇六)正月三日、毎年所定の得度者の各宗派別定員について、新たに提案を上奏したのでした。
 それを受けて「太政官符治部省から年料度の数、並びに、学業を分かち定むべきこと」とという文書が出されました。ただし、天台宗法華宗の学業は、一人は「大日如来」もう一人は「摩訶止観」を読むことが定められたのです。桓武天皇が病気であったこともあり、密教手法の担い手としても、伝教大師(最澄)に期待が集まったのです。
 弘法大師(空海)は日本の真言宗の開祖ですが、延暦二十三年(八〇四)に伝教大師(最澄)の一行と共に唐に渡り、長安青龍寺で、恵果から胎蔵界と金剛界の灌頂、並びに伝法阿闍梨位に即位する灌頂まで受けたのでした。唐の永貞元年(八〇五)十二月十五日、其の恵果の入滅を送った後の翌年八月、越州から明州に出て、帰国の途に就き、十月には筑紫に到着。当初の予定より早かったために、大同二年(八〇七)ないし三年には、大宰府に滞在していたといわれます。
 恵果阿闍梨に関しては『岩波仏教辞典』では詳しく取り上げており、唐の密教のトップであったとみられています。
「恵果 けいか746―805 中国長安の東の照応で生まれる。俗姓は馬。はじめ曇貞につき、のち不空に師事して主として金剛頂経系の密教を授かり、また善無畏(ぜんむい)の弟子玄超から大日系と蘇悉地経系の密教受けた。金剛頂経の密教の大日経系の総合社と目され、金剛界と胎蔵界との両部曼荼羅の中国的な改変にも関与したと思われる。『十八契印』とか『秘蔵記』など密教の実習法の関する著作が恵果に帰せられるが翻訳はない。住坊である長安の青龍寺には、中国のみならず東アジア各地から弟子が集まった。空海は最晩年の弟子で、金剛界・胎蔵の両部密教を授かり恵果の滅後、碑銘を撰した。それは空海の『性霊集しょうりょうしゅう』巻2に収められている。真言宗の付法(ふほう)、伝持の第7祖」
 本流の密教を学んだ弘法大師(空海)に対して、伝教大師(最澄)は礼を尽くし、弘仁三年十二月十五日に弘法大師(空海)から金剛界の灌頂を授けられましたが、胎蔵界のためには別の日を選ぶ必要があったにもかかわらず、一方的に誤解したともいわれます。
 自らを愚といって恥じぬ伝教大師(最澄)は、自分の弟子を次々と弘法大師(空海)のいる高雄山寺に送り込みました。円澄、泰範、賢栄らですが、それは思い通りに進むことはありませんでした。とくに泰範をめぐってでした。もともとは元興寺の僧でしたが、病に伏した伝教大師(最澄)が「山寺総別当は泰範師、文書司を兼ね」と決めていただけに、弘法大師(空海)のもとへ去ったことによる衝撃は大きいものがありました。さらに、法門の借覧も弘法大師(空海)が『理趣釈経』を断ったことで、両者の関係は決定的となります。「秘蔵の奥旨は文を得るを尊しとせず」と弘法大師が拒絶の手紙を書いてきたからです。伝教大師(最澄)と弘法大師(空海)との違いは顕教か密教化の違いでもありますが、天台の密教は台密と呼ばれるように、その後、同じく中国に渡った慈覚大師円仁らの力で、独自の展開を遂げることになったのです。

         合掌


伝教大師伝⑥帰朝復命と高雄山寺での灌頂 柴田聖寛

2021-09-07 15:44:26 | 天台宗

 

 貞元二十年(八〇四)に明州に到着から約八カ月半の入唐求法の旅が終わり、帰途に就いたのは五月十八日のことでした。船は二隻で出発し、伝教大師が乗った第一船は六月五日、対馬の下県郡阿礼村に到着したのでした。第二船の方は肥前国の松浦軍血鹿島に着きましたが、いずれの船も天候に恵まれて、無事に祖国の土を踏むことができたのです。弘法大師の船は入唐のときには五十日余りもかかったのに対して、十五日を費やしたに過ぎませんでした。しかも、その船には多くの典籍や仏具も積み込まれていたのです。
 伝教大師の到着地に関しては、九州の博多付近に上陸し、筑紫国の独鈷寺(とっこじ)を創建したとか、舶送した法灯の火を、新宮村の横大路源四郎の家のかまどに伝え、その家の男子の正嫡(本妻から生まれた子)が絶えず、火は今日まで不滅であるとの「千年家(せんねんや)」の伝説なども残されています。
 桓武天皇への遣唐大使藤原葛野麻呂による帰朝報告は七月一日に行われており、伝教大師を含めた一行は、六月下旬までに上京したとみられています。伝教大師は上表文において、二百三十部四百六十巻の経論類を持ち帰ったこと、金字の『法華経』七巻、金字金剛般若経、金字菩薩戒経、金字観無量寿経、「天台大師霊応図」一張、さらには天台山で入手した仏具類を桓武天皇に進上したことを述べています。
 そこでの経論類とは「台州に向いて求得せる法門、都合一百二十八部三百四十五巻、越府に向いて本を取り写し取りし経ならびに念誦法門部、都合一百二部一百一十五巻」を指します。
 桓武天皇は天台の教えを広めるために、和気弘世に勅が下り、奈良の七大寺(東大寺、興福寺、元興寺、大安寺、薬師寺、西大寺、法隆寺)の分として七通の書写が命じられました。十年近い歳月をかけて弘仁六年(八一五)に完成し、すでに桓武天皇は崩御しており、この法文の摩訶止観に、金字の題を揮毫したのは嵯峨天皇によってでした。
 しかし、病に伏した桓武天皇が望んだのは密教の修法の方でした。田村晃祐編の『最澄辞典』によれば「天皇は延暦二十四年(八〇五)春から病にかかり最澄が唐に滞在中に、まだ僧の資格も得ていなかった最澄の弟子円澄に紫宸殿(ししんでん)で五仏頂法(仏の好相のうち不見頂相などといわれるような、仏体のうちでも最尊の仏頂を仏格化し、強力な威力と、理法を具備するものとみる、一字金輪仏頂、白傘蓋仏頂、高仏頂、勝仏頂、光聚仏頂の五仏を指す)を修せしめたりしていたが、最澄が帰朝すると早速高雄山寺に灌頂壇(かんちょうだん)を築かせ、仏像や大曼荼羅を画かせ、九月一日、七日と灌頂を修せしめ、灌頂を受けた八人の僧には伝法公験(仏法の証明書)が朝廷から与えられ、また、九月十七日には官中で毘盧遮那法を修した」のです。
 伝教大師による新伝の真言密教は和気弘世と縁のある高雄山寺で行われ、灌頂の受者として選ばれたのは、道証、修円、勤操、正能、正秀、広円らでした。天台における本格的な密教は慈覚大師よってもたらされたとしても、密教は新たに日本に伝えたという伝教大師の功績は大なるものがあったのです。伝教大師と論争を繰り広げた法相宗の僧徳一の師ともいわれており、修円もその受者の一人であったとみられています。


現代語訳で伝教大師様の教えがより身近に  柴田聖寛

2021-09-01 18:23:53 | 天台宗

 

  私が目下手元に置いて読んでいるのは『現代語訳最澄全集第一巻』(入唐開宗篇)、『現代語訳最澄全集第二巻』(権実諍論篇 1)、『現代語訳最澄全集第三巻』(権実諍論篇 2)、『現代語訳最澄全集第四巻』(権実諍論篇 3)です。いずれも去る5月に国書刊行会から出版されたばかりで、仏典翻訳家大竹晋氏が担当しました。
 大竹氏は『「悟り体験」を読む:大乗仏教で覚醒した人々』(新潮選書)で話題となった仏教思想家で、新潮社の著者プロフィルには「1974年、岐阜県生まれ。筑波大学卒業。筑波大学大学院哲学・思想研究科修了。博士(文学)。京都大学人文科学研究所非常勤講師、花園大学非常勤講師などを経て、2019年11月現在、仏典翻訳家。著書に、『唯識説を中心とした初期華厳教学の研究』『元魏漢訳ヴァスバンドゥ釈経論群の研究』(以上、大蔵出版)、『宗祖に訊く』『大乗起信論成立問題の研究』『大乗非仏説をこえて』(以上、国書刊行会)など。」と書かれています。
 とくに、私が感銘を受けたのは「『現代語訳最澄全集』を読むための基礎知識」という、第一巻の冒頭に掲載された文章です。あまりにも的確に分かりやすく解説されていたので、目から鱗が落ちる思いがしました。
 大乗仏教の五乗説についても、五乗(“五つの乗りもの”)が説かれていることを指摘し、「声聞乗とは、声聞(“[仏の]声を聞く者”)のための乗である。阿羅漢となることを肉的とする。」
「独覚乗とは、独覚(“[仏にめぐり会わず]”独りで悟った者”)のための乗である。独覚となることを目的とする」「菩薩乗とは、菩薩(“[仏の]菩薩を求める者)”のための乗である。仏となることを目的とする」。小乗としての声聞乗、独覚乗の小乗と、大乗の菩薩乗を説明するにあたって、そこまで気を配るのでした。さらも、そこに「人天上」という言葉も「死後に人か天かに転生するための乗である」とし、「阿羅漢、独覚、仏となることを目的としない」ことから、三乗と合わせて五乗と呼ばれますが、そうした基礎知識がなければ、文字だけを追いかけるだけでは読み解くことは困難ですから、冒頭部分から手引書としては申し分がありません。
 法相宗の五姓各別にしても「法相宗においては、種姓(宗教的素質)は声聞種姓、独覚種姓、菩薩種姓、不定種姓という五種類がある」と解説しながら、「あらゆる有情(“生物”)は五種姓いずれかの種姓の者である。声聞種姓、独覚種姓、菩薩種姓、不定種姓はいずれも本性住種姓(“先天的な種姓”)と習所成種姓(“後天的な種姓”)との二つからなる。本性住種姓はいずれ生ぜられるべき無漏(“煩悩を伴わない状態”)である智の種子(“潜在的状態である”」と書かれています。「先天的な種姓」「後天的な種姓」「煩悩を伴わない状態」「潜在的状態」という言葉を用いることで、理解しやすくなるのです。そして、法相宗においては「先天的な種姓」は声聞の智、独覚の智、菩薩の根本無分別智(“根本である、はからいなき智”)を生じさせますが、「後天的な種姓」においては、いくら仏になろうとしても無種姓では仏になることはできないのです。
 一闡提(いっせんだい)についても、法相宗では二種類あることを紹介しています。菩薩一闡提というのは、有情を救うために、あえて仏にならない者たちを指します。いずれは仏になりますから、阿羅漢、独覚、仏になることができない無種姓の者とは区別しています。これに対して私どもの天台宗は、あらゆる有情は理仏性(“真理としての仏性”)からなっており、「いずれ仏になると考えられている」のです。
 仏教を理解するのは難しいと言われていますが、今回の出版によって、現代語訳にすることで、伝教大師最澄様の天台の教えが、多くの人たちに理解されることになると思います。全体を論じることは私には困難ですが、確認の意味も含めて、大いに参考にしたいと思っています。

        合掌

 


「比叡山の十二年籠山行を『比叡山時報』が紹介  柴田聖寛」

2021-08-26 12:54:51 | 天台宗

天台宗が高い評価を受けているのは、もっとも厳しい修行を己に課すことからです。とくに比叡山の宗祖伝教大師御廟所をの「浄土院」はもっとも比叡山で清浄な地とされています。比叡山時報令和3年8月8日号では、伝教大師1200年大遠忌記念「比叡山と十二年籠山行」について紹介しています。
天台宗の信仰がどんなものであるかを理解してもらうには、それを知ってもらう必要があります。伝教大師祖廟「浄土院」は常に清められ、世俗とは一縁を画しています。そこでは、伝教大師が定められた「比叡山と十二年籠山行」が「侍真」と呼ばれる僧によって受け継がれています。「侍僧」という言葉は元禄12年に、安楽律(天台宗の属し、僧の日常生活の規則である小乗の四分律を加えた)霊空光謙が定めた『開山侍真条例』の「籠山比丘をもって祖廟の侍真とする」を踏襲しており、12年間にわたり、1日も欠かすことなく、太子宝前への捧斎供養にとどまらず、朝課、晩課の勤行を行い、籠山中には、境内から一歩も外に出ることが許されません。
この期間中に侍僧は法華か密教のいずれかを専攻しなければなりません。日々の勤行以外にも、御廟内外の清掃は厳しいものがあり、だからこそ清浄な地を保っているのです。年数の根拠に関しては、伝教大師最澄様は大乗戒律独立の根拠を示した『顕誡論』において『蘇悉地羯羅経』の「若し時念誦をなさば、十二年を経よ。縦ひ重罪ありともまた皆成就せん。仮使ひ法具足せざるも皆成就することを得ん」との文章を引き合いに出して、「最下純の物も十二年を経れば必ず一験を得る」と書かれました。それによって、『山家学生式』にある「一隅を照らす国宝的人材の育成」を目指されたのです。
 霊空光謙が『開山堂侍真条制』が制定されてから、目下奉職中の渡部光臣師にいたるまで、117名が浄土院で修行し、極限状態に耐えられず、籠山途中で死亡した者27名。籠山を終えた後に病死した者2名で、実に4人に1人が命を落としたことになります。
 また、侍真となるためには、その資格を得ようとすれば、『梵網菩薩誡経』の教えにもとづき、不眠不臥で仏様を会得しなければなりません。
 私ども天台宗は「一隅を照らす国宝的人材の育成」のために、令和の世に遭っても、信仰を自らのものとするために、厳しい修行を実践しているのであり、その典型が侍真僧なのです。天台宗では「十二年籠山行」は「回峰行」とともに、比叡山仏教の極みでもっとも厳しい修行といわれています。

              合掌


会津天王寺の開祖である観裕の父光孝天皇の歌を碑に 柴田聖寛

2021-08-23 14:24:49 | 天台宗

会津天王寺ではこのほど傳第五十八代光孝(こうこう)天皇が親王時代に詠まれた、

 君がため、春の野に出でて 若菜摘む

  我が衣手に 雪は降りつつ

の歌碑を建立いたしました。天皇自身の歌集『仁和御集』の冒頭の歌であると同時に、(『古今集』春上)や『小倉百人一首』にも収録されています。光孝天皇の皇子である僧観裕が元慶二年(八八三)に開山したのが天王寺です。行基作の十一面観音像を背負って東を目指し、菩薩のお導きによって会津高田(現在の会津美里町)の地を選んだといわれます。

光孝天皇のお人柄に関しては「温和で学識があり、人間味にあふれていた」(『日本三大実録』)に書かれています。その皇子である僧観裕も衆生を救うために、みちのくに足を踏み入れられたのでした。会津で唯一皇室ゆかりの寺として伝承されていることもあり、ここに僧観裕の偉業を偲び、光孝天皇の歌碑を建立いたしました。

歌人の佐佐木幸綱は「あなたのために、春の野に出て若菜(わかな)を摘む私の衣の袖(そで)に、雪がふりかかる」(『口語訳詩で味わう百人一首』)口語訳しています。

若菜というのは、せり、なずななどのことを指し、愛する人のためにようやく春になって野草の新芽を摘むようになったことを表現したのでした。

光孝天皇は(八三〇から八八七)。仁明(にんみょう)天皇の皇子で。第五十八代の天皇。在位期間はわずか三年でしたが、和歌を復興させるのに尽力したことで知られています。

      合掌

  令和三年八月吉日 第五五世 会津天王寺 聖寛代