会津天王寺通信

ジャンルにこだわらず、僧侶として日々感じたことを綴ってみます。

九十九匹より一匹を救うのが宗教 柴田聖寛

2022-07-15 17:29:23 | 読書

 —写真は福田恆存氏—

 安倍元首相を銃撃した犯人の動機はまだ解明されていませんが、政治的な問題よりは、もっと根深いものがあるように思えてなりません。福田恆存さんに「一匹と九十九匹」という文章があります。昭和二十二年に書かれたものですが、そこで福田さんは、政治は九十九匹を救うことができても、残りの一匹は、政治ではどうすることもできないことを、リアリストの立場から論じています。「善き政治はおのれの限界を意識して、失せたる一匹の救ひを文学に期待する。が、悪しき政治は文学を動員しておのれにつかへしめ、文学者にもまた、一匹の無視を強要する。しかもこの犠牲は大多数と進歩の名分のもとにおこなはれるのである」
 福田さんからすれば、政治とは、明日のパンをどうするかといった、現実的な課題を解決するのが最優先です。残りの一匹については、文学が取り組まなければならないのです。それは同時に、数の問題だけではなく、誰もが一匹を抱えていることを、私たちに教えてくれます。どんな人間であっても、内面的な葛藤が付き物なのです。
 私のような僧侶は、その一匹のために、祈りを捧げるのが使命です。常日頃自分に言いきかせています。今回の犯人は、政治が悪いという短絡的な思考の持ち主のような気がしてなりません。それで安倍元首相の殺害を思い付いたのではないでしょうか。宗教は数ではありません。九十九匹ではなく、一匹のために、全身全霊を傾けるものです。とくに仏教では、人は煩悩に支配されているとの見方から、そこから抜け出す手立てを示しているのです。  
 どんな人でも、最終的には宗教によって救われるのです。政治家は数による争いです。敵と味方を区別することが求められます。私ども天台宗にあっては、悉有仏性なのです。どんな人でも仏様になれるのです。誰もがその信仰を抱くようになれば、人と人との争いもなくなり、まして戦争など起きるわけがないのです。

        合掌


伝御大師伝⑪伝教大師最澄と徳一の論争Ⅲ発端 柴田聖寛

2022-07-09 08:50:53 | 天台宗

 最澄と徳一の教理論争について、私なりに理解していくうえで、もっとも参考になるのは、田村晃裕先生の『最澄教学の研究』です。まずは田村先生の見方を導きの書として、そこに大竹晋訳の『現代語訳最澄全集五巻』(令和三年発刊)が手助けとなって、一歩一歩踏み出してみたいと思っています。        
 最初に田村先生は、この論争の研究の難しさに関して触れています。第一に、論争相手となった徳一の著作がすべて失われてしまっている。第二に、天台教学ばかりでなく、法相教学、涅槃教学など、幅広い基礎的仏教教学の知識が要求される。第三に、論争の中核をなしている『守護国界章』には、天台教学への誤解ないし、最澄の著作としては不可解な点が含まれている。
  徳一が書いたものが何一つ残っていないというのは、内容に深く立ち入るためには、困難があることを意味します。また、基礎的な仏教教学ということでは、私は叡山学院でその辺のことを少しは学びましたが、それを確認するためにも、私なりの解釈をしていくしかありません。足元に及びもつかないかもしれませんが、信仰があれば、必ずや目標を達成できると信じています。最澄が天台教学と異なっていたという視点は、ある意味では日本仏教化のためには避けては通れなかったのではないでしょうか。
 この論争の経過がどんなものであったのかが問題です。様々な見方があることを田村先生は紹介しているが、発端となったのは、大屋徳城(「平安朝における三大勢力の抗争と調和」)・塩入亮忠(「守護国界章解題」)・高橋富雄(『徳一と勝常寺』)説では最澄の法相宗批判であったとみるのに対して、薗田香融堯央(「最澄とその思想」)・木内堯(『伝教大師の生涯と思想』)説では徳一にあるとしています。
 大屋・塩入・高橋の説では、最澄の『憑依天台宗』がまずあって、それに徳一が応じたという考え方です。薗田・木内説は徳一が『仏性抄』が著わしたので、最澄が黙っていられなかったというのです。
 また、田村先生は、初期の最澄の作品として『守護国界章』を重視します。その論争を二つに分けて考えるからです。「『守護章』九巻は、最澄・徳一論争関係の著作の中でも、最も大部で包括的な著作であるばかりでなく、最澄著作としても最も確実なものの一つである点からも、著作の時期がほぼ確実な点や、また、批判対象となっている徳一の著書の名が『中辺義鏡』であると知られることからも、論争史研究の中核をなすべき書物である。しかも内容を検討してみると、論争初期のものであることが知られ、直接の論争書としては最初のものである『照権実鏡』(しょうごんじっきょう)が書かれた翌年の成立であり、この点からも先ず本書の研究から論争の経過についての検討を始めるのが最も適当であることが知られる」

       合掌

 

 


伝教大師伝⑩伝教大師最澄と徳一の論争Ⅱ道忠教団 柴田聖寛

2022-06-26 08:32:09 | 天台宗

 学者でもない私が伝教大師最澄と法相宗の僧徳一との論争について言及することは。おこがましいことでありますが、生涯勉強ということで、それなりに私が理解したことをまとめてみたいと思います。その場合に大いに参考になるのは、最澄研究家の第一人者である田村晃裕先生の『最澄教学の研究』であります。皆さんもご承知のように、最澄を知るには徳一を、徳一を知るには、最澄を知らなければなりません。その意味においても、田村先生は、徳一研究家としても第一人者です。
『最澄教学の研究』が出たのは平成三年のことですが、仏都会津というのは見直され出したのは、平成になってからで、湯川村に勝常寺の薬師三尊像が国宝に指定されたのは、平成八年になってからです。その頃に東大仏教青年会の人たちが調査に会津を訪れています。田村先生がその口火を切ったといっても過言ではありません。
 田村先生は、最澄の教学上の功績として「大乗戒壇を比叡山に設け、奈良で行われていた戒律の制度と異なる、新しい大乗戒のみによる得度・受戒の制度を確立し。受戒以後一二年籠山せしめ、これによって純粋な大乗の僧の養成を志した」「法相宗の徳一との教理論争がある。最澄の天台宗は一乗思想に立ち、奈良で最も隆盛を誇っていた法相宗の三乗思想とは、教学的に対立する関係にあった」との二つを指摘しています。
 とくに田村先生が重要視するのは、後者です。それまでも最澄は法相宗の僧との間で論争をしてきた経過があり、その相手が会津在住の徳一ひとりに絞られたのは、前回も触れていますが、最澄が弘仁八年(八一七)に東国の道忠の弟子・孫弟子の所を訪問したことがきっかけです。比叡山と会津ということで、遠く離れた地であったために、文章によらざるを得なくなり、多くの書が著わされることになったというのです。
 道忠については『叡山大師伝』において「東国の化主道忠禅師という者あり。是はこれ大唐鑑真和上の持戒第一の弟子なり。伝法利生を常に自ら事となせり。遠志を知識して、大小の経律論二千余巻を助写す」と記述されています。最澄が一切経の書写の援助を奈良の七大寺(東大寺、興福寺、元興寺、大安寺、薬師寺、西大寺、法隆寺)に求めたのは延暦十六年(七九七)のことです。道忠は奈良の大寺の僧との交流があったとみられ、最澄の願文は道忠も読んだといわれています。鑑真は天台大師の流れをくむことからも、「持戒第一の弟子」である道忠は、二つ返事で最澄に協力したのです。道忠が六十四歳のときです。それから彼は三、四年して亡くなりますが、「助写」によって、最澄と道忠教団との絆は強化されていたのでした。
 由木義文氏の『東国の仏教』では「道忠と最澄との関係が、延暦十六年に開かれると、漸次、道忠門下の人々は比叡山に登るようになっている。まず、その翌年の延暦十七年には、円澄が、大同元年(八〇六)には、安慧が広智に伴われて、さらには大同三年(八〇八)には円仁が広智に伴われ、それぞれ比叡山に登っている。そして最澄の弟子として、大きく成長していくのであった」と書かれています。
 また、そこでは「鑑真は、凝然の著わした『三国仏法伝通縁起』では、天台宗の第四祖とされている。それは天台大師・智顗—章安大師・灌頂—弘景—鑑真という系譜になる」と紹介しています。
 徳一教団は会津ばかりではなく、その範囲は福島全域、茨城県、山形県、栃木県、群馬県を含む勢力圏でした。徳一建立の寺と称されているものは、実に三十三ヶ寺にのぼります。これに対して、最澄の東国巡化は道忠教団をバックアップするためでした。由木は東国巡化の最澄の目的も詳しく述べています。「東国巡化の一つの要因は、同じ信仰を持つ者と、信仰の喜びを共にしようということであり、もう一つは徳一教団への対策、対応、ならびにそれより道忠教団を護ろうというものであったということになろう。前者は『法華経』二千部一万六千巻を書写し、上野国と下野国に宝塔を建て、各々に千部八千巻の『法華経』を安置し、そこで連日『法華経』、『金光明経』、『仁王経』を講じたということになってこよう。その時、集まった人々について『叡山大師伝』は百千万人と、『元亨釈書』は、上野の縁野寺(浄土院)には九万人、下野の大悲寺(大慈院)には五万人、と記しているがこれにより、いかに多くの人々が、最澄と共に、しようとしたかが知られよう。また、『慈覚大師伝』には、上野と下野で各々円仁含め十人選んで伝法灌頂をおこなったとも記されており、ここにも信仰の喜びを共にしたことがみられよう」(『東国の仏教』
 由木氏によれば、もう一つ特筆すべきは、徳一の『仏性抄』への反駁である『輝権実鏡』がその時に書かれたということです。天台教学の根本である『法華経』の偉大さを信徒に確認してもらうとともに、理論的にも、法相宗より優っていることを示す必要があったからです。
 さらに、由木氏は、最澄の東国巡礼を実現させた広智にスポットをあてています。すでに道忠はこの世を去っており、道忠教団では広智が中心であったからです。それ以前に広智は三回にわたって比叡山に登っているほか、『慈覚大師伝』では「唐僧鑑真和尚第三代の弟子なり」と記しています。
 広智がいた大慈寺は下野薬師寺の戒壇に近く、由木は「道忠は戒壇とは別に『伝法利生』の根拠地として、大慈院、あるいはその他の寺を持ったのであろう。このことは、鑑真が東大寺の戒壇とは別に、律の道場として唐招提寺を持ったことなどを考え併せてみても、決して矛盾ではないだろう」との見方を示しました。
 最澄と徳一との論争は、単なる教義上のものだけではなく、二つの教団の勢力圏が接していたことで、なおさら加熱したことは否定できません。論争の内容に立ち入る前に、そうした背景も、私たちは知っておかなくてはならないのです。

            合掌

 

 


天台宗檀信徒会会長として眞鍋幸意氏(天王寺)が役員会に出席

2022-06-13 19:18:26 | 天台宗

 

 —天台ジャーナルの令和4年6月1日号—

 —辞令を伝達される役員 左から2人目が眞鍋氏—

―廬舎那仏の前で法楽をする岩田教学部長

 天台宗檀信徒会(眞鍋幸意会長)の今年度の第一回役員会は先月12日、京都市東山区の方広寺で開催されました。眞鍋会長は会津天王寺の檀信徒会長でもあり、全国のトップとして、天台宗のために尽力されておられます。 
 同役員会が宗務庁(坂本)以外で開かれるのは今回が初めて。延暦寺を初めとする滋賀や京都の天台宗の仏教文化に触れてもらおうと、所管する教学部布教課企画しました。方広寺以外にも、目と鼻の先の京都国立博物館で開催中の「最澄と天台宗のすべて」も見学しました。
 同役員会終了後、木ノ下方広寺住職から同寺が所蔵する文化財の説明がありました。豊臣秀吉が祀られている豊国神社が隣接しており、1586年に秀吉が請願した大仏を安置したことで知られています。その大仏は「東海道中膝栗毛」でも取り上げられています。大仏は焼失してしまいましたが、現在はその10分の1の廬舎那仏が安置されています。
 歴史に造詣の深い方はご存じだと思いますが、秀頼の時代の1614年に完成した梵鐘に「国家安康」「君臣豊楽」と刻まれていたために、家と康が離れていたことや、豊臣だけが栄えることを願ったとして、徳川方が難癖をつけ、豊臣家が滅亡するきっかけになったのでした。そうした歴史の舞台となった場所だけに、役員の皆さんも熱心に質問されていました。
 また、当日は岩田真亮教学部長から新役員に辞令が伝達されました。岩田同部長は「せっかく皆さんに集まってくださる皆さんに会議だけではもったいないと考えた」と挨拶されました。
 眞鍋会長も「今後もこのような機会は時間さえ合えば可能」と要望されていました。来る7月8日には檀信徒会長会議が比叡山延暦寺で予定されており、昨年同会から奉納された賽銭箱、根本中堂大改修の模様を見学することになっています。私も眞鍋会長のお伴をいたしましたが、檀信徒の皆様のお力があるからこそ、今の天台宗があるのだと思います。

             合掌


王道の精神で日中は仲良くすべきだ 柴田聖寛

2022-06-03 08:24:44 | オピニオン

 

―写真は孫文—

 中国どう付き合うべきかについては、私も頭を抱えてしまいます。地理的にも近い国であり、まったく無視できないからです。私の親の世代の多くは中国大陸に兵士として出かけています。アメリカとの戦争に付いては、日本人の一部に肯定的な見方がありますが、中国への侵攻となると、日本の暴走以外の何物でもありません。
 私は二本松市出身ですが、右翼の巨頭といわれ、ロッキード事件で有名になった児玉誉士夫氏とは同郷です。その児玉氏が作詞し古賀政男が作曲したのが「民族の歌」です。藤山一郎が歌いましたが、その九番に「攻防千里大陸に 砲火にまみえしその敵は 同じ亜細亜の朋にして 永久にぞ悔いを残したり」というのがあります。アジア人同士が戦ったことを後悔しているのです。
 私の知り合いは中国人も多く、体制の違いを超えて仕事もさせてもらっています。わたしどもの天台宗も、もとをただせば中国浙江省東部に位置する天台山と深い関係があり、そこで天台宗の開祖である智顗が天台教学を確立したのです。
 中国がロシアのようなことにならないように、私たちは警戒をしなくてはなりませんが、それと同時に、民間の交流は積極的に行うべきだと思います。その積み重ねが日中関係の改善に結び付くからです。
 岡倉天心以来、日本ではアジアは一つというスローガンがありました。そこに向かって行くには、日本も中国も変わらなくてはなりません。中国は王道を目指すべきであり、日本もアジア全体の視点を持たなくてはなりません。魯迅の研究家であった竹内好氏のように、私たちは、アジア人であることを再確認しなくてはならないのです。欧米一辺倒であってはならないのです。 
 新型コロナが沈静化すれば、早い機会に私も中国を訪れたいと思っています。南京などでは、私は現地の人と一緒に風呂に入り、裸の付き合いをしました。同じ人間同士ですから、争うことよりも、協力し合うことが大切なのです。

               合掌