会津天王寺通信

ジャンルにこだわらず、僧侶として日々感じたことを綴ってみます。

アジア人の原郷としての中国へのあこがれ 柴田聖寛

2022-10-23 11:33:03 | 読書

 私は団塊の世代に属しますが、好きな詩人に谷川雁(がん)がいます。今では知る人も少なくなってしまいましたが、私の若い頃には、谷川雁と吉本隆明が双璧でした。なぜ私が谷川に惹かれたかと言えば、アジア人の原郷としての「東洋の村」としての中国へのあこがれがあったからです。
 私が一天台宗の僧侶として、中国を訪問したのは、伝教大師最澄や、慈覚大師円仁の足跡を訪ねるとともに、同じアジアの同胞である中国の人たちと、親しくお付き合いをしたかったからです。訪中の回数は、三十代後半から現在まで100回を超えますが、そうした心境になったのは、谷川の『原点が存在する』を読んでいたからです。
 先の戦争での日本の軍国主義を支えていたものは、「大地から引き離された」農民の意識でした。谷川は、戦後の日本の進歩主義が怠惰であったことで「かつての軍国主義の裂け目から、それ(農民)を土台として咲かせることに失敗した」というのを問題にしたのです。
「民衆の歪められた夢」を本当の夢に近づけるために、谷川がこだわったのは「法三章(法律を簡素化する)の自治、平和な桃源郷、安息の浄土」でした。谷川はそのアジアの精神を詩人としての言葉にまとめています。
「日本の民衆が永きにわたってあこがれ、民衆自身が分けもっている乳色の素肌の光…それは下級の村落共同体から流れ出し、今日の大地をなお蔽っている規模の小さな連帯の感情ではありますまいか。この東洋の村の思想こそこの世の壁の幾重を通して貧しい私のなかに流れ入った光の本体ではありますまいか。そして西行が一本の杖にすがり、芭蕉が『その貫通するものは一なり』と叫んで求めていった無名大衆への愛はわれしれずこの遠い源流へ向かっていたのではありますまいか」
 日本と中国との間には、国家間の利害の対立はあったとしても、民衆レベルでの固い絆は、何物にも代えがたいものがあります。アジアは一つ、王道の精神というスローガンを、今こそ噛みしめるときではないでしょうか。日本と中国は、手を携えてアジアの平和の花を咲かせなくてはならないのです。


めでたい漢字にこだわった氏郷—中村彰彦先生の『歴史の坂道』

2022-09-13 11:41:21 | 読書

ー中村彰彦先生ー

  私が会津に来てビックリしたのは、歴史好きが多いということです。よく読まれているのが中村彰彦先生の著書です。中村先生は花園神社社務所発行の社報『花その』で「歴史の坂道」というコラムを担当しており、令和4年8月1日号では「『松』の字を好んだ名将・蒲生氏郷」を執筆しています。
 秀吉が九州を平定した後に、氏郷は16万石を与えられ、伊勢国壱志郡(いちしごおり)の松ヶ島城に封じられました。中村先生によれば、その場所で満足できなかった氏郷は、近くの四五百森(よいほもり)に新城を築き、「兎角(とかく)我ニハ松ノ字吉相ナリ」(『氏郷記』)というのを信じていたために、そこを松坂城、城下を松坂と名付けて、家臣をそちらに移動させたのでした。
 よくいわれているのは、会津若松の「若松」の地名は、」故郷の近江国蒲生郡若松の森に由来するという説です。中村先生は別な見方をします。氏郷が「四五百森」を「松坂」と改称したように、めでたい意味を持つ漢字にこだわったということに、あえて言及したのでした。
 氏郷が会津42万石を与えられたのは、天正18(1590)年の小田原北条攻めで奮闘したからです。秀吉は同年8月17日、伊達政宗が芦名を滅ぼして自らの領地にしたのを取り上げて、信頼できる氏郷を据えました。天下人になりたかった氏郷には不満もあったといわれますが、同10月に勃発した大崎・葛西一揆を鎮圧したほか、九戸政実(くのえまさざね)の乱も平定したために、会津42万石は、92万石に加増されたのです。そして、杉目は福島に、白石は益岡に、米沢は松崎と改名されました。つまり、中村先生は、黒川を若松にしたのも、その一つであったというのです。
 ですから、氏郷にとって会津は、あくまでも仮の領地でしかなく、だからこそ自らの直轄領は「わずか9万石ノ外ハナカリケリ」というありさまでした。志半ばで倒れた氏郷は、悲運の武士であったのです。中村先生は氏郷の辞世の句も紹介しています。

 限りあれば吹(ふか)ねど花は散るものを心短き春の山風

  合掌

 


日中国交正常化50周年を迎えて 柴田聖寛

2022-09-04 12:20:48 | オピニオン

 私にとって中国は、伝教大師や慈覚大師の足跡を訪ねて歩いた想い出の国です。それだけに、日中国交正常化50周年を記念して、来る15、16の両日にわたって「友好の初心を温め 美しい未来を共に切り開く」をテーマにしたオンライン形式での交流会議が開かれますが、もう一度両国の絆を確認する必要性を痛感してなりません。
 私が最初に中国の土を踏んだのは、今から40年ほど前のことになります。当時私は京都の大原三千院で修行の身でしたが、自分の信仰を打ち固めるためにもと思い、単身で出かけたのでした。それから毎年のように訪中し、最近では新型コロナで中断しているとはいえ、延べ100回は超えています。主に天台山や五台山が中心ですが、シルクロードのウルムチや敦煌などにも足を延ばしました。その道を通って仏教もまた伝わってきたからです。
 もう私は75歳になってしまいましたが、新型コロナが収まれば、ぜひともまた出かけたいと思っています。私の妻は元中国人で、日本に帰化しました。私が南京で宿にしていた所の娘さんで、いつしか離れられない仲になったのです。ですから、私の長女も9月下旬には、母親の生まれた中国にわたり、北京の清華大学で学ぶことになっています。
 日中国交正常化記念としての標語募集では「草の根の交流の輪に咲く未来」というのが最優秀賞に選ばれました。国家単位では色々な問題があったとしても、民間レベルでは、交流を深めていかなくてはなりません。日本も中国も、両国とも岐路に立たされていると思います。日本は多くの人口を抱える中国と仲良くした方が得策です。中国もまた、日本を必要としているはずです。日本はアジアでもっとも早く近代化を実現した国家です。体制は異なっても、利害が異なるわけではありません。
 私は会津美里町の天王寺の住職をしていますが、会津の人は孫文をかくまったといわれ、その話が会津坂下町に残っています。さらに、戊辰戦争で敗れた会津人は新天地を中国大陸に求め、辛亥革命に馳せ参じた人たちもいたのです。亡国の民となった人たちは、狭い日本に飽き足らなかったのです。いかなることがあっても、両国が争うようなことがあってはなりません。それを「再確認」する大切な年に私たちはすべきなのです。

      合掌


天台宗檀信徒会が根本中堂の大規模改修を見学 柴田聖寛

2022-08-03 11:52:03 | 天台宗

 

ー挨拶する眞鍋会長—

 天台宗檀信徒会(眞鍋幸意会長)の会長会と総会が先月八日と九日の二日間にわたって比叡山会館で開かれましたが、私も去る五月の同会役員会に引き続き、眞鍋会長のお伴をして、比叡山に出かけてきました。阿部昌宏宗務総長や岩田真亮教学部長のお二人には本当にお世話になりました。会議後に檀信徒の皆さんは、昨年に同檀信徒会が奉納した賽銭箱や、国宝である根本中堂大改修の模様を見学することができました。関係者各位のご配慮には深く感謝申し上げます。
 根本中堂とその前の廻廊は、400年ほど前に再建されましたが、老朽化が進んでいたために、滋賀県が平成28年(2016)に着手しました。昭和30年(1955)に半解体で一部分が改修されましたが、今回は大規模改修で「屋根の葺き替え」「塗装(ちゃん塗・丹塗・漆塗」「彩色の洗浄剥落止」「柱・軒廻り・床下の木部修理」「飾り金具の修理」が予定さています。
 根本中堂とその前方にある回廊(重要文化財)は、現在は大きな覆い屋「素屋根」の中にありますが、私たちは修学現場を見学できる「修学ステージ」(3階)で、工事関係者から説明を受けることができました。
 これまでに、根本中堂の「柱・軒回り・床下の木部改修」の沈下修正が行われ、真日本曳家協会からの要請を受けて、吾妻組が担当しました。床下で支えている柱を根継ぎする作業などが順調に進んでいます。目下、問題になっているのは、廻廊の屋根の改修に必要な長野県産のサワラ材の確保が難しくなっていることです。当初の予定の10年よりもずれ込み、工期が1年9カ月延長し、完成は2027年12月とみられています。
 工事期間中であっても、参拝ができるようにと配慮がされていますし、珍しい作業を目にすることもできますので、是非とも参拝のほどよろしくお願いいたします。

             合掌


「伝教大師伝⑫伝教大師最澄と徳一の論争Ⅳ『照権実鏡』」

2022-07-21 22:19:33 | 天台宗

 最初から田村先生は本論に切り込みますが、その難しい議論に立ち入る前に、私は最澄の『照権実鏡』から読み始めたいと思います。田村先生は「『照権実鏡』(しょうごんじつきょう)は細かな教理問題を取り上げて徳一と議論をまじえるという書物ではなく、その点『守護章』とは全く性格を異にしている」と述べるとともに、薗田香融先生が「最澄が東国を訪問した際、旅先で書かれたものであろう」(岩波日本思想体系『最澄』)と推察したことを、「これは十分考えられる想定であると思われる」と述べたのです。
 田村先生は「本書は、一巻の小篇で、真実の教えと方便の教えとを見分ける基準を一〇項目にわたってあげ、それによって法華経が真実の経典であることをしめしたものである」との見解を示したのでした。
 私は『現代語訳最澄全集第二巻権実諍論』に依拠しながら、皆さんと考えてみたいと思います。まずは『照権実鏡』の序文を紹介いたします。「かの悪い法相師は『法華経』を権密である説、方便である説、随他意(他者の本意に沿うもの)である説、[不定種姓の者を大乗へと]引き入れるための説、狭いありかたである説と執着し、人をそしり法をそしること昼も夜も息(や)まず、起き臥しとともにある。かならずや[悪い]最期を遂げるはずである。その苦を抜いてやるために、謹んで『照権実鏡』一巻を著し、敬って賢客に進めたてまつる。願わくは、中道の人にとって天の太鼓となり、下愚の人にとって毒の太鼓とならんことを。信ずるにせよそしるにせよ、ともに利益となって[仏前に焚く]名香(みょうごう)を数えることになるし、讃えるにせよ咬みつくにせよ、ともに利益になって、かならずや仏となるはずである。云爾(しかいう)」
「かの悪い法相師」とは徳一を指すとみられますが、『法華経』を権密や方便であると主張していることに対して、最澄は自ら信じる真実の教えによって、いかに敵対しようとも、最終的には「仏になるはずである」との信念を吐露したのです。
 最澄からすれば、三乗や一乗という区別は本来ないのであって、法相宗が『解深密経(げじんみっきょう)』を重視し、『法華経』を権密(ごんみつ・方便と密意)と見下すことに触れ、「五天竺には善い瑜伽師と悪い瑜伽師とがおり、悪い師を論破して捨て、善い師に習って伝えている」と述べているのは、法相宗が属する唯識の思想は、一乗に帰するのであって、三乗に与するわけがないとの立場であったからです。わざわざ世親ではなく、天親という呼び方をしているのは、玄奘法師が中国に持ち帰った以前の名前にこだわって、自らの正しさを訴えたいからです。最澄には、法相宗の根っこの部分である唯識の思想を知っているという自負があったからです。
 また、最澄の『照権実鏡』は「身を養うことは一乗のためであるが三乗のためではないという鏡・第一」「仏は一乗を勝れていると規定したまうたという鏡・第二」「一乗は海と規定され三乗は川と規定されるという鏡」「三乗の区別は本性ではないという鏡・第四」「諸乗は究竟ではなく一乗は究竟であるという鏡・第五」「真に依拠して一乗を説き俗に依拠して三乗をとくという鏡・第六」「一乗を分けて三と説くという鏡・第七」「三乗は有名無実であるという鏡・第八」「顚倒心(仏に出会った人は逆さまにならない)ゆえに三乗は実となり一乗は権となるという鏡・第九」「『法華経』における一乗は真実であるという鏡・第十」からなっています。
 最澄は自分の意見を述べるのではなく、『涅槃経』『摂大乗論(しょうだいじょうろん)』『[摂大乗論]釈』『大薩遮尼乾子経(だいさつしゃにけんしきょう)』『大乗壮厳経論頌』『入楞伽経(にゅりょうがきょう)』『法華経』『妙法蓮華経』『[法華論]』『仏性論』などを根拠にして、一乗信仰の正しさを論じたのです。
 とくに私が注目するのは「仏は一乗を勝れていると規定したまうたという鏡・第二」です。無著(むじゃく)論師と天親論師の書いたものを持ち出したからです。最澄によれば、天親の『[摂大乗論]釈』では「一乗の勝れていることがわかる。ゆえに明鏡とする」と結論付けているのです。最澄は、徳一の拠って立つ足もとを批判したのです。これは徳一にとっても由々しき事態であり、反論に力が入ったことは確かだと思います。