会津天王寺通信

ジャンルにこだわらず、僧侶として日々感じたことを綴ってみます。

ムッソリーニの白虎隊記念碑について語った中村彰彦先生 柴田聖寛

2022-01-21 10:39:42 | 読書

 

 私は会津人のように思われがちですが、生まれは二本松市ですから、生粋の会津人ではありません。しかし、会津の歴史には興味がありますから、中村彰彦先生の本をできるだけ読むようにしています。その中村先生が「花園神社社報」令和3年12月1日号で飯盛山の白虎隊記念碑について書いています。心なきネット民2人に反論したのでした。
 正式には「聖嶽洞窟遺跡・白虎隊記念碑とアナクロニズム」という題名ですが、「聖嶽洞窟遺跡」についても簡単に触れておくと、大分県の聖嶽洞窟遺跡から発見された人類の後頭部が北京郊外で発見された周口店山頂洞人と同じ性質を持つとした大学教授の鑑定が誤りであることが明らかになり、そのことを週刊誌が取り上げ、大学教授が自殺することとなったのでした。
 捏造疑惑を4回にわたって報道した週刊文春の記事が引き金になったということで、中村先生を「たしか学者を自殺に追いやったことがある」とネットに書きこまれたのでした。あくまでも中村先生はその大学教授が自殺した8カ月に聖嶽洞窟遺跡の検証記事として執筆したのであり、時系列的に見て誹謗中傷でしかない、と反論すると、相手はすぐに書きこみを消去したというのです。
 私が注目したのは、そのもう一つの書きこみです。会津若松市の飯盛山にあるムッソニーが寄贈した白虎隊記念碑があるが、どうして、それについてコメントしないのかというニュアンスだったとか。
 中村先生は歴史的に見て、日独伊三国防共協定が「日本に亡国の道を歩ませるきっかけとなった、みなしても誤りではない」と断言しつつも、「巨大なエンタシスの古代の石柱の上に鷲の彫刻を乗せたこの記念碑が、 イタリア首相ムッソリーニによって福島県会津若松市へ贈られたのは昭和3年(1928)12月1日のこと、石柱の背面にはラテン語で『武士道の精華に捧ぐ/ローマ元老院及び市民より』と刻まれており、ムッソリーニは自分及び自分を党首とするファシスタ党の名声をこの記念碑によって極東へもひろめよう、などというケチな考えは持っていなかった」と書いています。
 その理由としては「イタリアには独立の英雄ガリバルディの育てた赤シャツ隊があり、後には黒シャツ隊も編成されて共産軍と戦った。そのイタリア人にとって白虎隊は白シャツ隊に他ならず、忠君愛国のために身命を捨てて顧みなかった崇高な少年たちとして高く評価されていた」と指摘したのです。
 さらに、私が感慨深く読ませてもらったのは、白虎隊を敬慕してやまなかったリヒャルト・ハイゼ著の『日本人の忠誠心と信仰』の訳者であった瀬野文教氏の「解説」を引用しながら、ムッソリーニにもまともな時代があり、リラ貨幣の安定、教皇庁とラテラノ条約を結んでイタリア国家とカトリック教会の和解をなしとげたことと、小麦増産運動、土地改良計画の推進、公共事業による失業者の推進などを紹介しています。リヒャルト・ハイゼは、その頃のムッソリーニか「健全な首相だった」との見方をしていたのです。
 現在もなおムッソリーニが寄贈した白虎隊の記念碑が飯盛山にあるというのは、それなりの理由がある、と私も思っていました。雪が溶けたらば、じっくりこの目で何が書いてあるかを見てみたいと思っています。

       合掌

 

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「中村彰彦先生が会津藩家老山川兵衛や土方の小姓市村鉄之助を紹介」  柴田聖寛

2021-11-28 12:21:03 | 読書

  左は山川健次郎、右は土方歳三

 作家の中村彰彦先生は月刊「はなその」(花園神社社務所発行)に「歴史の坂道」というコラムを連載されていますが、10月号と11月号では、それぞれ「種痘接種を主張した名家老・山川兵衛」「土方歳三の小姓・市村鉄之助は何処へ」という文章を書いておられます。
 山川家が家老にまでなることができたのは、山川浩・健次郎兄弟の祖父山川兵衛の代になってからです。兵衛は目付、勘定奉行、若年寄と抜擢されましたが、天保10年(1839)には家老に指名され、山川家はそれまでの300石から1千石に増えたのでした。
 それから安政6年(1859)に隠居するまで20年間家老職にあり、海のない会津の人々に栄養を摂らせるべく、ウナギ、ナマズ、シジミの養殖を奨励したほか、会津松平家の人々に種痘を接種してもらおうと努力したのでした。
 この種痘に関しては、容保公が9代目の藩主に就いたときには、先代の容敬公の遺児である当時10歳の敏姫との婚約が決まっていましたが、藩医の反対に遭って実現しなかったために、嘉永5年(1852)に敏姫は疱瘡を発病し、「天与の美貌」といわれていたのが、あばたが残ることになってしまいました。そして、容保公との祝言は安政3年(1856)にあげたものの、わずか19歳で薄幸な生涯を閉じたのでした。
 中村彰彦先生は女性史研究家の柴圭子さんの「松平照子」(『会津藩の女たち』収録)から引用され、今の世にあっても、コロナウイルスのワクチンを接種しない人たちに向かって「こういう発想は山川兵衛の意見を無視した会津藩医のそれに近いように思えてならない」と書いておられます。

市村鉄之助に関しては、司馬遼太郎の『燃えよ剣』でも登場。中村彰彦先生が書いておられるように、新選組ファンからは「鉄つぁん」と呼ばれて愛されている人物です。明治2年7月、土方歳三が五稜郭で戦死してから約2カ月が経った雨の夕方、鉄之助は浮浪者のような少年として武州多摩郡日野宿の佐藤彦五郎の屋敷に姿を現しました。そして彦五郎と面会すると、土方から託された洋装に小刀を手挟んだ土方の写真と、「使の者の身の上頼み上候 義豊」という文字がしたためられた小切紙を手渡したのでした。義豊とは土方の諱(いみな)であり、彦五郎の妻は土方の姉であったばかりか、彦五郎は近藤勇と義兄弟の盟約を結んでいたのです。

 鉄之助は新選組の隊士でしたが、まだ16歳の少年であったために、不憫に思った土方が個人的な役目を申し付けることで、命を長らえさせようとしたともいわれています。その目的を果たすと、市村は明治4年3月まで佐藤家に世話になり、その後出身地の大垣に帰り、明治10年2月の西南戦争が勃発すると、薩軍に身を投じて戦死したとも伝えられています。

私は中村彰彦先生の愛読者でありますから、「歴史の坂道」というコラムを毎回楽しみにしています。小説家らしい臨場感が伝わってくるからです。

 

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「花その」社報で会津藩士秋月悌次郎を紹介  柴田聖寛

2021-09-16 09:08:57 | 読書

 

 東京都新宿にある花園神社発行の「花その」社報令和三年九月一日号が私どものところにも届きました。一面に片山裕司宮司が「中秋の名月」と題したコラムを書いていられます。明治6年に明治政府が行った旧暦から新暦の移行したことを話題にされています。閏年で13カ月の年回りであったのに、明治政府は11月の大酉終わった次の週に新年を迎えることにしたからで、給与を一か月分無くすという苦肉の策でした。これによって日本も世界の標準の中に含まれることになったのです。
 また、片山宮司は今回の東京オリンピック・パラリンピックについて評価が分かれていることに触れ、「十年、二十年後にはこの開催の全ての挑戦が好意的な評価で定着されることを念願しています」と述べていられます。
 毎回私が楽しみにしているのは、作家の中村彰彦先生の「歴史の坂道80」のページです。今回は「鶴ケ城址 夏草刈りて明るけり」。会津藩士で、京都で公用方を務め、長州を都から一掃することになった八・一八政変で重要な役割を果たし、会津の降伏にあっあても設営にあたった秋月悌次郎を取り上げています。獄中生活を経て漢文の教師となり、第一高等中学校の教諭を経て、明治二十三年九月には熊本第五高等中学校に赴任しましたが、「老いてからは学生たちの行軍を案じて草を刈る仙人のような人物となったのである」と書いています。
「鶴ケ城址 夏草刈りて明るけり」は会津の俳人新城杏所さんつくられた句だと思いますが、松平容保公の孫娘であった節子様が、昭和三年に秩父宮家に勢津子妃として嫁がれたことを記念した句だといわれています。賊軍の汚名が晴れたという思いがこめられているからです。

 合掌

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養老孟司氏の『バカの壁』『一番大事なこと』を再読 柴田聖寛

2021-08-10 08:55:58 | 読書

 

  いよいよ読書の秋到来ですが、皆さんはどんな本を読んでいられますか。私は養老孟司氏の『バカの壁』『いちばん大事なこと』を再読しています。いずれも2003年に出版されベストセラーになった本です。とくに『バカの壁』は流行語にもなりました。
 最近になって多様性ということがしきりに口にされますが、私からすれば、それは様々な考え方を尊重することが前提でなければなりません。しかし、そこに立ちはだかるのが偏見と、自分だけが正しいという思い上がりです。それを払しょくしなければ、かえって、多様性は混乱を生むだけです。それを教えてくれるのが『バカの壁』です。とくに人間というのは、自分が知りたくないことについては自主的に情報を遮断してしまいます。そのことを養老氏は問題にしたのでした。
 物を知っているというのは、もともとはコモンセンス、つまり常識があるということでした。物知りということではなく、正しい判断力があるということなのです。NHKなどのマスコミの報道に振り回されている人たちは、コモンセンスをもう一度再確認すべきではないでしょうか。マスコミとて絶対の存在ではないのです。
 養老氏によれば、カール・ポッパーという哲学者は「反証されない理論は科学的理論ではない」と述べています。「全ての白鳥は白い」ということを証明するためには、たくさんの白鳥を発見しても意味がなく、「黒い白鳥は存在しないのか」という厳しい反証にさらされるというのです。
 確実なことというのは、あくまでも探し続けるからこそ意味があるのであって、それをイデオロギーとして他人に押し付けてはならないのです。
 また、養老氏は『いちばん大事なこと』では、環境問題の難しさについて触れています。人間の力で感染症や自然破壊を阻止できるというのは、まさしく一方的な見方であり、「自然に本気でつきあっていれば『ああすれば、こうなる』が通らないことが体験できる」と書いています。結論的には「環境を破壊しない」ということにつきるのですが、人間はもっと謙虚にならなければならないのです。この二冊の本をぜひ手に取ってもらえれば、と願っています。世界が違ったものに見えてくるはずですから、

      合掌

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齊藤圓眞師様の『台泉衲談抄1講和編』を御拝読して  柴田聖寛

2020-12-19 10:48:08 | 読書

 

 会津はもう雪の季節は迎えましたが、齊藤圓眞師様にはいかがお過ごしでしょうか。12月に入ってゆっくり本を読む時間ができましたので、御恵存いただいた『台泉衲談抄1講和編』をありがたく御拝読しました。
「まえがき」で多田孝文前大正大学学長も述べておられますが、圓眞師様は昭和41年に中央大学大学院法学研究科修士課程を修了されると、昭和47年にアイルランド交換留学生として世界に雄飛され、その前後約半年間かけて世界の36ヵ国を歴訪され、多くの経験と知識を取得されました。
 さらに、大正大学仏教学部に編入をして大学院に御進みになられ、慈覚大師円仁の研究家として、塩入良道先生のもとで御研鑽を積まれ、平成18年には『渡天台僧の史的研究』で博士号を授与されました。それ以後は大正大学教授として数々の業績を残されましたが、私のような会津の一僧侶にまで、貴重な著書を御恵存いただいたことは、感激ひとしおでございます。
 私は大学を中退して関西の商社に勤務しましたが、人生の虚しさを感じて、仏門の道に入ったのは30歳を過ぎておりました。若い人と一緒に叡山学院で勉強をしましたが、それだけでは飽き足りず、天台大師様が開かれた天台山や文殊菩薩の聖地である五臺山には10回以上も足を運ぶとともに、中国全土を隈なく見て回りました。100回以上は訪中しています。私の妻も南京で知り合った女性で、今では日本に帰化しましたが、日本仏教の源泉である中国仏教を肌で感じたかったのでした。
 また、御著書では伝教大師様や慈覚大師様が日中文化交流史上に足跡を残されたということについても、詳しく書かれているばかりか、中国の五代や北宋の時代に大陸に渡った天台僧に関しても、資料にもとづいて取り上げておられます。
 とくに、圓眞師様が詳しく論じておられるのが『参天台五臺山記』の作者である成尋です。成尋は北宋の時代に渡海した一人で、法華経、密教、浄土信仰を併せ持った僧侶といわれます。圓眞師様は「成尋の眼を通して当時の日宋の仏教事情がよく透けて見えるほか、記述の内容が豊富で、読んでいて面白くワクワクしてきます」と書いていられますが、ぜひ私も一読したいと思っております。今後とも薫陶ご指導のほどよろしくお願いいたします。

                合掌

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