会津天王寺通信

ジャンルにこだわらず、僧侶として日々感じたことを綴ってみます。

伝教大師と会津徳一の旅4 

2010-09-03 13:46:48 | 日記



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 読経を上げる黒谷本山金戒光明寺 の副住職と参加者             

          

二日目は、三十三間堂が最初の目的地でしたが、その前に三人ばかりで別行動をとらせてもらいました。参加者のなかに、浄土真宗西本願寺の信者の方がおり、この機会に御参りしたいという申し出があったからです。柴田住職に頼まれて、私が案内することになりました。

朝の清々しいなかで、阿弥陀如来が安置されている阿弥陀堂で手を合わせてきました。反り返った大きな瓦屋根が目の前に飛び込んできただけで、圧倒されてしまいましたが、僧侶の剃髪に見慣れている身としては、ふさふさとした髪の毛の僧侶の姿に、かえって厳かなものを感じてしまいました。

妻帯して子どもをもうけることは、仏教徒として許されることではありませんでした。現実の世に染まることで、泥田に咲くことで、蓮の花が一層美しく見えるように、俗世に浸かった民衆の気高い信仰心に触れたような気がしてなりませんでした。

また、西本願寺という所は、新選組が屯所を置いた場所であったわけですが、今ではその面影を残すものは何一つありません。そんなことをついつい考えてしてしまうのは、会津人であるからでしょう。聖域を踏み荒らされた過去は、跡形もなく消し去られていたのでした。

文久2年に将軍家茂の上洛にあたって編成された浪士組のうち、京都に残留したグループが会津藩預かりとなり、壬生浪士組を名乗るようになりましたが、文久三年の818クーデターでは、会津藩とともに御所の警備にあたり、長州藩を一掃するのに活躍したのでした。そのときから新選組と呼ばれるようになったといわれます。

それから間もなく、試衛館派の近藤勇や土方歳三が水戸派の芹沢鴨らを粛清して主導権を握り、京都守護職の会津藩配下の警察組織として、名実共に京都の治安の維持にあたったのでした。今でも語り草になっているのは、元治元年65日の池田屋事件ですが、その斬り込みのシーンは、何度となく映画やテレビでドラマ化されています。そして、蛤御門の変でも、長州藩と第一線で刃を交えたのでした。

その以降、200人を超える隊士を擁するようになった新選組は、京都を警備するのに、もっともふさわしい場所として、西本願寺に白羽の矢を立てたのでした。それは同時に、薩摩や長州と関係が深かった西本願寺を牽制する意味もあったといわれます。

それほど距離が離れていなかったので、タクシーを使って、三十三間堂と西本願寺の両方を拝観しました。三十三間堂は後白河上皇の勅願によって建立されたもので、全長120㍍の本堂には、約1千体の千手観音像が祀られているのでした。

私からは「その千手観音のなかには、興福寺と同じような阿修羅の像が安置されている」ことや「一心三観という言葉がありますが、過去、現在、未来をお見通しということではないですかね」ということをお話しました。

引き続いて、黒谷本山金戒光明寺へと向かい、会津藩関係者の墓地で線香を手向けました。浄土宗の名刹として知られ、比叡山で修行した法然が最初に建てた寺といわれます。

法然についてはまったくの門外漢でしたので、副住職が話をされるまでは、京都守護職時代に、会津藩が陣を張った所という認識しかありませんでした。それだけに、俄然興味を覚えてしまいました。

わざわざ黒谷という地名にしたのも、まだ18歳であった法然が、比叡山西塔の黒谷に隠棲していた慈眼房叡空の弟子となったからであり、そこで中国浄土教の大成者である善導著の『観無量寿経疏』の「一心専念弥陀名号」の文により心眼を開いたからだとか。

会津藩と黒谷との関係については、供養の読経の後に、副住職が詳しい説明をされましたので、新しい知識を色々と仕入れることができました。いくら徳川幕府でも、京都には御所よりも大きな城をつくることはできず、せいぜい二条城が精一杯でした。しかし、それでは京都を防衛することは難しいので、高台で、交通の便のよい黒谷の地を要塞化することを考えていたのだそうです。

風雲急を告げる京都に会津藩が乗り込むにあたっては、事前に準備が整っていたのでした。徳川幕府は、イザというときに備えていたのです。

黒谷のその墓地では、副住職によって読経が上げられ、参加者は一人ひとり線香をたむけましたが、会津から遠く離れたこの地で没した人たちの声が、そこはかとなく聞こえてくるような気がしてなりませんでした。

昼食は各自自由で西陣会館が予定されていましたが、そこの近くがどこもかしこも満杯だったので、小野社長のお供をすることになり、タクシーの運転手さんに案内をしてもらうことになりました。

手慣れたもので、15分ほどで、京都らしい町家が続く一角にタクシーは停まりました。玄関に入ると、着物姿の女将さんがすぐに部屋に通してくれました。そこで京料理を堪能させてもらいました。後になって調べてみると、何と私たちは、上七軒に紛れ込んだのでした。

京都観光のガイドブックである『たびまる京都』によると、「京都で最も古い花街。北野天満宮が造営された際、余りの木材で七軒の茶屋を建てたのが始まりといわれます。夕暮れ時は、軒先に吊るされた提灯に明かりが灯され、粋な雰囲気」と紹介されています。

格子戸の町屋が立ち並び、どことなく風情がありましたが、隠れた京都の名所であったのです。ともすれば祇園にばかり目が向いてしまいますが、それよりも古い京都が息づいていたのでした。

日本浪漫派のリーダーであった保田與重郎も『京あない』で、上七軒に触れています。「一番京都らしいところはどこだろうか、こころみに京都の古い土着の人々にきいてみるがよい。西陣のあたり、六角堂の附近、そういう答えの根底は、なつかしい市民生活のあり方からくる。上七軒のはかない家の二階の雨戸を開いた時の、眼の前の雪の比叡は、まことに拜むべき山であった。あまりにも美しい、王城の鎮めということばをかつて疑ったことが申訳ないと思ったほど美しい重々しい山である。見るところが大事である」。

たまたま訪れたわけですが、それも縁ということでしょう。昼食をとったその料亭も、玄関が狭くて、一番奥の部屋に通されました。廊下を踏みしめる音が、心地よく感じてなりませんでした。京言葉のようなまろやかさを帯びていたからです。

北野天満宮といえば、学問の神様である菅原道真公ですが、時間がなかったのでお参りすることはかないませんでした。しかし、八坂神社と同じように、牛の神様が鎮座されているのは、京に都が移る前からあった土俗的な信仰が、どこかにとどめているのではないか、と直感的にひらめきました。大和朝廷に統合される以前の素朴な信仰が、いくら都であっても、名を変え、形を変えて受け継がれていても、不思議でも何でもないからです。

小野社長と京料理に舌鼓を打つことになりましたが、そこのお上さんの心遣いに感心してしまいました。会津からの遠来の客に、親しく接してくれたからです。それは通り一遍のおもてなしではなく、形にのっとった心がこめられていました。





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伝教大師と会津徳一の旅3

2010-09-03 11:55:15 | 日記

 
 ←吉井勇の歌集『鸚鵡杯』


    

東大寺や興福寺を訪れて精神的にも満ち足りたので、かえって空腹感に襲われました。夕食は早めに若草山近くのレストランで取りました。そこで出てきたのが、鍋物と三輪ソーメン、ゴマ豆腐などで、奈良の味を堪能することができました。

その後、バスは平城京跡の前を通ってから、京都に向かいました。再現された朱雀門のたたずまいを見ていると、往時の奈良の都が偲ばれてなりませんでした。

宿泊は東横イン四条烏丸店でしたが、夜は長いので、少しばかり京都見物をしようというので、小野社長のお供をして、タクシーであちこち見て回りました。やっぱり京都というと圓山公園なので、そこまで足を延ばして、暗いなかを散歩しましたが、吉井勇の歌をついつい口ずさみたくなってしまいました。

 

圓山の灯にもひとつのおもひでのありと云ふこと人に語るな

 

君ありき夜の灯ありき風ありき涼しきままに圓山をゆく


                                 吉井勇『鸚鵡杯』                                 
 

もちろん、小野社長と私たちは、隣接する八坂神社にもお賽銭を上げてきました。東西南北どこからでも入ることができ、夜でも参拝が可能だというのも、風流に思えてなりませんでした。涼しき風に頬を打たれて、感傷に浸るには、もってこいの場所でした。

京都の三大祭の一つである祇園祭は、八坂神社のお祭りで、山鉾巡行で知られていますが、現在では前夜祭である宵山がメインイベントのようになってきており、約40万人もの人出で賑わうそうです。

そんな話をしながらブラついていると、目の前に祇園らしいスナックがあったので、旅の思い出にということで入ってみました。京都弁が飛び出しただけで、ついついこちらは顔がほころんでしまいました。
 一見の客であるのに、冷たくあしらうこともありませんでした。「どこからおいでやす」という言葉に促されて、「会津から来ました」と胸を張ってしまいました。

そして、奥の部屋に、その店のママの若い頃の絵がかかっているというのを聞き出しました。そうならば、京都旅行のお土産話にと思って、小野社長と二人で覗いて見ることにしました。

あいにくそのママは休みでいませんでしたが、近くに行って見てみると、どこかで目にしたことがある芸妓の絵でした。ひと目で室井東志生先生の作品だと思いました。小野社長も「そんな気がしないでもないよな」とおっしゃっていましたが、同郷の画家の絵があるというのは、何となく信じかねたので、店の人に「室井先生の絵ではないですか」と小声で聞いてしまいました。

顔の描き方がちょっとばかり違った感じもしたので、少しばかりためらいがあったのですが、すぐに室井先生が描かれたというのが判明しました。

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伝教大師と会津徳一の旅2

2010-09-02 09:33:11 | 日記

 ―  ←大仏殿前での記念撮影
   
       

大和朝廷の都が奈良盆地南の天香久山近くの藤原宮から、奈良盆地北の奈良山を背にした平城京に移ったのは、和銅33月10日のことで、今年が遷都1300年にあたります
 バスガイドさんに案内された参加者は、たまたま居合せた修学旅行生の大群にもみくちゃになりながら、はぐれないようにして向かったのが東大寺の金堂(大仏殿)でした。

奈良の大仏は、聖武天皇によって発願され、天平勝宝4年(752)に開眼供養が行われました。源平争乱期と戦国時代の二度、兵火に遭ったために、現在の大仏は原仏像ではありませんが、両袖、腹前の一部、膝前と台座の大部分に天平時代の面影をたたえているといわれます。
 お水取りで有名な二月堂、東大寺建築でもっとも古いともいわれる法華堂(三月堂)があるあたりは、喧騒さとは無縁な静寂さと神秘性をたたえていました。千年以上の時間の経過がそうさせるのでしょう。

あいにく昼間だったので、二月堂から眺める奈良市街の夕景を見ることはできませんでしたが、観光客もまばらであったせいか、落ち着いた雰囲気を味わうことができました。

そして、島村抱月が『奈良より』のなかで、二月堂と三月堂とを「栄と寂、生と死の対照である」と比較していたのを思い出してしまいました。今も信仰の対象となり、お水取りの儀式が行われる二月堂に対して、「その傍の平地に立ったまま千年の戸はすべて鎖されて、寂然として永久の眠りに入っている」のが三月堂なのだそうです。

小野隆市社長が「あっちに行ってみようか」とおっしゃったので、脇道に入ってみましたが、隠れスポットというのはどこにでもあるもので、少し歩くと、目の前に鐘楼が現れました。鐘楼そのものは、鎌倉時代に栄西が再建したものでしたが、梵鐘は大仏開眼供養に造られたものでした。いずれも、国宝の指定を受けています。

東大寺は華厳宗の総本山であると同時に、学僧を養成する機関でもありました。法相宗を始めとする三論、成実、倶舎、華厳、律の南都六宗の学舎があり、分け隔てなく教義を習得できました。徳一がそこで学んだことだけは確かです。

東大寺には中央の戒壇がありましたから、受戒の儀式を受けたと思われます。だからこそ、一時期、東大寺別当の職にあった空海は、徳一のことを耳にしていたので、わざわざ手紙を書くことになったともいわれます。

引き続いて私たちは、法相宗の総本山である興福寺へと移動しました。それこそ、徳一ゆかりの寺といわれており、藤原家の氏寺でもあります。興福寺蔵の法相宗系図では、徳一の名前も記されています。
 司東真雄氏は『東北の古代探訪』のなかで、「師である興福寺の修円から徳一は、会津の稲川庄の庄寺建立を頼まれ、仏師と共に下ってきた」と書いています。そして、修円にそのことを依頼したのは、藤原緒嗣であったというのです。

緒嗣が大同4年に、東山道観察使兼出羽鞍察使として1年間にわたって巡察したときに、朝廷から賜ったのが稲川庄だったともいわれます。

緒嗣の父親は、藤原百川です。孝謙天皇が再び皇位について称徳天皇となると、道鏡を盛り立てるために藤原仲麻呂を滅ぼしましたので、藤原家で傍流の百川が息を吹き返したのでした。天智天皇系の白壁王を光仁天皇として即位させたのも、山部親王が後に桓武天皇として皇位につけたのも、百川がいたからです。その子供であった緒嗣の権力も、絶大だったに違いありません。

そもそも藤原家は、中臣鎌足が大化の改新の功績によって、天智天皇から藤原の姓を賜ったのが始まりです。その子供である藤原不比等が初代で、不比等の長男武智麿が南家、次男の房前が北家、三男の宇合が式家、四男の麻呂が京家と呼ばれています。式家は宇合-百川-緒嗣となりますが、南家の武智麿の後を継いだのが仲麻呂でした。

徳一については、南家の武智麿の後継であり、反乱を起こして斬首された仲麻呂の子供であったという説もありますが、真実のほどは定かではありません。ただ、朝廷の身分の高い人間のバックアップがなければ、会津に乗り込むことは難しかったはずです。

時間がそれほどなかったので、一直線に国宝館を目指しました。そこも修学旅行客で溢れていましたが、子供たちはそれほど興味がないのか、一瞥して通り過ぎているだけのように見えました。
 少しでも長く鑑賞したいと思って、人波をかきわけたら、いつの間にか先頭にいました。一番長く立ちつくしたのは、八部衆立像の一つである阿修羅の像です。初めてではないのに、常に新しい発見があるというのは、芸術性が高いからでしょう。

天平時代の将軍万福の作と伝えられていますが、阿修羅像は、まるで生きているかのようでした。目が爛々と輝き、写実のすごさに、私は魅了されてしまいました。釈迦に教化された異教の神である阿修羅。三面六臂の異様さはあっても、両手を合わせた姿は、どこまでも人間的でした。表情はどこまでも愁いに満ちていますが、どことなく、小悪魔的なずるがしさもあります。

このほかにも、将軍万福の作といわれているのに、八部衆立像などがありますが、どこまでもリアルであるために、鑑賞しているはずの自分が、逆に鑑賞されているかのような錯覚すら覚えました。

それ以外では仏頭に魅了されました。白鳳時代の作とみられていますが、じっと見入ってしまいました。昭和1210月、興福寺の本寺東金堂を修理したときに、本尊壇下より発見されたのでした。曽我氏の一族である蘇我石川麿呂が発願し、桜井市山田に建立された、山田寺講堂の本尊であったともいわれています。

大化の改新では中大兄皇子の味方をしたにもかかわらず、その後謀反の疑いをかけられて石川が自害したため、その冥福を祈って造られたのだそうです。鎌倉時代の興福寺復興期においては、東金堂の本尊となっていました。応永18年の興福寺東金堂火災で焼失したと思われていましたが、頭部だけは、焼けることなく、かろうじてそのまま残っていたのです。
 どことなく憎めない顔をしています。仏というよりも、どこにでもいる正直者が目の前にいるような気がしてなりませんでした。

ただ、残念であったのは、鎌倉時代の運慶の作である無著菩薩立像、世親菩薩立像が見当たらなかったことです。無著、世親といえば、4世紀頃に実在したといわれる、大乗仏教唯識派の思想を大成した兄弟です。徳一はその血脈を受け継いだのでした。後になって北円堂に安置されていたのを知りましたが、そこまでは回る時間はありませんでした。     

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伝教大師と会津徳一の旅1

2010-09-01 14:46:27 | 日記

 

 ←柴田住職から説明を聞く参加者。 一番手前が団長   
                       の小野隆市小野漆器店社長  
 

             
             

 

会津から奈良、京都に出かけるにあたっては、飛行機か新幹線を利用するのが普通ですが、今回はあえてバスを利用しました。日本海を眺めながら会津から奈良、京都までの道のりを車で走ってみたかったからです。長旅にもかかわらず、誰一人落伍することなく、徳一や伝教大師最澄の心にじかに触れる旅となりました。

伝教大師(最澄)と会津徳一の旅実行委員会が主催し、6月1日から3日までの2泊3日の日程で、会津美里町の天王寺の檀家の方々、会津経済懇話会の関係者、徳一菩薩を学ぶ会の会員、さらに、徳一に関心を持たれている県外からの参加者も含めて、合わせて34名が参加しました。

 1日目の6月1日午前時、会津若松インターから磐越自動車道に乗って、一路奈良を目指しました。早朝にもかかわらず、出発時間前に全員が顔をそろえ、お互いに「お世話になります」という元気な声を掛け合って、バスに乗り込んだのでした。

 天候に恵まれたこともあり、朝焼けの磐梯山に見送られながらの旅立ちとなりました。車内ではまず、団長で、会津経済懇話会会長の小野隆市小野屋漆器店社長からの挨拶、実行委員長の柴田聖寛会津天王寺住職からスケジュールの説明がありました。それが終わると、新潟中央インターまでの1時間は、見慣れた風景なので、大半の人たちはウトウトしていたようで、かすかな寝息すら聞こえてきました。

北陸自動車道に入ると、朝日が射しこんできて、周囲も明るくなったので、一人ひとり自己紹介をすることになりましたが、徳一と伝教大師の論争のことも話題になり、最初からかなりヒートアップ気味でした。

さらに、天台宗からは、柴田住職だけでなく、北塩原村の渡部孝田住職も参加されたので、会津地方の徳一開基の寺がほとんど真言宗になってしまっていることや、伝教大師の『山家学生式』のなかの六条式に含まれる「照于一隅、此則国宝」の言葉についても、色々と意見が出されました。原文がそうなっていることもあり、「世の中の一部分に光を与える者、これが国宝である」という意味に解されがちですが、伝教大師の直筆お文字が「照千一隅」ということから、「千(里)照らし一隅(を守る)」との解釈もあるからです。

長岡を経て上越に入ると、右手に日本海が広がってきました。白い波が突き出た岩を洗っていましたが、どこまでも穏やかな光景で、さんさんと降り注ぐ太陽の光が、ことさらまぶしくてなりませんでした。

とくに印象に残ったのは、新潟県の最西端に位置し、富山県糸魚川市振りまでの15㌔にわたって断崖が続く、親不知子不知です。北アルプスが北につきて日本海に落ちる所で、その断崖の裾を国道8号線が通っています。北陸自動車道はその上を走っていますが、車内からも、どこまでも続く渚に、白い波が寄せては崩れるのを見ることができました。

森鴎外の『山椒大夫』では、安寿と厨子王が母親と離れ離れになった場所です。中野重治は「しらなみ」と題する詩で、「ああ/越後のくに/親しらず市振の海岸/ひるがえる白浪のひまに/旅の心はひえびえとしめりをおびて来るのだ」と詠んでいます。

また、市振には、奥州の旅を終えた松尾芭蕉も立ち寄っており、「一つ家に遊女も寝たり萩と月」という句を残しています。

北陸自動車道をひた走ると、あっという間に富山、金沢、福井という都市を通過しましたが、福井県に入ってから前方に、丸岡城を望むことができました。小高い丘に立っており、柴田勝家の甥である勝豊が築造したものです。現存する天守閣としては、日本最古のものといわれており、国の重要文化財に指定されています。

それから間もなく、前方をさえぎるように山並みが迫ってきました。難所の敦賀トンネルと越坂トンネルを通り抜けると、同じ福井県でも越前と若狭というように、別な世界が目の前に拡がってきました。

そこから琵琶湖までは目と鼻の距離です。車内も活気づいてきました。湖水の東岸を南下したバスは、米原ジャンクションから名神高速道路を大津方面に。瀬田西インターチェンジの手前から京慈バイパスへ。さらに京奈道路を走行し、木津インターチェンジを経て、午後2時近くには奈良公園に到着しました。

 

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伝教大師様のお導きのままに法灯を守る  柴田聖寛

2010-08-22 11:18:48 | 日記
伝教大師様のお導きのおかげもあってか、近年になって、会津地方で天台宗への関心が高まってきています。法相宗の徳一については、郷土史家の方を中心にして研究が行われてきましたが、徳一のことを深く知るには、論争をたたかわせた伝教大師様のことを学ばなくてはという機運が盛り上がってきたからです。このため、私のような者であっても、色々な会合に招かれて、お話をする機会が多くなりました。
 徳一ゆかりの磐梯町では、かつては隆盛を誇った慧日寺の復元が進み、平成20年に金堂が、平成21年には中門が竣工しました。それにともなって町独自の出版物がいくつか出ていますが、徳一については、田村晃裕東洋大学名誉教授が執筆を担当されました。田村先生は昭和54年に出版された『最澄辞典』(東京堂出版)の編者でもあり、伝教大師最澄の研究家としては、第一人者といわれています。
 磐梯町としても、伝教大師様と徳一の両方に造詣が深いということで、田村先生にお願いしたのではないでしょうか。伝教大師様が確立した天台宗に関して、田村先生は「仏教の本質は勿論ただ学ぶことにあるのではなく、それを実践修行して体得し、実際に苦悩を脱却し、また苦悩に沈む人々を救うことにある」と書いておられます。
 しかし、その一方では、徳一が果たした役割も正当に評価されたのでした。仏教は本来一種類の乗り物であるのに、それを声聞乗・縁覚乗・菩薩乗の三種類の乗り物に分けたのは、私たち天台宗からすれば方便であったわけですが、論敵の徳一がいたおかげで、かえって一乗の教えが強固になったからです。
 伝教大師様や天台宗をもっと知りたいという要望がありましたので、去る6月1日から3日にかけて、私が企画して「伝教大師(最澄)と会津徳一菩薩の旅」を実施いたしました。会津地方ばかりでなく、東京や埼玉から駆けつけた人も含めて、当初の予想を上回る34名の参加がありました。
 今回の旅行のメインは、天台宗の総本山である比叡山延暦寺でしたが、武覚超比叡山延暦寺執行の法話を聞かれたことで、皆さん感動されたようです。武執行は「全てのものが仏になると法華経で示されていますが、伝教大師が一番大事にされたのも、その慈悲の心なのです」と述べられましたが、熱心にメモをとっていられたからです。
 伝教大師様に「一隅を照す、即ち国宝なり」という言葉がありますが、私に課せられた使命として、今後ともお導きのままに、不滅の法灯を守っていきたいと思っております。



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