関東にあった天台系の道忠教団のことをいろいろ調べています。それがわからないと会津の天台宗のこともわからないからです。近いうちに栃木の壬生などに出かけたいと思っています。ネットでも報告しますのでご期待ください。
今年は、慈覚大師円仁ゆかりの地、中国五台山に出かける予定でおります。第三代天台座主であられた慈覚大師は、延暦13年(794)に下野都賀郡で生まれした。
9歳で仏門の道に入り、大慈寺で広智の弟子になりました。広智の師の道忠は、鑑真の一番弟子であり、最澄の協力者でもありました。だからこそ、道忠門下からは、慈覚大師を始めとして、次々と天台座主が誕生したのでした。
それだけに、慈覚大師は、最澄が帰国して、比叡山延暦寺を開くと、すぐにはせ
参じたのです。15歳のときです。弘仁7年(816)に伝教大師最澄が東国巡遊をしたときにも、一緒に出身地下野を訪れています。
遣唐使として中国に渡ったのは、承和5年(838)6月13日のことです。それまで二度、渡海に失敗したのでした。
『入唐求法巡礼行記』もその日から、筆を執ったのでした。しかし、慈覚大師が目的としていた天台山には、許可が下りなかったために、あきらめざるを得ませんでしたが、たまたま知り合った新羅の僧から、五台山を教えられ、開成5年(840)2月19日から58日間かけて、約1270kmを踏破したのでした。
五台山で慈覚大師は「まことに知る、五台山こそ万峰の中心なり」と述べているように、仏教の真髄に触れたのでした。
←会津天王寺に建立された久遠安穏廟塔
人と人とをつなぐ縁ほど大切なものはありませんが、今の世にあってはそれが薄
れてきているように感じてなりません。
核家族化、少子化、高齢化が進んだことで、先祖代々受け継がれてきた信仰も、
大きく様変わりをしつつあるからです。
私が久遠安穏廟塔をこのたび建立いたしましたのは、多くの方々と縁を結びたい
からです。結婚されていない、子供さんがいらっしゃらない、子供さんが娘さん
しかおられない、子供さんに負担をかけたくない、死後は故郷会津に帰りたい、という方々のための共同のお墓として、末永く供養させていただきます。
在来の仏教であれば、宗派や国籍は問いませんし、生前申し込みも、遺骨申し
込みも可能です。
建立地である会津天王寺は、会津盆地のなかでも、一番早く拓けたといわれる会津美里町にあり、東に磐梯山を、西には博士山を仰ぐことができます。夏は暑く、冬は寒いという盆地特有の気候ですが、四季おりおりの風景を楽しむことができます。そこに住む人たちも人情豊かで、忘れられた日本がまだ息づいています。
また、会津天王寺が天台宗であることから、久遠安穏廟塔には、圓頓章のお経
が金で彫られています。
圓頓章(えんとんしょう)
圓頓者。初縁實相。造境即中。無不眞實。繋縁法界。一念法界。一色一香。無非
中道。己界及佛界。衆生界亦然。陰入皆如。無苦可捨。無明塵勞。即是菩提。無集
可斷。邊邪皆中正。無道可修。生死即涅槃。無滅可證。無苦無集。故無世間。無道
無滅。故無出世間。純一實相。實相外。更無別法。法性寂然名止。寂而常照名觀。
雖言初後。無二無別。是名圓頓止觀。當知身土一念三千 故成道時稱此本理 一身一念 遍於法界
久遠安穏廟塔(会津天王寺永代供養墓所)
○所在地 969-6264 福島県大沼郡会津美里町字高田甲2968
○連絡先 ℡ 0242-54-5054
FAX 同
○経営主体 (宗)天王寺(天台宗)
○使用資格 在来仏教であれば宗派不問、国籍不問。生前申し込み、遺骨申し込み
共に可。
←根本中堂
比叡山延暦寺で迎えた3日目の6月3日朝は、それこそ晴天にも恵まれたこともあり、皆さんそれぞれに朝早く目を覚まし、法然堂や延暦寺東塔のあるあたりまで、比叡山会館の周辺を散歩されていたようです。私はいつもながらの光景ですが、いつになく琵琶湖の昇る朝日には圧倒されてしまいました。あまりにも神々しいものがあったからです。霊気が湧き上がってくるような感動を覚えました。
そして、新鮮な気分で、国宝根本中堂での朝のお勤めに参加者しました。国宝根本中堂は、伝教大師が延暦7年に「一乗止観院」として庵を建てたのが始まりで、本尊は伝教大師作といわれる薬師如来です。元亀2年の織田信長による比叡山焼き討ちで、その他の堂宇と同じように灰塵と化しました。現在の建物は徳川家光の時代に再建されたものです。
一歩そこに足を踏み入れると、世俗を寄せ付けない凛とした気がみなぎっていましたし、消えることなく照らし続けている不滅の法灯に、伝教大師最澄の揺るがぬ信仰心を垣間見た思いがしました。
また、朗々と響き渡る読経の声は、天台声明(しょうみょう)の醍醐味を十分堪能することになりました。声明とは真言や経文に独特の節回しを付けることですが、そうした仏教の伝統的儀式音楽は、キリスト教のバロック音楽に匹敵するともいわれています。
天台声明の基礎をつくったのは、唐に留学して伝教大師の跡を継いだ、慈覚大師円仁でした。岩田宗一氏著の『声明は音楽のふるさと』によると、鎌倉時代の天台宗の湛智(たんち)が『声明用心集』を著したことで、「声明」という語が広まったのでした。
読経を上げている僧侶は、わずか5、6人しかいないにもかかわらず、大合唱団のステージを聞いているような迫力がありました。声が通るように工夫されているようで、音楽堂という感じがしてなりませんでした。読経を上げている場所が、参拝者よりも下にあるために、「無明の谷」に反響するようになっているのだそうです。
釈尊の時代にあっては、音楽は修行の妨げになるとして、退けられましたが、大乗仏教の時代になると、音楽は法会(ほうえ)などで、積極的に用いられるようになったのでした。
岩田氏はその本のなかで、大乗仏教の経典の一つである『無量寿経(むりょうじゅきょう)』の一説を、「如来が法を説かれるときには菩薩たちは七種の宝石でできている講堂に集まり、そこで音声(おんじょう)が流れ出る。一切の天人たちは皆さまざまな種類の音楽によって供養し」と紹介しています。
このあと、午前9時に比叡山会館を後にした私たちは、飯室谷に向かい、千日回峰を2回も達成した酒井雄哉大阿闍梨の護摩祈祷を受けました。飯室谷は慈覚大師が開いた修行の場ですが、それが平成の世にも受け継がれているのです。
酒井大阿闍梨は、それこそ波乱の人生を歩まれたのでした。旧制中学卒業後に予科練に志願し、そこで終戦を迎えます。戦後は事業に失敗し、職も転々とされたのでした。結婚二ヶ月目に妻が自殺するという不幸にも見舞われました。
得度して比叡山延暦寺に入ったのは、40歳になってからです。千日回峰行は、昭和48年から昭和55年にかけて、昭和56年から昭和62年にかけての二度行っています。二度目は60歳になっていました。
そうした経歴の酒井大阿闍梨の護摩祈祷は、本当に有難いものでした。参加者のご婦人が足の悪いのを察しられたのか、普通であれば諸刃の剣で肩をたたくだけであるのを、わざわざ足までたたいて下さいました。
酒井大阿闍梨は現在84歳ですが、肌がつるつるで、青年のように溌剌としておられます。昔からの知り合いである柴田住職に向かって、「会津に行かれてもう何年になられましたか」と気軽に声をかけられるなど、その優しい人柄にも心打たれました。
御自分のホームページをもっておられ、そのなかで「歳」という文書を掲載されていますが、それと同じような含蓄のある言葉を法話で御話になられました。
無理せず 急がず はみださず りきまず ひがまず いばらない
最後の目的地であった飯室谷を離れたのはお昼近くでしたが、そこから琵琶湖大橋をわたって、それから帰路に着きました。
←武執行(左)の法話に聞き入る参加者
伝教大師と会津徳一の旅5
昼食が終わってから一行に合流し、蒲生氏郷のお墓がある大徳寺黄梅院を訪れました。普通は非公開とされているお寺ですが、会津からのお客さんということで、小林太玄住職から大変なおもてなしを受けました。
黄梅院は、織田信長が永禄5年に入洛したときに、父信秀の追善供養に建立したのが始まりといわれます。天正10年6月の本能寺の変で信長が討たれると、一時、豊臣秀吉がその寺に遺骸を葬ったのでした。
門をくぐると、目の前には水を打った石畳が目の前にあり、俗世界からは隔絶されたような静寂が支配していました。まずは茶室に案内されてから、抹茶をご馳走になりました。住職からお寺の説明がありましたが、千利休ゆかりの寺であることを再確認させられました。
秀吉の命により千利休が作庭した池泉式枯山水庭園が有名ですが、参加者もまたその庭に見惚れていました。まったく予備知識もなかったのですが、ついつい見入ってしまいました。
本堂前の破頭庭、本堂の北裏側の作仏庭も、枯山水の禅宗らしい趣きが感じられてなりませんでした。破頭とは、悟りへ至ることともいわれすし、作仏とは、森羅万象の全てが仏だというのを表現しているのだそうです。一幅の風景画を見るような安易な気持ちではなく、次回訪れる機会があったならば、じっくりと腰を落ち着けて、その世界に浸ってみたいと思いました。
今回の旅行の目的地であった比叡山延暦寺に到着したのは、まだ外が明るい午後4時頃でした。そこに至るまでの有料道路は、会津若松市の背あぶり山の道路を走っているような感じで、それこそ関白平にお寺が建っているというような印象を受けました。
宿泊先の比叡山会館は、モダンな建物で、一流ホテル並みの施設でしたが、早速、そこの大会議室で、武覚超(たけ・かくちょう)執行の法話が行われました。天台宗から見た徳一というテーマが取り上げられたこともあり、参加者は熱心にメモを取っていました。
武執行は叡山学院教授もなさっておられるだけに、最澄と徳一との関係についても、わかりやすく説明をして下さいました。とくに冒頭では、今昔物語に徳一が登場しているにもかかわらず、根本的な資料がほとんどないことから、「伝教大師と論争したことで後世に名をとどめることになったわけです」と述べておられました。
また、武執行は「全てのものが仏になると法華経で示されていますが、伝教大師が一番大事にされたのも、その慈悲の心なのです」と言い切られました。仏教は本来一種類の乗り物であるのに、法相宗が声聞乗・縁覚乗・菩薩乗の三種類の乗り物に分けたのは、天台宗からすれば方便でしかないからです。
さらに、「伝教大師と徳一の論争に決着をつけたのは、平安中期の天台宗の僧であった源信が書いた『一乗要訣』であった」ということを指摘されていました。このことについては、かいつまんでお話をされただけですが、『岩波仏教辞典』でも、源信の項目では「『一乗要訣』は長く争われてきた法相宗とと対立に終止符を打ち、天台教学の宣揚に光彩を放つ栄を担った」と書かれています。
法話に引き続いては、国見町在住の菅野利津子さんのヴィオリラ演奏が行われましたが、オープニングの曲が「天台宗宗歌」「比叡山賛歌」だったこともあり、厳かなコンサートでした。